Vol.12 『ジンジャー・ロジャース』

  ジンジャー・ロジャース(1911・7・16~1995・4・25)は、ミズリー州のインディアナ生まれの映画俳優、ダンサー、ミュージカル俳優です。妊娠9か月だったジンジャーの母レラ・オーウェンズ・マクマスは、夫に見捨てられましたが、一人で家と秘書の仕事を探して生活を始めました。出産後も職場にジンジャーを連れて出勤し、タイプライターを打って仕事を続けていました。全て自分が決めた通りに実行する母親だったと、ジンジャーが語っていました。”ジンジャー”という名前は彼女が4歳の頃、当時11か月の従妹のヘレンが名付けたそうです。ジンジャーの本名ヴァージニア・キャサリン・マクマスですので、ヴァ-ジニアと皆から呼ばれていました。赤ん坊のヘレンは、ヴァージニアと言えずに色々な呼び方して最後にジンジャーと呼ぶようになりました。それからは皆がジンジャーと呼ぶようになり、ジンジャーと云う名前になったそうです。

レラ・イモーガン・オーウェンズ 1908年(左)
ヴァージニア・キャサリン・マクマス 3歳(右) 

 1915年、母親のレラはエッセイ・コンテストで作品が一等賞になり、その作品を持って単身ハリウッドに行きました。そこでラオール・ウォルッシュと知り合い、彼の依頼で脚本を書き採用されますが、出来た映画は自分の出した企画からは大きく変わっていました。監督、プロデューサー、俳優によって内容が変わってしまう事を知ります。その後、ヘンリー・キングの紹介で、20世紀フォックス社で脚本を書くようになります。5か月間フォックスの仕事をしていたレラは、ジンジャーをニューヨークに呼び寄せます。レラがハリウッドに行った時のジンジャーは、レラの姉のヴェルダ・ヴァージニアの大家族と一緒に幸せに数年間を過ごしています。母の呼び出しで、6歳のジンジャーは一人でカンサス・シティから列車に乗って、シカゴ経由でニューヨークまで行きました。ニューヨークで母親と楽しく過ごし、公立学校にも通っていましたが、第一次世界大戦の戦況が悪化していた1918年に母親は海兵隊に入隊します。海兵隊に加わった最初の十人の一人だったそうです。レラはワシントンD.C.に移る為、ジンジャーは再びカンサス・シティの叔母さんの家に行くことになります。レラは海兵隊の広報部の仕事をし、短期間ですが海兵隊の新聞「レザーネック」の編集長の代理もやっていました。その頃レラはジョン・ローガン・ロジャースと知り合い、1920年5月にレラが海兵隊を除隊した時に彼と結婚しました。新しい父親の“ジョン・ダディ”は優しくて、本当の父親のようでジンジャーは直ぐ好きになったそうです。

フォートワースのアーツクラブにて 1921年

 ジンジャーの母親、レラ・イモーガン・ロジャースは舞台脚本も書く才女で、フォートワース・レコード誌の評論家をしていて、映画やヴォードヴィル等の全ての劇場関係の批評を担当していました。1920年当時はヴォードヴィルが流行っていて、フォートワースに来た芸人を母親が家に招待するのでジャンジャーは多くの芸人に会っています。彼女が踊りを覚えたのは、近所の男の子がチャールストンの踊り方を教えてくれた時が初めめでした。それを自分でアレンジして踊るようになりました。1923年頃はチャールストンが各地で大流行していて、フォートワースでも大会が開催されました。ジンジャーはこの地方大会に出て優勝し、ダラスの決勝戦でも優勝してテキサス州のチャンピンになりました。このコンテストの優勝により、彼女は4週間の公演をして回る事になります。母親の手配でコンテストでは次席だった二人と契約して、小さな一座を作って巡業して回ります。これがジンジャーのプロのスタートですが、彼女は誰からもダンスのレッスンは受けていません。この公演後、1925年から1928年の間ジンジャーは母親と全米各地を巡業して経験を積み、ニューヨークに進出して初めてニューヨークの舞台で演じます。

1926年 ジンジャーの最初のブロマイド(左)
ボードビル・ショーで「ザ・バレンシア」を踊るジンジャー(右)
1926年 ジンジャーとレラ

 彼女のヴォードヴィルのステージは好評を得ていまして、3本の短編映画に出演する事になります。15分の短編映画は、ヴォードヴィルの歌とダンスを簡単に紹介するものです。因みに、ジンジャーの初デビュー映画は、『キャンパス・スイートハート』と云う短編映画です。この映画を撮影中もヴォードヴィルを続けていた時に、パラマウントからミュージカル・コメディの舞台劇「トップ・スピード」の出演依頼がありました。1929年、18歳のジンジャーはブロードウェイの舞台にデビューを果たします。公演期間中にパラマウント映画のスクリーン・テストを受けて合格し、『恋愛四重奏』に出演する事になります。ジンジャーは舞台と並行して『恋愛四重奏』の撮影もこなします。ここから彼女の掛け持ちが始まっています。3月に「トップ・スピード」の舞台が終わり、その後続けて4月に『喧嘩商会』、5月に『三太郎太平洋横断』と2本の映画に出演します。

1930年 『恋愛四重奏』
モンタ・ベル監督とジンジャー

 「トップ・スピード」の舞台が終了後、ジョージ&アイラ・ガーシュイン兄弟の新作ミュージカル舞台劇「ガール・クレイジー」のオーデションを受けます。19歳のジンジャーは見事主役の座を勝ち取り、ガーシュイン兄弟と仕事をする事になります。製作が始まる前にガーシュインの家でディナー・パーティーがあり、そこで「 ガール・クレイジー 」の楽曲が、 ジョージ ・ガーシュインのピアノ演奏で披露されました。ガーシュイン兄弟はジンジャーの為に、“バット・ノット・フォー・ミー”と“抱きしめたあなた”の2曲を用意していました。ジョージは彼独特のシング・トークで、ピアノを弾きながら歌詞を語りました。ジョンジャーは2曲とも気に入り、特に“抱きしめたいあなた”は絶対ヒットすると思ったそうです。

1930年 「ガール・クレージー」
ジンジャーとアレン・カーンズ

 八月からリハーサルが始まりましたが、プロデューサーのアレックス・アーロンズとヴィントン・フリードリーがダンスの振り付けが良くないので、アレックスが友人のダンサーを呼ぶ事になまりした。そして、ある日劇場に小柄の紳士が現れます。それがフレッド・アステアでした。アレックスの指示でダンス・ナンバーを一通り踊り、“抱きしめたいあなた”をもう一度踊るようにフレッドが言い、随所にステップを加えて修正しました。そして、フレッドとジンジャーは“抱きしめたいあなた”を踊ります。これが、二人の最初のダンスです。その後もフレッドはアレックスに呼ばれて、ジンジャーのダンスを調整する為に訪れ、フレッドの指導で未熟な部分は修正されます。彼女は以前から人の物まねが上手だったせいか、フレッドの踊りについて踊るのは簡単で、自分のステップは彼のステップにピッタリ合っていたと言っていました。そして、フレッドは単なるダンスの指導者で特別の印象を受けなかったとも言っていました。

 1930年10月14日に「ガール・クレイジー」は上演開始となり、272回公演が続き大ヒットとなります。この公演のオーケストラは、レッド・ニコルズ・アンド・ヒズ・ファイヴ・ペニーズです。そうです。あの1950年の『五つの銅貨』でお馴染みのレッド・ニコルズのバンドです。メンバーは、ドラムがジーン・クルーパ、ピアノがロジャー・イーデンス、クラリネットがベニー・グッドマン、サックスがジミー・ドーシ、トロンボーンがグレン・ミラーとジャック・ティーガーデンと云うそうそうたるメンバーです。公演中に時々ガーシュインが来て、ピアノを弾く事もあったそうです。「 ガール・クレイジー」終了後、ジンジャーは立て続けに数本の映画に出演します。

 1932年にはフリーになってワーナー・ブラザーズで2本、フォックスで2本出演した後、再びワーナー・ブラザーズと契約してバックステージ・ミュージカルの『四十二番街』に出演します。この映画の監督はロイド・ベーコン、振付師は新しいスタイルを生み出したバズビー・バークレイ、主役はワーナー・バクスターと新人のビビ・ダニエルズです。ジンジャーの役はコーラス・ガールで、非常に印象的で存在感のある演技をしていました。彼女のアイディアで片メガネを掛けて、訛った英語を喋っていました。『42番街』は大ヒットし、今も1930年代の最高傑作とも言われています。

1933年 『四十二番街』
ウナ・マーケルとジンジャー

 1933年はこの後立て続けに2本の映画に出演し、次にマービン・ルロイ監督の『ゴールド・ディガーズ』では一攫千金を夢見るコーラス・ガールのフェイ・フォーチュン役で出演します。オープニングでジンジャーはコインを散りばめた衣装を着て、オープニングで登場して『ウィー・アー・イン・ザ・マネー』を歌います。彼女の唇が、画面一杯に映し出されます。この後も『プロフェショナル・スウィートハート』、『恋に賭けるな』、『彼女の戦術』、『めりけん音頭』と1933年には9本の映画に出演しています。ジンジャーは『恋に賭けるな』で憧れていたルー・エアーズと共演しました。彼女は『西部戦線異状なし』でルー・エアーズを観た時から、彼に恋していたと語っています。その言葉通りにジンジャーはルーとデートを重ね、1934年11月14日に彼と結婚しました。

