Vol.14 『ジジャー・ロジャース』の続きの続き

 1938年11月に次回作『ママは独身』の脚本の第一稿が、パン・バーマンから送られてきました。台本を読んで、薄っぺらなストーリーと現実味の無い登場人物だと思い、パン・パーマンに抗議の手紙を書きます。パンは脚本を弁護して、ジンジャーが演じる役は情が厚く人情味がある女性で、ジンジャーにふさわしい映画だと言いました。ジンジャーは彼の言葉を信じて、この映画に出演する事にします。監督はガーソン・カニン、共演者はディヴィッド・ニーヴン、チャールズ・コバ-ン、そして可愛い赤ちゃんです。映画は素晴らしい作品に仕上がり、大衆は好意的な反応を返してくれたそうです。映画はRKOでは最高興行成績を収めた映画の一本になりました。この後、続けて『五番街の女』を撮り14ヶ月ほとんど休みも無く仕事をしていました。4週間の休暇を取り、その後2本のラジオ番組に出演しています。

1939年『ママはママは独身』
ディヴィッド・ニーヴンとジンジャーとエルバート・コブレン・Jr

 1939年11月、『桜草の丘』の撮影に入ります。監督はグレゴリー・ラキャヴァ、ジンジャーの相手役はジョエル・マクリーです。共演者はマージョリー・ランビュー、ヘンリー・トラヴァース、マイルス・マンダークイニー・ヴァーサー、コアン・キャロルです。この映画はジンジャーの俳優としての演技の幅を大きく広げたものになりました。次回作の『ラッキー・パートナー』で、ジンジャーは長い間尊敬していたロナルド・コールマンの相手役になります。監督はマイルス・ストーン、脚本はアラン・スコットとジョン・ヴァン・ドゥルーテンです。共演者はスプリング・バイント、ジャック・カーソン、ハリー・ダヴンポートです。ロナルド・コールマンは完璧な演技者で紳士で、ジンジャーの間違いを指摘したり、何か提案する時は彼女が不快にならないように気を配ってくれたそうです。この時期のRKOはジンジャーをコメディエンヌに仕立てようとしていました。ジンジャーは自分がコメディエンヌなのか主演女優なのか分からなくなっていました。その時、プロデューサーのディヴィッド・ハンプスからベツソ・セラーの「恋愛手帳」の本が送られてきました。本に目を通してみると露骨なラブ・シーンがあり、検閲を通らないと判断しました。母のレラは、うまくリライトしてくれるから大丈夫だと言いました。翌日ディヴィッド・ハンプスから電話があり、RKOはジンジャーの為にこの小説を特別に買い取ったといいます。ダルトン・トランボがリライトするから素晴らしい脚本になるから、その脚本をみてから判断して欲しいと言いました。一ヵ月後にリライトされた『恋愛手帳』の脚本が送られてきました。その脚本は素晴らしい出来で、原作より数段心の琴線触れる作品だと思ったそうです。このキティ役を演じた役者はオスカーを取るだろうとも思ったそうです。ディヴィッド・ハンプスから電話がきた時、ジンジャーは即答で出演する事にします。監督はサム・ウッド、共演者はデニス・モーガン、ジェームズ・クレイグ、グラディス・クーパー、キャサリン・スティーヴンス、メアリー・トリーン、オデット・ミルティ、アーネスト・コサート、エデュアルド・チャネリです。(キャサリン・スティーヴンスは、サム・ウッド監督の娘さんです。)サム・ウッド監督は親しみやすい人でしたが、監督としては頑固なタイプだったそうです。しかし、独善的ではなくどんな小さな声にも耳を傾ける監督だったそうです。この映画を撮り終えて、やりがいのある仕事をしたと実感したと語っています。1940年12月9日付けのライフ誌で『恋愛手帳』の特集が掲載され、表紙にジンジャーの写真が使われたのは二度目です。

1940年『恋愛手帳』
デニス・モーガンとジンジャー(左)
ジンジャーとジェームズ・クレイグ(右)

 1941年にプロデューサーのロバート・シスクから『愛の鐘はキッスで鳴った』の脚本が送られてきました。監督がガルソン・カニンと聞いて、ジンジャーは喜びました。彼と撮った『ママは独身』は、とても楽しく仕事が出来たからです。共演者はジョージ・マーフィ、アラン・マーシャル、バージェス・メレディス、フィル・シルバースで、楽しく映画撮影が出来たそうです。

