Vol.22 『ビッグ・トレイル』の続き

 タイトルの『ビッグ・トレイル』は大規模な幌馬車隊の意味で、50台位の幌馬車隊がミシシッピーからオレゴンまでの4023キロを進む話です。幌馬車隊はコールマンに道先案内人の依頼をしますが、友人トムを殺害して毛皮を盗んだ犯人捜しの為断ります。コールマンは知り合いのリディの家で、西部に向かうルースに人違いをしてキスしてしまいます。ルースは怒ってここから彼への反目が始まります。コールマンは毛皮商人から得た情報から友人殺しの犯人が幌馬車隊にいると思い、道先案内人を引き受けます。既にフラックが案内人になっていましたが、先住民と友好関係にあるコールマンにも幌馬車隊は案内人を依頼します。船上で賭博をしていた賭博師のソープは、船長から下船と町に残る事を禁止されます。ソープは旧知のフラックに会い、幌馬車隊に同行する事にします。

出発準備中の幌馬車隊(左)  出発した幌馬車隊(右)

 この映画の見せ場は、やはり幌馬車隊の道中の出来事を克明に描いている処です。冒頭の幌馬車と群衆の映像は圧巻で、出発準備の状況も分かり易く描かれています。移動を始めた幌馬車隊を画面一杯に捉え、幌馬車と共に移動する牛の群れも映し出しています。その後、川を横切り場面では流れに負けて倒れる幌馬車があったり、牛を向う岸に移動させるさまが分かります。

川を渡る幌馬車隊(左)  沈みながら流される幌馬車(右)

 コールマンは先住民二人を連れ立って、食料調達の為にバッファロー(正しくはアメリカン・バイソン)を狩りに行きます。それを聞いたフラックは、ピートとロペスにコールマンを殺すように指示します。狩りをしているコールマンは、銃で撃たれて倒れます。ピートとロペスは、コールマンを仕留めたとフラックに伝えます。幌馬車隊が川を渡っている時に、コールマンが馬無しで現れてルースの幌馬車で川を渡ります。ルースに声を掛けたフレックたちは、幌馬車から降りて来たコールマンを見て驚きます。コールマンは“どうした。幽霊でも出たか”とフレックに言います。ジークの所に行き、隊を離れたのはピートとロペスだと知ります。その時、突然先住民が丘の上に表れます。コールマンとは旧知の先住民ブラック・エリクたちで、幌馬車隊と友好関係を結びます。

ブラック・エリクと
友好関係を結ぶコールマン

 森を通る時は木を伐採して道を作ったり、崖から幌馬車や牛を下に下す場面があり、下ろし損ねて破壊する幌馬車も描かれています。凄い場面が映し出されていますが、淡々と描かれていて私は少々物足りない感じがしました。この道中の間、コールマンはルースを色々と手助けをした事により、彼女は徐々にコールマンを理解するようになります。一方、邪魔なフラックはコールマンを殺害する為に、ソープの弱みに付け込み殺害させるように仕向けますが、コールマンの相棒のジークに返り討ちに合いソープは射殺されます。

木を伐採して道を作る(左)  崖下に幌馬車や家畜を降ろす(右)

 友好関係にない先住民の襲撃があり、50台位の幌馬車で円陣を組み中に馬や牛を入れ、男達は銃を構え女性は銃の弾込めをして待ち構えます。画面に円陣を組んだ幌馬車隊に向かって先住民が襲撃を始め、銃撃戦が開始されてからの場面は迫力がある場面になっています。先住民の三度の襲撃に耐え、犠牲者を出しながらも何んとか撃退します。コールマンは手伝ってくれた先住民を彼らの村まで送って行きます。幌馬車隊は雨が降る中、沼地を乗り越えて平坦な道に出た時コールマンが帰って来ます。ルースに挨拶に行こうとしますが、5日前に馬車が動かなくなりその場に残った事を知ります。コールマンは直ちにルースたちを助けに行きます。

円陣を組む幌馬車隊(左)  先住民との銃撃戦(右)

 やがて雪が降り吹雪になります。フラックは先に進めないから引き返そうと言いますが、コールマンが皆を説得して先に進みます。フラックは今度ロペスにトムのナイフで、コールマン殺害を命令します。ロペスは殺害に失敗してナイフを置き去りにして逃げ出します。このナイフを見たコールマンは、トム殺害の犯人はフラックとロペスであると確信します。逃げ帰ったロペスは殺害失敗をフラックに告げると、フラックはロペスと共に逃げ出します。

 幌馬車隊は目的地の渓谷を見下ろす山の上に着き、コールマンは皆と別れてフラックとロペスを探しに行こうとします。ルースは必至に制止しようとしますが、コールマンは出て行きます。雪が降る中、ロペスは力尽きたのか倒れています。フラックはロペスを置き去りにして一人で逃げます。雪に埋もれて死んだロペスをコールマンは見つけ、フラックを追跡します。フラックを見つけたコールマンは声を掛け、ナイフを投げてフラックを倒します。

渓谷を見下ろす幌馬車の人たち(左)
コールマンを阻止しようとするルース(右)

 渓谷に着いた幌馬車隊の人たちは、夫々協力し合って家を建てています。ジークはルースにここから出て行くと云う話をしている時、コールマンが向かってきていると気が付きます。ジークはルースにコールマンからの贈り物があるから巨木の辺りに行って見つけるように言います。喜んでルースが巨木の所に行って贈り物を探していると、コールマンが現れるという粋なラスト・シーンで終わります。それにしてもこの巨大の林は圧巻です。

コールマンの話をするッジーク(左)
コールマンを出迎えるルース(右)

 素晴らしい脚本で巨費を掛けてワイド・スクリーンで撮影されたにも関わらす、残念ながらこの映画は興行的に失敗しました。キャリアが浅い無名の新人ジョン・ウェインは、背一杯の演技をしていたと思いますが、やはり観客はスター俳優が出ない映画を観ないのかとも思いました。レンタル店にもあると思いますので、西部劇ファンの方には是非観て頂きたい映画です。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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発行:コスミック出版

『ビッグ・トレイル』 作品データ

アメリカ 1930年製作 モノクロ 121分
原題:The Big Trail

監督:ラォール・ウォルッシュ

原作:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

脚本:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

撮影:ルシエン・アンドリオ

助監督:アーチボールド・ブカナン

出演:ジョン・ウェイン、マルゲリーテ・チャーチル

   エル・ブレンデル、タリー・マーシャル

   タイロン・パワー・シニア、チャールズ・スティヴンス

   イアン・キース、フレデリック・バートン

   デイヴィッド・ローリンスラス・パウエル

   ウィリアム・V・モング、マーシャ・ハリス

   ヘレン・パリッシュ

Vol.21 『ビッグ・トレイル』

『ビッグ・トレイル』
発売元:20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント

 『ビッグ・トレイル』の主役は当初パラマウントのゲイリー・クーパーを予定していましたが、貸し出して貰えず無名の新人マリオン・ロバート・モリソンを主役に抜擢しました。ラオール・ウォルシュ監督は、この新人にジョン・ウェインと名付けました。ジョン・ウェインが演じているのは、山や森で動物や原住民と共に暮らすナイフの名人ブレック・コールマン。サイレント映画時代から数多くの映画に出演している名脇役タリー・マーシャルが彼の相棒のジークを演じていて、ヒロインのルース・キャメロン役はマルゲリーテ・チャーチルです。そして、強欲で狡賢い悪役レッド・フラックをタイロン・パワー・シニアが演じています。フラックの相棒ロペスをチャールズ・スティヴンス、もう一人の悪役の賭博師ソープをイアン・キースが演じています。

【スタッフとキャストの紹介】

ラオール・ウォルシュ監督

 ラオール・ウォルシュ(1887年3月11日~1980年12月31日)は、ニューヨーク生まれのアメリカ合州国の映画監督・俳優・映画芸術アカデミー(AMPAS)の創設メンバーです。ウォルシュは高校時代“オメガ・デルタ・クラブ”のメンバーでした。その後シートン・ホール大学に進学しています。1909年に演技を始め、ニューヨーク市で初舞台を踏んでいます。その後ウォルシュは1912年に映画界入りし、ディヴィット・W・グリフィスの手伝いをしながら映画作りを学びました。1913年に本名からラォール・ウォルシュに改名し、短編映画を撮り監督としてもデビューしました。1915年の『国民の創生』ではグリフィス監督のアシスタントを務め、俳優としてリンカーン大統領を暗殺する役を演じています。1915年最も初期の長編ギャング映画『再生』を、マンハッタンのバワリー地区でロケ撮影して監督しました。この映画は公開当時絶賛され、2000年に米国議会図書館によって米国国立フィルム登録簿に保存されました。

 第一次世界大戦中、ウォルシュはアメリカ陸軍の将校として勤務していました。1924年にはダグラス・フェアバンクスが製作・主演した『バグダットの盗賊』の監督に抜擢されます。1926年にはヴィクター・マクラグレンとドロレス・デル・リオ主演の『栄光』を監督しました。1928年グロリア・スワンソン主演の『港の女』では、ウォルシュは13年振りに俳優として出演して監督もしました。1928年の『懐かしのアリゾナ』撮影中に事故の為、右目を失明してアイ・パッチを付けています。1930年に『ビッグ・トレイル』『彼奴(きやつ)は顔役だ!』、1941年『壮烈第七騎兵隊』『いちごブロンド』、1949年『白熱』、1952年『海賊黒ひげ』等を監督しています。1920年代から1960年代までに西部劇からギャング映画やら海洋冒険映画やらコメディと様々のジャンルの映画の監督をしています。ウォルシュは1964年に引退し、1980年12月31日に93歳で心臓発作の為亡くなりました。彼の映画は主人公の人間性を掘り下げ、メリハリのある演出とテンポの良い展開で大好きな監督です。

ブレック・コールマン役
ジョン・ウェイン(23歳)

 ジョン・ウェイン(1907年5月26日~1979年6月11日)は、アイオワ州ウィンターセット生まれの映画俳優、プロデューサー、監督です。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居しました。ウェインは何処に行く時にもエアデール・テリアの愛犬“リトル・デューク”を連れていました。隣人がウェインを“ビッグ・デューク”と呼び始め、以後愛称が“デューク”となりました。高校卒業後に海軍兵学校へ出願しますが入学出来ず、南カリフォルニア大学に入学しました。在学中フットボールをやりましたが、水泳中に怪我をして協議生命を絶たれました。大学時代に田舎の映画スタジオで働き始め、トム・ミックスの紹介で大道具係をするようになり、1928年には端役で映画出演するようになります。1930年にジョン・フォード監督の紹介で、『ビッグ・トレイル』の主役になりました。『ビッグ・トレイル』は、撮影に特殊な70㎜フィルムを使い200万ドルの巨費で製作されましたが、興行的には失敗しジョン・ウェインはその後B級専門俳優として、1939年の『駅馬車』に出演するまで鳴かず飛ばずの状態が続きます。しかしその不遇期間に射撃、乗馬、格闘技を習得したり、歌うカウボーイとして馬に乗りながら歌を歌う映画にも出演しています。1933年の『伝説のガンマン』では白馬に乗ってギターを弾きながら歌っています。

 1939年に出演した『駅馬車』が大ヒットして、主役を演じてたウェインはジョン・フォード作品の看板役者になります。その後『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』『静かなる男』『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを撃った男』等、35年間にフォード作品には20作以上に出演しました。ウェインは西部劇や戦争映画で強くて逞しいヒーローを演じ続けていましたので、“アメリカの英雄”と称賛されていました。しかし、ウェインは兵役についていません。1940年に徴兵が復活し、1941年徴兵該当年齢の34歳でしたが、徴兵猶予を申請して受理されました。第二次世界大戦が終了する1945年までハリウッドに残って21本の映画に出演しました。

 1948年の『赤い河』の大ヒットでウェインは、名実共にスターの座を獲得しました。愛国主義者のウェインはタカ派俳優として非難されていましたが、ベトナム戦争時には1968年『グリー・ベレー』で製作・監督・主演して、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描きました。1964年に肺癌を宣告され片肺を失いますが、闘病を宣言して俳優活動を続けました。ウェインは1949年の『硫黄島の砂』と1960年の『アラモ』で、アカデミー賞にノミネートされましたが受賞出来ませんでした。1969年の『勇気ある追跡』で念願のアカデミー主演男優賞を受賞しました。種がい出演した映画は154本で、西部劇は79本でした。遺作になった1979年の『ラスト・シューティスト』では、過去に出演したヒーロー像と自身の現実を織り交ぜたJ・B・ブックスを演じました。ラストではロン・ハワードに止めの一発を撃たせ、恰もロン・ハワードに未来の映画界を託したような暗示を感じさせます。胃癌の悪化で1979年5月1日からカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院して治療していましたが、1979年6月11日に死亡しました。

ジーク役のリー・マーシャル(66歳)

 タリー・マーシャル(1864年4月10日~1943年3月10日)は、カリフォルニア州ネバダシティ生まれの性格俳優です。マーシャルは私立学校とサンタクララ・カレッジに通い、工学の学位を取得して卒業しました。18歳で舞台に出演し、1883年3月にはサンフランシスコのウインターガーデンの舞台に出演しています。1887年からは、ブロードウェイで様々な舞台に出演しています。マーシャルはエドワード・ヒュー・サザンの元で演技と舞台演出を学び、様々なレパートリー劇場の舞台に出演しました。1914年ハリウッドに移り、『全額支払われた』でスクリーン・デビューしました。その後、膨大な数の作品で様々な役を演じました。1916年『イントレラス』、1918年『スコーマン』、1921年『蓮の花』、1923年『ノートルダムのせむし男』、1929年『フーマンチュー博士の秘密』1930年『ビッグ・トレイル』・『トム・ソーヤの冒険』、1932年『グランド・ホテル』、1935年『二都物語』、1941年『ヨーク軍曹』、1942年『拳銃貸します』等です。マーシャルは1943年3月10日、カリフォルニア州エンシノの自宅で、心臓発作を起こして78歳で亡くなりました。