1933年『ゴールド・ディガーズ』
コインのドレスを着るジンジャー

 1933年7月に『空中レビュー』の製作が決定し、ドロシー・ジョーダンが結婚で役を降りたのでジンジャーが代わりに出演する事になりました。前にも書きましたがジンジャーは歌手役で、黒のスケスケのドレスを着てキュートでセクシーに“ミュージック・メイクス・ミー”を歌います。

“ミュージック・メイクス・ミー”を歌うジンジャー

 リオ・デ・ジャネイロで地元の楽団の演奏途中から、ジンジャーとフレッドは“カリオカ”を踊り、“カリオカ”旋風を起こします。“カリオカ”のダンスは、二人が額と額を付けて踊る処が大変ユニークで、ダンサー全員が額と額を付けて踊ります。この額と額を付けて踊るアイディアは、振付師のハーミズ・パンが思いついものです。RKOは、この映画の成功で財政難を解消し、フレッドとジンジャーのコンビを主役にして映画化を決定します。

“カリオカ”を踊るジンジャーとフレッド

と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

発行所:キネマ旬報社 1994年

Vol.11 『フレッド・アステアのすべて』 第二部

 フレッドは1939年にジンジャーとのコンビを解消し、五つの撮影所と契約をしました。出演する映画ごとにパートナーを変えていました、とナレーションが入ります。アメリカが戦争に突入した為、映画はファンタジーからリアルになります。フレッドの映画も軍隊をテーマに扱うようになり、1941年にコロンビア社の『踊る結婚式』を撮りました。映画以外にもフレッドは、多くのスターたちと同様に国債の宣伝やヨーロッパへの慰問公演を行いました。兵士慰問のステージで踊る、フレッドのニュース映画が流れます。

志願したフレッドが入隊する時のシーン『踊る結婚式』(左)
国債の宣伝パレード(右)

 『踊る結婚式』でフレッドは、営倉のダンス・シーンで「アステア・ラグ」を踊ります。(この曲は黒人タップの「ビューグル・コール・ラグ」の変形だそうです。)

「アステア・ラグ」を踊るフレッド

 フレッドのダンス映画は、ダンサーや振付師に強い影響を与えたとナーレションガ入ります1955年の『足ながおじさん』の相手役、レスリー・キャロンがコンビの踊りを覚える為に、フレッドの映画を観たと話します。続いて振付師のボブ・フォッシー、テレビ・ショーのパートナーのバリー・チェイス、振付師のローラン・プチ、振付師のジェローム・ロビンスらが、フレッドのダンスの真似をした事を話します。

レスリー・キャロン(左)とボブ・フォッシー(右)
バリー・チェイス(左)とローラン・プチ(右)
ジェローム・ロビンス

 フレッドがリタ・ヘイワースと2本の映画に出演した事と、ジンジャーの抜けた後リタは最高のダンサーだったとナレーションが入ります。画面は1942年の『晴れて今宵は』で「アイム・オールド・ファッションド」を踊るフレッドとリタの踊りが映し出されます。(とてもセクシーなリタですが、ダンスにはジンジャーの様なセクシーさを感じないのは私だけでしょうか?)

「アイム・オールド・ファッションド」
を踊るフレッドとリタ

 1940年にパラマウント映画『セカンド・コーラス』でポーレット・ゴダード、アーティー・ショーと共演します。劇中フレッドはアーティー・ショーに代わり、楽団の指揮をしながら踊ります。

指揮をしながら踊るフレッド

 ボブ・フォッシーはフレッドのタップは、コメディ・タッチのミュージカルで、白人タップ・ダンサーのトップだと言います。続いて、黒人タップのホニー・コールズは、フレッドのダンスはバレエとタップを上手く組み合わせたアクロバットだと言います。ワルツを踊っていたと思うと突然タップになる、タップでもワルツでもバレエでも無く、時代を先取りしたダンサーだと言います。ルドルフ・ヌレエラは、フレッドは発明家だと言います。自由な発想で色々なものを取り入れて、音楽を支配していると語ります。音楽に合わせてステップを踏むのではなく、オーケストラの中の一つの楽器になりきっていたと言います。ボブ・フォッシーが『スイング・ホテル』でフレッドが踊った「爆竹のナンバー」は最高だと言います。タップの動きは次の動きが予想出来るが、フレッドのステップは予想出来ないと言います。1942年『スイング・ホテル』の「爆竹のナンバー」を踊るフレッドの映像が表示されます。

「爆竹のナンバー」を踊るフレッド

 ルドルフ・ヌレエラは、フレッドの小道具の使い方がうまいと言います。帽子掛けと踊ったり、部屋で天井や壁で踊ったりして、全てをフルに活用して踊っていると言います。続いてボブ・フォッシーは、フレッドの踊りは常にスリルに満ちている。物が落ちそうになったり、転びそうになったりと、わざと即興でやっているように見せている。充分リハーサルをしているのは分かっていてもハラハラすると語ります。1943年のRKO映画『青空は踊る』で、ホテルのバーのカウンターで危なっかしく踊った後、グラスや鏡を壊すナンバーの映像が流れます。

『恋愛準決勝』で天井や壁を踊るフレッド(左)
『青空は踊る』でバーのカウンターで踊るフレッド(右)

 1949年のMGM映画『バークレー夫妻』でジンジャーと共演し、その後のジンジャー以外のパートナーを紹介するナレーションが入ります。ボブ・フォッシーがMGMに入った頃の1950年代に、フレッドとジーン・ケリーのダンスを見て、フレッドのダンスが変わった事に気が付いたと言います。今まで見た事が無い膝を使った踊りを試していたと言います。膝や床を使った新しい動きは、1950年の『レッツ・ダンス』で観られと、ナレーションが入ります。

ピアノを相手に踊るフレッド(左) ベティ・ハットンと踊るフレッド(右)

 1955年4月3日に『バンド・ワゴン』の宣伝の為、「エド・サリバン・ショー」に出演しました。

「エド・サリバン・ショー」の司会者エド・サリバン(左)
エド・サリバンとフレッド(右)

 1955年に20世紀フォックス社の『バンド・ワゴン』で、レスリー・キャロンと共演しました。レスリー・キャロンは、自分の手が大きくてベレエ・ダンサーとして嫌だったが、フレッドが手を小さく見せる方法を教えてくれたと語ります。続いてローラン・プチが、自分は古典的な振付をするので、フレッドと組むのはむりがあった。最初の稽古はメチャクチャだったので辞めさせてくれと言ったら、一緒にいると安心出来るからレスリーの振付をするように言われた、と語ります。再びレスリー・キャロンが登場して、ローラン・プチのお陰で有名なナンバーが出来た。自分はトゥ・シューズでバレエを踊り、フレッドは燕尾服を着て踊った。二つの違うスタイルが上手くマッチしたと話します。もう一つのナンバーの「サムシング・ガット・ブギ」は、楽しく踊れたとも語っています。

レスリー・キャロンのバレエと踊るフレッド(左)
「サムシング・ガット・ブギ」を踊るレスリーとフレッド(右)

 1955年パラマウント社の『パリの恋人』でオードリー・ヘップバーンと共演します。振付はバレエ界の大物のユージン・ローリングです。彼はフレッドの性質を見極めて、繊細さを引き出すようにしたと語ります。

振付師のユージン・ローリング(左) オードリーと踊るフレッド(右)

 その後、フレッドはテレビに進出して全て自分で企画し、振付はハームズ・パン、無名のバリー・チェイスをパートナーにします。バリー・チェイスは、フレッドの脚を踏みそうで不安だったと言っていました。フレッドとハームズが2週間稽古をしてくれたのは、自分の不安を理解してくれたていたと思う。仲間として大切に扱ったってくれたのは嬉しかったとかたっていました。このテレビ・ショウは、1958年から1959年の間に4回放映され、九つのエミー賞を受賞しました。

1958年放送の「今宵アステアとともに」で踊るバリーとフレッド
1968年放送の「今宵アステアとともに」で踊るバリーとフレッド

 レスリー・キャロン、ホニー・コールズ、ルドルフ・ヌレエラ、ボブ・フォッシー、ジェローム・ロビンスらが、フレッドへの称賛の述べます。そした最後の『ブルー・スカイ』の「プリティング・オン・リッツ」を踊るフレッドの映像が流れてエンド・タイトルになります。

「プリティング・オン・リッツ」
を踊るフレッド

 大昔、レーザー・ディスク(もうご存じの方は、殆どいないですね。)で「フレッド・アステア物語パート1・パート2」が、1枚のディスクで発売された事がありました。私が知ったのは、発売後から相当経っていたので未見でした。コスミック出版から発売されていた「フレッド・アステア大全集」を購入した処、『フレッド・アステアのすべて』を観て驚きました。このドキュメンタリーは、私が観たかった「フレッド・アステア物語パート1・2」でした。『フレッド・アステアのすべて』は単品販売はありませんが、コスミック出版から10枚セットと9枚セットが販売されていました。送料込みで2000円ちょっとでしたが、今は中古しか無いかも知れませんね。私は楽天市場で中古品を買っていますが、今の処トラブルはありませんでした。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『フレッド・アステアのすべて』第二部 作品データ

