Vol.6 『フレッド・アステア』の続き

 『空中レビュー』の撮影の為、フレッドはRKOのスタジオに行くとプロデューサーのルー・ブロックが出迎えてくれました。彼とスタジオ・ヘッドのメリアン・クーパーと様々な部門のヘッドに挨拶回りをします。RKOの作業過程とMGMの作業過程が違い、各スタジオには夫々独自のやり方がある事を知ります。『空中レビュー』の監督はソーントン・フリーランド。出演者はドロレス・デル・リオ、ジーン・レイモンドと歌手のレウール・ルーリアンまでは決まっていましたが、フレッドの相手役は未だ決まっていませんでした。やがて相手役は、古くからの友人のジンジャー・ロジャースに決まります。その頃彼女は、1年以上ミュージカルではないストレート・プレイの映画に出ていました。フレッドはジンジャーに踊りたいか聞いた処、ストレートを続けたかったけどミュージカルもやると答えます。フレッドのダンス・シーンは、ハーミズ・パンと二人で作りました。ジンジャーとは幾つかのステップを試したり、二人で楽しく踊ってダンス・シーンを作っていきます。本作での二人の重要なシーンは、「カリオカ」の1曲だけですが素晴らしいいダンス・シーンに仕上がっています。この映画は1933年に公開後大ヒットし、フレッドは映画界に自分の居場所を確保したと思ったそうです。撮影終了後、最後の舞台「陽気な離婚」ロンドン公演の為に出発します。この舞台劇で使われた楽曲は同じでも既に内容を改善していたので、姉のアデールとやっていたのとは違うものになっていました。「陽気な離婚」は大成功に終わり、フレッドの舞台劇への出演は終了します。

「カリオカ」を踊るジャンジャーとフレッド

 プロデューサーのパンドロ・バーマンが、次回作は「陽気な離婚」の映画化すると言ってきました。監督はマーク・サンドリッチで、相手役はジンジャー・ロジャースと聞きフレッドは大いに喜びます。映画版の題名は『The Gay Divorcee』で、日本公開時の題名は『コンチネンタル』です。オリジナルの舞台版から大きく変更され、フレッドの役は作家からプロのダンサーに代わります。舞台版のナンバー「ナイト・アンド・デイ」やテーブル・ダンスはそのまま使われました。それにハーブ・マジスンとコン・コンラッドが書き下ろしたナンバー「コンチネンタル」が加わり、その曲を使った大掛かりなダンス・シーンが取り入れられました。脚本の出来も良く、容易く満足しないジンジャーが自分の役を快く引き受けました。1934年の『コンチネンタル』は大ヒットし、フレッドとジンジャーのコンビは国際的な人気を得ます。

「ナイト・アンド・ディ」を踊るフレッドとジンジャー(左)
「コンチネンタル」を踊る二人(右)

 この成功でRKOは、次回作に『ロバータ』を製作する事を決定します。元々舞台劇だった「ロバータ」を大掛かりなミュージカル映画に作り替えられました。監督はウィリアム・A・サイター、出演者はフレッドとジンジャーとアイリーン・ダン、そして西部劇でお馴染みのランドルフ・スコットです。ジェローム・カーン作曲の「煙が目にしみる」をアイリーン・ダンが歌い、ファッション・ショーでこの曲に合わせてフレッドとジンジャーが素晴らしいダンスを披露します。映画は大ヒットし、「煙が目にしみる」は歌い継がれスタンダード・ナンバーとなりました。

「煙が目にしみる」を歌うアイリーン・ダン(左)
「煙が目にしみる」を踊るフレッドとジンジャー(右)

 1935年は監督はマーク・サンドリッチで、オリジナル・ミュージカルの『トップ・ハット』に出演します。アヴィーング・バーリン作曲の「チーク・トゥ・チーク」をフレッドが歌いながらジンジャーと優雅に踊ります。しかし、今回のジンジャーが着たドレスは全身羽根に覆われたもので、踊るたびに羽根が取れてステージ中に飛び回る状態でした。踊り直すたびに床に落ちた羽根を全て拾い集めてからリハーサルは再開されました。落下物が減り始めて落ち着いた時に撮影をして何とか終了しました。この映画もヒットして、次回作は『艦隊を追って』に決まります。この頃フレッドは、ラジオ番組の「ラッキー・ストライク・ヒット・パレード」のMCを6週間ほど担当していました。

羽付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド

 1936年の次回作『艦隊を追って』の監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアヴィーング・バーリンと前作と同じメンバーです。端役ですが、ベティ・グレイブルとルシール・ポールが出演しています。この映画の劇中劇でジンジャーが着たドレスは沢山のビーズ付きでした。ジンジャーがターンすると袖はビーズの塊になって、スカートの裾は如何にも重そうに回っています。撮影中にフレッドはビーズのパンチを顎に受けてしまいます。4分の撮影を終了した時は、眩暈がしたままで自分の踊りの出来は分からない状態でした。その後撮り直しをしますが、納得いくテイクが撮れず諦めます。翌日最初のテイクを試写すると、完璧だったのでこのシーンの撮影は終了します。(個人的な話ですが、このシーンで使われた「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス」は大好きです。)1936年に公開されたこの映画も大ヒットしましたが、この頃フレッドとジンジャーはいつまで続けられるか自分たちの状況を頻繁に話し合っていました。