ルース・キャメロン役
マルゲリーテ・チャーチル(20歳)

 マルゲリーテ・チャーチル(1910年12月26 ~2000年1月9日)は、アメリカの舞台俳優で映画俳優です。子役だったチャーチルは、1922年12月25日にブロードウェイの舞台に初登場します。その後、16歳でブロードウェイの主役女性俳優として称賛されました。彼女の演技を観たフォックス・フィルムの関係者が契約結び、1929年『The  Diolomats』でスリーン・デビューしました。同年ポール・ムニの映画デビュー作『ヴァリアント』に出演し、1930年『ビッグ・トレイル』に主役女優として出演しました。1931ン年『速成成金』・『怪探偵張氏』、1933年『女難アパート』、1936年『歩く死骸』『女ドラキュラ』等に出演し、ブロードウェイの舞台に出演していました。

レッド・フラック役
タイロン・パワー・シニア(61歳)

 タイロン・パワー・シニア(1869年5月2日 ~1931年12月23日)は、イギリス・ロンドン生まれのアメリカの舞台俳優で映画俳優です。パワー家は4代続いた芸能一家で、アイルランドの人気コメディアンのウィリアム・グラートン・・タイロン・パワーから始まり、フレデリック・タイロン・エドモンド・パワー(タイロン・パワー・シニア)、タイロン・エドワード・パワー3世(タイロン・パワー・ジュニア)、タイロン・ウィリアム、パワー4世と4代続いています。

 タイロン・パワー・シニアは、ロンドンのハンプトンにある私立全寮制男子校のハンプトン・スクールに通い、その後イングランド南東部のドーバーにある全寮制のドーバ-・ケレッジに通いました。1883年、14歳の時両親の意向でイギリスからフロリダに行き、柑橘類の栽培を学びました。数年後、パワーは農作業から逃げ出してフロリダ州セントオーガスティンの劇場会社に入社します。1889年11月29日に「私設秘書」で舞台デビューし、1889「ベッキー・シャープ」、1903年「ユリシーズ」に出演しました。1908年の「家の召使」は124回上演され、その他多くのシェイクスピア劇で様々な役を演じ、世界中をツァーで回りました。1914年にはサイレント映画『貴族政治』、1918年『私の子供はどこにいますか?』等で主役を演じていましたが、悪役に転向して大成功を収めます。パワーは1930年の『ビッグ・トレイル』で悪役のレッド・フラックを演じましたが、唯一のトーキー映画でした。その後、1919年の『奇跡の男』のサウンド・リメイク版の『ミラクルマン』の撮影に入りますが、1931年12月23日にハリウッド・アスレチック・クラブのアパートで、心臓発作で亡くなりました。62歳でした。

フラックの相棒ロペス役
チャールズ・スティヴァンス(37歳)

 チャールズ・スティヴァンス(1893年5月26日~1964年8月22日)は、アリゾナ州ソロモンビル生まれのアメリカ合州国の俳優です。彼は1915年から1961年の間に約200本の映画に殆どノン・クレジットで出演しました。親友のダグラス・フェアバンクス・シニアの映画には、ほぼ全てに出演しています。スティヴンスは1916年『国民の創生』で映画デビューし、西部劇では主にネティブ・アメリカンやメキシコ人を演じています。1921年『三銃士』、1922年『ロビン・フット』、1926年『海賊』、1929年『鉄仮面』、1930年『ビッグ・トレイル』、1939年『フロンティア・マーシャル』、1940年『荒野の勇者 キット・カーソン』、1941年『血と砂』等に出演しました。又、1937年からの『ワイルド・ウエスト・デイズ』は13本の連続映画に出演し、1942年からの『オーバーランド・メール』も15本の連続映画に出演しています。1950年代には多くのテレビ番組に出演しています。「名犬リンチンチン」、「怪傑ゾロ」、「ローン・レンジャー」や日本未放映の「ワイルド・ウエストの冒険」、「キット・カーソンの冒険」、「スカイ・キング」にレギュラー出演しています。1961年のトニー・カーティス主演の『硫黄島の英雄』が遺作になりました。

賭博師ソープ役
イアン・キース(31歳

 イアン・キース或いはアイアン・キース(1899年2月27日~ 1960年3月26日)は、アメリカの俳優です。彼はマサチューセッツ州ボストンで生まれ、シカゴで育ちました。シカゴのフランシス・パーカー・スクールで教育を受け、16歳の時に学校の舞台壁でハムレットを演じました。キースは1919年に本名のキース・ロスの名で、ボストンのコンプリー・レパートリー・シアターで舞台に出演し、ブロードウェイではイアン・キースとして出演していました。1924年『嬲られ者』で映画デビューし、1925年『我が子』、1927年『美人国二人行脚』、1930『ビッグ・トレイル』、1932年『暴君ネロ』、1933年『クリスチナ女王』、1934年『クレオパトラ』、1935年『十字軍』・『三銃士』、1940年『シーホーク』、1947年『悪魔の往く町』、1948年『三銃士』、1955年『凶弾の舞台』・『水爆と深海の怪物』、1956年『十戒』等に出演しました。『三銃士』の1935年度版と1948年のリメイク版ではド・ロシュフォール伯爵を演じていました。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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Vol.20 『フロンテア・マーシャル』おまけ

『フロンテア・マーシャル』のトップはこちら

 西部劇の定番として、悪人との対決や復讐劇の中にヒロインとのロマンスを絡める話が多いです。しかし、『フロンテア・マーシャル』では、アラン・ドワン監督はワイアット・アープを沈着冷静で凄腕のガン・マンとして描き、彼のロマンスを排除しています。その代わり架空の女性二人を登場させて、ドク・ホリディとサラとジェニーの三角関係を導入しています。この映画はワイアット・アープの実名を使用した最初の映画で、アープの妻のジョセフィーン・アープに版権料を払って製作された為、ワイアット・アープのロマンスに触れていないようにしています。ジョセフィーン・アープは、作家のスチュアート・N・レイクにワイアットが口述したトゥームストーンでの話から、大部分を削除したり言い換えをしています。彼女が話す経歴は虚偽が多く実像を把握するのは難しいですが、現在分かっている情報で確実な事は、元舞台俳優で娼婦だった事です。

コルト・バントライン・スペシャル 1956年(上)
コルト・シングル・アクション・アーミー1874年(下)

 ドク・ホリディことジョン・ヘンリー・ホリデイは、歯科医師の免許を持っていた為“ドク”とか“ドク・ホリディ”と呼ばれていました。歯科医師ながら劇中では難しい外科手術をしていて素晴らしいシーンになっていますが、勿論映画の創作です。ワイアットとドクの出会い後、酒場のカウンターで拳銃談義の時に“コルト・バントライン・スペシャル”の話が出て、ドクの愛用銃となっていましたが、ワイアットの銃が定説になっています。作家のネッド・バントライン(本名:エドワード・ゼイン・キャロル・ジャドソン・シニア)が、コルト社に銃身12インチの“コルト・バントライン・スペシャル”を発注した事になっています。しかし、調査の結果ではコルト社へ発注した記録はありませんでした。これは実在した証拠が無い為、「ワイアット・アープ:フロンティア・マーシャル」を書いた作家のスチュアート・N・レイクの創作だと云われています。

バント・ライン・スペシャルとストック

 コルト社の銃は全てシリアル・ナンバーが打たれていますので、調べた処“コルト・バントライン・スペシャル”は1956年から製作していました。この映画の時代設定の1881年には存在していません。劇中ドクは手術後カーリーに射殺され、彼の墓に1880年没した事になっていましたが、実際には1887年11月8日にコロラド州グレンウッド・スプリングスで、肺結核の為35歳で亡くなっています。

 本作の最後にジェニーに射殺されたカーリイ・ビルは、“ザ・カウボーイズ”のメンバーで彼らの邪魔をするワイアットと対立する悪党です。“ザ・カウボーイズ”は牛泥棒もする悪党集団で、アイク・クラントン一家もメンバーですが本作には登場しません。カーリイ・ビルは、OKコラールの銃撃戦の後に郊外の材木作業所に隠れていた時にワイアットに射殺されています。

 本作では物語を簡潔にしてすっきり纏める為か、アープ兄弟は登場していません。実際は兄のヴァージル・アープが警察署長代理で、ワイアットは兄の任命で保安官代理となり、弟のモーガンとウォーレンも同様に保安官代理になっています。銃撃戦があったコラール(CORRAL)は、一時的に牛や馬等の家畜を置く場所で街のすぐ近くにあります。このコラールは日本には無いものなので、『OK牧場の決斗』の公開時に日本のユナイト社はコラールを牧場にしました。映画が大ヒットした為、日本ではコラールが牧場になってしまいました。映画ではこの銃撃戦を決闘として作り上げていますが、実際は“ザ・カウボーイズ”のメンバーが銃器を所持してOKコラールに集合していた為、武装解除を伝えに行ったヴァージルを銃で撃って来たので始まったものです。偶発的に起こった銃撃戦で、決闘ではありません。その時ヴァージルは肩を撃たれて負傷しています。アイク・クラントン一家のその場にいましたが、アイク・クラントンは逃げ出し息子のビリー・クラントンは射殺されています。実際の処、どの映画にも出てこない群保安官のジョニイ・ビーハンの事は、今回は書きませんが機会があれば書きたいと思っています。

『荒野の決闘』、『OK牧場の決斗』、『トゥームストーン』

 映画は史実通りに作る必要も無く、監督の思うテーマに沿うように脚色されて面白くなれば良いと思っています。ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』(1946年)は、『フロンテア・マーシャル』の基本的なプロットを引き継でいます。ワイアットとクレメンタインのロマンスを中心に、クラントン一家との対立によるアープ兄弟との決闘にしています。一方、ジョン・スタージェス監督は『OK牧場の決斗』(1957年)では史実と別にワイアットとドクの男の友情を軸に、クラントン一家との決闘での銃撃戦をメインに活劇映画として仕上げています。史実に近い映画としては、ジョージ・P・コスマスト監督の『トゥームストーン』(1993年)です。この映画のドク・ホリディは、ほぼ史実に沿った状態で描かれています。ドク・ホリディ役のバル・キルマーが良いですね。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

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Vol.19 『フロンテア・マーシャル』の続き

金鉱脈を探すエド・シーフェリン(左)  銀鉱石を発見したエド(右)

 オープニング・タイトルで1887年南アリゾナの岩山の頂が映り、一人の男がアパッチ族の調査をしながら金鉱脈を探しています。男の名前はエド・シーフェリン、彼は広大な銀鉱脈を発見しました。カリフォルニアのゴールド・ラッシュに続き、シルバー・ラッシュが始まりトゥームストーンが大都市になるまでを3分弱でドワン監督は演出しています。銀鉱脈を発見したエド・シーフェリンは、トゥームソーンの設立者です。

左からカーター、チャーリー、カーリー

 “歓楽の宮殿”を経営しているベン・カーターの元に、カーリー・ビルと三人組が金を運んできます。通りの向かいに新規開店した“ベラ・ユニオン”を眺めながら、インディアン・チャーリーにウィスキーを好きなだけ飲ませます。チャーリーは泥酔した状態で“ベラ・ユニオン”に入り、客の一人を撃ち殺して立て籠ります。周辺は騒然となり、市長は保安官に逮捕するように命令しますが、ワード・ボンド演じる保安官は拒否します。煩くて眠れないと、2階からワイアット・アープが声を掛けて降りてきます。その場で保安官代理になり、一人酒場に乗り込み銃で1発撃ち込んで倒し、気絶した酔っぱらいの片足を掴んで引き吊りながら出来ます。(このシーンのランドルフ・スコットは、とてもカッコいいです。)市長から保安官になって欲しい依頼されますが、断ります。その直後、ワイアットはカーリーを始めとする3人組に連れ出されてリンチにあいます。ワイアットは先程断った市長の申し入れを受けて保安官になり、3人組を同じ場所に連れ出に仕返しをし警告して帰ります。

チャーリーを引き摺り出すワイアット

 “ベラ・ユニオン”で歌うジェリーがステージを終えて、ポーカーをしているテーブルに来ます。一人の手札を見て、向かいに座るダンにサインを送ります。それを見ていたワイアットは、ジェリーを表に連れ出して注意をします。ジェリーはワイアットに平手打ちをしたので、ワイアットはジェリーを水桶に放り込みます。ポーカーを続けていると、ドク・ホリディが現れます。ドクはジェリーの件で文句を言ってきますが、急に咳き込んでしまいます。過去にドクとイザコザガあったダンは、ドクを射殺しようとしますがワイアットが阻止します、ワイアットに命を救われた事により、二人は友人となります。カウンターでワイアットはウィスキーを飲み、禁酒中のドクはミルクを飲んで拳銃談義で盛り上がります。

左からドク、ピート、ワイアット

 そんな時、ドクの婚約者のサラが現れます。ドクとサラは奥の部屋で話始めて、ドクが肺病の自分の事を構わないで帰るように話し、ジェリーを呼んで彼女を愛しているとサラに伝えます。サラは諦めて明日の駅馬車で帰る決心をします。後ほどワイアットはサラの部屋を訪れて、ドクを救えるのは貴女しかいないし、ドクが愛しているのは貴女だと伝えて説き伏せます。ワイアットの説得でサラは町に残る事にします。

サラの出現で困窮するドク

 市長は銀塊の輸送をいつもと違う方法で輸送するので、ワイアットに警護を依頼します。ドアの外でそれを聞いていたジェリーは、ワイアットに復讐する為にベン・カーターに駅馬車を襲うように言います。翌朝ワイアットが馬車に乗車しようとすると、既にドクが乗車していてワイアットと同行する事になります。ドクはワイアットがサラを説得したので、自分が町を出る事にしたとワイアットに云い、余計な事をするなと怒ります、ワイアットはドクをトゥームソーンに連れ帰すと言い合いになりますが、カーターやカーリーたちが駅馬車を襲ってきます。

