Vol.4 『散りゆく花』

 今回は1919年のサイレント映画『散りゆく花』で、短編小説の「中国人と少女」が原作です。父親から虐待されている薄幸の乙女と中国人の若者との見事な悲恋物語です。『イントレランス』で莫大な借金を抱えたグリフィス監督が、一般大衆に受ける映画として製作しました。100年以上前のサイレント映画なので、無音のため表現や演技がオーバーです。父親が娘を鞭で打って折檻したり、食事さえも満足に与えられないシーンが出て来ます。映画の冒頭で説明があるように、直接的な暴力で無くても言葉や行動で相手を傷つける事は現代でもありますね。

リリアン・ギッシュ様(26歳)

 主演の薄幸の乙女役はリリアン・ギッシュ様で、アップ・シーンが多いのはうれしい限りです。単に美人と云うのでは無く、あの大きな瞳と可愛らしくキリッと口は、気品があり非常に魅力的です。演技も父親に対する恐怖で怯えるシーンでは、顔の表情に加えて指先の細かい動きでその時の感情を上手く表現しています。

リチャード・バーセルメス(24歳)

 相手役の中国人の若者に扮するのは、リチャード・バーセルメス(1895年5月9日~1963年8月17日)で、アメリカ合州国ニューヨーク市生まれの映画俳優です。トーキー映画時代に活躍した二枚目スターです。(彼は1939年『コンドル』に訳ありの飛行機操縦手役を好演しています。)グリフィス監督の映画に出演する俳優は、衣装選びもメイク・アップも全て自分でする事になっていました。アメリカ人が中国人を演じているのは違和感がありますが、彼はチャイナ帽の下にきついゴム・バンドをはめて頭皮を上に引っ張って、特別なメイク・アップ無しで中国人風の顔を作り上げました。

 この映画の冒頭のクレジット表示で、リリアン・ギッシュ様の名前の前には“Miss”が付き、リチャード・バーセルメスの名前の前には“Mr.”が書かれていて、その下にドロシー・ギッシュ・カンパニーの好意と表記がありますので、日本映画で云う友情出演かと思われます。

ロディ・マクドウォール(13歳)
ドナルド・クリスプ(61歳)

1941年『わが谷は緑なりき』

 無力な娘に暴力を振るう父親役は、なんとあのドナルド・クリスプ(1882年7月27日~1974年5月25日)です。彼はロンドン出身で、アメリカ活動した英国の俳優・映画監督です。この映画を撮影中も別の映画の監督をやっていて、彼が撮影終了後の夜と日曜日に本作の撮影は行われました。私が知っていたドナルド・クリスプは、『名犬ラッシー 家路』や『わが谷は緑なりき』でロディ・マクドウォールとの親子役での厳格ながらも優しい父親のイメージしかありませんでしたので、最初は少々戸惑いました。

ドナルド・クリスプ(39歳)

 この父親は大酒飲みの短気なボクサーで、自分が不愉快になると目を見開らいて口を歪めて娘を痛めつけます。この表情だけで、観客全員は憎悪感を抱く事でしょう。そして怒っている最中に、娘に笑顔になれと言います。そこでリリアン・ギッシュ様は、右手の人差し指と中指の指先を口の両側に当て、口の端を上に上げて笑顔を作ります。この笑顔を作る動作は、撮影中に何の考えもなく無意識にした動作でした。グリフィス監督はとても気に入り、笑顔を作るシーンを本作で何度か登場させます。この笑顔を作る動作は、公開後リリアン・ギッシュ様のトレード・マークになります。