監督・制作:デビッド・ヒーリー 脚本:ジョン・L・ミラー

アシスタント・プロデューサー:ジョーン・クラマー

ナレーター:ジョアン・ウッドワード

出演:レスリー・キャロン、バリー・チェイス、

   ホニー・コールズ、ボブ・フォッシー、

   ルドルフ・ヌレエラ、ハームズ・パン、

   ローラン・プチ、ジェローム・ロビンス

「フレッド・アステア大全集」2011年発売
『フレッド・アステアのすべて』を含む映画10本入りです。
「フレッド・アステア サード・ステージ」2017年発売
こちらは『フレッド・アステアのすべて』を含む映画9本入りです。

Vol.10 『フレッド・アステアのすべて』 第一部

 再びフレッド・アステアです。今回は1980年に制作された彼のドキュメンタリー映画を紹介します。この映画では、フレッド・アステアの有名なダンス・ナンバーを観る事が出来ます。監督はデビッド・ヒーリーで、アメリカのテレビ映画監督です。「セサミ・ストリート」や「ネイチャー・ワールド」を手掛けた方で、本作では製作と監督をしています。この映画は第1部と第2部に分かれていますが、第1部から観始めると自動的に第2部が始まります。字幕を外すことは出来ません。ナレーションで色々解説が入ります。ナレーターは映画俳優のジョアン・ウッドワードです。彼女はポール・ニューマンの奥さんで、アカデミー賞やエミー賞を受賞しています。

ジーン・ケリーとルドルフ・ヌルエラ

 ジーン・ケリーとルドルフ・ヌルエラが登場して、ダンス映画やフレッド・アステアの話をします。最初のダンス・シーンは『トップ・ハット』の「プッティン・オン・トップ・ハット」です。フレッドと同様にトップ・ハット、白隊、燕尾服にステッキを持った男性ダンサー20人程がフレッドと踊ります。途中フレッドのソロ・ダンスになり、再び男性ダンサーが加わりフレッドがステッキでマシン・ガンを撃つ動作をして何人かが倒れます。このテイクを3回撮って4回目を撮ろうとしたら、偶々この撮影を観ていたジェームズ・ギャグニーがもう撮らなくていいと言います。彼は、2回目のテイクでちゃんと出来ていると言いました。翌日のラッシュで映写されたのは2回目のテイクで、かれの意見が正しかったと思ったそうです。(ジェームズ・ギャグニーは、独特のタップ・ダンスをするダンサーでもあります。)

「プッティン・オン・トップ・ハット」
を踊るフレッド

 幼い頃のフレッドと姉のアデルの話から始まり、アデルが結婚してコンビ解消までの事をアデルが声の出演で語られます。(詳しくは、Vol.5『フレッド・アステア』をご覧下さい。)フレッドは1933年にフィルス・ポッターと結婚し、ハリウッドに向かいます。

舞台劇に出演中のアデルとフレッド
フレッドとフィルス・ポッター

 1933年にRKOで『空中レビュー時代』に出演が決まりますが、その前にMGMで『ダンシング・レディ』に出演します。RKO元役員でプロデューサーだったバンドロ・バーマンとジンジャー・ロジャースが『空中レビュー時代』について語ります。画面には「キャリオカ」を踊るフレッドとジンジャーのダンスが登場します。

バンドロ・バーマンとジンジャー・ロジャー
「キャリオカ」を踊る
フレッドとジンジャー

 続いて1934年の『コンチネンタル』で「ナイト・アンド・ディ」を踊るフレッドとジャンジャーです。相手役のジンジャーの感情の変化が、ダンスで表現されているのが伝わってきます。批評家のアーリン・クローチは、これ以上のダンス映画を今まで観たことが無いと評しています。

「ナイト・アンド・ディ」を踊る
フレッドとジャンジャー

 バンドロ・バーマンが登場して、二人のシリーズに関わった製作スタッフを紹介します。音楽はアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、ヴィンセントユーマンス、当時最高の音楽家たちです。監督はマーク・サンドリッチ、ジョージ・スティーヴンス、ウィルアム・サイター、ハンク・C・ポッターと最高の監督です。振り付けはハーミズ・パンとアシスタントでピアノを弾いていたハル・ボーンです。

ジンジャー、フレッド、アーヴィング・バーリン(左)
ジェローム・カーン(右)
コール・ポーターとヴィンセントユーマンス
ハーミズ・パンとアシスタントのハル・ボーン

 ハル・ボーンが登場して、1934年の『コンチネンタル』の話をします。当時ジンジャーは他の映画にも出演していたので、ハーミズ、フレッド、ハルの三人で振付を決めて、ジンジャーの空いている時間にそれを教えていたと語ります。続いてハーミズが登場して、踊りの稽古に6週間かけてから監督を呼んでいたと語ります。ジンジャーは6週間のリハーサルの話をします。何も無い殺風景なステージで、衣装も無くハルが弾くピアノに合わせて踊り続けたそうです。ダンス・ナンバーの「コンチネンタル」」を踊るフレッドとジンジャーの映像が表示されます。

「コンチネンタル」」を踊る
フレッドとジンジャー

 1935年の『ロバータ』も大成功を収め、観客を熱狂させたとナレーションが入ります。ハーミズ・パンが二人のダンスについて語ります。二人の踊りは何かを醸し出す。相手が変わると煌めきを失うと言っています。続いてバンドロ・バーマンは、当時二人のダンスに言われていたジョークを語ります。“フレッドは気品を与え、ジンジャーはお色気を与えた”と。言いだしたのはキャサリーン・ヘップバーンだったと言っています。(正に二人のダンスを正確に表した言葉だと思います。)

 再び最高傑作と云われている、1935年の『トップ・ハット』が紹介されます。ジンジャーが「チーク・トゥ・チーク」を踊る時に着たドレスの話をします。全身が羽根に覆われたドレスで、リーハーサルで踊る度に羽根がスタジオ中に飛び散ったドレスの事です。撮影中は誰も良いとは言ってくれなくて、ジンジャーとデザイナーだけが気に入っていたそうです。じかし、映画が公開されると、皆褒めてくれたと言っています。そして画面には「チーク・トゥ・チーク」を踊るフレッドとジンジャーのダンスが登場します。

「チーク・トゥ・チーク」を踊る
フレッドとジンジャー

 ハーミズが床のベークライトの話をします。1度踊ると床が傷だらけになるので、毎回床を磨いたと語ります。ジンジャーは、ピカピカの床はとても奇麗だったけれど、滑って踊るのは大変だったと言いていました。

ベークライト製の床の話をするハーミズとjンジャー

 1936年の『艦隊を追って』の劇中劇でもベークライの床を使っています。私の大好きな「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス」の曲に乗せてフレッドとジンジャーが踊ります。ジンジャーのドレスは全身ビーズ付きで、フレッドが袖のビーズで顎に一発食らっています。このビーズのドレスのお陰で、ボンヤリとジンジャーの脚が透けて見えてセクシーです。このシーンは踊りの振付だけで、物語を表現しています。このシーンについて評論家のジム・ハービーは“人との関わりをアステアはポーズで表現している”と語っています。ハーミズは、ダンスは言葉で表せない事を表現する抽象的な芸術だと言っています。

ダンスで物語を表現している
フレッドとジンジャーの踊り

 次の作品は1936年の『有頂天時代』です。(リバイバル上映の時は、確か『スイング・タイム』となっていました。)この映画でフレッドは、タップの神様ビル・ボージャングル・ロビンソンに敬意を表して黒人に扮してソロ・ダンスを踊っています。

ビル・ボージャングル・ロビンソン

 ハーミズがフレッドのスクリーン・プロセスを使って、3人の影と踊るアイディアを思いついた話をします。そして、「ボージャングルズ」の曲に合わせて、フレッドが3人の自分の影と踊ります。影の踊りの動きを確認した処、ひとつのダンス映像を使って3人分作っていますね。完璧主義のフレッドは自分の踊りを編集されるのを嫌い、ダンス・シーン全体をワン・テイクで撮るとナレーションが入ります。この映画のラストで踊るステージは、30段の階段が左右にあり下のフロアーからフロアーまで二人が踊ります。ハーミズが当時の撮影時の話をします。ジンジャーの靴は血まみれできつそうだった。ジンジャーは英雄みたいだったと言っています。そして47回目にOKが出たと言っていますが、ファースト・テイクの後の47回目なので、全部で48回二人は踊っています。続いてジンジャーは動く範囲が広くて大変なダンスだった。30段も階段を登ってそこでダンスをするのは初めての試みだったと語っています。ロマンチックなナンバー「ネヴァー・カム・アゲイン」でフレッドとジンジャーが踊る画面に変わります。この二人のダンスは、ダンスの中のダンスと云われました。

「ボージャングルズ」を踊るフレッド(左)
「ネヴァー・カム・アゲイン」を踊るフレッドとジンジャー

 1937年の『踊らん哉』の音楽をジョージ・ガーシュウィンが担当しまミムズが語ります。画面は「バスを叩いて」の合わせて踊るフレッドの映像が表示され、続いてフレッドとジンジャーが「けんかをやめよう」の曲に合わせてローラースケートを履いたまま踊る映像に変わります。

手前がジョージ・ガーシュウィン
真後ろがアイラ・ガーシュウィン
バスを叩いて」を踊るフレッド(左)
「けんかをやめよう」を踊るフレッドとジンジャー

 そして画面は変わり、船のデキッキで犬を散歩させるフレッドとジンジャーが映し出されます。人々は二人の関係に興味を持ったとナレーションが入ります。バンドロ・バーマンが登場して、フレッドは姉のアデルと離れてからスランプが続いていたと語ります。続いてジャンジャーはコンビで売り出されるのが嫌になったのではないかと語ります。ハーミは二人の仲が悪いと云う噂がある話をします。ジンジャーが登場して、一度もケンカをした事がないのにと言ったフレッドの話をします。