馬車の中で言い合いになる
ワイアットとドク

 銃撃戦で銃撃戦でカーターを射殺し、撃ち合いながらトゥームストーンに引き返します。途中ドクは銃で撃たれて怪我をします。ドクの治療は始まりますが、ここからサラとジェリーの女の闘いが始まります。看護師のサラには流石のジェニーも部屋から追い出されてしまします。

ドクの治療をするサラ

 そんな時にワイアットとカーリーの仲間との撃ち合いがあり、酒場のピートの子供のパブロが流れ弾に当たって負傷します。町の医者が不在の為、急遽ドクが手術を行う事になります。ここではジェニーはサラと協力して、子供の命を救おうと奔走します。無事手術が終わりサラと通りに出た時、ドクはカーリーに射殺されます。

手術中のドクとサラを見つめるジェニー

 カーリーの呼び出しに応じてワイアットは、OK・コラール(牧場ではありません)に一人で向かい逃げたカーリー以外の全員を射殺します。カーリーは馬のいる所まで逃げて、ライフルでワイアットを撃ちますが、ジェニーがカーリーを射殺します。翌朝、サラは町に残りジェニーは町を出ます。

カーリーを射殺するジェニー(左)ドクの墓に別れを告げるジェニー(右)

 ランドルフ・スコットは、沈着冷静なワイアット・アープ像を見事に演じています。銃で撃つ時も基本的には殺さず負傷させる心情が現れています。彼は保安官役がピッタリあっていますね。ドク役のシーザー・ロメロは死に急ぎ死に場所を探している男から、サラに再会して負傷してからは穏やかさを表すようになり、手術のシーンでは昔のドクに変わってゆく様をキッチリ演じています。一方、サラ役のナンシー・ケリーはとても18歳とは思えない堂々とした演技で、ドクに語りかけるシーンは素晴らしいです。そして、ジェリー役のビニー・バーンズの演技は最高です。パブロの命を救おうとする時の表情や動き、ドクとサラのやり取りを見ている時の表情や、、最後に駅馬車で街を出る時にドクの墓を見る時の表情。どれもジェリーの心情が上手く表れています。本当に素晴らしい女優さんです。

 この映画は、勿論史実と違う点が多々あります。架空の女性二人を登場させて、ドクとの三角関係を軸に物語は展開されています。同じ題材を扱った作品も多いので、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

「西部劇パ-フェクト・コレクション 復讐の荒野
『復讐の荒野』,『砂漠の精霊』,『掠奪の町』,『フロンティア・マーシャル』等が収録されている、大変お得な10枚セットです。
発行:コスミック出版

フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニーズ・バンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チェイニー・Jr

Vol.18 『フロンテア・マーシャル』

【スタッフとキャストの紹介】

 西部劇と云ったらジョン・ウェインと云う方が多いと思います。1946年に公開された『スポイラース』(1942年製作)のラストの格闘シーンは、4分間の大立ち回りで壮絶な殴り合いでした。あのジョン・ウェイン(35歳)と対等に格闘をしたのが、ランドルフ・スコット(44歳)でした。B級映画の大スターと云われたランドルフ・スコットは、西部劇への出演本数が一番多い俳優です。やはりB級西部劇映画ファンとしては、ランドルフ・スコットから始めます。 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

ワイアット・アープ
ランドルフ・スコット(41歳)

 ランドルフ・スコット(1898年1月23日~1987年3月2日)はヴァージニア州で生まれ、ノースカロライナ州のシャーロットで育ちました。ハイ・スクール卒業後、19歳で陸軍に入隊して第一次世界大戦中のフランスで従軍します。除隊して帰国後、ジョージア工科大学に入学してアメリカン・フットボールの選手として活躍しますが、背中の怪我のため選手活動を諦めてノースカロライナ大学に転校しますが中退します。その後父親が働く会社で働きますが、演劇に興味を持ち父親の知人のハワード・ヒューズに出会い、彼の紹介で1928年に映画界に足を踏み入れます。演技を学んだ事も無いズブの素人ですから、当然エキストラや端役からスタートです。彼の南部訛りは終生西部劇で活かされますが、その最初の切っ掛けは1929年の『ヴァージニアン』です。初主演のゲイリー・クーパーにヴァージニア訛りや馬術を指導し、エキストラとしても出演しています。その後、セシル・B・デビルの勧めで舞台劇に出演して演技の勉強をしました。パサデナ・プレイハウスの舞台やヴァイン・ストリート・シアターでの公演の合間に、1931年『Women Men Marry』に初出演します。スコットはパラマウントと契約し、1932年のコメディ『空の花嫁』に脇役で出演しました。同年パラマウントの『砂漠の遺産』で主役を演じる様になります。ヘンリー・ハサウェイは、この映画で監督デビューしました。当時パラマウントはサイレント映画のストック映像を使って、リメイクしていました。1933年の『雷鳴の群れ』と『森の男』では、サイレント映画スターのジャック・ホルトの映像と合わせる為に、スコットは黒髪にして口髭を生やして出演しました。西部劇の撮影の合間に他社への貸し出しもあり、ラブ・コメディやホラーなど数本の映画に出演しています。1934年には『戦ふ幌馬車』やRKOへの貸し出しで1935年『ロバータ』に出演しています。1936年パラマウントで『艦隊を追って』で再度ミュージカル映画に出演し、『モヒカン族の最後』、1938年『農園の寵児』に出演しました。この後、20世紀フォックスと契約して『地獄への道』、1939年『フロンティア・マーシャル』・『ヴァージニアの血闘』に出演しました。1941年『西部魂』では改心した無法者という今まで演じた事のない役を演じ、1942年にユニバーサルの『スポイラース』では最初で最後の悪役を演じています。

 第二次世界大戦にアメリカ合州国が参戦した時、スコットは海兵隊の士官に志願しましたが、数年前の背中を負傷していた為に拒否されます。参戦出来ないスコットは、ジョー・エリタとコンビをコメディのツアーを行ったり、自分の牧場で政府の為に食料の調達を行ったり、勿論戦争映画にも出演していました。1942年の『リポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』は、アメリカ海兵隊魂を称える映画で戦意高揚映画です。撮影は日米開戦前に撮影が始まり、公開後は海兵隊への入隊者が一気に増加しました。

 1942年西部劇『スポイラース』に出演し、1943年戦争映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン』・『駆潜艇K-225』『ガンホー』に出演しています。1946年『静かなる対決』に出演以降は、1962年の『昼下がりの決斗』まで凡そ40本位の西部劇に出演しました。スコットは『昼下がりの決斗』に出演後、64歳で映画界を引退しました。裕福な家庭で育ったスコットは投資をしていて、一億ドル相当の財をなしたと言われています。1987年にビバリーヒルズの自宅で89歳で心臓と肺の病気で亡くなりました。

 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

 アラン・ドワン(1885年4月3日~1981年12月28日)は、カナダのオンタリオ州トロント生まれのアメリカの映画監督、プロデューサー、脚本家です。1892年12月4日に、ドワン一家はウィンザーからデトロイトまでフェリーで渡米しました。アラン・ドワンはノートルダム大学で工学を学んだ後、シカゴの照明会社に勤務しましたが、映画業界に関心を持っていました。エッサネイ・スタジオの脚本家になる機会があり、脚本家になります。1911年経営者から消滅寸前の映画会社の調査を依頼され、カリフォリニア向かいます。調査した会社の状況は最悪だったので、シカゴの依頼人に会社を解散するように伝えます。依頼人はアラン・ドワンに会社の運営を一任します。アラン・ワンは1911年8月から1912年7月までカリフォリニア州ラ・メサで、カリフォルニアで最初のスタジオのフライング・A・スタジオを運営しました。その後、アラン・ドワンは西部劇やコメディを数多くの映画を監督しました。1922年にはダグラス・フェアバンクスの『ロビン・フット』やグロリア・スワンソンの8本の長編映画を監督しました。

 トーキー映画時代になり、ドワンはシャーリー・テンプルの1937年『ハイディ』、1938年『農園の寵児』を監督しました。約50年の長いキャリアの中で、あああ125本の映画を監督しました。1949年『硫黄島の砂』、1923年『私刑される女』、1954年『バファロウ平原』、1956年『敵中突破せよ!』等です。

ドク・ホリディ
シーザー・ロメロ(32歳)

 シーザー・ロメロ(1907年2月15日~1994年1月1日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの俳優、活動家です。ロメロはニュージャージー州ブラッドビーチで育ち、ブラッドビーチ小学校、アズベリーパーク高校、カレッジエイト・スクール、リバーデル・カントリーデイ・スクールに通いました。銀行の仕事をしながら、ダンスのトレーニングを受けます。1927年ブロードウェイの「Lady Do!」でダンサーとして開花し、1933年から映画に出演するようになります。ロメロは、1930年代から1950年代にかけて、映画で「ラテンの恋人」を演じ、通常は脇役を演じていました。1934年『影なき男』で悪役を演じ、1935年の『スペイン狂想曲』ではマレーネ・ディートリッヒの相手役で主役を演じました。1935年『メトロポリタン』、1938年『マイ・ラッキー・スター』、1939年からは『シスコ・キッド』シリーズの6本に出演しました。1942年の『オーケストラの妻たち』ではグレンミラー楽団のピアノ・プレイヤー役を演じています。

 1942年10月12日にロメロはアメリカ沿岸警備隊に入隊し、太平洋戦域に従軍しました。1943年11月には沿岸警備隊の乗組員を乗せた攻撃輸送艦キャバリエ (USS Cavalier, APA-37) に乗船し、テニアン島とサイパン島で上陸作戦に従事しました。ロメロは最終的には艦長になりました。その後、1948年『奥様武勇伝』、1954年『ヴェラクレス』、1955年『スピードに命を賭ける男』、1956年『八十日間世界一周』、1960年『オーシャンと十一人の仲間』、1962年『電話にご用心』等に出演しました。1950年代半ばからは多くのテレビ映画に出演し、1965年「0011ナポレオン・ソロ」ではスラッシュのフランス支部のボスを演じ、1966年から1968年までは、「バットマン」でジョーカーを演じていました。1985年から1987年までは、「ファルコン・クエスト」でピーター・スタヴロス役を演じました。

 共和党員のロメロは、1964年のカリフォルニア州の上院選で親友のジョージ・マーフィの選挙応援を積極的に行います。マーフィは民主党のピエール・サリジャーを破って当選し、マーフィは1965年1月1日から1971年1月1日までの1期6年間上院議員を務めました。その後、1966年と1970年の知事選でロナルド・レーガンの為に選挙応援をし、1968年、1976年、1980年、1984年の4回の大統領選挙でも全て選挙応援をしました。ロメロは1994年1月1日、カリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ・ヘルス・センターで、気管支炎と肺炎の治療中に血栓の合併症により86歳で亡くなりました。

サラ・アレン
ナンシー・ケリー(18歳)

 ナンシー・ケリー(1921年3月25日 – 1995年1月2日)は、マサチューセッツ州ローウェル生まれのアメリカ合州国の俳優です。ケリー家は演劇一家で、母親のナン・ケリーはサイレント映画の女優です。母親は一歳のナンシーをモデルとしてキャリアをスタートさせ、子役として1926年の『女王蜂』で映画デビューさせます。ナンシーは、ベントレー・スクール・フォー・ガールズ、イマキュレート・コンセプション・アカデミー、セント・ローレン・アカデミーで学びました。ナンシーは9歳まで子役モデルとして、様々な広告に登場しました。その頃のナンシーは、“アメリカで最も写真に撮られた子供”と言われていました。1929年にはシェイクスピア劇「マクベス」でブロードウェイ・デビューし、1954年にブロードウェイ舞台劇「悪い種子」して1955年トニー賞を受賞しました。1933年から1934年にかけてNBCラジオで放送された、ラジオ・ドラマ「オズの魔法使い」でドロシー・ゲイルを演じました。CBSラジオで1931年から1945年まで放送されていた「マイチ・オブ・タイム」にも出演していました。この番組はタイム社提供のラジオ・ドキュメントとドラマで、ナンシーはドラマに出演していました。このラジオ・ドラマにはラジオ俳優や司会者の他に映画俳優も出演しています。オーソン・ウェルズは11人の人物を演じています。アート・カーニー、ジョン・マッキンタイア、アグネス・ムーアヘッドも出演していました。

 ナンシーは1938年から1956年までに、27本の映画に出演して主役の女性を演じました。1938年『サブマリン爆撃隊』、1939年『地獄への道』『紅の翼』『スタンレー探検記』、1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1943年『ターザン砂漠へ行く』、、1956年『悪い種子』等です。その後、1963年まではテレビにコンスタントに出演し、ブロードウェイでは「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」でマーサ役を数か月演じました。1970年代半ばにテレビにも復帰しています。ナンシーは1995年1月2日、糖尿病の合併症でカリフォルニア州ベルエアの自宅で亡くなりました

ジェニー役のビニー・バーンズ(36歳)
1945年『海賊バラクーダ』アン役のバーンズ(右)

 ビニー・バーンズ(1903年3月25日 – 1998年7月27日)は、ロンドンのイズリントン生まれのイギリスの女優です。バーンズは、コーラス・ガール、看護師、ダンス・ホステスをし、1923年に短編映画で映画デビューしました。イギリスで1933年『ヘンリー八世の私生活』、1934年『ドン・ファン』に出演し、その後ハリウッドに渡ります。1935年『米国の機密室』、1936年『モヒカン族の最後』、1938年『素晴らしき休日』、1942年『西部の顔役』、1966年『青春がいっぱい』等に出演しました。特に.1945年『海賊バラクーダ』では女海賊役で、剣を振り回してアクション・シーンも演じています。1973年『エーゲ海の旅情』の出演を最後に引退しました。バーンズは1998年7月27日、ビバリーヒルズで95歳で老衰で亡くなりました。