笑顔を作るリリアン・ギッシュ様

 物語は、中国の仏教僧の若者が布教活動の為にイギリスに渡たる処から始まります。しかし、布教活動に失敗して5年後には貧民街で雑貨屋を営み、絶望の中、博打で稼いでアヘン吸引の日々を過ごしていました。そんなある日、買い物中の可愛い娘を見かけ恋心を抱きます。父親に毎日虐待されていた娘は、鞭で打たれ続けた日に思い余って突然家出をします。鞭に打たれた身体は思うように動けず、戸が開いていた若者の店の中に倒れこみます。若者は娘を匿って介抱し、二人に暫しの幸福なひと時が訪れます。それが父親の出現によって悲劇へと突き進んでいきます。ラストがなんとも悲しいです。この映画は現在の我々の周りにも存在するものが描かれていて、芸術家グリフィス監督の偉大さを感じつつ色々と学ばさせて頂きました。

ラスト・シーンの笑顔

 サイレント映画は、状況説明や台詞は字幕で出ますし、俳優の演技がオーバーなので分かり易いと思います。サイレント映画を未見の方や若い頃のリリアン・ギッシュ様をご存じでない方は、是非この映画をご覧頂きたいです。きっとリリアン・ギッシュ様のファンになると思います。次回は、フレッド・アステアを予定しております。ご興味のある方は、ご一読下されば幸いです。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

『散り行く花』 作品データ

アメリカ 1919年 モノクロ サイレント映画 83分

原題:Broken Blossoms

監督・脚本:D・W・グリフィス 原作:トーマス・パーク 撮影:G・W・ビッツァー

編集:ジェームズ・スミス

出演:リリアン・ギッシュ、リチャード・バーセルメス、ドナルド・クリスプ

   アーサー・ハワード、ノーマン・セルビン

『散りゆく花』
発売元:㈱ファーストトレーディング

Vol.3 「リリアン・ギッシュ」の続き

 独立したリリアンは、次の映画を外国で撮ってみたいと考えていました、『東への道』で共演したリチャード・バーセルメスは、既にグリフィスの許を離れてインスピレーション・ピクチャーズに移籍していました。その彼が、リリアンに一緒に仕事をしないかと声を掛けて来ました。その頃リリアンは、宗教を題材にした小説の「ホワイト・シスター」を読んでいて、この小説を映画化したいと持っていました。その話をインスプレーション・ピクチャーズの二人の代表とヘンリー・キング監督に話した処、賛同してくれて映画化する事になりました。撮影はイタリアで行われますが、メンバーが一人足りない状態でした。あるイギリス人俳優の芝居を観て、仕事の依頼をしたら引き受けてくれました。そのイギリス人俳優は、ロナルド・コールマンです。リリアンはイタリア行きの船で、幸運な事に枢機卿のモンセニョル・ボンツァーノと知り合います。枢機卿はリリアンたちがカトリックの信仰を題材にした映画を撮ることを知り、協会側の援助を約束してくれました。イタリアでの撮影は、多くのイタリア人スタッフの協力で順調に終わる事が出来ました。リリアンはこの映画の制作に関してすべてに関与していて、ニューヨークに戻ってからフィルムの編集をして音楽をつけています。『ホワイト・シスター』1923年9月5日に、ニューヨークの四十四丁目劇場で封切られました。その後、リリアンは12巻のプリントを全国上映用に9巻に縮める作業をしました。初めてイタリアで撮影されたアメリカ映画の『ホワイト・シスター』は、当初否定的だったMGMが配給に同意し興行は成功しました。

1923年『ホワイト・シスター』

 次回作もインスプレーション・ピクチャーズで『ロモラ』を撮影する事になり、リリアンは再びイタリアに向かった。監督はヘンリー・キングで、共演者は妹のドロシーとロナツド・コールマンと演劇界から転向した新人のウィリアム・パウエルです。現地撮での影は、『ホワイト・シスター』で素晴らしい仕事をしてくれたスタッフを呼び寄せました。彼らは予想以上の素晴らしいセットを作ってくれて、撮影はワン・シーンを残して無事終了します。ヘンリー・キングは別の仕事に行ってしまったので、リリアンは編集作業と残りのワン・シーンを撮影して完了させます。『ロモラ』はMGMの配給で封切られました。1924年12月1日ニューヨークのJ・M・コーハン劇場でプレミアムが行われ、12月6日にロサンゼルス.の新築のチャイニーズシアターで封切られました。ロサンゼルスのプレミアムはお祭り騒ぎで、その5日間は睡眠も食事もまともに出来ない状態でした。リリアンは映画の仕事は大好きだけど、名声や人気に関する対応は苦手だったようです。彼女は自分の演技力を高めてよい映画を作る事で、映画が芸術として認められる事を目指していました。リリアンがイタリアで映画を撮っていた間にハリウッドは大きく様変わりしていました。広い敷地に作られた多くのスタジオが出来た上に、映画製作の全過程が全て変わっていて細かく部門分けがされていました。組合が出来て職種が独立して部門別に運営されていました。リリアンが映画界入りしたと当時のように俳優が企画を出したり、自分の衣装を調達したりメイクをする事が出来なくなっていました。

