Vol.5 『フレッド・アステア』

フレッド・アステア(5歳)

 今回は、ダンスの神様とも云われたフレッド・アステア(1899年5月10日~1987年6月22日)です。トップ・ハット、燕尾服、ホワイト・タイのスタイルでお馴染みだと思います。ダンサー、歌手、俳優として1930年代から長きに渡って活躍しました。特に1930年代から1950年代までは数多くのミュージカル映画で、華麗なダンスと軽快なタップ・ダンスを披露して世界中の人々を魅了しました。しかし、彼のトレード・マークの様に思われているトップ・ハットと燕尾服とホワイト・タイのスタイルは、大嫌いだと告白しています。

アデール・アステア

 フレッド・アステアがショー・ビジネスの世界に足を踏み入れる切掛けは、姉のアデールが、ダンス・スクールに入学した事でした。オマハに父親を残し、母親とアデールと共にニュー・ヨークに移住し、ダンス・スクールに通い始めます。1904年、フレッドが4歳半の時です。1歳年上のアデールは既にダンスが上手い少女で、周りから天才少女と云われていました。その頃のフレッドは大してダンスに興味も無く、アデールが入学するから彼も入学しました。毎日のスケジュール決まっていて、ダンス・スクールが終わると母親の授業を受け、それから劇場通いもしていました。

フレッド(左)とアデール

 その後演劇学校で演劇を学んでいた時に1回だけのリサイタルがあり、アデールと二人で「シラノ・ド・ベルジュラック」をやる事になりました。この頃のフレッドはアデールより背が低かった為に、アデールが男装してシラノをやりフレッドは女装してロクサーヌを演じました。次のリサイタルでは、二個の大きなウェディング・ケーキの小道具を使ったヴォードビル芸をやりました。この芸で1年後にプロ・デビューします。アステア姉弟のダンスと歌と演目のヴォードビルは好評を得て、旅巡業のカンパニーに加わって全米各地を巡業します。巡業が終わる頃には、9歳と7歳のアステア姉弟はヴェテランのヴォードヴィリアンと見なされるようになりました。しかし、アデールの身長が伸び二人で演目をやるのが難しくなり、フレッドは2年程仕事を休んで公立学校通いをします。

フレッド(13歳)とアデール(14歳)

 充電期間を終えてアステア姉弟は、ニュー・ヨークでの大劇場の前座から新しい公演を始めますが、結果は芳しくなく再び地方巡業の旅に出ます。約2年程、アメリカ中西部の多くのおんぼろ小屋に出演していました。この状態から抜け出す為に、父親の知人のオーシリア・コーチャ氏に指導を依頼します。ここでコーチャ氏からアステア姉弟は、ダンスの総てを習いショーマンシップを6か月に渡って学びます。オーシリア・コーチャ氏は今までやっていた演目から会話を削り、歌とダンスだけの演目になるようアドバイスをしてくれて、新しい振り付けや新曲を加えて再構築してくれました。アステア姉弟はこの新しい演目でスタートしますが、最初は思うような結果が出ませんでした。忍耐強く巡業を続けていた時にアイオウア州ノダヴェンポートで、黒人タップ・ダンサーのビル・ロビンソンに出会います。この偉大なビル・ロビンソンがアステア姉弟の踊りを観て、「君は踊れるね」とフレッドに声を掛けてきました。それから二人でダンスについて語り合ったり、お互いのステップを比べたりしました。又、ビル・ロビンソンはビリヤードの名人だったので、フレッドはビリヤードも習いました。ビル・ロビンソンはタップ・ダンスを一新した人で、現在のような軽快で洒落たスタイルを作った方です。階段を使ったダンスが有名で、映画『ザッツ・ダンシング』でシャーリー・テンプルと踊っているシーンを観る事が出来ます。

 その後、アステア姉弟はニューオリンズを皮切りにビッグ・タイムのプログラムで人気を獲得していきます。この頃、アステア姉弟はピアノの実演をしていたジョージ・ガーシュウィンに出会いミュージク・コメディの話で盛り上がります。ジョージ・ガーシュウィンもミュージク・コメディを書きたいと言っていて、「自分が書いて君たちがそれに出演出来たら凄いと思わないか?」と言いましたが数年後に実現します。アステア姉弟は、1915年から1916年にヴォードビル最後のツァーに出掛け大好評の内にヴォードヴィリアンの仕事を終えます。そして、ブロードウェイ・ミュージカル・コメディの舞台に挑みます。

1931年 舞台劇「バンド・ワゴン」

 1917年「オーヴァー・ザ・トップ」を皮切りに、1931年「バンド・ワゴン」までの10作をアステア姉弟は舞台を務め上げます。因みに1924年の「レディ・ビー・グッド」の曲は、ジョージ・ガーシュウィンが書きました。姉のアデールは、1931年の「バンド・ワゴン」を最後に結婚する為引退します。このミュージカル「バンド・ワゴン」は大ヒッとし、今までとは違ったミュージカルになっていて新しいスタイルを作ったと評されました。フレッドはソロとなって1932年「陽気な離婚」に出演しますが、アデール抜きでは良い結果が出ませんでした。この公演中に映画に挑戦する決断をして、友人経由でリーランド・ヘイワードに映画界入りの助力を依頼しました。結果はすぐ出て、RKOでミュージカル大作の『空中レビュー』の出演が決まりました。この公演を終えて、交際中だったフィリス・ポッターと結婚してハリウッドに向かいます。

 ハリウッド入りしたフレッド・アステアを待っていたのは、MGMの役員でした。RKOの契約が開始する前にMGMの映画にゲスト出演する話になっていて、何の準備も無く直ちに仕事に入る事になります。出演する映画は、1933年の 『ダンシング・レディ』で、主演はジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルです。数週間のリハーサルの後、2~3週間撮影して、『ダンシング・レディ』の仕事は終了します。この映画の出演で、フレッドは舞台劇と映画の違いの多くを学び、映画の仕事は面白くて楽しいものだと思います。この映画でフレッドは、劇中クラーク・ゲーブルに名前を呼んで貰い、彼とジョーン・クロフォードと同じシーンに出演出来たのは、観客への最高の紹介だった語っています。

左から:フレッド・アステア、
クラーク・ゲーブル、
ジョーン・クロフォード

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

*参考資料

発行所 青土社
初版 2006年11月10日