ベン・カーター
ジョン・キャラダイン(30歳)

 ジョン・キャラダイン(1906年2月5日~1988年11月27日)はニューヨーキ出身のアメリカ合州国の俳優です。彼が二歳の時父親が亡くなり、母親は再婚しました。ジョンはフィラデルフィアの学校で彫刻を学び、ニューヨークの叔父ピーター・リッチモンドの元で暮らしたり、肖像画を描きながら各地を旅していました。シェイクスピア劇を観てから俳優の道に進みます。1925年に初めて舞台に立ち、1930年から“ピーター・リッチモンド”と名乗りますが、1933年に“ジョン・キャラダイン”と改名して多くの映画に出演しました。1930年代はノン・クレジットで、1933年『透明人間』、1934年『クレオパトラ』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』等に出演しています。1936年『虎鮫島脱出』『テンプルのえくぼ』『砂漠の花園』、1937年『我は海の子』『ハリケーン』、1938年『サブマリン爆撃隊』等に出演しました。ジョン・フォード作品の1939年『駅馬車』、1940年『怒りの葡萄』の出演で脚光を浴びるようになります。1940年代には自身のシェイクスピア劇団でツアーを行うなど、舞台でも活躍しました。1941年には『西部魂』『血と砂』『マンハント』に出演し、1944年ユニバーサルの『フランケンシュタインの館』でベラ・ルゴシ、ロン・チャイニー・ジュニアに次いで三代目のドラキュラ伯爵を演じました。その後も数本ドラキュラ伯爵を演じ、1983年『魔人館』では、ヴィンセント・プライス、クリストファー・リー、ピーター・カンシングの父親役を演じています。1945年『落ちた天使』・『大砂塵』、1956年『十戒』『八十日間世界一周』、1958年『誇り高き反逆者』、1962年『リバティ・バランスを射った男』、1954年『シャイアン』、1976年『ラスト・シューテスト』等に出演し、1986年まで映画に出演していました。彼の息子の四人、ブルース・キャラダイン、デヴィッド・キャラダイン、キース・キャラダイン、ロバート・キャラダインは俳優になりました。1988年11月27日にイタリアのミラノで、82に歳で亡くなりました。と書いた処で本編は次回に続きます。 最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

発売元:株式会社ジュネス企画

フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニー・バーンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チャイニー・Jr

Vol.17 『コンチネンタル』の続き

 オープニングはパリの夜、数々のネオンサインが映し出されます。「Revue Intime」のネオンサインが表示され、店内に画面が変わります。そこで行われているショーは、大勢の女性が円形の回るステージで音楽に合わせて指人形のダンスをしています。(この指人形ダンスのフイルムは、1942年の『パリのジャンヌ・ダーク』で一部使われています。)ガイが素晴らしい指人形ダンスを披露します。この後、会計をしようとしますが、エグパートが財布を忘れたと支配人に言い、支払う代わりにガイがダンスをします。それで支払いをしないで済みますが、財布はエグパートの胸ポケットに入っていたというオチがつきます。

指人形ダンスをするダンサーたち

 アメリカで有名なダンサーのガイが友人のエグバートと税関に来ていて一人になった時に、スカートがトランクに挟まって困っている女性に出会います。トランクからスカートを引っ張って外そうとして失敗します。ガイは彼女にコートを貸して別れます。ガイは。その娘に一目ぼれして彼のアタックがここから始まりますが、彼女は全然相手にしてくれません。彼女を探して回っている時に、よそ見運転をして前に車に軽く接触します。前の車を運転しているのは、探している女性でした。彼女に声を掛けますが無視されて、彼女の車は全速力で走り出しました。そこからガイと彼女のカーチェイスが始まり、何とか彼女の車を停めて名前だけは聞き出します。彼女の名前は“ミミ”。

税関で出会ったガイとミミ(左)  耳に言い寄るガイ(右)

 ミミは夫からDVを受けていて離婚するために、叔母さんの知り合いである弁護士のエクバートに離婚手続きの依頼に行きます。エクバートの提案で偽の恋人を雇ってミミの浮気を偽装し、その現場を探偵に目撃させて夫から離婚させようと云う作戦で動き出します。ガイが普段から口癖にしている台詞を、エクバーが偽の恋人との合言葉にした為に物語は複雑な展開になります。

“Night and Day”を踊るガイとミミ

 リゾート地に向かうエクバートに同行したガイは、そこでミミを見付けて追いかけて行って話しかけます。ガイを拒否するミミに“Night and Day”を歌いながら自分の思いを伝え、二人のダンスが始まります。このダンスはミミの心情が変っていく様を見事に表しています。踊り終わった時のミミの顔が恋する乙女になっています。二人のダンスは華麗で、ジンジャーはとてもセクシーです。うっとりした表情のジャンジャーが素敵です。

踊り終わってガイに恋したミミ

 しかし、踊り終わった時にガイが口癖の台詞を言った為に、ミミは彼が雇われの恋人だと思い態度が一変します。ガイは夜中にホテルのミミの部屋に誘われ、不審に思いながら彼女の部屋に行きます。チグハグなやり取りの後、部屋のバルコニーで話しているうちにミミは勘違いだった事に気づきます。

”コンチネンタル”を歌うミミ

 仲直りした時に雇われ恋人のトネッティが現れ、二人は部屋に監禁状態になります。バルコニーの下のフロアーでは多くの人が踊っていて、ガイが流れている音楽の意味をミミに聞くとミミは曲に合わせて“コンチネンタル”を歌います。ガイは部屋から抜け出す為にトリックを仕掛けて部屋から抜け出し、フロアーで二人は踊ります。二人が部屋から抜け出した事に気付いていないトネッティは、バルコニーでアコーコデオンを弾きながら“コンチネンタル”を高らかに歌います。二人のダンスの後、大勢のダンサーによる様々なダンスが披露されます。(このダンス・シーンは約12分続きます。)

”コンチネンタル”の曲で踊るガイとミミ(左)
大勢のダンサーによるダンス・シーン(右)

 翌朝、ガイ、ミミ、トネッティの三人で朝食を取りますが、ミミの夫が地質学者だと云う話になります。その時、ウェイターが以前宿泊したブラウン教授から聞いた話をします。そこにエグバートが入って来て、探偵の代わりにシリル(ミミの夫)を連れて来たと云います。ガイは隣の部屋に隠れて、ミミとトネッティが恋人同士のようにしてシリルを待ちます。シリルが部屋に入ってきたので、ミミとトネッティは恋人同士のふりをします。シリルにトネッティが偽の恋人と見抜かれましたので、ミミはガイを呼びます。ミミは離婚したらガイと結婚すると言いますが、シリルは無視してミミを連れ帰ろうとします。そこにウェイターが現れて、シリルの顔を見てブラウン教授だと言います。その時フランス人の奥さんと一緒だったと話すと、シリルは自分の浮気がばれたので逃げ帰ります。

左からシリル、ミミ、ガイ、トネッティ(左)
シリルにブラウン教授の話をするウェイター(右)

“コンチネンタル”の曲で部屋の家具を使いながら踊るガイとミミ

 ラスト・シーンは、ガイとミミが再び“コンチネンタル”を、部屋にあるソファーや食卓や椅子を利用しながら踊ります。この映画の二人のダンスは本当に素晴らしく、とても共演2作目とは思えない息のピッタリ合ったダンスです。このような素晴らしい二人のダンス・シーンを見る為に、観客は次回作からも劇場に通い続ける事になる訳です。1934年の『コンチネンタル』は、フレッドとジンジャーのダンスが完成された作品です。未見の方は、是非ご覧頂きたいと思います。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

『コンチネンタル』 作品データ

アメリカ 1934年 モノクロ 107分

原題:The Gay Divoicee

監督:マーク・サンドリッチ

製作:パンドロ・S・バーマン

脚本:ジョージ・メリオン・ジュニア、ドロシー・ヨースト

撮影:デイヴィッド・エーベル

音楽監督:マックス・スタイナー

音楽:コール・ポーター

   マック・ゴードン、ハリー・レヴェル

   コン・コンラッド、ハーブ・マジッドン

※主題歌の“コンチネンタル”は、この年創設されたアカデミー主題歌賞を受賞しています。

出演:フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース

   アリス・ブラディ、

   エドワード・エヴェレット・ホートン

   エリック・ローズ、エリック・ブロウ

   ウィリアム・オースティンリリアン・マイル

   アート・ジャレット、ベティ・グレイブル

「ミュージカル・パーフェクト・コレクションフレッド・アステア サード・ステージ
『コンチネンタル』,『艦隊を追って』,『カッスル夫妻』,『フレッド・アステアのすべて』等が
入っているお碌な9面セットです。
発行:コスミック出版 価格1,800円+税
非常にお得な9枚セットですので、お勧めです。

Vol.16 『コンチネンタル』

 RKOは『空中レビュー』で脇役だったフレッドとジンジャーのダンスが大好評だったので、直ちに二人を主役にした映画の準備を始めました。製作主任のパンドロ・S・パーマンは、フレッドが主演していた舞台劇「陽気な離婚(原題:ザ・ガイ・デイヴォース)」の権利を買い取りました。舞台劇では主役のガイは作家でしたが、映画版ではプロのダンサーに代わり、ジンジャーが演じるミミの役も膨らませて改善されました。

『コンチネンタル』
発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー

【スタッフトとキャストの紹介】

 ガイ役のフレッド・アステアの情報は、名前をクリックして下さい。同様にミミ役のジンジャー・ロジャースの情報も、名前をクリックして下さい

フレッド・アステア(35歳)  ジンジャー・ロジャース(23歳)

 パンドロ・S・パーマン(1905年3月28日~1996年7月13日)は、アメリカ合州国ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれの映画プロデューサーです。パーマンは1920年代に助監督になり、1930年にRKOの映画編集者を経てアシスタント・プロデューサーになります。1931年『600万人の交響曲』で初めてプロデューサーとしてキャリアをスタートします。1939年までにフレッドとジンジャーのミュージカル映画を始め、『ノートルダムの鐘』や『ガンガ・デン』をプロデュースしました。1940年にMGMに移籍し、1941年『美人劇場』、1944年『緑園の天使』、1949年『賄賂』、1950年『花嫁の父』、1955年『暴力教室』、1960年『バターフィールド8』等の映画を製作しました、1950年代にリチャード・ソープ監督と組んで、1952年『アイヴァンホー』・『ゼンタの囚人』、1953年『円卓の騎士』・『すべての兄弟は勇敢だった』、1955年『クエンティン・ダワードの冒険』等の製作をしました。1963年までMGMで仕事をし、その後独立プロダクションに入って1970年でキャリを終えました。

 マーク・サンドリッチ(1900年8月26日~1945年3月4日)はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、映画監督、脚本家、プロデューサーです。コロンビア大学の学生だった頃、映画会社にいる友人を訪ねた時に、撮影準備の問題点に気づき監督にアドバイスをしました。その後、映画会社の撮影部に入り、1927年には短編コメディ専門の映画監督となります。翌年最初の長編映画を撮りましたが、トーキー映画登場後に短編映画に戻ります。1933年短編映画『だからこれはハリスです』(原題:So This is Harris!)で、アカデミー賞を受賞しました。その後、長編映画のコメディを撮るようになり、1934年には『コンチネンタル』を監督します。1935年『トップ・ハット』・『艦隊を追って』、1936年『有頂天時代』・『踊らん哉』、1938年『気儘時代』を撮りました。1940年にRKOからパラマウント映画に移籍し、監督とプロデューサーをするようになります。1942年『スイング・ホテル』、1943年『われら誇りもて歌う』、1945年『ブルー・スカイ』を監督しますが、テスト撮影中に突然心不全で亡くなりました。

『コンチネンタル』の撮影風景

 マーク・サンドリッチ監督は、大掛かりなセットを作りクレーンを使って撮影しています。無駄なくテンポの良い演出で、ストーリーもダンス・シーンも大いに楽しめます。

ハーミズ・パン(25歳)

 ハーミズ・パン(1909年12月10日~1990年9月19日)は、テネシー州メンフィス出身のダンサーで振付師です。特にフレッド・アステアのミュージカル映画の全て振付師で、フレッドが信頼する振付協力者です。1937年『踊る騎士』でアカデミー賞最優秀ダンス演出賞を受賞し、1961年のテレビ・スペシャル「フレッド・アステアの夕べ」でエミー賞を受賞しています。1980年には国民映画賞も受賞しています。

 1923年に父親が亡くなり、パンが14歳の時に一家はニューヨークに移り住み、スピークイージー(禁酒法時代のもぐりの酒場)で踊り始めます。彼は19歳の時にはダンスで稼げるようになり、いくつかのブロードウェイの舞台に出演しました。1930年にカリフォルニアに移り住み、1933年に『空中レビュー時代』の撮影現場でフレッド・アステアと出会い、デンス・ディレクターのディヴ・グールドのアシスタントになります。アステアが“カリオカ”のダンス・ステップを考えている時に、パンはアイディアを出してそのダンス・シーンを完成させました。それ以来二人は、プロフェッショナル同士として一緒に仕事をするようになります。彼はアステアの31本のミュージカル映画の17本と、4本のテレビ・スペシャルの3本を担当しました。アステアは自分のダンス・ルーティンを自分で考えていましたが、パンのアイディアを取り入れてダンス・ルーティンの微調整をしたり、リハーサル・パートナーとしてのパンの能力を高く評価していました。又、パンはジンジャー・ロジャースの指導やリハーサル・パートナーをやっていました。ジンジャー・ロジャースのスケジュールが合わない事が多い為、1935年の『ロバータ』以降はロジャースのタップのパートの録音を全てパンが代行していました。パンは86本の映画の振付を行い、ノン・クレジットで数本の映画にも出演しています。アステア映画以外の振付は、1941年『血と砂』・『マイアミの月』・『銀嶺セレナーデ』、1943年『コニーアイランド』、1944年『ピンナップガール』、1953年『キス・ミー・ケイト』・『苦悩の乙女』、1959年『ボギーとベス』、1960年『カンカン』、1963年『クレオパトラ』、1964年『マイ・フェア・レディ』等です

