Vol.8 『フレッド・アステア』 最終章

 1951年、MGMが準備を進めていた『恋愛準決勝』に取り掛かる事になります。相手役のジューン・アリスンと振付師のニック・キャッスルと共にリハーサルを始めます。しかし、ジューン・アリスン(当時、ディック・パウエル夫人)の妊娠が分かり、役を降りる事になります。ジュディ・ガーランドに出演依頼をした処、快諾してくれたのでリハーサルを再開しましたが、ジュディが病気になり役を降ります。チャック・ウォルターズが監督する事になっていましたが、別の仕事の為に降りてしまいます。開始後5週間経っても主演女優も監督も決まっていない状態です。1週間後、ジューン・パウエルが出演する事になり、やっとリハーサルが再開されました。ジェーン・パウエルは本来ダンサーではありませんが、芸達者な女優なので素晴らしいダンスを披露してくれます。『略鬱された七人の花嫁』で主演しています。フレッドはスタンリー・ドーネンを監督に指名します。スタンリー・ドーネンは最初振付師でしたが、最近監督になったばかりでした。共演はピ-ター・ローフォードとウィンストン・チャーチルの娘のサラ・チャーチルです。この映画は原題”Royal Wedding”が示すように、フィリップ王子とエリザベス王女のロイヤル・ウエディングの模様も後半に登場します。小柄なジューンは、パワフルなダンスでフレッドの相手をします。彼女は映画の出演本数は少ないですが存在感のある女優で、ジャズ・シンガーとしても有名な方です。フレッドはこの映画で、以前から構想していた壁や天井で踊ります。大掛かりな舞台とそれを動かす装置作りは大変だったと思いますが、このシーンは有名ですね。

客船のホールで踊るフレッドとジューン(左)
オーデションでサラと踊るフレッド(右
天井や陰で踊るフレッド(左)
左からピータ、ジューン、フレッド、そしてサラ(右)

 1952年、ヴェラ・エレンと『ベル・オブ・ニューヨーク』の撮影に入りますが、1946年に企画を中止した映画です。1910年の時代設定が退屈だったのとファンタジーが嚙み合っていない映画に思われます。フレッドが空中に浮かび上がって踊るシーンがありますが、批評家にも観客にも受け入れられなかったようです。八か月取り組んだが、失敗作だったとフレッドが語っています。1953年、MGMは『バンド・ワゴン』を企画します。姉のアデールと出演した舞台劇の「バンド・ワゴン」の楽曲を使いますが、新しくシナリオは書き下ろされました。監督はヴィンセント・ミネリ、フレッドの相手役はシド・チャリシーです。この映画はバック・ステージ物ながらかなりの大作で、ジャック・ブキャナン、オスカー・レヴァント、ナネット・ファプレイが出演しました。フレッドはシド・チャリシーの事を卓越したダンサーで、素晴らしいパートナーだ。彼女には正確さに加えて美しいダイナマイトだと評していました。ニューヨークの批評家は大絶賛しましたが、ハリウッドの方は酷評でした。

公園でシドと踊るフレッド(左)
劇中でのシドとフレッドのダンス(右)

1953年『バンド・ワゴン』

 1954年20世紀フォックスから『足ながおじさん』の現代版ミュージカルの出演依頼があり、フレッドは即決で契約しました。監督はジーン・ネグレスコ、作詞作曲はジョニー・マーサー、振付はローラン・プチです。フレッドの相手役は、フランス出身のバレエ・ダンサーレスリー・キャロンです。彼女は誠実で真面目で優れたアーティストで、自分が完璧に自信を持てるまでダンスも演技しませんでした。彼女の為に撮影は何分でも何時間でも止まる事がありましたが、フレッドはそんな彼女を称賛していました。リハーサルを始めていた7月に奥さんのフィリスの病状が悪化して二度目の手術をする事になり、フレッドは一時撮影現場から離れます。回復するかに見えたフィリスは、1954年9月13日に亡くなりました。フレッドはこの仕事を辞めようとしましたが、フォックス社から映画を続けるように説得されます。気持ちの準備が整った10月から仕事を再開しました。映画が完成するとフレッドは初めて宣伝の為にテレビに出る事になります。ダンスも台本も無しで、全てアドリブだったのは楽しかったと語っていました。「エド・サリバン・ショー」では、エドに呼ばれて客席から登場してカメラ前に出ていました。

バレエ・ダンスのレスリーと踊るフレッド(左)
レスリーとフレッドのダンス(右)