 リリアンはMGMと契約をしましたが、次回作の準備は何もしいない状態でした。彼女は以前から暖めていた『ラ・ポエーム』を選出し、フランス人のマダム・フレディことフレッド・ド・グレザックを呼んで映画用に脚色する事を依頼しました。MGMのアーヴィング・タールバーブは好きな監督は誰かと聞かれて、最近の映画を観ていないので近作を用意して貰います。その中から製作途中だったキング・ヴィダーを指名し、その映画のキャスト全員参加して貰うよう依頼しました。撮影はヘンドリック・サートフを指名しました。サートフは「リリアン・ギッシュ・レンズ」と名付けた、独自のソフト・フォーカス・レンズを発明していました。さらにリリアンはアーヴィングにバンクロ・フィルムを使って映画を撮影するように伝えます。当時バンクロ・フィルムは出来たばかりの新しいフィルムで、誰も扱い方を知らない状態でした。このフィルムは非常に感度が高く、『ロモラ』では全編このフィルムで撮影した事をアーヴィングに伝えます。これからはこのフィルムを使う事になるからラボの人をイタリアに行かせて扱い方を学ばせるように勧めます。実際にこのフィルムを使ってみて素晴らしさが分るとMGMは現像設備を全てバンクロ・フィルム用のラボを作り直しました。さらにリリアンは、カメラマンと監督がシーンの設計やライティング・プランを立て易いようにミニチュア・セットを作るように提案しています。

 リリアンにとって分業化されたハリウッド形式は馴染めない事が多かったようです。例えば衣装に使う生地ひとつにしても、貧困に喘ぐ主人公のミミが着るドレスを安い生地で作ってきますが、スクリーンに映すと素敵なドレスに見えてしまいます。使い古した絹を使うと粗末なドレスに見える事が、衣装デザイナーは理解していないとか。貧困のミミが住む屋根裏部屋のセットが大きいので不満を言うと、製作費をかけないと興行側に映画を高く売れなくなると言って、不釣り合いな大きなセットに馴染めず仕事をした事。通しのリハーサルをしない事や撮影の時に音楽を流すとか、リリアンには馴染めない事が多い撮影だったようです。しかし、その様な状況の中でもリリアンはミミの死の床のシーン撮影の為に、病院で末期症状の結核患者の様子を様子観察して迫真の演技をしました。撮影前のリリアンを見ていた監督を始め周りの人たちは、本当に死んでしまうのではないかと心配していました。キング・ヴィダー監督は、早く撮影しないと映画が完成しないと心配し、このシーンを正視出来ず撮影には立ち会っていません。