 RKOはフレッドの為に、ジンジャーなしで1937年『踊る騎士』を製作します。しかし、この映画が当たらなかったので1938年『気儘時代』でジャンジャーとのコンビを復活させます。画面は「チェンジング・パートナーズ」で踊るフレッドとジンジャーのダンス・シーンが流れます。

「チェンジング・パートナーズ」を踊るフレッドとジンジャー

 二人のコンビが解消となる最後の映画、1939年の『カッスル夫妻』に関するナレーションが入ります。バンドロ・バーマンが登場して、アイリーン・カッスルとの契約の話をします。ジンジャーはアイリーンが色々と不満を言ってきた時は傍にいたくなかったと語っています。

アイリーン・カッスル(中央)

 画面には1914年のサイレント映画『ザ・ワール・ライフ』でキャッスル夫妻のダンスが映し出され、そしてカッスル夫妻のダンスを再現したフレッドとジンジャーのダンスが映し出されます。

左からアイリーン・カッスルとヴァーノン・カッスル(左)
ダンスを披露するカッスル夫妻(右)

 ハーミが登場して、時代の流れで二人の時代が終わったと語ります。最後にフレッドとジンジャー以上のコンビは二度と現れないだろうと、ナレーションが入り第一部が終わります。次回の第二部に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『フレッド・アステアのすべて』第一部 作品データ

監督・制作:デビッド・ヒーリー 脚本:ジョン・L・ミラー

アシスタント・プロデューサー:ジョーン・クラマー

ナレーター:ジョアン・ウッドワード

出演:ジーン・ケリー、ルドルフ・ヌルエラ

   アデル・アステア(声のみ)、バンドロ・バーマン

   ジンジャー・ロジャース、ハル・ボーン

Vol.9 『空中レビュー』

 RKOの初日は、各部門の責任者との顔合わせと作業工程の説明を受けました。この時点では『空中レビュー』でのフレッド・アステアの相手役はまだ決まっていませんでした。三日目にジンジャー・ロジャースが出演するかもしれないと聞かされ、彼女がストレート・プレイの映画ではなくミュージカル映画に出演するか心配だったようです。ジンジャー・ロジャースとは、1930年に彼女が出演する舞台劇の「ガール・クレイジー」の稽古中に会っていました。劇中でのダンスが上手くいってないので手伝って欲しいと、ガーシュウィンを紹介してくれたアレックス・アローンから連絡があり、次の日劇場に出向きます。そこで彼女に初めて会い、問題のナンバーに取り組みました。「ガール・クレイジー」は好評で、彼女は話題の人となります。その後、彼女とは時々一緒に出掛けて映画を観たりナイト・クラブで踊ったりしていました。

 主役のベリーニヤ・デ・レゼンデをドロレス・デル・リオ(メキシコ出身の美人で、サイレント映画時代から活躍している大女優です。)が演じています。相手役のロジャー・ボンドをジーン・レイモンドが演じ、親友のフリオ・ルベイオをラウル・ロウリン(南米の歌手)が演じています。

左からドロレス・デル・リオ 、 ジーン・レイモンド 、 ラウル・ロウリン

 歌手のハニー・ホールをジンジャー・ロジャースが演じ、アコーデオン奏者のフレッド・アイレスをフレッド・アステアが演じています。

ジンジャー・ロジャーとフレッド・アステア

 マイアミのホテル・ハイビスカスの最初の演奏で、ロジャーとヤンキー・クリッパー楽団の専属歌手のハニー・ホールが、セクシーなドレスを着て歌います。

ミュージック・メイクス・ミー」を歌うジンジャー・ロジャース(22歳)

 ロジャーとベリーニヤの二人は恋に落ちますが、ベリーニヤはロジャーの親友のフリオと婚約していて二人は結婚する事になっています。この三角関係のラブ・ストーリーがメインで展開され、それにベリーニヤの父親が経営する、ホテル・アトランティコの開業を邪魔する3人のマフィアが登場して物語は進行します。色々見せ場があって面白いですが、この映画は音楽とダンスと空中レビューの映画です。主役のドロレス・デル・リオさんには申し訳ないですが、「カリオカ」を踊るフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの為の映画になってしまっています。

 この映画のクライマックスは、飛行機の翼の上にダンサーの身体を固定して、飛んでいる飛行機の上で踊るシーンです。正に邦題通りの空中レビューです。飛行機が出始めた頃、アメリカでは翼の上で人が乗って曲乗りをするのが流行っていました。それを複数の飛行機で行うものです。

 リハーサル初日にフレッドは久し振りにジンジャー・ロジャースと会い、昔の思い出話で盛り上がり楽しい気分でいくつかのスッテプを試し、二人で踊ってその日のリハーサルは無事終ります。準主役のフレッドとジンジャーのダンス・シーンは、「カリオカ」の曲の一部だけで長い時間ではありません。7台のピアノが円形に並べて作られた円形ステージの上で、二人が踊ります。(映画の48分頃と53分頃に登場します。)二人のダンス・シーンは非常にインパクトがあって大好評なので、RKOはこの二人の為に主演映画の準備をします。フレッドはこの映画の撮影が終わると最後の舞台劇「陽気な離婚」に出るためにロンドンに向かいます。

カリオカ」を踊るフレッドとジンジャー

 『空中レビュー』の監督のソーントン・フリーランドと云う方は、私はこの1作しか観たことがありませんが、音楽の使い方やダンス・シーン等素晴らしい演出をされる方です。音楽担当のヴィンセントユーマンスが、この映画の為に「オーキッズ・イン・ザ・ムーンライト」、「カリオカ」、「フライング・ダウン・トゥ・リオ」の3曲を作曲しました。この中の「カリオカ」が演奏されるシーンは12分間あり、ダンサーが大勢登場して踊りまくり圧巻です。パートナーが、額と額を付けながら踊るのは面白いです。

圧巻のダンス・シーン(左)コミカルな男性ダンサーとの踊り(右)

 演奏と共に3人の歌手が入れ替わり歌います。最初に歌うのはアリス・ジェントル、二番目がモヴィータです。そして三番目に登場するのがエッタ・テモンです。笠置シズ子似の方で、素晴らしい「カリオカ」を聞かせてくれます。エッタ・テモンは、アフリカ系アメリカ人の女性として初めて、1934年にホワイト・ハウスで歌った方です。

カリオカ」 を歌うエッタ・テモン

 劇中「月下の蘭」も上手く使われていて、ドロレス・デル・リオとフレッド・アステアのダンス・シーンもあります。ソーントン・フリーランド 監督の本領発揮でしょうか、飛行機の翼の上でのレビュー・シーンは凄い発想です。この奇想天外の空中シーンは3分程続きます。地上にいる人たちには、翼の上のダンスは見えないなんて言ってはいけません。映画を観る観客の為のシーンですから、余計な事は考えずに楽しみましょう。嘘を本当のように見せるのが映画です。ジンジャーは翼の上で指示を出すリーダーをやり、地上ではフレッドが「フライング・ダウン・トゥ・リオ」を歌って踊ってフィナーレとなります。三角関係のラブ・ストーリーは、粋なラストで映画は終わります。

リーダーのジンジャー(左)と翼の上でのダンスサーたち

 この映画はお勧めですがレンタルには無いと思いますので、観るためには購入するしかないかも知れません。でも今は古い映画も配信されているのかな。私はフレッド・アステア出演のDVDは単品で購入していましたが、この映画は9枚セット2000円チョットで入手しました。1枚当たり220円程度なので、とても有難いセットでした、パブリック・ドメインの商品なので、映画会社のトレード・マークは表示されません。画質は作品によってばらつきがありますが、本編を観る事が出来れば良いと思う方にはお勧めします。最後までお付き合い頂きまして有難う御座います。

「ミュージカル・パーフェクト・コレクション ファーストステージ
発行:株式会社コスミック出版

『空中レビュー時代』 作品データ

アメリカ 1933年 モノクロ 89分

原題:Flying Down to Rio

監督:ソートン・フリーランド

脚色:シリル・ヒューム、H・W・ヘーンマン、アーウィン・ゲルシー

原作:ルウ・ブロック

撮影:J・ロイ・ハント

音楽:ヴィンセントユーマンス

作詞:エドワード・エルスキュ、ガス・カーン

振付:ディブ・ゴールド

出演:ドロレス・デル・リオ、ラウル・ロウリン

   フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース

   ジーン・レイモンド、ブランシュ・フレデリシ

   ウォルター・ウォーカー、エッタ・テモン

   フランクリン・パングボーン、ポール・ポルカシ

   レジナルド・バーロウ

Vol.8 『フレッド・アステア』 最終章

 1951年、MGMが準備を進めていた『恋愛準決勝』に取り掛かる事になります。相手役のジューン・アリスンと振付師のニック・キャッスルと共にリハーサルを始めます。しかし、ジューン・アリスン(当時、ディック・パウエル夫人)の妊娠が分かり、役を降りる事になります。ジュディ・ガーランドに出演依頼をした処、快諾してくれたのでリハーサルを再開しましたが、ジュディが病気になり役を降ります。チャック・ウォルターズが監督する事になっていましたが、別の仕事の為に降りてしまいます。開始後5週間経っても主演女優も監督も決まっていない状態です。1週間後、ジューン・パウエルが出演する事になり、やっとリハーサルが再開されました。ジェーン・パウエルは本来ダンサーではありませんが、芸達者な女優なので素晴らしいダンスを披露してくれます。『略鬱された七人の花嫁』で主演しています。フレッドはスタンリー・ドーネンを監督に指名します。スタンリー・ドーネンは最初振付師でしたが、最近監督になったばかりでした。共演はピ-ター・ローフォードとウィンストン・チャーチルの娘のサラ・チャーチルです。この映画は原題”Royal Wedding”が示すように、フィリップ王子とエリザベス王女のロイヤル・ウエディングの模様も後半に登場します。小柄なジューンは、パワフルなダンスでフレッドの相手をします。彼女は映画の出演本数は少ないですが存在感のある女優で、ジャズ・シンガーとしても有名な方です。フレッドはこの映画で、以前から構想していた壁や天井で踊ります。大掛かりな舞台とそれを動かす装置作りは大変だったと思いますが、このシーンは有名ですね。

