Vol.2 「リリアン・ギッシュ」

 リリアン・ギッシュ(1893・10・14~1993・2・27)様は、アメリカ合州国オハイオ出身の映画俳優・舞台俳優・監督(1作のみ)です。

ギッシュ姉妹の両親

 母メアリー・ロビンスン・マコネルと父ジェームズ・リー・ギッシュの長女で、1歳年下の妹ドロシー・ギッシュがいる。父はオハイオで商売をしていたが、新しい商売始める為に単身にニューヨークに行ってしまう。残された母子は十分な生活が出来ない為にニューヨークに行くが、父親は暫くすると姿を消してしまいます。必死に働く母のドロシーに女優のドロレス・ローンが舞台の仕事を紹介し母親は舞台俳優になります。俳優の仕事で何とか生活する事が出来るようになった時、女優仲間のアリス・ナイルズが別の仕事の話を持ってきました。彼女は巡業に出る事になったが、相手役の子役にリリアンを使いたいと言ってきました。母親は最初断りますが、収入が増えるので彼女の申し入れを受けます。こうしてリリアンは、5歳にして地方巡業で舞台デビューします。そして間もなく妹のドロシーも4歳で舞台デビューし、二人の姉妹は夫々の旅巡業生活が始まりました。その後、母親も旅巡業に加わり母子が一緒になったり、別々になりながら役者生活を続けました。その後、母親は貯めたお金でイースト・セントルイスにアイスクリーム・パーラーを開き、リリアンは修道院内にあるユルシュリー学園で修道院生活をします。

ドロシーとリリアン(5歳頃)  ドロシーとリリアン(10代の頃)

 卒園後は母親の許に戻って、繁盛している店の手伝いをします。隣が映画館で妹のドロシーと映画を観た時、友人のグラディス・スミスがその映画に出ていたので驚きます。その後、映画館が火事になり母親の店も全焼してしまい、無一文の状態になります。ギッシュ一家はマシロンに戻り、母親はスプリングフィールドに出稼ぎに出かけます。リリアンが19歳の時、ギッシュ一家は再び舞台俳優になる為にニューヨークに行きます。そしてバイオグラフ・カンパニーでグラディスに会います。グラディスは芸名をメアリー・ピックフォードと言い、舞台の合間に映画に出ていると言います。ギッシュ一家に映画に出るように勧め、ディヴィッド・ウォーク・グリフイスを紹介します。その日直ぐにギッシュ姉妹はカメラ・リハーサルが受け、エキストラ役でギッシュ一家は出演します。翌日からリハーサル・テストで撮影した残りを3日間で撮影したのが、1912年に『見えざる敵』として上映されました。これがギッシュ姉妹の映画デビュー作です。(この当時の映画館はニッケル・オデオンと呼ばれる5セント映画館で、12分前後の短編映画を上映していました。)この年リリアンは舞台の仕事の合間に延べ14本の短編映画に出演します。

 1913年は舞台巡業とブロードウェイの公演を終えたリリアンは療養を兼ねて、2月にニューヨークからロサンゼルスに列車で5日間かけて行きます。ロサンゼルスには既にバイオグラフ社の撮影所があり、グリフィスはそこで映画を製作していました。グリフィスと再会したリリアンは、彼と契約してグリフィス組の専属俳優になりました。1913年は短編映画と中編映画を合わせて15本、1914年は中編映画と長編映画を合わせて13本に出演しました。この間グリフィスから演技指導を受け、また映画作りも学びリリアンは映画俳優として大きく成長しました。

 1915年、グリフィスは入念に大量の資料を調べて全て史実通りに制作した『国民の創生』でリリアンを主役に抜擢します。この映画はサイレント映画ですが、グリフィスは劇場で演奏するオーケストラ用の音楽スコアーも製作しています。上映後、全米で物議を起こしましたが、南部人から見たアメリカ合州国誕生を史実通りに制作された映画です。1916年にグリフィスは超大作の『イントレランス』を製作し、リリアンは永遠の母親役を演じます。劇中の出番が無いので、彼女の撮影は1時間ほどで終わります。体が空いたリリアンは常にグリフィスとカメラマンのビリーと一緒にいて、『イントレランス』制作過程の全てを知る事になります。この映画でグリフィスは、クレーン撮影の基になる装置を作りました。それはエレベーターを備えた高い塔で、土台はレールに乗っていて人力で移動させるものです。この装置で巨大なセット全景を俯瞰で撮ってから、一気に一輪の白薔薇のクローズ・アップの撮影をしました。