1926年『ラ・ポエーム』撮影風景 
左からサートス、キング・ヴィダー
アーヴィング、リリアン

 MGMは次回作の企画を立てていなかったので、リリアンは『緋文字』を提案しました。ルイス・B・メイヤーがストーリーは面白いが、教会と婦人団体が反対しているので出来ないと言いました。それでリリアンは教会と婦人団体の代表に手紙を出した処、リリアンが個人的に全ての責任を取るなら良い事になりました。監督はスウェーデンのヴィクトール・シェーストレスを指名し、相手役はメイヤーの推薦するスウェーデン俳優のラース・ハンソンに決まります。この映画では、リリアンは英語でラース・ハンソンはスウェーデン語なのでお互いに相手の言葉は分からない状態で撮影されました。撮影終了まで残り2週間の時、母親が卒中の発作で倒れて危篤の連絡がドロシーから入りました。3日以内にロサンゼルスを発てば、英国行の定期船に乗船出来る事が分りました。ヴィクトール・シェーストレスは24時間ぶっ通しのスケジュールを組んで、2週間分の仕事を3日間で撮るスケジュールを組みます。その3日間は誰も一睡もせずにリリアンの出演シーンを撮り終えます。ロサンズルスからニューヨークまでの5日間の長旅の間、列車が止まるたびに何百人という人々がプラットホームに出迎えていました。新聞各紙がリリアンの母親の病気とリリアンの英国行を報じていた為、母親へのお見舞いと回復を祈る言葉を言う為に駆けつけていました。この時の出来事は、一生忘れない思い出だと自伝に書かれています。

 1927年にリリアンが企画に加わらなかった『アンニ・ローリー』を撮り、彼女は『風』を企画してカリフォルニア州南部のモハーヴェ砂漠で撮影を始めました。撮影現場は非常に過酷な状態で、気温は摂氏49度に達してその場で現像する事は不可能でした。撮影スタッフはフィルムを凍らせてカルヴァー・シティの現像所に送り、そこで解凍して現像する事になりました。撮影自体も最悪の状態で、8台の飛行機用プロペラで砂を吹き付けられ、砂嵐を効果を出す為に硫黄が焚かれていました。その硫黄は燃えた状態で飛んで来て服を焦がしたりしました。その後、急に温度が下がり本物の砂嵐が猛烈なハリケーンが起こりました。その最中、キャンプに戻るシーンを撮影しました。『風』が完成して試写を見終わって、アーヴィング・タールバーグを始め全員が最高の映画を作ったと思ったそうです。しかし、何か月も公開されずリリアンはMGMに呼び戻されます。国内の8人の大手の興行主が試写を観て、ラストをハッピー・エンドに変えて欲しいと告げられます。これを聞いて仕方なく興行主たちの希望に従う事になってしまいました。その後『敵』を撮り終えて、MGMとの契約は終わります。

 リリアンの為にマックス・ラインハルトがユナイトで3本監督すると予定と聞き、ユナイト社と契約します。母親の病気治療の為、リリアンはドイツに行きます。ここでラインハルト邸(前世紀に建てられた城)に招かれ、3か月逗留する事になります。母親の治療はあと数か月掛るので、リリアンは単身ニューヨークに戻ります。帰国してみると仕事をする環境が大きく変わっていました。ラインハルトの次回作はトーキーで撮る事になりましたが、最初用意していたテレーザ・ノイマンの話はトーキーでは撮れないとラインハルトは判断して帰国してしまいます。リリアンは『白鳥』の企画を提出し、撮影準備を始めます。ラインハルトの代わりに来た監督は度胸しか持ち合わせが無く、リリアンが考えていたのとはまるで違う芝居をさせられます。共演の男性陣も素晴らしい顔ぶれでしたが、映画のテンポが悪く退屈なものでした。落胆したリリアンは、ユナイトとの契約から手を引かせてもらいたいと申し出ます。

 リリアンは映画界からブロードウェイの舞台俳優を目指します。批評家のジョージ・ジーン・ネーサンが、リリアンが憧れていた舞台女優のルース・ゴードンに会わせてくれます。リリアンとルースは意気投合し、その後ルースが舞台演出家のジェド・ハリスに会わせてくれました。ジェド・ハリスは、アントン・チェーホフ原作の「ワーニャ叔父さん」のエレナ役をリリアンに依頼します。リリアンは快諾し稽古に励みますが、ジェドも彼の助手もリリアンに演技のアドバイスはありませんでした。ジェドはリリアンに、君は映画の監督をした事があるから自分の思うよう演技するように言われます。リリアンはその言葉に驚きながらも自力で役作りをしました。1930年11月29日「ワーニャ叔父さん」は好評の内に公演の幕を閉じ、リリアンの演技は称賛されました。リリアンは本格的に舞台俳優として、「椿姫」、「パイン街九番地」「ハムレット」、「スター・ワゴン」、「父と暮らせば」と多くの舞台に出演しました。