客船のホールで踊るフレッドとジューン(左)
オーデションでサラと踊るフレッド(右
天井や陰で踊るフレッド(左)
左からピータ、ジューン、フレッド、そしてサラ(右)

 1952年、ヴェラ・エレンと『ベル・オブ・ニューヨーク』の撮影に入りますが、1946年に企画を中止した映画です。1910年の時代設定が退屈だったのとファンタジーが嚙み合っていない映画に思われます。フレッドが空中に浮かび上がって踊るシーンがありますが、批評家にも観客にも受け入れられなかったようです。八か月取り組んだが、失敗作だったとフレッドが語っています。1953年、MGMは『バンド・ワゴン』を企画します。姉のアデールと出演した舞台劇の「バンド・ワゴン」の楽曲を使いますが、新しくシナリオは書き下ろされました。監督はヴィンセント・ミネリ、フレッドの相手役はシド・チャリシーです。この映画はバック・ステージ物ながらかなりの大作で、ジャック・ブキャナン、オスカー・レヴァント、ナネット・ファプレイが出演しました。フレッドはシド・チャリシーの事を卓越したダンサーで、素晴らしいパートナーだ。彼女には正確さに加えて美しいダイナマイトだと評していました。ニューヨークの批評家は大絶賛しましたが、ハリウッドの方は酷評でした。

公園でシドと踊るフレッド(左)
劇中でのシドとフレッドのダンス(右)

1953年『バンド・ワゴン』

 1954年20世紀フォックスから『足ながおじさん』の現代版ミュージカルの出演依頼があり、フレッドは即決で契約しました。監督はジーン・ネグレスコ、作詞作曲はジョニー・マーサー、振付はローラン・プチです。フレッドの相手役は、フランス出身のバレエ・ダンサーレスリー・キャロンです。彼女は誠実で真面目で優れたアーティストで、自分が完璧に自信を持てるまでダンスも演技しませんでした。彼女の為に撮影は何分でも何時間でも止まる事がありましたが、フレッドはそんな彼女を称賛していました。リハーサルを始めていた7月に奥さんのフィリスの病状が悪化して二度目の手術をする事になり、フレッドは一時撮影現場から離れます。回復するかに見えたフィリスは、1954年9月13日に亡くなりました。フレッドはこの仕事を辞めようとしましたが、フォックス社から映画を続けるように説得されます。気持ちの準備が整った10月から仕事を再開しました。映画が完成するとフレッドは初めて宣伝の為にテレビに出る事になります。ダンスも台本も無しで、全てアドリブだったのは楽しかったと語っていました。「エド・サリバン・ショー」では、エドに呼ばれて客席から登場してカメラ前に出ていました。

バレエ・ダンスのレスリーと踊るフレッド(左)
レスリーとフレッドのダンス(右)

 あるカクテル・パーティーでMGMのロジャー・イーデンズに偶然会った時、パラマウント社の『パリの恋人』(原題:ファニー・フェイス)の出演依頼がありました。オードリー・ヘップバーンが脚本を気に入って、フレッド・アステアが出演するなら出ると言っている。フレッドは即答で快諾しました。偉大なる美しきオードリー・ヘップバーンと共演出来るのは、唯一最後のチャンスだと思ったそうです。オードリーはフレッドと踊れる日を20年待って実現する事になりました。監督はスタンリー・ドーネン、振付はユージン・ローリングとフレッド・アステアです。音楽はジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンの過去の楽曲が使われました。パリでの撮影は雨が続き、チュイルリー公園でのファッション写真撮影シーンは、雨の中で行われました。シャンティイーのラ・レーヌ・ブランシュ教会で、二人はロマンティックなダンス・シーンを撮る事になっていました。雨が執拗に降り続け、最後の最後にギリギリ撮影可能になりました。雨は上がっても地面は乾いていない状態です。二か月以上踊っていないダンス・ナンバーを、非常に広いエリアを踊りました。帰国後、フレッドはニューヨークに行って、テレビや新聞雑誌で宣伝活動しました。今回もエド・サリバンの番組にも出演しています。映画はロードショウ公開で、大成功を収めました。

古本屋でのフレッドとオードリー(左)
教会の敷地で踊るフレッドとオードリー(右)

 MGMの『絹の靴下』の準備が整い、1956年9月からリハーサルが始まりました。『絹の靴下』はブローウェイのミュージカル・コメディを映画化したもので、映画の『ニノチカ』を懸案したものでした。監督はルーベン・マヌーリアン、音楽はコール・ポーター、フレッドの相手役はシド・チャリシー、共演者はジャニス・ペイジ、ピーター・ローレです。シドとのダンスを楽しみにしていたフレッドは、彼女と沢山のダンスを踊り、どれも出来が良かったと語っていました。ミュージカルが下火になっていたにも関わらず、1957年に公開されたこの映画はヒットしました。『絹の靴下』撮影終了後、様々なスタジオから脚本が送られてきましたが、本当にやりたいものはありませんでした。もうミュージカル映画は充分やりつくしたと思ったそうです。

フレッド、シド・チャリシー、ジャニス・ペイジ(左)
シド・チャリシーと踊るフレッド(右)

 フレッドは1957年にテレビで、歌わないし踊らない番組を企画します。毎週日曜日夜の「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の中で放送された、「インプ・オン・コブウェブ・リーシュ」という題名の30分のコメディです。歌わない踊らないコディアンとしてのフレッドは視聴者に受け入れられました。これに気をよくしたフレッドは、生放送のダンス特番を作ろうと思い企画してクライスラー社と契約します。クライスラー社から番組の内容はフレッドに一任され、一時間の特別番組をカラーで生放送する事になりました。フレッドは明確なコンセプトを持ち、ダンスのアイディアを練り上げました。そしてバリー・チェイスに共演を依頼しました。バリーは『足ながおじさん』と『絹の靴下』に無名のダンサー役で出演していて、彼女の仕事にフレッドは感銘を受けていました。また、練り上げたダンスは部分的に彼女の独特のスタイルからインスピレーションを得ています。振り付けはハーミズ・パンとフレッドが担当しました。20人ほどのメンバーは7週間のリハーサルを行い、フレッドはその前に5週間のリハーサルをしていました。クライスラー社提供の「アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア」は、1958年10月17日に放送されました。放送終了後、視聴者とマスコミの両方から、批判の声なしに称賛されました。この特番は1968年までの10年間に合計4回放送され、9個のエミー賞を受けています。(このテレビ番組の邦題は、「今宵アステアとともに」です。)

1858年の生放送で踊るバリーとフレッド
1968年の最後の生放送で踊るバリーとフレッド

 1958年にスタンリー・クレイマー監督から、『渚にて』で科学者のオズボーン役を演じてほしいと出演依頼がありました。主演はグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、共演はアンソニー・パーキンス、ドナ・アンダソンです。この映画は特撮を一切使わないSF映画として有名な映画です。核戦争が起こり、北半球に住んでいた人たちは死亡し、南半球のオーストラリアだけが辛うじて生きて居られる状態です。しかし、核の汚染は南半球にも広がってきて、人類の全滅が間近に迫っているという内容です。フレッドはストレートの俳優として出演しています。

フレッドとエヴァ・ガードナー(左)
自分のレース・カーを運転するフレッド(右)

 その後1968年に『フェニアンの虹』でフレッド最後のミュージカル映画に出演し、1974年に『タワーリング・インフェルノ』にストレ-トの俳優として出演してアカデミー助演男優賞にノミネートされています。1974年に『ザッツ・エンターテインメント』、1976年に『ザッツ・エンターテインメント パート2』と出演しています。1985年の『ザッツ・ダンシング』ではフレッド本人は出ていませんが、過去の映画での出演をしています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝

Vol.7 『フレッド・アステア』の続きの続き

 ジンジャー・ロジャースとのコンビ解消後、1940年にフレッド・アステアはMGMで『踊るニューヨーク』の撮影に入ります。監督はノーマン・タウログ、共演者はエリノア・パウエルとジョージ・マーフィです。この映画の原題は『Broadway Melody of 1940』といい、ブロードウェイ・メロディ・シリーズの4作目でシリーズの最終作です。共演のエリノア・パウエルは1930年代に大活躍したタップ・ダンサーで、タップの女王と言われていました。ダンスの神様とタップの女王の共演は、私にとっては奇跡のような映画です。正確無比でパワフルなエリノアと軽快に華麗なダンスをするフレッドとのダンス・シーンは最高ですね。この映画では二人のタップ・ダンスを十二分に堪能出来ます。ジョージ・マーフィはストレートーの俳優もしますが、歌も踊りも笑顔も素晴らしい俳優です。後に彼は映画会社の社長やアメリカの下院議員にもなった方です。この映画でフレッドはジョージと組んで、初めて男性コンビで踊ります。この映画は当初カラー映画を予定していましたが、第二次世界大戦時の為モノクロで撮影されました。映画の出来は良かったのですが、世界情勢が不安な事もありスマッシュ・ヒットにはなりませんでした。

エリノア・パウエルのダンス・シーン(左)
ジョージと踊るエリノア(右)
レストランで踊るエリノアとフレッド(左)
ビギン・ザ・ビギンを踊るエリノアとフレッド(右)

 その年フレッドは、パラマウントから公開される『セカンド・コーラス』に出演します。監督はハンク・ポッター、振り付けはお馴染みのハーミー・パン、共演者はポーレット・ゴダード、バージェス・メレディス、アーティー・ショー楽団です。フレッドは、アーティー・ショー楽団の指揮をしながらダンスをするアイディアを実行しました。この映画の音楽はジャズで構成されていたので、フレッドにとっては初めてのスウィング・ジャズ物となりました。

ポーレッド・ゴダードと踊るフレッド(左)
アーティー・ショー楽団の指揮をしながら踊るフレッド(右)

 『セカンド・コーラス』の撮影終了後、フレッドには次回作の予定が入っていませんでした。そのような時、コロンビア映画社のプロデューサーだったジーン・マーキーから、若い女優との共演に関するオファーがありました。B級映画に数本出演しているが、本来ダンサーで将来大スターになるだろうと言いてきました。その女優リタ・カンシーノは、ヴィルボード時代の旧友エドゥアルド・カンシーノの娘で、芸名がリタ・ヘイワースになったばかりでした。後日コロンビア社から連絡があり、出演を承諾してくれるなら続けてもう一本撮りたいとの依頼でした。それから今度はパラマウント社から連絡があり、ビング・クロスビーが出演する『スイング・ホテル』への出演依頼が入りました。戦時下の暗い空気の中、ハリウッドはミュージカル映画で追い払おうとしたのでは無いかと考えたそうです。リタとの最初の共演映画は『踊る結婚式』で、彼女にとっては初めての主演映画です。監督はシドニー・ランフェールド、音楽はコール・ポーターです。リタは訓練を受けた完璧さと個性を持ってフレッドと踊りました。楽しく撮影で来たのは、この映画が第二次世界大戦の軍務を背景にした映画だったので、殆ど軍服姿なので着替える必要がなかったのと、リタと共演できた事だと語っていました。

営倉でソロ・ダンスを踊るフレッド(左)
ウエディング・ドレスのリタと踊るフレッド(右)
1942年『踊る結婚式』

 次回作はパラマウント社の『スイング・ホテル』です。監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリン、主役は当時大人気のビング・クロスビーです。今回のフレッドのソロ・ダンスには花火を使った新しい趣向のものがあります。この花火のナンバーは、爆竹を鳴らしてステップに合わせてリズミカルに爆発させるものです。床にワイヤーを巡らせて、特定の場所で花火の火花が走るように仕掛けたものです。非常に迫力があるダンス・シーンになっています。そして、この映画で初めて「ホワイト・クリスマス」がビング・クロスビーによって歌われました。この曲は世界的に大ヒットし、クリスマスの定番ソングとして長年親しまれました。

ビング・クロスビーとフレッド(左
花火の火花と踊るフレッド(右)

 フレッドは1942年の9月から、ハリウッド勝利委員会が手配した戦時公債ツァーに出かけます。このツァーは公債の販売促進する為に、工場、パーティー、路上集会、劇場でのショーに出演するもので、州をくまなく回ります。(アメリカの国民は、このようなツァーで戦争国債を購入していた訳です。)タイトなスケジュールのツァーが終わり、『晴れて今宵は』の撮影に入ります。監督はウィリアム・A・サイター、音楽はジェローム・カーンです。リタとの共演も二度目で楽しく仕事が出来たそうです。映画はなかなかの成績を上げ、リタの美貌と才能は絶賛されました。

とても魅力的なリタ・ヘイワース(左)
リタと踊るフレッド(右)
1942年『晴れて今宵は』

 1943年にRKOの『青空に踊る』に出演します、監督はエド・グリフィス、音楽はジョニー・マーサーとハロルド・アレン、共演者は若手のジョーン・レスリーです。戦友役のロバート・ライアンは、この映画でデビューしました。第二次世界大戦中なので、フレッドは、「フライイング・タイガー」に乗るパイロットを演じました。次回作は決まっていましたが撮影は遅れていて、「ハリウッド戦時公債大行進」いう大規模な戦時公演ツァーに参加します。ハリウッド・スターが大勢出演し、二週間特別列車で東西両海岸の大都市を回りました。

ロバート・ライアンとフレッド(左)
ジョーン・レスリーと踊るフレッド(右)

 次回作の『ジーグフェルド・フォーリーズ』はMGMの大作で、監督はヴィンセント・ミネリ、出演者はMGMの多くのスターが出演しました。1900年代から1930年代に数々の舞台を演出したフローレンス・ジーグフェルド・ジュニアが、嘗て大好評だった「ジーグフェルド・フォーリーズ」を天国から演出するという映画です。「影なき男」シリーズのウィリアム・パウエルが、ジーグフェルドを演じました。監督のヴィンセント・ミネリは大掛かりなセットを作り、当時の「ジーグフェルド・フォーリーズ」を再現しています。フレッド待望のカラー映画です。フレッドはルシール・ブレマーと2曲踊ります。2曲目はチャイナ・タウンが舞台で、幻想シーンの二人は赤い衣装で手に大きな扇子を持って踊ります。どちらもセリフは無く、踊りだけで物語が分かるようになっています。そして、ジーン・ケリーと初めてコンビを組んで踊っています。この映画でジュディ・ガーランドが歌う「クレマタント夫人」は、ラップでしょうね。撮影終了後フレッドは、軍人と軍人の家族のサポートをするUSO(United Service Organizationsの略)の慰問旅行でロンドンに向かいます。その後、戦火の中フランス、ベルギー、オランダ等のヨーロッパ各地を6週間慰問して回りました。

ルシール‣ブレマーと踊るフレッド(左)
ジーン・ケリーとフレッド(右)

 1945年MGMで『ヨランダと泥棒』の撮影に入ります。監督は前作に続きヴィンセント・ミネリ、相手役も同様にルシール・ブレマーでした。ファンタジー色が強いせいか、興行的には不調に終わりました。パラマウント社でビンク・クロスビー主演の『ブルー・スカイ』に出演します。監督はステュアート・ヘイスラー、音楽はアーヴィング・バーリン、振り付けはハーミンズ・バンです。芸達者なビリー・デ・ウルフが素晴らしい演技を披露しています。この映画でフレッドが踊る「プッティング・オンザ・リッチ」は最高です。ステッキを使ってソロを踊ったあとに後ろのカーテンが空き、中には7人のフレッドが立っています。そして、8人のフレッドが踊ります。バックの七人の動きを細かく確認した処、フレッドは七人分のダンスを個別に撮っています。このシーンの撮影に満足出来たフレッドは、パラマウントの特殊効果部の尽力のお陰だと感謝していました。

ビング・クロスビーとビリー・デ・ウルフ(左)
7人のフレッドと踊るフレッド・アステア(右)
1946年『ブルー・スカイ』

 母親の助言もあり、フレッドはこの映画を最後に引退する事にします。1947年フレッドはダンス・スクールを始めます。150名の教師の訓練をしましたが、思うように事業は進みませんでした。そんなある日ライオネル・ハンプトンの「ジャック・ザ・ベル・ボーイ」を聞いた時、仕事に戻りたいと突然思ったそうです。勿論映画の予定はありませんでした。処がMGMからスクリーン復帰の依頼電話がありました。『イースター・パレード』のリハーサル中、ジーン・ケリーが足首を骨折したので代役をして欲しいとの事でした。ジーン・ケリーの依頼もあり『イースター・パレード』に出演する事になります。監督はリチャード・ウォルターズ、音楽はアーヴィング・バーリン、相手役はジュディ・ガーランド、共演者はピーター・ロフォードとアン・ミラーです。映画はフレッドに合わせて大幅な変更をして撮影されました。この映画のお勧めは、二人が浮浪者姿で歌って踊る「しゃれ者二人組」です。ジュディはコミカルに本当に楽しそうに踊っています。映画は大ヒットし、観客はフレッドのカムバックを歓迎しました。

ジュディと踊るフレッド(左)
浮浪者姿で踊るジュディとフレッド(右)

 次回作はMGMで『ブロードウェイのバークレイ夫妻』をジュディと共演する事が決まりました。監督はチャック・ウォルターズ、音楽はハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインです。撮影が始まる頃にジュディが病気で出演出来なくなり、ジュディの要望で代役を立てる事になりました。簡単に代役は見つからないと思っていたら、偶然にもジンジャー・ロジャースが出演可能でした。『カッスル夫妻』撮った時に話していたコンビ再結成が突然実現しました。ジンジャーはこの10年間歌もダンスもやっていませんでしたが、見事にコンビは復活しました。リハーサルのシーンは最高です。ピッタリ息が合って楽しそうに踊る二人を観ているだけで、なんだか嬉しくなりました。今回のフレッドの新しいダンスは、靴修理店での空想シーンで沢山の靴と共演するソロ・ダンスです。この映画は未公開でしたが、フレッドとジンジャーのダンスをカラーで観られるお勧めの一本です。