1941年『愛の鐘はキッスで鳴った』
バージェス・メレディス(左)と

フィル・シルバース

 この映画の撮影が始まった頃、RKOからビルトモア・ホテルで行われる1940年度アカデミー賞授賞式に出席するように言われます。『恋愛手帳』は、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀音楽賞、最優秀女優賞にノミネートされていました。今までのアカデミー賞は、省が授与される前に新聞が受賞者を発表していました。1940年のアカデミー賞から事前に受賞者が分からないようにしました。自分の競争相手があまり強力なので、心情的には出席したくなかったそうです。競争相手は『月光の女』のベティ・ディヴィス。『レベッカ』のジョーン・フォンテイン、『フィラデルフィア物語』のキャサリーン・ヘップバーン、『われらの町』のマーサ・スコットです。演技賞のプレゼンターは、アルフレッド・ラントとリン・フォンティーンです。自分は受賞しないと思って、すまして席に座っていました。誰が受賞したかジンジャーには聞こえていませんでした。RKOのジョージ・シェーファー社長が「ジンジャー、君だよ、君だ」と三回言われて、ジンジャーは初めて事態を把握しました。ショック状態のままマイクの前に立ち、スピーチの準備をしていなかったので、母親への感謝と一緒に仕事をしてきた全ての人への感謝を述べました。自分が何と言ったかは、はっきりと覚えていないそうです。この年の最優秀男優賞は、『フィラデルフィア物語』の親友のジェームズ・スチュワートが受賞したので飛び上がって喜んだそうです。授賞式の翌日の朝、スタジオから電話があり出勤が2時間遅くなりました。スタジオに着くと門衛が受賞を祝福してくれたのを始め、ジンジャーの車を見た人は皆車を止めて祝しました。控室で準備をすませてセットに入ると、左右に七人づつタキシードを着た男たちが、トップハットをジンジャーの頭上で交差してアーチを作っていました。立っていた男たちは電気工やスタッフたちで、後ポケットから彼らの工具や道具がのぞいていたそうです。

1941年2月27日アカデミー賞授与式
ジンジャーとジェームズ・スチュアート

 1941年10月13日、ジンジャーは20世紀フォックスの『ロッキー・ハート』の撮影に入ります。この映画は、新聞の殺人事件の記事を基に罹れた戯曲「シカゴ」を映画化したものです。監督はウィリアム・ウェルマン、プロデューサー兼脚本家ハナナリー・ジョンソンです。共演者はアドルフ・マンジョー、ジョージ・モンgpメリー、フィル・シルヴァースが演じるロキシーはダンサーなので、鉄の階段でタップを踊る事を思い付きます。スタジオには鉄の階段がなかったので、ロサンゼルスのダウンタウンの取り壊されたビルにあった階段をスタジオに運んで使いました。鉄の階段はいい音がするので、カメラマンや小道具係が音を出して楽しんでいたそうです。1941年12月7日、彫刻家のイサム・ノグチと連絡を取ってくれた友人から電話を受け、ジンジャーは自分の胸像を掘ってもらう依頼をしました。翌日自宅で会った日系アメリカ人のイサム・ノグチは、穏やかでありながら非凡さを感じ感銘を受けたそうです。彼は一ヶ月程ジンジャーの傍で黙々と作業を続けていました、ある日の午後、ノグチは仕事に区切りのついた処で、もう当分ここには来られないと言います。アメリカ政府が強制収容所に入れようとしていると告げます。彼はこの彫像は強制収容所に持っていって作業は続けると言います。第二次世界大戦後、イサム・ノグチから電話があり、完成した彫像をいつ持って行くかの連絡でした。二日後、彼はピンクの大理石で出来たジンジャーの胸像を持ってきました。強制収容所という苛酷な環境の中でこの胸像を完成させた、彼の粘り強さと勇気に感銘を受けたそうです。

 1942年20世紀フォックスの『運命の饗宴』への出演依頼が来ました。一着の燕尾服を巡る5話のオムニバス映画で、第2話で友人のヘンリー・フォンダとシーザー・ロメロとの共演なので引き受ける事にします。次の映画を撮る2・3週間の隙間での仕事でした。

