Vol.3 「リリアン・ギッシュ」の続き

 独立したリリアンは、次の映画を外国で撮ってみたいと考えていました、『東への道』で共演したリチャード・バーセルメスは、既にグリフィスの許を離れてインスピレーション・ピクチャーズに移籍していました。その彼が、リリアンに一緒に仕事をしないかと声を掛けて来ました。その頃リリアンは、宗教を題材にした小説の「ホワイト・シスター」を読んでいて、この小説を映画化したいと持っていました。その話をインスプレーション・ピクチャーズの二人の代表とヘンリー・キング監督に話した処、賛同してくれて映画化する事になりました。撮影はイタリアで行われますが、メンバーが一人足りない状態でした。あるイギリス人俳優の芝居を観て、仕事の依頼をしたら引き受けてくれました。そのイギリス人俳優は、ロナルド・コールマンです。リリアンはイタリア行きの船で、幸運な事に枢機卿のモンセニョル・ボンツァーノと知り合います。枢機卿はリリアンたちがカトリックの信仰を題材にした映画を撮ることを知り、協会側の援助を約束してくれました。イタリアでの撮影は、多くのイタリア人スタッフの協力で順調に終わる事が出来ました。リリアンはこの映画の制作に関してすべてに関与していて、ニューヨークに戻ってからフィルムの編集をして音楽をつけています。『ホワイト・シスター』1923年9月5日に、ニューヨークの四十四丁目劇場で封切られました。その後、リリアンは12巻のプリントを全国上映用に9巻に縮める作業をしました。初めてイタリアで撮影されたアメリカ映画の『ホワイト・シスター』は、当初否定的だったMGMが配給に同意し興行は成功しました。

1923年『ホワイト・シスター』

 次回作もインスプレーション・ピクチャーズで『ロモラ』を撮影する事になり、リリアンは再びイタリアに向かった。監督はヘンリー・キングで、共演者は妹のドロシーとロナツド・コールマンと演劇界から転向した新人のウィリアム・パウエルです。現地撮での影は、『ホワイト・シスター』で素晴らしい仕事をしてくれたスタッフを呼び寄せました。彼らは予想以上の素晴らしいセットを作ってくれて、撮影はワン・シーンを残して無事終了します。ヘンリー・キングは別の仕事に行ってしまったので、リリアンは編集作業と残りのワン・シーンを撮影して完了させます。『ロモラ』はMGMの配給で封切られました。1924年12月1日ニューヨークのJ・M・コーハン劇場でプレミアムが行われ、12月6日にロサンゼルス.の新築のチャイニーズシアターで封切られました。ロサンゼルスのプレミアムはお祭り騒ぎで、その5日間は睡眠も食事もまともに出来ない状態でした。リリアンは映画の仕事は大好きだけど、名声や人気に関する対応は苦手だったようです。彼女は自分の演技力を高めてよい映画を作る事で、映画が芸術として認められる事を目指していました。リリアンがイタリアで映画を撮っていた間にハリウッドは大きく様変わりしていました。広い敷地に作られた多くのスタジオが出来た上に、映画製作の全過程が全て変わっていて細かく部門分けがされていました。組合が出来て職種が独立して部門別に運営されていました。リリアンが映画界入りしたと当時のように俳優が企画を出したり、自分の衣装を調達したりメイクをする事が出来なくなっていました。

 リリアンはMGMと契約をしましたが、次回作の準備は何もしいない状態でした。彼女は以前から暖めていた『ラ・ポエーム』を選出し、フランス人のマダム・フレディことフレッド・ド・グレザックを呼んで映画用に脚色する事を依頼しました。MGMのアーヴィング・タールバーブは好きな監督は誰かと聞かれて、最近の映画を観ていないので近作を用意して貰います。その中から製作途中だったキング・ヴィダーを指名し、その映画のキャスト全員参加して貰うよう依頼しました。撮影はヘンドリック・サートフを指名しました。サートフは「リリアン・ギッシュ・レンズ」と名付けた、独自のソフト・フォーカス・レンズを発明していました。さらにリリアンはアーヴィングにバンクロ・フィルムを使って映画を撮影するように伝えます。当時バンクロ・フィルムは出来たばかりの新しいフィルムで、誰も扱い方を知らない状態でした。このフィルムは非常に感度が高く、『ロモラ』では全編このフィルムで撮影した事をアーヴィングに伝えます。これからはこのフィルムを使う事になるからラボの人をイタリアに行かせて扱い方を学ばせるように勧めます。実際にこのフィルムを使ってみて素晴らしさが分るとMGMは現像設備を全てバンクロ・フィルム用のラボを作り直しました。さらにリリアンは、カメラマンと監督がシーンの設計やライティング・プランを立て易いようにミニチュア・セットを作るように提案しています。

 リリアンにとって分業化されたハリウッド形式は馴染めない事が多かったようです。例えば衣装に使う生地ひとつにしても、貧困に喘ぐ主人公のミミが着るドレスを安い生地で作ってきますが、スクリーンに映すと素敵なドレスに見えてしまいます。使い古した絹を使うと粗末なドレスに見える事が、衣装デザイナーは理解していないとか。貧困のミミが住む屋根裏部屋のセットが大きいので不満を言うと、製作費をかけないと興行側に映画を高く売れなくなると言って、不釣り合いな大きなセットに馴染めず仕事をした事。通しのリハーサルをしない事や撮影の時に音楽を流すとか、リリアンには馴染めない事が多い撮影だったようです。しかし、その様な状況の中でもリリアンはミミの死の床のシーン撮影の為に、病院で末期症状の結核患者の様子を様子観察して迫真の演技をしました。撮影前のリリアンを見ていた監督を始め周りの人たちは、本当に死んでしまうのではないかと心配していました。キング・ヴィダー監督は、早く撮影しないと映画が完成しないと心配し、このシーンを正視出来ず撮影には立ち会っていません。