アリス・ブラディ(42歳)

 脇を固める出演者も面白い顔ぶれになっています。ミミの叔母さんのホーデンス役は、アリス・ブラディです。自分本位でそそっかしい叔母さんを好演しています。アリス・ブラディ(1892年11月2日~1939年10月28日)はニューヨーク生まれのアメリカ合州国の俳優です。母親のローズ・マリー・ルネは1896年に亡くなりました。父親のウィリアム・・A/ブラディは有名な演劇プロデューサーで、アリスは幼い頃から演劇に興味を持ちます。14歳で舞台に立ち、1911年にブロードウェイでデビューします。父親が1913年に映画会社を作り、アリスも映画の仕事をはじめます。1914年に『As Ye Sow』で映画デビューし、その後10年間で50本以上のサイレント映画に出演しました。1923年に映画の仕事を辞めて舞台劇に出演するようになります。1933年にハリウッドに戻り、『When Ladies Meet 』で、トーキー映画に初めて出演しました。その後は1933年『紐育・ハリウッド』、1935年『ゴールド・ディガース36年』・『メトロポリタン』、1936年『襤褸と宝石』・『天使の花園』、1937年『シカゴ』・『オーケストラの少女』、1939年『若き日のリンカン』等に出演します。1939年に癌で亡くなりました。アリス・ブラディは1937年の『シカゴ』でタイロン・パワーの母親役を演じて第10回アカデミー助演女優賞を受賞しています。アカデミー賞の受賞日、彼女は足首の怪我の為に欠席していましたが、謎の男性の代理人が現れてオスカー盾(この頃の助演賞は盾でした)を持ち帰ってしまいました。後ほど代理人が偽物だった事が発覚したので、アカデミー協会は彼女に新たに盾を贈っています。長年オスカー盾も犯人も行方不明でしたが、2016年の調査で事実が判明しました。オスカー盾を受け取ったのは『シカゴ』の監督ヘンリー・キングで、その日のうちに彼女の友人を通して自宅に届けられていました。彼女が受賞の2年後にガンで死去しており、誤報の訂正ができなかった為と言われています。

 ガイの親友で弁護士のエグバートを演じているのが、エドワード・エヴェレット・ホートンです。彼はキャリアが長く出演本数多いベテランで、コミカルな役では定評があります。今回は何とも頼り無い弁護士役で、お得意のとぼけた演技を披露しています。彼はこの映画の後、『踊らん哉』、『トップ・ハット』でも共演しました。

エドワード・エヴェレット・ホートン
(38歳)

 エドワード・エヴェレット・ホートン (1886年3月18日~1970年9月29日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの性格俳優で、映画、演劇、ラジオ、テレビ、アニメの声優です。高校はブルックリンの男子校に通っていましたが、一家がメリーランド州ボルチモアに引っ越したので、ボルチモア・シティ・カレッジに進学し、1902年から1904年まで通いました。この後、ニューヨーク市に戻りブルックリン工科大学に1年間通いますが、芸術コースが廃止になった為コロンビア大学に移ります。ホートンは1906年に20歳で舞台にデビューします。舞台では歌や踊りをしたり小さい役を演じ、1909年には大学を辞めます。その後、ヴォードヴィルやブロードウェイの舞台にも出演します。1919年にロスアンゼルスに移り、ハリウッド・コミュニティ・シアターで映画の仕事を始めます。1922年のサイレント映画『TOO MUCH BUSINESS』で、初めて主役を演じます。1927年から1929年にはハロルド・ロイドの8本の映画に出演しました1929年からはエディケーション・ピクチャーズのトーキー映画のコメディやワーナー・ブラザーズの映画にも出演しました。ホートンが開発した独自の演技は、ダブル・テイクと言われるものです。相手が言った事を理解したように微笑み、事の重大さに気が付き表情が固まり、困り果てた表情に変わる演技です。1930年代には多くのコメディ映画や他の映画でもコミカルな脇役として出演していました。ほんの一部紹介しますと、1931年『犯罪都市』、1932年『極楽特急』、1933年『不思議の国のアリス』、1937年『失はれた地平線』、1938年『素晴らしき休日』、1941年『幽霊紐育を歩く』・『美人劇場』、1944年『毒薬と老嬢』、1961年『ポケット一杯の幸福』等です。1945年から1947年まではラジオの司会をしたり、1948年にはテレビ・ドラマに出演しています。1950年代は主にテレビに出演していました。1952年の「アイ・ラブ・ルーシー・ショー」やウォルター・ブレナンン主演の「マッコイじいさん」にも出演しています。1959年から1964年まではアメリカで有名なアニメ・シリーズのナレーターとしても活躍していました。

エリック・ブロア(47歳)

 エリック・ブロア(1887年12月23日~1959年3月2日)は、ロンドン北部のフィンチリー出身のイギリスの俳優、脚本家です。学校卒業後に保険会社で働きますが、1909年ミュージカル・コメディ「ケイズから少女」で舞台に初出演します。イギリスで地方公演に出演し、1913年4月にロンドンのレスター・スクエアのエンパイア劇場で「All the Winners」に出演しました。ブロウは主にロンドンのウエストエンドで、レヴューやバラエティの脚本を書き出演していました。彼は1922年にミュージカル・コメディ「エンジェル・フェイス」に出演し、1923年8月ブロードウェイで初めて「リトル・ミス・ブルービアード」に出演しました。それからはブロードウェイの舞台に出演したり、ツァー公演を行いました。1933年ロンドンで舞台劇「陽気な離婚」に5か月間出演しました。その後、ハリウッドに渡り『コンチネンタル』に出演し、1955年までの間に60本以上の映画に出演しました。1935年『トップ・ハット』、1936年『有頂天時代』、1937年『踊らん哉』、1941年『サリヴァンの旅』・『アフリカ珍道中』、1950年『腰抜け千両役者』等で、彼が演じる優秀な執事、従者、厳格な紳士等が好評でした。ブロアは前作の『空中レビュー』では給仕長役で、本作ではウエイターを演じています。今回は音楽に合わせてダンスをするかのようにスッテプを踏みながら注文品を運んでいます。今回は出番も多く重要な役を演じています。

エリック・ローズ(28歳)

 エリック・ローズ(1906年2月10日~1990年2月17日)は、アメリカ合州国オクラホマ州エルリノ出身の映画俳優、ブロードウェイの歌手です。ローズはセントラル高校とオクラホマ大学に通い、大学在学中に奨学金を得て、ニューヨークで一年間声楽を学びました。第二次世界大戦中は、陸軍航空軍の諜報機関で言語の専門家として活躍しました。ローズは1928年に戯曲「最も不道徳な女性」で、初めてブロードウェイの舞台に出演します。続けて1929年のミュージカル「リトル・ショー」、1932年「ヘイ・ノニー・ノニー」・「陽気な離婚」に出演しました。ロンドンで再び「陽気な離婚」が公演されましたが、RKOのパンドロ・S・バーマンがその舞台を観て、ローズを映画でも同じ役で使う事にしました。ローズはハリウッドに連れて行かれて、1934年『コンチネンタル』に出演しました。その後1935年『トップ・ハット』・『リッツの夜』、1936年『暗闇の二人』等、1939年までに二十数本の映画に出演しています。1947年から1964年にかけて、ロードウェイで1947年「大キャンペーン」、1953年「カン・カン」、1957年「ジャマイカ」等に出演しました。本作では、雇われ恋人役のトネッティを演じていて、劇中バルコニーで小型のアコーディオンを弾きながら“コンチネンタル”を歌います。

ベティ・グレイブルとエドワード・エヴェレット・ホートン

 この映画のタイトル・クレジットの末席にベティ・グレイブルの名前がありました。彼女のピンナップは、第二次世界大戦中のアメリカ兵士に大人気でNo.1でした。彼女の脚線美に100万ドルの保険が掛けられていたので、100万ドルの脚線美と云われていました。彼女のどんな役をやっているのか探していたら、水着姿で椅子に座っているエドワードに“Let’s K-nock K-nees”を歌いかける女の子でした。まだ18歳の彼女に気が付くまで少々時間が掛かりました。ベティは嫌がるエドワードの手を引いて踊りに誘い、エドワードは不器用なダンスを披露します。と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

『コンチネンタル』 作品データ

アメリカ 1934年 モノクロ 107分

原題:The Gay Divoicee

監督:マーク・サンドリッチ

製作:パンドロ・S・バーマン

脚本:ジョージ・メリオン・ジュニア、ドロシー・ヨースト

撮影:デイヴィッド・エーベル

音楽監督:マックス・スタイナー

音楽:コール・ポーター

マック・ゴードン、ハリー・レヴェル

コン・コンラッド、ハーブ・マジッドン

※“コンチネンタル”は、この年創設されたアカデミー主題歌賞を受賞しています。

出演:フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース

   アリス・ブラディ、エドワード・エヴェレット・ホートン

   エリック・ローズ、エリック・ブロウ

   アート・ジャレット、ベティ・グレイブル

Vol.15 『ジンジャー・ロジャース』 最終章

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 1948年の初夏やっと休暇をとり、レラと一緒にオレゴンの自分の牧場に行きました。日よけ付きのブランコに腰掛けていた六月のある日の朝、MGMの幹部から電話がきました。『ブロードウェイのバークレイ夫妻』という作品の出演依頼でした。又フレッドと共演出来るので、喜んで出演を承諾しました。ダンシング・シューズを履くのは十年振りになります。早速エクササイズ、柔軟体操、ストレッチングを始め、稽古が始まる頃には呼吸法を正しく自然に出来るようにしました。監督はチャルズ・ウォルターズ監督、撮影監督はハリー・ストラドリング、共演者はオスカー・レヴァント、ビリー・バーク、ジャック・フランソワ、ゲイル・ロビンスです。この映画でジンジャーとフレッドは、初めてのテクニカラー映画出演となりました。この映画のフレッドの相手役はジュディー・ガーランドでしたが、彼女が撮影に耐えられない状態だったので、ジンジャーが出演する事になりました。音楽担当のハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインが、夫婦のダンシング・チームが再び一緒に踊る見せ場の曲を作ろうとしていました。ジンジャーは『踊らん哉』でフレッドが歌った“誰も奪えぬこの想い”を使うように提案しました。作曲家のハリーは賛成してくれて、“誰も奪えぬこの想い”で再びフレッドと踊り事になりました。フレッドと本格的に稽古を始めると、十年のブランクを感じず数週間振りに踊ったように思ったそうです。この映画でフレッドは新しいダンス・シーンに挑戦しています。“シューズ・ウィズ・ウイングス・オン”で、フレッドは多くの靴たちと踊ります。

1949年『ブロードウェイのバークレイ夫妻』
フレッドと踊るフレッド(左) 沢山の靴と踊るフレッド(右)

 ジンジャーは1948年12月にRKOとの契約を解消し、完全なフリーになります。その頃、ジャック・ブリッグスとの結婚も解消する事にしました。1949年にワ-ナー・ブラザースの『パーフクト・ストレンジャー』の撮影に入ります。監督はブレティン・ウィンダスト、ジンジャーの相手役はデニス・モーガン、助演はセルマ・リッター、マージョリー・ベネット、ジョージ・チャンドラー、ポール・フォードです。続けてワーナー・ブラザースの『目撃者』の撮影に入ります。この映画はクー・クラック・クランを描いたメロ・ドラマですが、KKK団に捕らえられたジンジャーの鞭打ちシーンがあります。監督はスチュワート・ヘイスラー、共演は歌わないドリス・デイ、スティーヴ・コクラン、ロナルド・レーガンです。

 1950年3月、ロサンゼルスのパンテージ・シアターでアカデミー賞授賞式が開催されました。この授賞式でフレッド・アステアの栄誉を称えてオスカーが贈られました。このプレゼンターをジンジャーが行いました。オスカー像には「そのユニークな芸風と、ミュージカル映画の技術への貢献を称えて」と刻まれていました。1950年五月から八月にかけて、ユニバーサルの『ザ・グルーム・ウォア・スパーズ』の撮影に入ります。監督はリチャード・ウォルフ、共演者はジャック・カースン、ジョーン・ディヴィス、ロス・ハンターです。軽めの作品で、ジンジャーは弁護士を演じました。

 ジンジャーは舞台劇「ラヴ・アンド・レット・ラヴ」に出演する事になります。二十一年振りの舞台出演です。作家兼監督はルイ・ヴェルヌイユ、ジンジャーはヴァージア・マクマスの名で一人二役の姉妹を演じました。共演者はポール・マクグラス、トム・ヘルモア、ヘレン・マーシー、ディヴィッド・F・パークンスです。1951年11月19日に幕を開け、51回の公演が行われました。この作品は面白くもないセリフの並んだコメディで、すっかり失望したそうです。1951年11月5日、四度目のライフ誌の表紙を飾った事だけは、嬉しかったそうです。

 舞台終了の二週間後、二十世紀フォックスから『結婚協奏曲』への出演依頼があり、出演を承諾しました。この映画は未だ資格が無い新米判事が、無資格で6組のカップルを結婚さてしまい、その後に起こるトラブルが展開されるコメディです。監督はエドマンド・グールディング、共演者はフレッド・アレン、ヴィクター・ムーアです。この作品が完成した二週間後、再び二十世紀フォックスの『ドリーム・ボート』に出演します。監督はクロード・ビニヨン、ジンジャーの相手役はクリフトン・ウェブ、共演者はフレッド・クラーク、エルサ・ランチェスター、そして新人スターのアン・フランシスとジェフリー・ハンターです。