 1942年、リリアンは10年振りに『奇襲部隊は夜明けに突撃す』に出演しました。20年前は自分の出演する映画の責任を持ったり、映画製作の様々な作業に関わる事が出来ました。この頃は言われたままに動いて給料を貰うだけになっていて、何ら刺激の無い仕事になっていました。その後、1946年『白昼の決闘』、1948年『ジョニーの肖像』、1960年『許されざる者』、1954年『狩人の夜』、1955年『蜘蛛の巣』などに出演し、1987年『八月の鯨』がリリアンの遺作となりました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

*参考文献 筑摩書房 『リリアン・ギッシュ自伝』

Vol.2 「リリアン・ギッシュ」

 リリアン・ギッシュ(1893・10・14~1993・2・27)様は、アメリカ合州国オハイオ出身の映画俳優・舞台俳優・監督(1作のみ)です。

ギッシュ姉妹の両親

 母メアリー・ロビンスン・マコネルと父ジェームズ・リー・ギッシュの長女で、1歳年下の妹ドロシー・ギッシュがいる。父はオハイオで商売をしていたが、新しい商売始める為に単身にニューヨークに行ってしまう。残された母子は十分な生活が出来ない為にニューヨークに行くが、父親は暫くすると姿を消してしまいます。必死に働く母のドロシーに女優のドロレス・ローンが舞台の仕事を紹介し母親は舞台俳優になります。俳優の仕事で何とか生活する事が出来るようになった時、女優仲間のアリス・ナイルズが別の仕事の話を持ってきました。彼女は巡業に出る事になったが、相手役の子役にリリアンを使いたいと言ってきました。母親は最初断りますが、収入が増えるので彼女の申し入れを受けます。こうしてリリアンは、5歳にして地方巡業で舞台デビューします。そして間もなく妹のドロシーも4歳で舞台デビューし、二人の姉妹は夫々の旅巡業生活が始まりました。その後、母親も旅巡業に加わり母子が一緒になったり、別々になりながら役者生活を続けました。その後、母親は貯めたお金でイースト・セントルイスにアイスクリーム・パーラーを開き、リリアンは修道院内にあるユルシュリー学園で修道院生活をします。

ドロシーとリリアン(5歳頃)  ドロシーとリリアン(10代の頃)

 卒園後は母親の許に戻って、繁盛している店の手伝いをします。隣が映画館で妹のドロシーと映画を観た時、友人のグラディス・スミスがその映画に出ていたので驚きます。その後、映画館が火事になり母親の店も全焼してしまい、無一文の状態になります。ギッシュ一家はマシロンに戻り、母親はスプリングフィールドに出稼ぎに出かけます。リリアンが19歳の時、ギッシュ一家は再び舞台俳優になる為にニューヨークに行きます。そしてバイオグラフ・カンパニーでグラディスに会います。グラディスは芸名をメアリー・ピックフォードと言い、舞台の合間に映画に出ていると言います。ギッシュ一家に映画に出るように勧め、ディヴィッド・ウォーク・グリフイスを紹介します。その日直ぐにギッシュ姉妹はカメラ・リハーサルが受け、エキストラ役でギッシュ一家は出演します。翌日からリハーサル・テストで撮影した残りを3日間で撮影したのが、1912年に『見えざる敵』として上映されました。これがギッシュ姉妹の映画デビュー作です。(この当時の映画館はニッケル・オデオンと呼ばれる5セント映画館で、12分前後の短編映画を上映していました。)この年リリアンは舞台の仕事の合間に延べ14本の短編映画に出演します。