1926年『ラ・ポエーム』撮影風景 
左からサートス、キング・ヴィダー
アーヴィング、リリアン

 MGMは次回作の企画を立てていなかったので、リリアンは『緋文字』を提案しました。ルイス・B・メイヤーがストーリーは面白いが、教会と婦人団体が反対しているので出来ないと言いました。それでリリアンは教会と婦人団体の代表に手紙を出した処、リリアンが個人的に全ての責任を取るなら良い事になりました。監督はスウェーデンのヴィクトール・シェーストレスを指名し、相手役はメイヤーの推薦するスウェーデン俳優のラース・ハンソンに決まります。この映画では、リリアンは英語でラース・ハンソンはスウェーデン語なのでお互いに相手の言葉は分からない状態で撮影されました。撮影終了まで残り2週間の時、母親が卒中の発作で倒れて危篤の連絡がドロシーから入りました。3日以内にロサンゼルスを発てば、英国行の定期船に乗船出来る事が分りました。ヴィクトール・シェーストレスは24時間ぶっ通しのスケジュールを組んで、2週間分の仕事を3日間で撮るスケジュールを組みます。その3日間は誰も一睡もせずにリリアンの出演シーンを撮り終えます。ロサンズルスからニューヨークまでの5日間の長旅の間、列車が止まるたびに何百人という人々がプラットホームに出迎えていました。新聞各紙がリリアンの母親の病気とリリアンの英国行を報じていた為、母親へのお見舞いと回復を祈る言葉を言う為に駆けつけていました。この時の出来事は、一生忘れない思い出だと自伝に書かれています。

 1927年にリリアンが企画に加わらなかった『アンニ・ローリー』を撮り、彼女は『風』を企画してカリフォルニア州南部のモハーヴェ砂漠で撮影を始めました。撮影現場は非常に過酷な状態で、気温は摂氏49度に達してその場で現像する事は不可能でした。撮影スタッフはフィルムを凍らせてカルヴァー・シティの現像所に送り、そこで解凍して現像する事になりました。撮影自体も最悪の状態で、8台の飛行機用プロペラで砂を吹き付けられ、砂嵐を効果を出す為に硫黄が焚かれていました。その硫黄は燃えた状態で飛んで来て服を焦がしたりしました。その後、急に温度が下がり本物の砂嵐が猛烈なハリケーンが起こりました。その最中、キャンプに戻るシーンを撮影しました。『風』が完成して試写を見終わって、アーヴィング・タールバーグを始め全員が最高の映画を作ったと思ったそうです。しかし、何か月も公開されずリリアンはMGMに呼び戻されます。国内の8人の大手の興行主が試写を観て、ラストをハッピー・エンドに変えて欲しいと告げられます。これを聞いて仕方なく興行主たちの希望に従う事になってしまいました。その後『敵』を撮り終えて、MGMとの契約は終わります。

 リリアンの為にマックス・ラインハルトがユナイトで3本監督すると予定と聞き、ユナイト社と契約します。母親の病気治療の為、リリアンはドイツに行きます。ここでラインハルト邸(前世紀に建てられた城)に招かれ、3か月逗留する事になります。母親の治療はあと数か月掛るので、リリアンは単身ニューヨークに戻ります。帰国してみると仕事をする環境が大きく変わっていました。ラインハルトの次回作はトーキーで撮る事になりましたが、最初用意していたテレーザ・ノイマンの話はトーキーでは撮れないとラインハルトは判断して帰国してしまいます。リリアンは『白鳥』の企画を提出し、撮影準備を始めます。ラインハルトの代わりに来た監督は度胸しか持ち合わせが無く、リリアンが考えていたのとはまるで違う芝居をさせられます。共演の男性陣も素晴らしい顔ぶれでしたが、映画のテンポが悪く退屈なものでした。落胆したリリアンは、ユナイトとの契約から手を引かせてもらいたいと申し出ます。

 リリアンは映画界からブロードウェイの舞台俳優を目指します。批評家のジョージ・ジーン・ネーサンが、リリアンが憧れていた舞台女優のルース・ゴードンに会わせてくれます。リリアンとルースは意気投合し、その後ルースが舞台演出家のジェド・ハリスに会わせてくれました。ジェド・ハリスは、アントン・チェーホフ原作の「ワーニャ叔父さん」のエレナ役をリリアンに依頼します。リリアンは快諾し稽古に励みますが、ジェドも彼の助手もリリアンに演技のアドバイスはありませんでした。ジェドはリリアンに、君は映画の監督をした事があるから自分の思うよう演技するように言われます。リリアンはその言葉に驚きながらも自力で役作りをしました。1930年11月29日「ワーニャ叔父さん」は好評の内に公演の幕を閉じ、リリアンの演技は称賛されました。リリアンは本格的に舞台俳優として、「椿姫」、「パイン街九番地」「ハムレット」、「スター・ワゴン」、「父と暮らせば」と多くの舞台に出演しました。

 1942年、リリアンは10年振りに『奇襲部隊は夜明けに突撃す』に出演しました。20年前は自分の出演する映画の責任を持ったり、映画製作の様々な作業に関わる事が出来ました。この頃は言われたままに動いて給料を貰うだけになっていて、何ら刺激の無い仕事になっていました。その後、1946年『白昼の決闘』、1948年『ジョニーの肖像』、1960年『許されざる者』、1954年『狩人の夜』、1955年『蜘蛛の巣』などに出演し、1987年『八月の鯨』がリリアンの遺作となりました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

*参考文献 筑摩書房 『リリアン・ギッシュ自伝』