コンテストに出場して踊るフレッドとジンジャー(左)
ビーズ付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド(右)

 二人の6本目の共演作は『有頂天時代』に決まり、監督はジョージ・スティーブンス、音楽はジェローム・カーンです。フレッドの役はギャンブル好きのダンサーで、ジンジャーはダンス教室の講師です。フレッドは「ボージャングルズ」のナンバーで、スクリーン・プロセスを使った新しい試みをしています。曲名が示すようにビル・ボージャングル・ロビンソンに敬意を表して、顔を黒塗りにしてタップ・ダンスを行います。(ビル・ロビンソンは現在のソロ・タップ・ダンスのスタイル確立した人で、タップ・ダンスの神様と言われています。彼の誕生日の5月25日は、アメリカではタップ・ダンスの日になっています。)

ダンス教室で踊るフレッドとジンジャー(左)
スクリーン・プロセスを使って踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーの次回作は『踊らん哉』で、監督はマーク・サンドリッチ、音楽はジョージとアイラのガーシュイン兄弟が担当しました。フレッドはバレエ・ダンサー役、ジンジャーはジャズ・ダンサーの役をやる事になりました。物語が新聞のフェイク・ニュースによって、二人は窮地に落ちる騒動が起きます。(当時は新聞が最先のメディアです。昔は新聞で、今はインターネットで同様の事が起きていますね。)毎回新しい踊りに挑戦するフレッドは、大型客船の機関室で機械の動きに合わせて踊ったり、ジンジャーとローラースケートを履いて踊ります。劇中ジンジャーの等身大でそっくりな人形が出てきたり、ラストではジンジャーのお面をつけた大勢のダンサーが登場して踊ります。

客船内のオーケストラ付きレストランで踊るフレッドとジンジャー(左)
ローラー・スケートを履いて踊るフレッドとジンジャー(右)

 『有頂天時代』が公開されて大ヒットしましたが、これまでになく早く客の入りが減り始めました。それでジンジャーの了解をとって、別の共演者と映画を1本撮る事にしました。次回作は前から企画してあった『踊る騎士』になり、監督はジョージ・スティーブンズ、音楽はジョージ・ガーシュウィンが担当します。相手役は当時RKOと契約したばかりの若くて可愛いジョーン・フォンテーに決まります。ジョーンはダンサーではないが、多少ダンスを習った事があったので、フレッドは彼女のダンスを心配していませんでした。フレッドがジョーンと踊ったのは1曲だけで、彼女は見事にやり遂げました。頻繁に撮影現場に訪れるジョージ・ガーシュウィンが現れないので、彼に電話をしたら彼が病気だった事が分かります。その電話の数週間後に彼は亡くなりました。『踊る騎士』はやろうとした事が出来たし、悪くない映画になったフレッドは思っていました。公開後、第一週の終わりから全国的に客の入りは減少しました。

左からジョージ・バーズ、グレイシー・アレン、フレッド・アステア(左)ジョーン・フォンテーンと踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーは、あと一作か二作撮る事にします。次回作の『気儘時代』は監督をマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリンが担当する事になりました。この頃、フレッドは出演女優とキスしないのは、妻のフィリスが許さないからだと云う伝説が広まっていました。イチャイチャしたラブ・シーンは止めようと言ったのはフレッドで、べたべたしたシーンが無い方が斬新な映画になると考えたからでした。しかし、今回は夢の中のダンスという設定で、一部分はスロー・モーションでキス・シーンを撮影しました。映画は上々の出来でしたが、興行収入は絶好調の頃には及びませんでした。

夢の中で踊るフレッドとジンジャー(左)
フレッドとジンジャーのキス・シーン(右)

 フレッドとジンジャーの映画は次回作の『カッスル夫妻』で最後になると発表されました。1939年9月頃からリハーサルが始まりましたが、二人とも完全な最後だとは思っていませんでした。存命中のアイリーン・キャッスルの物語を映画化するのは多くの困難がありました。特にアイリーンを演じるジンジャーに大きな負荷が掛かりました。アイリーンとヴァーノンのダンスは一世を風靡し、アイリーンの一挙一動は圧倒的な影響力を持っていました。例えばアイリーンがボブヘアにした時は、それこそ全ての女性が真似をしたがり多くの人たちが実際にボブヘアにしていました。当時は何もかもキャッスルで、キャッスル・ハット、キャッスル・シューズ、キャッスルズ・バイ・ザ・シー(レストラン)と数えきれないくらいのキャッスル何とかがありました。フレッド自身もキャッスル夫妻に大きな影響を受け、ステップやスタイルをアレンジして取り入れていました。以前アイリーンが自分たちの物語が映画化される時は、ヴァーノン役をやって欲しいと言われていました。映画が完成するとアイリーンは、多少の不満はあるが素晴らしい映画になったと書いた手紙が届きました。フレッドとジンジャーのコンビが解消された『カッスル夫妻』に最高の出来だと評価は得られましたが、興行収入はトップ・レベルまではいきませんでした。

カッスル・ウォークで踊るフレッドとジンジャー

 その後、ジンジャーは演技派の俳優としてキャリアを続けて、『恋愛手帳』でアカデミー主演女優賞を受賞します。一方、フレッドは映画界から離れて色々な媒体で踊り続けていました。と書いた処で、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料:青土社発行 「フレッド・アステア自伝」