1942年『結婚協奏曲』
左からヘンリー・フォンダ、
ジンジャー、シーザー・ロメロ

 1952年『モンキー・ビジネス』の撮影に入ります。監督はハワード・ホークス、ジンジャーの相手役はケーリー・グラントで十年振りの共演です。ケーリー・グラントはボーッとした学者役で、ジンジャーは妻を演じます。若返りの薬を発明する仕事をしていますが、二人は実験用のチンパンジーが調合した薬を飲んでしまいます、二人は童心にかえってしまい、大騒動が起こるコメディです。雇主はチャールズ・コバーン、秘書役はマリリン・モンローです。撮影終了後、ジンジャーは休暇を取ってヨーロッパ旅行に出来掛けます。帰国後、パラマウントの『女性よ永遠に』の撮影に入ります。二人の主演男優はウィリアム・ホールデンとポール・ダグラスです。監督のヴァイング・ラバーはジンジャーの好きなタイプの監督ではなく、態度は冷たく思いやりに欠けていたので、この映画に参加した事を後悔したそうです。1953年2月7日、ジンジャーはフランスで出会った弁護士のジャック・ベルジュラと結婚しました。

1952年『モンキー・ビジネス』
ケーリー・グラントとジンジャー(左)
左からマリリン・モンロー、チャールズ・コバーン、ケーリー・グラント

 1953年12月にブロティッシュ・ライオン映画社から、『行きずりの恋』への出演依頼がありました。台本を読んで夫のジャックが相手役なら出演すると、プロデューサーに話します。監督のデイヴィッド・ミラーはジンジャーの申し出に合意しました。ジンジャー初のイギリス映画での共演者は、スタンリー・ベーカー、ハーバート・ロム、コーラル・ブラウンです。夫のジャックは長時間のハードな撮影をこなし、格闘シーンも吹き替えなしでやりました。1954年2月に撮影が終わり、カリフォルニアに戻ります。帰宅後、友人のグインル夫妻からリオデジャネイロのカーニヴァルに招待されます。夫のジャックの説得で二人はリオデジャネイロに行きます。カーニヴァルを楽しんだ後、アルゼンチン大統領のファン・ペロンからブエノスアイレスに招待されます。エヴァ・ペロンの慰霊碑に云ったり、競馬場でホース・ショーを観たり、巨大なバーベキュー・パーティでもてなされました。二人は、アルゼンチンからペルーのリマに向かいます。夫のジャックは闘牛ファンだったので、ジンジャーを闘牛場に連れて行きます。ジンジャーにとって初めて見る闘牛は、残酷で見るのが苦痛だったようです。カリフォルニアの自宅帰って、ジンジャーはのんびり過ごしていましたが、4月にパリに出掛けます。南フランスにも数日滞在し、ローマを訪れます。ローマに滞在中にダリル・F・ザナックから、出演依頼の電話を貰います。帰国後、『意外なる犯行』の脚本を読むと、ジンジャーの役はある女優の役です。その女優が最後には殺人犯だったという役です。プロデューサー兼監督がナナリー・ジョンスン、共演者はレジナルド・ガーディナー、ジーン・ティアニー、ヴァン・ヘフリン、ジョージ・ラフト、オットー・クルーガー、ペギー・アン・ガーナーです。

1954年『行きずりの恋』
ジャック・ベラジェックとジンジャー

 1954年10月、リーランド・ヘイワードからテレビのスペシャル番組「トゥナイト・アット8:30」への出演依頼がありました。ノエル・カワードの短い戯曲三篇を一組にして放映するものです。演出家はオットー・プレミンジャー、三つの劇の相手役は一番目はマーティン・グリーン、二番目はトレヴァー・ハワードです。そして三番目はイルカ・チェイス、グロリア・ヴァンダービルド、エステレ・ウィンウッド、ギグ・ヤング、マーガレット・ヘイズです。この番組はテレビの生番組だったので、ステージの前に観客がいなす。九十分のショーの中で、三つの異なる役を演じるのは、凄いプレッシャーを感じながら演じたそうです。

 次回作はコロンビア社の『消された証人』です。監督は友人のフィル・カールソン、共演者はエドワード・G・ロビンソン、ブライアン・キース、ローン・グリーンです。戯曲「デッド・ビジョン」の映画化で、ジンジャーは三流ギャングのガール・フレンド役です。彼女は服役中ですが、刑務所から連れ出されて警察の厳重な保護を受けます。彼女はギャングのボスに逆らって、共犯者に不利な証言をする役どころです。

1955年『消された証人』
ブライアン・キースとジンジャー(左)
エドワード・G・ロビンソンとジンジャー(右)

 1956年メイ・ウエストガ出演する予定だった『最初の女セールスマン』に出演します。製作と監督はアーサー・ルービン、共演者はキャロル・チャニング、バリー・ネルソン、ジェームス・アーネス、そしてクリント・イーストウッドが小さな役を演じています。1956年は二十世紀フォックスで『十代の犯行』と『オー、メン!オー・ウィメン』の二本の作品に続けて出演しました。1957年半ばにジャックの不貞があり、ジンジャーは離婚しました。

 1957年はテレビ・ショーに定期的にゲストとして出演していました。ジンジャーのテレビ・ショーの企画もありましたが、実現しませんでした。1958年1月、ジンジャーはラスヴェガスのリヴィエラ・ホテルでライブ・ステージの公演を四週間行いました。1959年舞台劇の「ピンク・ジャングル」に出演する事になり、ニューヨーク公演の前にサンフランシスコで三週間公演されました。その時点でプロデューサーは映画の撮影の為にハリウッドへ行ってしまいます。省の問題点の改善も無く給料の未払いもあった為、ジンジャーはこのショーの契約を解消しました。1960年の夏、ジンジャーは念願だったミュージカル・コメディの「アニーよ銃を取れ」に出演しました。東海岸五都市映画の夏期軽劇場サーキットを回りました。この興行後、俳優のG・ウィリアム・マーシャルと知り合い、六か月の交際を経て1961年3月16日にサンタモニカで結婚しました。じかし、二週間も経たないうちに、ウィリアムの飲酒癖が分かりましたが、判断を誤ったまま結婚生活を続けます。ウィリアムはジンジャーから借金をする為、ジンジャーは多くの夏期軽劇場に出演しました。1963年「不沈のモリー・ブラウン」で西部諸州を公演し、「トヴァリッチ」で全国ツァー公演しました。19563年3月、マグナピクチャースで『ハーロウ』に出演します。この映画はジーン・ハーロウの人生を基にした作品で、ジンジャーはジーンの母親役を演じました。監督はアレックス・シーガル、共演はキャロル・リンレイ、バリー・サリヴァン、エフレム・ジンバリスト・Jrです。しかし、この映画は八週間で撮影された残念な作品になってしまいました。そして、この映画がジンジャー最後の映画となります。

 1965年ジンジャーは、ニューヨークの四十四番街のセント・ジェームズ劇場で「ハロー・ドーリー!」に出演します。1967年2月にセント・ジェームズ劇場の公演が終わり、一座と一緒に国内ツァーに回りました。ジンジャーとフレッドは、4月10日のアカデミー賞授賞式で作品賞のプレゼンターとして招待されました。ジンジャーとフレッドは、ステージに上がった時即興のステップを披露して観客に喜んで貰いました。(ジンジャーのアイディアです。)「ハロー・ドーリー!」はニューヨークからボストンまで、全千百十六回の公演で終了しました。

1965年「ハロー・ドーリー!」
ドリー・レヴィー役のジンジャー

 1968年「ハロー・ドーリー!」の長期公演を終了し、ジンジャーはオレゴンの牧場に行きます。のんびり過ごしていましたが、ロンドンのハロルド・フィールディンから国際電話があり、ミュージカル・コメディ「メイム」への出演依頼がありました。開幕は1969年2月、八ヵ月の準備期間がとれるので出演を快諾しました。12月13日にジンジャーは船でロンドンに向かいました。ロンドン到着後すぐに稽古を始め、1969年2月23日の開幕に備えます。「メイム」は、14ヵ月間ロンドンで上演されました。「メイム」では衣装を二十七回も変えるので、非常にハードな作品だったそうです。ジンジャーはウィリアム・マーシャルと離婚する為に離婚申請をしました。その後、ジンジャーは1971年「ココ」の公演でニューイングランド諸州をまわりました。1972年にはJ・C・ベニー社のファッション・コンサルタントになり、ジンジャー・ロジャース・シリーズのランジェリーをデザインしり全国をインタビューして回りました。1974年「ノー・ノー・ナネット」をダラスで公演し、続いて「40カラット」を1975年の夏まで公演しました。 1975年、ロージャース・ローグ・リヴァー・レビューを結成し、「ジンジャー・ロジャース・ショウ」の公演を始めます。12月にオクラハマで幕を開け、それから5年間国中や海外も回りました。そんな中、1977年5月の母親のレラが亡くなりました。悲しみを乗り越えてツァーを続けていました。

「ジンジャー・ロジャース・ショー」
左からロン・スタインベック、
ジェフ・パーカー、マイケル・コディ、ジム・テーラー

 1980年は「エニング・ゴーズ」の全国公演を行い、1983年には「ミス・モファット」をインディアナポリスで公演し、1984年「チャーリーの叔母」をエドモントンで公演しました。そして1985年に念願の舞台演出の依頼がきました。「ベーブス・イン・アームズ」をニューヨーク州たりータウンで、四週間舞台演出をしました。その後も多忙な日々を精力的に過ごされました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.14 『ジンジャー・ロジャース』の続きの続き

 1938年11月に次回作『ママは独身』の脚本の第一稿が、パン・バーマンから送られてきました。台本を読んで、薄っぺらなストーリーと現実味の無い登場人物だと思い、パン・パーマンに抗議の手紙を書きます。パンは脚本を弁護して、ジンジャーが演じる役は情が厚く人情味がある女性で、ジンジャーにふさわしい映画だと言いました。ジンジャーは彼の言葉を信じて、この映画に出演する事にします。監督はガーソン・カニン、共演者はディヴィッド・ニーヴン、チャールズ・コバ-ン、そして可愛い赤ちゃんです。映画は素晴らしい作品に仕上がり、大衆は好意的な反応を返してくれたそうです。映画はRKOでは最高興行成績を収めた映画の一本になりました。この後、続けて『五番街の女』を撮り14ヶ月ほとんど休みも無く仕事をしていました。4週間の休暇を取り、その後2本のラジオ番組に出演しています。

1939年『ママはママは独身』
ディヴィッド・ニーヴンとジンジャーとエルバート・コブレン・Jr

 1939年11月、『桜草の丘』の撮影に入ります。監督はグレゴリー・ラキャヴァ、ジンジャーの相手役はジョエル・マクリーです。共演者はマージョリー・ランビュー、ヘンリー・トラヴァース、マイルス・マンダークイニー・ヴァーサー、コアン・キャロルです。この映画はジンジャーの俳優としての演技の幅を大きく広げたものになりました。次回作の『ラッキー・パートナー』で、ジンジャーは長い間尊敬していたロナルド・コールマンの相手役になります。監督はマイルス・ストーン、脚本はアラン・スコットとジョン・ヴァン・ドゥルーテンです。共演者はスプリング・バイント、ジャック・カーソン、ハリー・ダヴンポートです。ロナルド・コールマンは完璧な演技者で紳士で、ジンジャーの間違いを指摘したり、何か提案する時は彼女が不快にならないように気を配ってくれたそうです。この時期のRKOはジンジャーをコメディエンヌに仕立てようとしていました。ジンジャーは自分がコメディエンヌなのか主演女優なのか分からなくなっていました。その時、プロデューサーのディヴィッド・ハンプスからベツソ・セラーの「恋愛手帳」の本が送られてきました。本に目を通してみると露骨なラブ・シーンがあり、検閲を通らないと判断しました。母のレラは、うまくリライトしてくれるから大丈夫だと言いました。翌日ディヴィッド・ハンプスから電話があり、RKOはジンジャーの為にこの小説を特別に買い取ったといいます。ダルトン・トランボがリライトするから素晴らしい脚本になるから、その脚本をみてから判断して欲しいと言いました。一ヵ月後にリライトされた『恋愛手帳』の脚本が送られてきました。その脚本は素晴らしい出来で、原作より数段心の琴線触れる作品だと思ったそうです。このキティ役を演じた役者はオスカーを取るだろうとも思ったそうです。ディヴィッド・ハンプスから電話がきた時、ジンジャーは即答で出演する事にします。監督はサム・ウッド、共演者はデニス・モーガン、ジェームズ・クレイグ、グラディス・クーパー、キャサリン・スティーヴンス、メアリー・トリーン、オデット・ミルティ、アーネスト・コサート、エデュアルド・チャネリです。(キャサリン・スティーヴンスは、サム・ウッド監督の娘さんです。)サム・ウッド監督は親しみやすい人でしたが、監督としては頑固なタイプだったそうです。しかし、独善的ではなくどんな小さな声にも耳を傾ける監督だったそうです。この映画を撮り終えて、やりがいのある仕事をしたと実感したと語っています。1940年12月9日付けのライフ誌で『恋愛手帳』の特集が掲載され、表紙にジンジャーの写真が使われたのは二度目です。

1940年『恋愛手帳』
デニス・モーガンとジンジャー(左)
ジンジャーとジェームズ・クレイグ(右)

 1941年にプロデューサーのロバート・シスクから愛の鐘はキッスで鳴ったの脚本が送られてきました。監督がガルソン・カニンと聞いて、ジンジャーは喜びました。彼と撮った『ママは独身』は、とても楽しく仕事が出来たからです。共演者はジョージ・マーフィ、アラン・マーシャル、バージェス・メレディス、フィル・シルバースで、楽しく映画撮影が出来たそうです。