 1913年は舞台巡業とブロードウェイの公演を終えたリリアンは療養を兼ねて、2月にニューヨークからロサンゼルスに列車で5日間かけて行きます。ロサンゼルスには既にバイオグラフ社の撮影所があり、グリフィスはそこで映画を製作していました。グリフィスと再会したリリアンは、彼と契約してグリフィス組の専属俳優になりました。1913年は短編映画と中編映画を合わせて15本、1914年は中編映画と長編映画を合わせて13本に出演しました。この間グリフィスから演技指導を受け、また映画作りも学びリリアンは映画俳優として大きく成長しました。

 1915年、グリフィスは入念に大量の資料を調べて全て史実通りに制作した『国民の創生』でリリアンを主役に抜擢します。この映画はサイレント映画ですが、グリフィスは劇場で演奏するオーケストラ用の音楽スコアーも製作しています。上映後、全米で物議を起こしましたが、南部人から見たアメリカ合州国誕生を史実通りに制作された映画です。1916年にグリフィスは超大作の『イントレランス』を製作し、リリアンは永遠の母親役を演じます。劇中の出番が無いので、彼女の撮影は1時間ほどで終わります。体が空いたリリアンは常にグリフィスとカメラマンのビリーと一緒にいて、『イントレランス』制作過程の全てを知る事になります。この映画でグリフィスは、クレーン撮影の基になる装置を作りました。それはエレベーターを備えた高い塔で、土台はレールに乗っていて人力で移動させるものです。この装置で巨大なセット全景を俯瞰で撮ってから、一気に一輪の白薔薇のクローズ・アップの撮影をしました。

 アメリ合州国がドイツに宣戦布告した1917年、ギッシュ一家は『世界の心』の撮影の為、グリフィスに呼ばれてロンドンに行った。グリフィスはイギリスのロイド・ジョージ首相から、イギリスとフランスの為にプロパガンダ映画を製作するように依頼されていた。リリアンがロンドンに着いてから何度もドイツ軍の空襲が昼夜続いていた。ロンドンで演技のリハーサルを終え、映画の舞台であるパリに向かう事になった。しかし、カメラマンのビリー・ビッツァーの本名が、ゴットリーブ・ウィルヘルム・ビッツァーとドイツ系の為パリには行けなくなった。仕方なくビリーを残し、グリフィスとギッシュ一家はパリに向かった。パリもロンドン同様に連日ドイツ軍の空襲は続いていた。撮影は前線近くで行われ、6か月過ぎた11月末にハリウッドに戻り、それから残りのシーンを撮影して12月末にようやく完成させます。

 1918年の秋、ダグラス・フェアバンクスが「中国人と少女」と云う短編小説を映画化するようにグリフィスに勧めました。グリフィスは小説を読み、リリアンを主役して映画化します。原作の少女が12歳なので、リリアンは断ります。初めて断りを入れたにも関わらずグリフィスは全く相手にせず、衣装部屋に行って用意をするように言います。その時リリアンは身体の具合が悪くて、這うようにして衣裳部屋に行き衣装を決めて帰宅します。その時も体調は酷く悪い状態で、通行人に見えない場所を探して横になって休みながら4時間かけて帰宅します。リリアンは当時流行っていたスペイン風邪に罹っていました。しかし、不思議な事に終戦の知らせを聞いてから解放に向かい、完治してからマスク着用で撮影に復帰します。撮影は昼夜を問わず18日間で終了します。グリフィスがパラマウントにこの映画を持っていたら、主役は死んでしまう映画は当たらないと全面否定されます、グリフィスは2・3日後にパラマウントに訪れ、ネガとプリントを買い取ります。1919年1月に、メアリー・ピックフォード、ダグラク・フェアバンクス、チャーリー・チャンプリンとデビット・R・グリフィスが設立した制作兼配給会社のユナイテッド・アーティスト社の最初の配給作品となります。この映画は『散りゆく花』とタイトルがされ、1919年5月13日にニューヨークで封切られました。当時として高価な3ドルの入場料にも関わらず映画は大ヒットします。グリフィスは、ハッピーエンドでない映画でも観客は観る事を証明しました。