楽しそうに踊るジャンジャーとフレッド(左)
沢山の靴と踊るフレッド(右)

 MGMジャック・カミングズから『土曜は貴方に』の脚本が届きます。ヴォードヴィル時代からの友人二人の物語で、フレッドは大いに気に入りジャックに撮影が待ち遠しいと伝えます。この物語はダンサーで作詞家のバート・カルマーと作曲家のハリー・ルビーの実話を基にした映画です。カルマー役がフレッドで、ハリー役はコメディアンのレッド・スケルトンが演じました。監督はリチャード・ソープ、共演者はダンシング・スターのヴェラ・エレン、振り付けはハーミズ・パンです。タップ・ダンスとパントマイムを組み合わせたナンバーでは、ダイナミックなヴェラのダンスを楽しめます。フレッドはこの映画を非常に気に入っていると語っています。

フレッドとヴェラ・エレンの踊り(左)
レッド・スケルトンとフレッド(右)

 以前から予定に入っていたパラマウントの『レッツ・ダンス』の撮影に入ります。監督はノーマン・マクラウド、振り付けはハーミン・パン、フレッドの相手役はベティ・ハットンです。カーボーイ姿の二人が揉み合うコミカルなナンバーでは、パワフルなベティのダンスが観られます。それとフレッドはピアノを相手にダンスをします。この映画は大々的に封切られたにも関わらず、早々に立ち消えてしまいました。

ピアノを相手に踊るフレッド(左)
コミカルに踊るフレッドとベティ・ハットン(右)

そして、又次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝

Vol.6 『フレッド・アステア』の続き

 『空中レビュー』の撮影の為、フレッドはRKOのスタジオに行くとプロデューサーのルー・ブロックが出迎えてくれました。彼とスタジオ・ヘッドのメリアン・クーパーと様々な部門のヘッドに挨拶回りをします。RKOの作業過程とMGMの作業過程が違い、各スタジオには夫々独自のやり方がある事を知ります。『空中レビュー』の監督はソーントン・フリーランド。出演者はドロレス・デル・リオ、ジーン・レイモンドと歌手のレウール・ルーリアンまでは決まっていましたが、フレッドの相手役は未だ決まっていませんでした。やがて相手役は、古くからの友人のジンジャー・ロジャースに決まります。その頃彼女は、1年以上ミュージカルではないストレート・プレイの映画に出ていました。フレッドはジンジャーに踊りたいか聞いた処、ストレートを続けたかったけどミュージカルもやると答えます。フレッドのダンス・シーンは、ハーミズ・パンと二人で作りました。ジンジャーとは幾つかのステップを試したり、二人で楽しく踊ってダンス・シーンを作っていきます。本作での二人の重要なシーンは、「カリオカ」の1曲だけですが素晴らしいいダンス・シーンに仕上がっています。この映画は1933年に公開後大ヒットし、フレッドは映画界に自分の居場所を確保したと思ったそうです。撮影終了後、最後の舞台「陽気な離婚」ロンドン公演の為に出発します。この舞台劇で使われた楽曲は同じでも既に内容を改善していたので、姉のアデールとやっていたのとは違うものになっていました。「陽気な離婚」は大成功に終わり、フレッドの舞台劇への出演は終了します。

「カリオカ」を踊るジャンジャーとフレッド

 プロデューサーのパンドロ・バーマンが、次回作は「陽気な離婚」の映画化すると言ってきました。監督はマーク・サンドリッチで、相手役はジンジャー・ロジャースと聞きフレッドは大いに喜びます。映画版の題名は『The Gay Divorcee』で、日本公開時の題名は『コンチネンタル』です。オリジナルの舞台版から大きく変更され、フレッドの役は作家からプロのダンサーに代わります。舞台版のナンバー「ナイト・アンド・デイ」やテーブル・ダンスはそのまま使われました。それにハーブ・マジスンとコン・コンラッドが書き下ろしたナンバー「コンチネンタル」が加わり、その曲を使った大掛かりなダンス・シーンが取り入れられました。脚本の出来も良く、容易く満足しないジンジャーが自分の役を快く引き受けました。1934年の『コンチネンタル』は大ヒットし、フレッドとジンジャーのコンビは国際的な人気を得ます。

「ナイト・アンド・ディ」を踊るフレッドとジンジャー(左)
「コンチネンタル」を踊る二人(右)

 この成功でRKOは、次回作に『ロバータ』を製作する事を決定します。元々舞台劇だった「ロバータ」を大掛かりなミュージカル映画に作り替えられました。監督はウィリアム・A・サイター、出演者はフレッドとジンジャーとアイリーン・ダン、そして西部劇でお馴染みのランドルフ・スコットです。ジェローム・カーン作曲の「煙が目にしみる」をアイリーン・ダンが歌い、ファッション・ショーでこの曲に合わせてフレッドとジンジャーが素晴らしいダンスを披露します。映画は大ヒットし、「煙が目にしみる」は歌い継がれスタンダード・ナンバーとなりました。

「煙が目にしみる」を歌うアイリーン・ダン(左)
「煙が目にしみる」を踊るフレッドとジンジャー(右)

 1935年は監督はマーク・サンドリッチで、オリジナル・ミュージカルの『トップ・ハット』に出演します。アヴィーング・バーリン作曲の「チーク・トゥ・チーク」をフレッドが歌いながらジンジャーと優雅に踊ります。しかし、今回のジンジャーが着たドレスは全身羽根に覆われたもので、踊るたびに羽根が取れてステージ中に飛び回る状態でした。踊り直すたびに床に落ちた羽根を全て拾い集めてからリハーサルは再開されました。落下物が減り始めて落ち着いた時に撮影をして何とか終了しました。この映画もヒットして、次回作は『艦隊を追って』に決まります。この頃フレッドは、ラジオ番組の「ラッキー・ストライク・ヒット・パレード」のMCを6週間ほど担当していました。

羽付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド

 1936年の次回作『艦隊を追って』の監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアヴィーング・バーリンと前作と同じメンバーです。端役ですが、ベティ・グレイブルとルシール・ポールが出演しています。この映画の劇中劇でジンジャーが着たドレスは沢山のビーズ付きでした。ジンジャーがターンすると袖はビーズの塊になって、スカートの裾は如何にも重そうに回っています。撮影中にフレッドはビーズのパンチを顎に受けてしまいます。4分の撮影を終了した時は、眩暈がしたままで自分の踊りの出来は分からない状態でした。その後撮り直しをしますが、納得いくテイクが撮れず諦めます。翌日最初のテイクを試写すると、完璧だったのでこのシーンの撮影は終了します。(個人的な話ですが、このシーンで使われた「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス」は大好きです。)1936年に公開されたこの映画も大ヒットしましたが、この頃フレッドとジンジャーはいつまで続けられるか自分たちの状況を頻繁に話し合っていました。

コンテストに出場して踊るフレッドとジンジャー(左)
ビーズ付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド(右)

 二人の6本目の共演作は『有頂天時代』に決まり、監督はジョージ・スティーブンス、音楽はジェローム・カーンです。フレッドの役はギャンブル好きのダンサーで、ジンジャーはダンス教室の講師です。フレッドは「ボージャングルズ」のナンバーで、スクリーン・プロセスを使った新しい試みをしています。曲名が示すようにビル・ボージャングル・ロビンソンに敬意を表して、顔を黒塗りにしてタップ・ダンスを行います。(ビル・ロビンソンは現在のソロ・タップ・ダンスのスタイル確立した人で、タップ・ダンスの神様と言われています。彼の誕生日の5月25日は、アメリカではタップ・ダンスの日になっています。)

ダンス教室で踊るフレッドとジンジャー(左)
スクリーン・プロセスを使って踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーの次回作は『踊らん哉』で、監督はマーク・サンドリッチ、音楽はジョージとアイラのガーシュイン兄弟が担当しました。フレッドはバレエ・ダンサー役、ジンジャーはジャズ・ダンサーの役をやる事になりました。物語が新聞のフェイク・ニュースによって、二人は窮地に落ちる騒動が起きます。(当時は新聞が最先のメディアです。昔は新聞で、今はインターネットで同様の事が起きていますね。)毎回新しい踊りに挑戦するフレッドは、大型客船の機関室で機械の動きに合わせて踊ったり、ジンジャーとローラースケートを履いて踊ります。劇中ジンジャーの等身大でそっくりな人形が出てきたり、ラストではジンジャーのお面をつけた大勢のダンサーが登場して踊ります。

客船内のオーケストラ付きレストランで踊るフレッドとジンジャー(左)
ローラー・スケートを履いて踊るフレッドとジンジャー(右)