1941年『愛の鐘はキッスで鳴った』
バージェス・メレディス(左)と

フィル・シルバース

 この映画の撮影が始まった頃、RKOからビルトモア・ホテルで行われる1940年度アカデミー賞授賞式に出席するように言われます。『恋愛手帳』は、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀音楽賞、最優秀女優賞にノミネートされていました。今までのアカデミー賞は、省が授与される前に新聞が受賞者を発表していました。1940年のアカデミー賞から事前に受賞者が分からないようにしました。自分の競争相手があまり強力なので、心情的には出席したくなかったそうです。競争相手は『月光の女』のベティ・ディヴィス。『レベッカ』のジョーン・フォンテイン、『フィラデルフィア物語』のキャサリーン・ヘップバーン、『われらの町』のマーサ・スコットです。演技賞のプレゼンターは、アルフレッド・ラントとリン・フォンティーンです。自分は受賞しないと思って、すまして席に座っていました。誰が受賞したかジンジャーには聞こえていませんでした。RKOのジョージ・シェーファー社長が「ジンジャー、君だよ、君だ」と三回言われて、ジンジャーは初めて事態を把握しました。ショック状態のままマイクの前に立ち、スピーチの準備をしていなかったので、母親への感謝と一緒に仕事をしてきた全ての人への感謝を述べました。自分が何と言ったかは、はっきりと覚えていないそうです。この年の最優秀男優賞は、『フィラデルフィア物語』の親友のジェームズ・スチュワートが受賞したので飛び上がって喜んだそうです。授賞式の翌日の朝、スタジオから電話があり出勤が2時間遅くなりました。スタジオに着くと門衛が受賞を祝福してくれたのを始め、ジンジャーの車を見た人は皆車を止めて祝しました。控室で準備をすませてセットに入ると、左右に七人づつタキシードを着た男たちが、トップハットをジンジャーの頭上で交差してアーチを作っていました。立っていた男たちは電気工やスタッフたちで、後ポケットから彼らの工具や道具がのぞいていたそうです。

1941年2月27日アカデミー賞授与式
ジンジャーとジェームズ・スチュアート

 1941年10月13日、ジンジャーは20世紀フォックスの『ロッキー・ハート』の撮影に入ります。この映画は、新聞の殺人事件の記事を基に罹れた戯曲「シカゴ」を映画化したものです。監督はウィリアム・ウェルマン、プロデューサー兼脚本家ハナナリー・ジョンソンです。共演者はアドルフ・マンジョー、ジョージ・モンゴメリー、フィル・シルヴァースが演じるロキシーはダンサーなので、鉄の階段でタップを踊る事を思い付きます。スタジオには鉄の階段がなかったので、ロサンゼルスのダウンタウンの取り壊されたビルにあった階段をスタジオに運んで使いました。鉄の階段はいい音がするので、カメラマンや小道具係が音を出して楽しんでいたそうです。1941年12月7日、彫刻家のイサム・ノグチと連絡を取ってくれた友人から電話を受け、ジンジャーは自分の胸像を掘ってもらう依頼をしました。翌日自宅で会った日系アメリカ人のイサム・ノグチは、穏やかでありながら非凡さを感じ感銘を受けたそうです。彼は一ヶ月程ジンジャーの傍で黙々と作業を続けていました、ある日の午後、ノグチは仕事に区切りのついた処で、もう当分ここには来られないと言います。アメリカ政府が強制収容所に入れようとしていると告げます。彼はこの彫像は強制収容所に持っていって作業は続けると言います。第二次世界大戦後、イサム・ノグチから電話があり、完成した彫像をいつ持って行くかの連絡でした。二日後、彼はピンクの大理石で出来たジンジャーの胸像を持ってきました。強制収容所という苛酷な環境の中でこの胸像を完成させた、彼の粘り強さと勇気に感銘を受けたそうです。

 1942年20世紀フォックスの『運命の饗宴』への出演依頼が来ました。一着の燕尾服を巡る5話のオムニバス映画で、第2話で友人のヘンリー・フォンダとシーザー・ロメロとの共演なので引き受ける事にします。次の映画を撮る2・3週間の隙間での仕事でした。

1942年『運命の饗宴』
ヘンリー・フォンダ(左)と
シーザー・ロメロ

 パラマウントから次回作『少佐と少女』への出演依頼がありました。ニューヨークに住むヒロインが故郷のオハイオに帰ろうとします。しかし、汽車賃が足りなくて半額の子供料金で乗る為に子供に変装してオハイオに行く話です。子供の頃、巡業していた時に同じ経験をしていたので出演する事にしました。監督の候補者がいるというので、ジンジャーはその人と会う事にしました。ハリウッド映画は初めて監督ですが、素晴らしいユーモアのセンスを持ったビリー・ワイルダーが監督に決まります。共演者はレイ・ミランド、リタ・ジョンソン、ダイアナ・リンです。予想通りビリー・ワイルダーは映画を仕切る有能な監督で、俳優にも好ましい態度で接してくれたそうです。撮影が開始してからも役者が決まっていない役がありました。映画の最後の短いシーンに登場するヒロインの母親役です。監督はジンジャーに顔が似ているスプリング・ビントンを予定していましたが、彼女は既に別の映画の予定が入っていました。監督はジンジャーに誰か母親役の役者はいないかと尋ねるので、母親のレラを推薦しました。交渉の結果、レラはジンジャーの母親役で出演しました。ビリーは俳優の演技に満足すると、皆にシャンペンを振舞っていました。ビリーのお陰で本当に楽しんで仕事が出来ましたが、残念ながらビリーとの仕事はこの一本だけでした。

1942年『少佐と少女』
レイ・ミランドとジンジャー(左)ジンジャーとレラ・ロジャース(右)

 サミュエル・ゴールドウィンから『教授と美女』の脚本が送られてきました。ゲイリー・クーパーとの共演作品でしたが、ジンジャーは断りました。サミュエルはジンジャーをスタジオや自宅に招き、出演させる為に得をしましたがジンジャーは出演を断りました。その役はバーバラ・スタヌィックに回されました。『教授と美女』を観た時、ジンジャーは自分の判断が間違っていた事を知ったそうです。リーランド・ヘイワードからパラマウントの『遥かなる我が子』の主演依頼がありました。脚本を読み戦争に向かう24歳の息子の母親役をやりたいと思わなかったので断りました。この役はオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オリヴィアはその役でアカデミー賞を受賞しました。女性用の精神病棟を題材にした『蛇の穴』も断りました。その主役をオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オスカーにノミネートとされました。オリヴィアは良い作品を見極める才能があると思ったそうです。『ヒズ・ガール・フライデー』の出演依頼があった時も、主演男優が決まっていない段階で断ってしまいます。主演がケーリー・グラントに決まり、ロザンド・ラッセルが相手役になってジンジャーは多少後悔したようです。逆にジンジャーはミュージカル映画の『アニーよ、銃を取れ』のアニー役を切望しました。MGMのルイス・B・メイヤーは「ハイヒールとシルクのストッキングが似合う。アニー・オークレイみたいな勇ましい役をやるのは考えられない。」と断られました。ジュディ・ガーランドも降ろされて、ご存じのようにベティ・八トンがその役を演じました。

 1942年6月、RKOの『恋の情報網』の撮影に入ります。監督はレオ・マッケリー、共演者はケーリー・グラントとウォルター・スレザクです。ナチスの脅威を背景に描かれた、ラブ・ストーリーです。第二次世界大戦中はジンジャーも軍の慰問機関USOから依頼を受け、国債のセース、軍のキャンプや病院を訪問していました。1942年9月に南西部の都市への慰問に十日間のツァーに参加しています。陸、海、空、海兵隊のキャンプを慰問しました。その時、兵卒のジャック・ブリックスと一緒にキャンプを回りました。ツァーが終わってからもジョンジャーはジャックと付き合うようになり、三か月後の1943年1月16日にパサディナで結婚式を挙げました。(ルー・エアーズとは1940年3月13日に離婚しています。)

1942年『恋の情報網』
ケーリー・グランドとジンジャー(左)
ウォルター・スレザクとジンジャー(右)

 1944年3月から、セルズニック・インターナショナルの『恋の十日間』の撮影に入ります。監督はウィリアム・ディタリー、共演者はジョセフ・コットン、シャーリー・テンプル、スプリング・バイトン、トム・ターリーです。この映画は「二人一緒の休暇」というラジオ・ドラマを基に作られた作品です。第二次世界大戦中に出会った夫々問題を抱えた二人が恋に落ちる物語です。シャーリー・テンプルによると、ジンジャーがシャーリーをこの映画から外そうとしていたようです。(真相は分かりません。)

1944年『恋の十日間』
左からシャーリー・テンプル、
スプリング・バイデン、ジンジャー、
ジョセフ・コットン、トム・チェリー

 1944年10月、MGMから『ウォルドフの週末』の出演依頼がありました。この映画は現代版の『グランド・ホテル』で、アイリーン・ギブソンの衣装を着れるので出演する事にします。監督はロバート・Z・レナード、共演者はウォルター・ビジョン、ラナ・ターナー、ヴァン・ジョンソン、エドワード・ベンチュリー、エドワード・アーノルド、そしてサヴィア・クガートと彼の楽団です。1945年RKOの『ハート・ビート』をサム・ウッド監督で撮り、1946年にはユニヴァーサルで『アメリカの恋人』の撮影に入ります。この映画はジェームズ・マディスン大統領の妻、ドリー・マディソンの歴史小説を基にしたものです。監督はフランク・ポーゼーシ、共演者はバージェス・メレディスとディヴィッド・ニーヴンです。映画の終局場面の科白が納得いかなかったので、レラを自宅に呼んで二人で脚本の書き直しをしました。その原稿を監督とプロデューサーに提出し、二人の了解を得てそのシーンを撮りました。と書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.13 『ジンジャー・ロジャース』の続き

 RKOの新しく製作主任になったパンドロ・S・バーマンは、フレッド・アステア主演のミュージカル舞台劇「陽気な離婚」を観てその作品を買い取ります。邦題『コンチネンタル』は1934年6月から撮影に入りました。監督はマーク・サンドリッチ、共演者はエドワード・ホートン、アルリス・ブラディ、そしてフレッドの舞台劇に出ていたエリック・ローズとエリック・ブロアも出演しました。コン・コンラッドとハーブ・マジソンが作った主題歌“コンチネンタル”は、主題歌に与えられる初めてのアカデミー賞を受賞しました。『コンチネンタル』は他にも作品賞を始め4部門にノミネートされましたが、『或る夜の出来事』に全てさらわれてしまいました。ジンジャーが1934年に出演した映画は7本で、11月14日にルー・エアーズと結婚しています。

”コンチネンタル”を踊る
フレッドとジンジャー

 ハネ・ムーンから帰ったジンジャーの次回作は、舞台劇を映画化した『ロバータ』です。監督は旧友のビル・サイター、共演者はフレッド、ソプラノ歌手のアイリーン・ダン、ランドルフ・スコット、ヘレン・ウェストリー、そして端役で新人のルシル・ポールが出演しています。(劇中のファッション・ショーでモデルとして登場します。)音楽はジェローム・カーンで、舞台と同じ楽曲を使っています。映画のオープニングから“煙が目にしみる”が流れて、劇中ではアイリー・ダンが歌います。ジンジャーとフレッドが最初に踊ったのは“アイル・ビー・ハード・トュ・ハンドル”で、その踊りはそのまま撮影され最後の二人の笑い声も入っています。木の床で踊るのは、とても気持ち良く踊れて楽しかったと語っています。ジンジャーはダンスの稽古が大好きで、何時間も根気よく続けられるそうです。『ロバータ』ではフレッドとハーミズと三人で、ダンス・ナンバーを1日8時間、6週間の練習でした。『ロバータ』の撮影が終了して一週間も休まないうちに、ジンジャーはパンドロ・S・バーマン監督の『深夜の星』でビル。パウエルと共演します。

”アイル・ビー・トゥ・ハンドル”を踊るジンジャーとフレッド(左)
ファッション・ショーに登場するルシル・ポール(右)

 『深夜の星』の撮影が終了して六日後、ジンジャーはフレッドと『トップ・ハット』のリハーサルを始めました。共演者はエドワード・ホートン、ヘレン・ブロデリック、エリック・ローズ、エリック・ブロアです。音楽はアーヴィング・バーリンで、“トップ・ハト”、”イズント・ディズ・ラブリディ“、”チーク・トゥ・チーク“”ピッコリーノ“”ノー・ストリングス“と名曲を提供しました。衣装デザインは『ロバータ』に続いて、バーナード・ニューマンです。ジンジャーが希望したドレスは、ブルーのサテンにダチョウの羽根を無数につけた背中が空いているドレスです。ダンス・シーンを撮影の為、ジンジャーの仮設の控室に羽根付きドレスが運ばれてきました。それを見た監督もフレッドもその場にいたスタッフ全員が、そのドレスを使う事に反対でした。ドレスが仮設の控室に届くと同時に、サンドリッチ監督がジンジャーに『コンチネンタル』で着用した白いドレスを着て欲しいと言ってきました。ジンジャーは母親のレラに電話をして、スタジオに来るように言って。仮説の控室戻ります。間もなく、汚れて伸び切ったボロボロの白いドレスが運び込まれました。レラが到着して、事情を話してブルーのドレスを見せて感想を聞きました。レラは気に入ってくれて、サンドリッチ監督にブルーのドレスは素敵なドレスだし、ジンジャーが着るべきだと言います。サンドリッチ監督はレラに、ドレスの事を幹部全員と話し合ってくれないかと言います。レラは、別の女の子を使ったら如何と言って、ジンジャーの手を取ってサッサと楽屋口から外に出ていきました。その時、アーガイル・ネルソンがジャンジャーを引き留め、サンドリッチ監督があのドレスで一度リハーサルをしようと云っていると言います。羽根付きドレスを着て最初フレッドと踊った時、彼が一番嫌っている事が分かったそうです。フレッドの顔には、このドレスは気に入らないと顔に書いてあったと語っていました。踊ると羽根は飛び散りましたが何とか撮影が終わり、次の日のラッシュを観てジャンジャーは満足しました。しかし、試写室にいた誰もジンジャーに声を掛ける事が無く出て行きました。ジンジャーが試写室から出た時、アシスタントの一人が私は奇麗だと思いますと言ってくれたのは嬉しかったそうです。そんな事があった四日後、控室にリボン付きの小箱が配達されて来ました。それはフレッドからのプレゼントで、中にはメモとブレスレットになる金の羽根が一本入っていました。『トップ・ハット』の撮影は約12週間で終わり、続けて『本人出現』の撮影に入ります。『トップ・ハット』は大ヒットし、最高傑作とまで云われました。ニューヨークのラジオシティ・コールで公開された時は、満員の観客が一曲終わる毎に喝采していたと聞かされていたそうです。