ユナイテッド・アーティストの設立
左からグリフィス、ピックフォード、
チャップリン、フェアバンクス

 その年のある日、グリフィスがリリアンの家に来て、妹のドロシーの映画を撮るように言います。君は私と同じくらい映画作りの事は分かっている筈だと言います。リリアンは以前からドロシーの陽気さとユーモアが映画に十分に出ていなかったので、自分なら出来るかも知れないと思い引き受けます。こうしてリリアンは『亭主改造』の監督をします。(因みに女性監督第1号は、1914年に『ベニスの商人』を監督したロイス・ウェーバーです。)『亭主改造』は上映時間61分の作品で、1920年6月公開されました。リリアンは監督が大変ハードな仕事なのが理解出来、その後二度と監督はしないで俳優業に専念します。

リリアンとリチャド・バーセルメスとドロシー

 監督業を終えたリリアンにグリフィスが次回作の話を持ってきます。どうしてもヒット作を出す必要があったので、グリフィスは舞台用のメロ・ドラマ「東への道」の権利得るために大金をつぎ込んで手に入れていました。「東への道」は時代遅れのメロ・ドラマで、巡業一座の演目で田舎では20年来親しまれたものでした。この映画の最後の野外ロケはリリアンにとって厳しい撮影でした。厳冬の寒空の下での撮影が続き、最後の撮影はヴァーモント州のホワイト・リヴァー・ジャンクションで行われました。川は厚い氷に覆われていたので、ダイナマイトで爆破したりノコギリで切って一日の撮影用流氷を作りました。この流氷が流れるシーンの撮影は3週間かかりました。リリアンは流氷の上に横になっていて、その流氷は下流に流されて行くスリル満点のシーンです。この時リリアンのアイディアで、片手と髪を水に垂らすことにしました。撮影が始まると髪は凍り、手は火傷をしたようにひりひりと痛かったと自伝に書いてありました。この撮影をした3週間の間少なくとも20回以上氷の上に乗っていたので、70年経った時でも寒い所に長い間いると手に痛みを感じるとも書いてありました。『東への道』は大ヒットし、主役のリリアンの演技は称賛されました。

 1921年グリフィスが次回作「ファウスト」の企画を持ってリリアンに会いに来ました。リリアンが調べたら「ファウスト」はアメリカで当たらないと思い、グリフィスに舞台劇の「二人の孤児」の映画化を提案します。グリフィスはこの舞台劇を観て時代設定をフランス革命の時代に変え、ギッシュ姉妹を出演させて167分の大作を作り上げます。この映画は『嵐の孤児』の題名で、1921年12月28日にボストンで封切られ好評を得ます。この映画を最後にリリアンは独立して、グリフィスの許から離れる事になります。次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献 筑摩書房 「リリアン・ギッシュ 自伝」

Vol.1 『八月の鯨』

 スタートは、リリアン・ギッシュ様です。1987年の『八月の鯨』が遺作になりましたので、ここから始めたいと思います。この映画はご覧になった方が多いと思いますが、出演している5人の俳優が素晴らしいです。私にとっては奇跡の様な映画です。

 ストーリーは老姉妹の日々の暮らしを描いていて、若い頃から付き合いのある女友達が訪ねてきたり、今は落ちぶれた元伯爵が来たり、配管工事をする騒々しい老人が来たりと物語が展開していきます。海辺の高台にある妹の家で、目の不自由な姉と二人で暮らしています、映画はこの姉妹が若い頃に友達と3人で、沖に鯨が来た思い出のワン・シーンから始まります。何十年か経った現在に画面が変わり、姉妹の朝の生活風景から物語が進んでいきます。