 『有頂天時代』が公開されて大ヒットしましたが、これまでになく早く客の入りが減り始めました。それでジンジャーの了解をとって、別の共演者と映画を1本撮る事にしました。次回作は前から企画してあった『踊る騎士』になり、監督はジョージ・スティーブンズ、音楽はジョージ・ガーシュウィンが担当します。相手役は当時RKOと契約したばかりの若くて可愛いジョーン・フォンテーに決まります。ジョーンはダンサーではないが、多少ダンスを習った事があったので、フレッドは彼女のダンスを心配していませんでした。フレッドがジョーンと踊ったのは1曲だけで、彼女は見事にやり遂げました。頻繁に撮影現場に訪れるジョージ・ガーシュウィンが現れないので、彼に電話をしたら彼が病気だった事が分かります。その電話の数週間後に彼は亡くなりました。『踊る騎士』はやろうとした事が出来たし、悪くない映画になったフレッドは思っていました。公開後、第一週の終わりから全国的に客の入りは減少しました。

左からジョージ・バーズ、グレイシー・アレン、フレッド・アステア(左)ジョーン・フォンテーンと踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーは、あと一作か二作撮る事にします。次回作の『気儘時代』は監督をマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリンが担当する事になりました。この頃、フレッドは出演女優とキスしないのは、妻のフィリスが許さないからだと云う伝説が広まっていました。イチャイチャしたラブ・シーンは止めようと言ったのはフレッドで、べたべたしたシーンが無い方が斬新な映画になると考えたからでした。しかし、今回は夢の中のダンスという設定で、一部分はスロー・モーションでキス・シーンを撮影しました。映画は上々の出来でしたが、興行収入は絶好調の頃には及びませんでした。

夢の中で踊るフレッドとジンジャー(左)
フレッドとジンジャーのキス・シーン(右)

 フレッドとジンジャーの映画は次回作の『カッスル夫妻』で最後になると発表されました。1939年9月頃からリハーサルが始まりましたが、二人とも完全な最後だとは思っていませんでした。存命中のアイリーン・キャッスルの物語を映画化するのは多くの困難がありました。特にアイリーンを演じるジンジャーに大きな負荷が掛かりました。アイリーンとヴァーノンのダンスは一世を風靡し、アイリーンの一挙一動は圧倒的な影響力を持っていました。例えばアイリーンがボブヘアにした時は、それこそ全ての女性が真似をしたがり多くの人たちが実際にボブヘアにしていました。当時は何もかもキャッスルで、キャッスル・ハット、キャッスル・シューズ、キャッスルズ・バイ・ザ・シー(レストラン)と数えきれないくらいのキャッスル何とかがありました。フレッド自身もキャッスル夫妻に大きな影響を受け、ステップやスタイルをアレンジして取り入れていました。以前アイリーンが自分たちの物語が映画化される時は、ヴァーノン役をやって欲しいと言われていました。映画が完成するとアイリーンは、多少の不満はあるが素晴らしい映画になったと書いた手紙が届きました。フレッドとジンジャーのコンビが解消された『カッスル夫妻』に最高の出来だと評価は得られましたが、興行収入はトップ・レベルまではいきませんでした。

カッスル・ウォークで踊るフレッドとジンジャー

 その後、ジンジャーは演技派の俳優としてキャリアを続けて、『恋愛手帳』でアカデミー主演女優賞を受賞します。一方、フレッドは映画界から離れて色々な媒体で踊り続けていました。と書いた処で、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料:青土社発行 「フレッド・アステア自伝」 

Vol.5 『フレッド・アステア』

フレッド・アステア(5歳)

 今回は、ダンスの神様とも云われたフレッド・アステア(1899年5月10日~1987年6月22日)です。トップ・ハット、燕尾服、ホワイト・タイのスタイルでお馴染みだと思います。ダンサー、歌手、俳優として1930年代から長きに渡って活躍しました。特に1930年代から1950年代までは数多くのミュージカル映画で、華麗なダンスと軽快なタップ・ダンスを披露して世界中の人々を魅了しました。しかし、彼のトレード・マークの様に思われているトップ・ハットと燕尾服とホワイト・タイのスタイルは、大嫌いだと告白しています。

アデール・アステア

 フレッド・アステアがショー・ビジネスの世界に足を踏み入れる切掛けは、姉のアデールが、ダンス・スクールに入学した事でした。オマハに父親を残し、母親とアデールと共にニュー・ヨークに移住し、ダンス・スクールに通い始めます。1904年、フレッドが4歳半の時です。1歳年上のアデールは既にダンスが上手い少女で、周りから天才少女と云われていました。その頃のフレッドは大してダンスに興味も無く、アデールが入学するから彼も入学しました。毎日のスケジュール決まっていて、ダンス・スクールが終わると母親の授業を受け、それから劇場通いもしていました。

フレッド(左)とアデール

 その後演劇学校で演劇を学んでいた時に1回だけのリサイタルがあり、アデールと二人で「シラノ・ド・ベルジュラック」をやる事になりました。この頃のフレッドはアデールより背が低かった為に、アデールが男装してシラノをやりフレッドは女装してロクサーヌを演じました。次のリサイタルでは、二個の大きなウェディング・ケーキの小道具を使ったヴォードビル芸をやりました。この芸で1年後にプロ・デビューします。アステア姉弟のダンスと歌と演目のヴォードビルは好評を得て、旅巡業のカンパニーに加わって全米各地を巡業します。巡業が終わる頃には、9歳と7歳のアステア姉弟はヴェテランのヴォードヴィリアンと見なされるようになりました。しかし、アデールの身長が伸び二人で演目をやるのが難しくなり、フレッドは2年程仕事を休んで公立学校通いをします。

フレッド(13歳)とアデール(14歳)

 充電期間を終えてアステア姉弟は、ニュー・ヨークでの大劇場の前座から新しい公演を始めますが、結果は芳しくなく再び地方巡業の旅に出ます。約2年程、アメリカ中西部の多くのおんぼろ小屋に出演していました。この状態から抜け出す為に、父親の知人のオーシリア・コーチャ氏に指導を依頼します。ここでコーチャ氏からアステア姉弟は、ダンスの総てを習いショーマンシップを6か月に渡って学びます。オーシリア・コーチャ氏は今までやっていた演目から会話を削り、歌とダンスだけの演目になるようアドバイスをしてくれて、新しい振り付けや新曲を加えて再構築してくれました。アステア姉弟はこの新しい演目でスタートしますが、最初は思うような結果が出ませんでした。忍耐強く巡業を続けていた時にアイオウア州ノダヴェンポートで、黒人タップ・ダンサーのビル・ロビンソンに出会います。この偉大なビル・ロビンソンがアステア姉弟の踊りを観て、「君は踊れるね」とフレッドに声を掛けてきました。それから二人でダンスについて語り合ったり、お互いのステップを比べたりしました。又、ビル・ロビンソンはビリヤードの名人だったので、フレッドはビリヤードも習いました。ビル・ロビンソンはタップ・ダンスを一新した人で、現在のような軽快で洒落たスタイルを作った方です。階段を使ったダンスが有名で、映画『ザッツ・ダンシング』でシャーリー・テンプルと踊っているシーンを観る事が出来ます。

 その後、アステア姉弟はニューオリンズを皮切りにビッグ・タイムのプログラムで人気を獲得していきます。この頃、アステア姉弟はピアノの実演をしていたジョージ・ガーシュウィンに出会いミュージク・コメディの話で盛り上がります。ジョージ・ガーシュウィンもミュージク・コメディを書きたいと言っていて、「自分が書いて君たちがそれに出演出来たら凄いと思わないか?」と言いましたが数年後に実現します。アステア姉弟は、1915年から1916年にヴォードビル最後のツァーに出掛け大好評の内にヴォードヴィリアンの仕事を終えます。そして、ブロードウェイ・ミュージカル・コメディの舞台に挑みます。

1931年 舞台劇「バンド・ワゴン」

 1917年「オーヴァー・ザ・トップ」を皮切りに、1931年「バンド・ワゴン」までの10作をアステア姉弟は舞台を務め上げます。因みに1924年の「レディ・ビー・グッド」の曲は、ジョージ・ガーシュウィンが書きました。姉のアデールは、1931年の「バンド・ワゴン」を最後に結婚する為引退します。このミュージカル「バンド・ワゴン」は大ヒッとし、今までとは違ったミュージカルになっていて新しいスタイルを作ったと評されました。フレッドはソロとなって1932年「陽気な離婚」に出演しますが、アデール抜きでは良い結果が出ませんでした。この公演中に映画に挑戦する決断をして、友人経由でリーランド・ヘイワードに映画界入りの助力を依頼しました。結果はすぐ出て、RKOでミュージカル大作の『空中レビュー』の出演が決まりました。この公演を終えて、交際中だったフィリス・ポッターと結婚してハリウッドに向かいます。

 ハリウッド入りしたフレッド・アステアを待っていたのは、MGMの役員でした。RKOの契約が開始する前にMGMの映画にゲスト出演する話になっていて、何の準備も無く直ちに仕事に入る事になります。出演する映画は、1933年の 『ダンシング・レディ』で、主演はジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルです。数週間のリハーサルの後、2~3週間撮影して、『ダンシング・レディ』の仕事は終了します。この映画の出演で、フレッドは舞台劇と映画の違いの多くを学び、映画の仕事は面白くて楽しいものだと思います。この映画でフレッドは、劇中クラーク・ゲーブルに名前を呼んで貰い、彼とジョーン・クロフォードと同じシーンに出演出来たのは、観客への最高の紹介だった語っています。

左から:フレッド・アステア、
クラーク・ゲーブル、
ジョーン・クロフォード

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

*参考資料

発行所 青土社
初版 2006年11月10日