バーナード・ニューマンがスケッチしたダチョウの羽根のドレス(左)
”チーク・トゥ・チーク”をフレッドと踊るジンジャー(右)

 1935年10月には再びフレッドと『艦隊を追って』の撮影に入ります。(仕事の連続で、休む暇もない状態が続いています。)監督はマーク・サンドリッチ、共演者はフレッド、ハリエット・ヒルリアード、ランドルフ・スコット、ルシル・ポール、ベティ・グレィブル、トニーマーチンです。マーク・サンドリッチ監督とは三作目ですが、相変わらず無視されていました。サンドリッチ監督は、フレッドの顔とジンジャーの後頭部を撮るのを信条にしていた。ジンジャーの後姿をロング・ショットで撮って、フレッドの顔の背景になるようにしたのが不愉快だったと語っています。二人の最初のナンバー“レット・ユアセルフ・ゴー”でフレッドは水兵服、ジンジャーはネイヴィーブルーのパンツに白のセーラー・タイプの衣装で踊ります。この曲は後で出て来て、このミュージカル・シリーズで初めてソロ・ダンスをします。ダンスのルーティンを作る時、フレッドは他のダンスと違うものを作ろうと試みていました。ジンジャーは、ダンスの終わり方や色々アイディアを出していました。最後のナンバー“レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス”で、バーナード・ニューマンが作ったペイルブルーのビーズのドレスを着て踊りました。ビーズの重さは11㎏あり、ターンをするとビーズの重さでバランスを崩していました、一回目のテイクで、袖のビーズがフレッドの顎を一撃しました。フレッドは一瞬怯みましたが、ダンスをそのまま続けました。その後二人ともビーズの攻撃を避けながら、数時間踊り続けましたが一度も上手く行きませんでした。結局、一番最初のテイクをサンドリッチ監督は採用しました。このナンバーは歌と踊りだけで物語が展開され、二人の心情が伝わるようになっています。サイレント映画の時代から、良質の映画は映像で物語を伝えます。(このシーンは大好きです。)

ダンス・コンテストで踊るジンジャーとフレッド(左)
ビーズのドレス着てフレッドと踊るジンジャー(右)

 母親のレラはハリウッドでホリータウン・シアターという研究集会を開いていました。RKOはスタジオ内に若手の俳優の為に俳優養成所を作ろうとしていたので、レラの研究集会をスタジオ内でするように依頼します。レラはスタジオ内の小さな劇場で、劇のキャスティングとプロデュースしました。その時の若手俳優は、ルシル・ポール、ベティ・グレイブル、ジョイ・ホッジス、レオン・エイムス、アン・シャーリー、タイロン・パワー、フィリス・フレザーというメンバーでした。一人入会を断ったのは、ジョーン・フォンティンでした。彼女は既にアルフレッド・ヒチコックの『レベッカ』の主役を演じていましたので、レラは納得しました。レラは若手俳優の為に脚本を読み訓練しながら、才能を発揮できる場所を探していました。RKOがルーシーの契約を切る話があった時、ルーシーは有望な若手の一人ですから、ルーシーを首にするのなら私も辞めると云って彼女の契約を継続させました。

 1936年4月にジンジャーはRKOと新しい契約を結ぶ為に交渉していました。ジンジャーはマスメディアによって、大衆には屈託のないブロンド娘というイメージが出来上がっていました。ジンジャーは自分の能力を伸ばしたいと思っていたので、RKOに自分の条件を出します。彼女は今まで何の不満も言わず、無遅刻無欠勤で、会社の指示通りに働き続けました。プロデューサーのバンドロ・S・パーマンの助力もあり、RKOはジンジャーの条件に同意して契約しました。次回作は『有頂天時代』で、監督はジンジャーを無視するマーク・サンドリッチからジョージ・スティーヴンスに代わります。ジョージは素晴らしい監督なので、この映画は今までの自分の演技の幅を拡げられと思ったそうです。共演者はフレッドを始め、ヘレン・ブロデリック、エリック・ブロア、ヴィクター・ムーアとお馴染みメンバーでした。音楽はジェローム・カーンとドロシー・フィールズが担当しました。この映画でフレッドが”今宵の君は“を歌うシーンがありますが、ジンジャーがバスルームから頭を白い石鹸の泡で一杯まま居間に歩いて行きます。しかし、様々なシャンプーを使っても、シェービング・クリームや卵白を泡立てても駄目でした。ジンジャーはホイップ・クリームを使う事を思い付き、このやり方で撮影は成功しました。この方法は、その後十年のシャンプーのコマーシャルに使われました。

ホイップ・クリームで作った
泡の頭のジンジャー

 この映画のラスト・ナンバーネバー・ゴンナ・ダンス”は、ご存じのように48テイク撮影されました。このナンバーの撮影はトラブル続きで、アークライトが消えたり、ノイズがカメラに入ったり、最後のスピンでどちらかのステップをミスしたり、最後の最後にフレッドのカツラが飛んだりしました。ジンジャーは足が痛くて堪らなかったので、靴を脱ぐと皮が剥けて血だらけでした。それを見たハーミズが、撮影を中止しようと言いましたが、ジンジャーは断ってダンスを続けました。『有頂天時代』は大ヒットし、『トップ・ハット』の動員記録を塗り替えました。さらに“今宵の君は”は、アカデミー主題歌賞を受賞しました。

“ネバー・ゴンナ・ダンス”の48テイク目のダンス

 1936年12月24日、『踊らん哉』の撮影が始まりました。共演者はフレッド、エドワード・エヴァレット・ホートン、エリック・ブロア、そして新顔のジェローム・コワンです。楽曲はジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュイン、監督は二度と顔も見たくないマーク・サンドリッチです。この映画ではジンジャーのお面が登場しますので、石膏で顔型を撮ります。鼻に二本のストローをさし、顔全体に石膏を塗って15分間じっとしていました。その15分は、15時間経ったように思ったそうです。出来上がったマスクを付けた女の子たちが登場するシーンは、不気味なマスクと沢山のコピーを見るのは堪えられなかったそうです。

お面を付けたダンサーたちと
ジンジャー(中央)

 本作ではニューヨークのセントラル・パークで撮る予定があり、ンジャーはフレッドとハーミズと3人でどんな踊りにするか考えていました。ハーミズがローラースケートを履いて踊ったらと言いました。フレッドは乗り気ではなかったようですが、ジンジャーはこのアイディアを気に入りました。小道具係にローラースケートを用意して貰って、踊ってみるとフレッドも気に入りハーミズと3人でステップを考えました。ある朝、ジンジャーの許に脅迫状が届きました。フロントは悪戯だから何もしなくて良いと言われました、ジンジャーはFBIに連絡して対処を依頼しました。FBIの「ジンジャー」は、5000ドルが入った封筒を受け渡しに行って犯人の指示通りにしました。間もなく現れた犯人は、FBIに逮捕されて懲役5年の実刑判決を受けました。

ローラースケートを履いて踊る
ジンジャーとフレッド

 1937年6月、RKOの『ステージ・ドア』の撮影に入ります。ジンジャーとキャサリーン・ヘップバーンで主役を分け、監督はグレゴリー・ラキャヴァ。共演者はアドルフ・マンジョー、ジャック・カーソン、コンスタンス・コリア、ルシル・ポール、アン・ミラーでした。キャサリンとは確執がありましたが、ラキャヴァ監督はジンジャーを気に入ってくれてよい部分を引き出してくれました。この映画で歌も踊りも無しのストレート・プレイの俳優として認めてもらえるようになります。9月には舞台劇を脚色した『処女読本』の撮影に入ります。監督はアルフレッド・サンテル、共演者はダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ルシル・ポール・イヴ・アーデン、ジャック・カーソン、そして映画初出演のレッド・スケルトンでした。残念ながら舞台劇ほどの面白みが無く、成功しませんでした。

 休む間もなくジンジャーは『モーガン先生のロマンス(『陽気な淑女』)』の撮影に入ります。監督はジョージ・スティーヴンス、ジンジャーとジェームズ・スチュワートで主役を分け、共演者はチャールズ・コバーン、ビューラ・ボンディ、ジェームズ・エリソン、フランシス・マーサーです。教授がナイトクラブの歌手に一目ぼれして、二人は夜のニューヨークを彷徨い歩くシーンはとてもロマンチックです。この映画でジンジャーはアクション・シーン(?)を演じます。教授の元恋人と口喧嘩から始まって、張り手と蹴りの応酬になり、最後はレスリングもどきになります。

 休暇を取ったジンジャーは、1939年5月に『気儘時代』の撮影に入ります。監督はジンジャーにとって最悪のマーク・サンドリッチです。共演者はフレド、ラルフ・ベラミ^、ハティ・マクダニエル、ジャック・カーソン、音楽はアーヴィング・バーリンです。撮影派ジンジャーお気に入りの一流のカメラマンロバート・デ・ダラスです。本作では脚本家はアラン・スコット、アーネスト・バガン、ダドリー・ココルス、へいがー・ワイルドの四人です。本作のストーリーは今までとは違うもので、本格的なコメディといってもいい位のシナリオです。ジンジャーは優柔不断の女性アマンダを演じましたが、今までミュージカル映画で演じたどの役よりも素晴らしかった。ヨーロッパでは、『気儘時代』は『アマンダ』と呼ばれていたそうです。『気儘時代』は当初テクニカラーで撮る予定でしたが、撮影に入る数日前に予算の関係でモノクロになりました。セットも衣装も音楽もカラー撮影を前提で準備しました。ジンジャーとフレッドは、初めてのカラー映画出演に喜んでいましたが、スタッフも含め全員失望しました。本作でのジンジャーの持ち歌“ヤム”は、フレッドが気に入らなかったお下がりです。このナンバーで新しい踊りをジンジャーが思いつきます。フレッドが片足を伸ばしてテーブルの上に踵をつけ、ジンジャーはその足を飛び越えて踊る「テーブル超え」のアイディアです。フレッドはやる気がなかったので、ハーミズとジンジャーで踊って見せたら、フレッドも納得してこの案は採用されました。今回精神科医役のフレッドがジンジャーに催眠術をかけるシーンも、ジンジャーのアイディアでそれをダンスで表現しています。そのシーンにジンジャーが夢を見る場面が挿入されますが、その場面がスローモーションで撮られました。そのダンスの最中の最後でフレッドとジンジャーの唇が一瞬触れました。後でラッシュを観るとスローモーションで撮られた為、二人がしっかりキスしているように映っています。それを観たフレッドは奇声をあげ、その後皆と一緒に笑いだしました。やはり相手役とのキスは、妻のフィリスが嫌がっていたのが真実の様です。『有頂天時代』でドアの陰でキスしたように見せたのは、フレッドの口にメイキャプ係が口紅を塗ったものでした。

テーブル超えをするジンジャーとフレッド

 ジンジャーの次回作は1939年の『カッスル夫妻』で、第一次世界大戦以前にダンス・ホールで神機を博したヴァーノンとアイリーン・カッスルの伝記映画です。夫のヴァーノン・カッスルは戦争中に飛行機事故で亡くなっています。撮影に入る前からアイリーンはジンジャーに事細かく注文を付けてきました。撮影中も靴のリボンが違うとか、アイリーンが考え出したというショートボブにしろとか小競り合いは続きました。ジンジャーもフレッドも自分たちが気に入らない事は断りました。仲にはいった監督のハンク・ポッターは罵声を浴びながら収めていました。ポッター監督は非常に仕事がやり易く、気配りと機転をもって上手く扱ってくれたそうです。共演者はエドナ・メイ・オリヴァーとウォルター・ブレナンで楽しく仕事が出来たそうです。(この二人は名脇役ですから当然ですね。)1900年初頭のヴァーノンとアイリーンのダンス・パターンは、フォックストロット、マキシン、カッスル・ウォークで、嬉しくなるほど古風で楽しかったと語ったっていました。今回フレッドと共演したミュージカル映画で、二度目のソロ・ナンバーを踊ります。“ヤム・ヤム・マンのダンス・パターンを模倣するアイリーン・カッスルも真似をします。だぶだぶのスーツを着て、このナンバーを踊るのは楽しかったそうです。

“ヤム・ヤム・マン”を踊るジンジャー

 この映画でコンビが解消されると噂が広まり、フレッドと共演する最後の映画であるように思ったそうです。この映画のラスト・ナンバー”ミズリー・ワルツ”の撮影時にはパラマウントやコロンビアの上層部や、RKOで制作中の他のステージのスタッフも加わり大勢の人たちの前で撮影されました。ジンジャーはラスト・ワルツを踊りながら、感極まって涙が浮かんだそうです。

カッスル・ウォークを踊るジンジャーとフレッド(左)
映画のラスト・シーン(右)

 この時のジンジャーの写真は、タイム誌の1939年4月10日号で表紙になりました。と書いた処で、次回に又続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」