【リリアン・ギッシュ様 94歳】  『国民の創生』 19歳

 皮肉屋で我儘な姉とその姉を世話をする妹との二人のやり取りは、本当に自然で直ぐ物語に入り込んでいけます。小まめに働く妹のセーラをリリアン・ギッシュ様(94歳)が演じ、姉のリビーを年下のベティ・ディビス(79歳)が演じました。ベティ・ディビスは、今更説明する必要も無い大女優ですね。誰に対してもハッキリ意見を通す方で、『ふるえて眠れ』の撮影開始間も無く、相手役のジョン・クロフォードを撮影現場から叩き出した話は有名ですね。

【ベティ・ディビス 79歳】  『痴人の愛』 26歳 

 お喋りでお節介なオバチャンになった旧友のアイシャを演じたアン・サザーン(78歳)は、1949年の『三人の妻への手紙』でラジオ・ドラマの脚本家のリタを演じた方です。コミカルな役が多いんですが『不意打ち』や『クレージー・ママ』なんかに出ていました。

【アン・サザーン 78歳】  『三人の妻への手紙』 40歳

 元貴族のマラノフをヴィンセント・プライス(76歳)が演じていますが、端正な顔立ちで気品があり正に適役ですね。ヴィンセント・プライスは、クリストファー・リーやピーター・カッシングと並ぶ古典ホラー映画では有名な俳優さんで、怪奇映画で一世を風靡した方です。

【ヴィンセント・プライス 76歳】  『替え玉殺人事件』 40歳 

 騒々しく配管工事をしていたジョシュアを演じていたのは、ハリー・ケリー・Jr(65歳)です・彼のお父さんのハリー・ケリーは、サイレント映画時代から俳優や監督をしていた名優です。1948年の『三人の名付け親』の撮影準備前に亡くなった為、ジョン・フォード監督は息子のハリー・ケリー・Jrを代役に立てて撮影しました。行き成りジョン・ウェインと名脇役のペドロ・アルメンダリス(『ロシアより愛をこめて』のトルコ支局長役)との共演は、大変だったと思います。その後。1950年の『幌馬車』では、ベン・ジョンソンの相棒役をやったり、多くの西部劇に出演しております。西部劇ファンの私としては、この映画でお目に掛かれたのは嬉しい限りです

 私が初めてリリアン・ギッシュ様を観た映画は、1960年の『許されざる者』で、劇場で鑑賞しました。監督はジョン・ヒューストンで、主演のバート・ランカスターのヘクト・プロの作品です。当時の私のお目当ては、オードリー・ヘプバーンでした。彼女が西部劇に出るなんって、イメージと合わないと思いながら観ました。この映画は人種差別をテーマにした異色の西部劇で、カイオワ族と白人と争いがありオードリー・ヘプバーンは非常に難しい役を演じています。後半の鏡に向かうシーンは、彼女の心の葛藤が表情で読み取れます。さて、肝心のリリアン・ギッシュ様(67歳)は優しい母親を演じていますが、彼女の真実の告白で物語が一変します。なんと罪深い事をしたのか。可愛い顔をしたお母さんなのに、何とも悲しい役を演じていた俳優さんと云うのが最初の印象でした。その後、『散りゆく花』を観てリリアン・ギッシュ様の可愛らしさに衝撃を受け、『国民の創生』、『東への道』と続けて観まして目出たくリリアン・ギッシュ様の大ファンになった次第です。次回にも続きます。

最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『八月の鯨』
発売元:株式会社ツイン
販売元:パラマウントジャパン株式会社

『八月の鯨』 作品データ

アメリカ 1987年 カラー 91分

原題 : The Whales of August

監督:リンゼイ・アンダーソン 

製作:キャロリン・ファイファー、マイク・キャプラン

製作総指揮:シェップ・ゴードン 脚本:デイヴィッド・バリー

撮影:マイク・ファッシュ 編集:ニコラス・ガスター

音楽:アラン・プライス

出演:ベティ・デイヴィス、リリアン・ギッシュ

  ヴィンセント・プライス、アン・サザーン

  ハリー・ケイリー・Jr、メアリー・スティーンバージェン

  マーガレット・ラッド、ティシャ・スターリング