 あるカクテル・パーティーでMGMのロジャー・イーデンズに偶然会った時、パラマウント社の『パリの恋人』(原題:ファニー・フェイス)の出演依頼がありました。オードリー・ヘップバーンが脚本を気に入って、フレッド・アステアが出演するなら出ると言っている。フレッドは即答で快諾しました。偉大なる美しきオードリー・ヘップバーンと共演出来るのは、唯一最後のチャンスだと思ったそうです。オードリーはフレッドと踊れる日を20年待って実現する事になりました。監督はスタンリー・ドーネン、振付はユージン・ローリングとフレッド・アステアです。音楽はジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンの過去の楽曲が使われました。パリでの撮影は雨が続き、チュイルリー公園でのファッション写真撮影シーンは、雨の中で行われました。シャンティイーのラ・レーヌ・ブランシュ教会で、二人はロマンティックなダンス・シーンを撮る事になっていました。雨が執拗に降り続け、最後の最後にギリギリ撮影可能になりました。雨は上がっても地面は乾いていない状態です。二か月以上踊っていないダンス・ナンバーを、非常に広いエリアを踊りました。帰国後、フレッドはニューヨークに行って、テレビや新聞雑誌で宣伝活動しました。今回もエド・サリバンの番組にも出演しています。映画はロードショウ公開で、大成功を収めました。

古本屋でのフレッドとオードリー(左)
教会の敷地で踊るフレッドとオードリー(右)

 MGMの『絹の靴下』の準備が整い、1956年9月からリハーサルが始まりました。『絹の靴下』はブローウェイのミュージカル・コメディを映画化したもので、映画の『ニノチカ』を懸案したものでした。監督はルーベン・マヌーリアン、音楽はコール・ポーター、フレッドの相手役はシド・チャリシー、共演者はジャニス・ペイジ、ピーター・ローレです。シドとのダンスを楽しみにしていたフレッドは、彼女と沢山のダンスを踊り、どれも出来が良かったと語っていました。ミュージカルが下火になっていたにも関わらず、1957年に公開されたこの映画はヒットしました。『絹の靴下』撮影終了後、様々なスタジオから脚本が送られてきましたが、本当にやりたいものはありませんでした。もうミュージカル映画は充分やりつくしたと思ったそうです。

フレッド、シド・チャリシー、ジャニス・ペイジ(左)
シド・チャリシーと踊るフレッド(右)

 フレッドは1957年にテレビで、歌わないし踊らない番組を企画します。毎週日曜日夜の「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の中で放送された、「インプ・オン・コブウェブ・リーシュ」という題名の30分のコメディです。歌わない踊らないコディアンとしてのフレッドは視聴者に受け入れられました。これに気をよくしたフレッドは、生放送のダンス特番を作ろうと思い企画してクライスラー社と契約します。クライスラー社から番組の内容はフレッドに一任され、一時間の特別番組をカラーで生放送する事になりました。フレッドは明確なコンセプトを持ち、ダンスのアイディアを練り上げました。そしてバリー・チェイスに共演を依頼しました。バリーは『足ながおじさん』と『絹の靴下』に無名のダンサー役で出演していて、彼女の仕事にフレッドは感銘を受けていました。また、練り上げたダンスは部分的に彼女の独特のスタイルからインスピレーションを得ています。振り付けはハーミズ・パンとフレッドが担当しました。20人ほどのメンバーは7週間のリハーサルを行い、フレッドはその前に5週間のリハーサルをしていました。クライスラー社提供の「アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア」は、1958年10月17日に放送されました。放送終了後、視聴者とマスコミの両方から、批判の声なしに称賛されました。この特番は1968年までの10年間に合計4回放送され、9個のエミー賞を受けています。(このテレビ番組の邦題は、「今宵アステアとともに」です。)

1858年の生放送で踊るバリーとフレッド
1968年の最後の生放送で踊るバリーとフレッド

 1958年にスタンリー・クレイマー監督から、『渚にて』で科学者のオズボーン役を演じてほしいと出演依頼がありました。主演はグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、共演はアンソニー・パーキンス、ドナ・アンダソンです。この映画は特撮を一切使わないSF映画として有名な映画です。核戦争が起こり、北半球に住んでいた人たちは死亡し、南半球のオーストラリアだけが辛うじて生きて居られる状態です。しかし、核の汚染は南半球にも広がってきて、人類の全滅が間近に迫っているという内容です。フレッドはストレートの俳優として出演しています。

フレッドとエヴァ・ガードナー(左)
自分のレース・カーを運転するフレッド(右)

 その後1968年に『フェニアンの虹』でフレッド最後のミュージカル映画に出演し、1974年に『タワーリング・インフェルノ』にストレ-トの俳優として出演してアカデミー助演男優賞にノミネートされています。1974年に『ザッツ・エンターテインメント』、1976年に『ザッツ・エンターテインメント パート2』と出演しています。1985年の『ザッツ・ダンシング』ではフレッド本人は出ていませんが、過去の映画での出演をしています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