 アメリ合州国がドイツに宣戦布告した1917年、ギッシュ一家は『世界の心』の撮影の為、グリフィスに呼ばれてロンドンに行った。グリフィスはイギリスのロイド・ジョージ首相から、イギリスとフランスの為にプロパガンダ映画を製作するように依頼されていた。リリアンがロンドンに着いてから何度もドイツ軍の空襲が昼夜続いていた。ロンドンで演技のリハーサルを終え、映画の舞台であるパリに向かう事になった。しかし、カメラマンのビリー・ビッツァーの本名が、ゴットリーブ・ウィルヘルム・ビッツァーとドイツ系の為パリには行けなくなった。仕方なくビリーを残し、グリフィスとギッシュ一家はパリに向かった。パリもロンドン同様に連日ドイツ軍の空襲は続いていた。撮影は前線近くで行われ、6か月過ぎた11月末にハリウッドに戻り、それから残りのシーンを撮影して12月末にようやく完成させます。

 1918年の秋、ダグラス・フェアバンクスが「中国人と少女」と云う短編小説を映画化するようにグリフィスに勧めました。グリフィスは小説を読み、リリアンを主役して映画化します。原作の少女が12歳なので、リリアンは断ります。初めて断りを入れたにも関わらずグリフィスは全く相手にせず、衣装部屋に行って用意をするように言います。その時リリアンは身体の具合が悪くて、這うようにして衣裳部屋に行き衣装を決めて帰宅します。その時も体調は酷く悪い状態で、通行人に見えない場所を探して横になって休みながら4時間かけて帰宅します。リリアンは当時流行っていたスペイン風邪に罹っていました。しかし、不思議な事に終戦の知らせを聞いてから解放に向かい、完治してからマスク着用で撮影に復帰します。撮影は昼夜を問わず18日間で終了します。グリフィスがパラマウントにこの映画を持っていたら、主役は死んでしまう映画は当たらないと全面否定されます、グリフィスは2・3日後にパラマウントに訪れ、ネガとプリントを買い取ります。1919年1月に、メアリー・ピックフォード、ダグラク・フェアバンクス、チャーリー・チャンプリンとデビット・R・グリフィスが設立した制作兼配給会社のユナイテッド・アーティスト社の最初の配給作品となります。この映画は『散りゆく花』とタイトルがされ、1919年5月13日にニューヨークで封切られました。当時として高価な3ドルの入場料にも関わらず映画は大ヒットします。グリフィスは、ハッピーエンドでない映画でも観客は観る事を証明しました。

ユナイテッド・アーティストの設立
左からグリフィス、ピックフォード、
チャップリン、フェアバンクス

 その年のある日、グリフィスがリリアンの家に来て、妹のドロシーの映画を撮るように言います。君は私と同じくらい映画作りの事は分かっている筈だと言います。リリアンは以前からドロシーの陽気さとユーモアが映画に十分に出ていなかったので、自分なら出来るかも知れないと思い引き受けます。こうしてリリアンは『亭主改造』の監督をします。(因みに女性監督第1号は、1914年に『ベニスの商人』を監督したロイス・ウェーバーです。)『亭主改造』は上映時間61分の作品で、1920年6月公開されました。リリアンは監督が大変ハードな仕事なのが理解出来、その後二度と監督はしないで俳優業に専念します。

リリアンとリチャド・バーセルメスとドロシー

 監督業を終えたリリアンにグリフィスが次回作の話を持ってきます。どうしてもヒット作を出す必要があったので、グリフィスは舞台用のメロ・ドラマ「東への道」の権利得るために大金をつぎ込んで手に入れていました。「東への道」は時代遅れのメロ・ドラマで、巡業一座の演目で田舎では20年来親しまれたものでした。この映画の最後の野外ロケはリリアンにとって厳しい撮影でした。厳冬の寒空の下での撮影が続き、最後の撮影はヴァーモント州のホワイト・リヴァー・ジャンクションで行われました。川は厚い氷に覆われていたので、ダイナマイトで爆破したりノコギリで切って一日の撮影用流氷を作りました。この流氷が流れるシーンの撮影は3週間かかりました。リリアンは流氷の上に横になっていて、その流氷は下流に流されて行くスリル満点のシーンです。この時リリアンのアイディアで、片手と髪を水に垂らすことにしました。撮影が始まると髪は凍り、手は火傷をしたようにひりひりと痛かったと自伝に書いてありました。この撮影をした3週間の間少なくとも20回以上氷の上に乗っていたので、70年経った時でも寒い所に長い間いると手に痛みを感じるとも書いてありました。『東への道』は大ヒットし、主役のリリアンの演技は称賛されました。

 1921年グリフィスが次回作「ファウスト」の企画を持ってリリアンに会いに来ました。リリアンが調べたら「ファウスト」はアメリカで当たらないと思い、グリフィスに舞台劇の「二人の孤児」の映画化を提案します。グリフィスはこの舞台劇を観て時代設定をフランス革命の時代に変え、ギッシュ姉妹を出演させて167分の大作を作り上げます。この映画は『嵐の孤児』の題名で、1921年12月28日にボストンで封切られ好評を得ます。この映画を最後にリリアンは独立して、グリフィスの許から離れる事になります。次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献 筑摩書房 「リリアン・ギッシュ 自伝」