1942年『運命の饗宴』
ヘンリー・フォンダ(左)と
シーザー・ロメロ

 パラマウントから次回作『少佐と少女』への出演依頼がありました。ニューヨークに住むヒロインが故郷のオハイオに帰ろうとします。しかし、汽車賃が足りなくて半額の子供料金で乗る為に子供に変装してオハイオに行く話です。子供の頃、巡業していた時に同じ経験をしていたので出演する事にしました。監督の候補者がいるというので、ジンジャーはその人と会う事にしました。ハリウッド映画は初めて監督ですが、素晴らしいユーモアのセンスを持ったビリー・ワイルダーが監督に決まります。共演者はレイ・ミランド、リタ・ジョンソン、ダイアナ・リンです。予想通りビリー・ワイルダーは映画を仕切る有能な監督で、俳優にも好ましい態度で接してくれたそうです。撮影が開始してからも役者が決まっていない役がありました。映画の最後の短いシーンに登場するヒロインの母親役です。監督はジンジャーに顔が似ているスプリング・ビントンを予定していましたが、彼女は既に別の映画の予定が入っていました。監督はジンジャーに誰か母親役の役者はいないかと尋ねるので、母親のレラを推薦しました。交渉の結果、レラはジンジャーの母親役で出演しました。ビリーは俳優の演技に満足すると、皆にシャンペンを振舞っていました。ビリーのお陰で本当に楽しんで仕事が出来ましたが、残念ながらビリーとの仕事はこの一本だけでした。

1942年『少佐と少女』
レイ・ミランドとジンジャー(左)ジンジャーとレラ・ロジャース(右)

 サミュエル・ゴールドウィンから『教授と美女』の脚本が送られてきました。ゲイリー・クーパーとの共演作品でしたが、ジンジャーは断りました。サミュエルはジンジャーをスタジオや自宅に招き、出演させる為に得をしましたがジンジャーは出演を断りました。その役はバーバラ・スタヌィックに回されました。『教授と美女』を観た時、ジンジャーは自分の判断が間違っていた事を知ったそうです。リーランド・ヘイワードからパラマウントの『遥かなる我が子』の主演依頼がありました。脚本を読み戦争に向かう24歳の息子の母親役をやりたいと思わなかったので断りました。この役はオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オリヴィアはその役でアカデミー賞を受賞しました。女性用の精神病棟を題材にした『蛇の穴』も断りました。その主役をオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オスカーにノミネートとされました。オリヴィアは良い作品を見極める才能があると思ったそうです。『ヒズ・ガール・フライデー』の出演依頼があった時も、主演男優が決まっていない段階で断ってしまいます。主演がケーリー・グラントに決まり、ロザンド・ラッセルが相手役になってジンジャーは多少後悔したようです。逆にジンジャーはミュージカル映画の『アニーよ、銃を取れ』のアニー役を切望しました。MGMのルイス・B・メイヤーは「ハイヒールとシルクのストッキングが似合う。アニー・オークレイみたいな勇ましい役をやるのは考えられない。」と断られました。ジュディ・ガーランドも降ろされて、ご存じのようにベティ・八トンがその役を演じました。

 1942年6月、RKOの『恋の情報網』の撮影に入ります。監督はレオ・マッケリー、共演者はケーリー・グラントとウォルター・スレザクです。ナチスの脅威を背景に描かれた、ラブ・ストーリーです。第二次世界大戦中はジンジャーも軍の慰問機関USOから依頼を受け、国債のセース、軍のキャンプや病院を訪問していました。1942年9月に南西部の都市への慰問に十日間のツァーに参加しています。陸、海、空、海兵隊のキャンプを慰問しました。その時、兵卒のジャック・ブリックスと一緒にキャンプを回りました。ツァーが終わってからもジョンジャーはジャックと付き合うようになり、三か月後の1943年1月16日にパサディナで結婚式を挙げました。(ルー・エアーズとは1940年3月13日に離婚しています。)

1942年『恋の情報網』
ケーリー・グランドとジンジャー(左)
ウォルター・スレザクとジンジャー(右)

 1944年3月から、セルズニック・インターナショナルの『恋の十日間』の撮影に入ります。監督はウィリアム・ディタリー、共演者はジョセフ・コットン、シャーリー・テンプル、スプリング・バイトン、トム・ターリーです。この映画は「二人一緒の休暇」というラジオ・ドラマを基に作られた作品です。第二次世界大戦中に出会った夫々問題を抱えた二人が恋に落ちる物語です。シャーリー・テンプルによると、ジンジャーがシャーリーをこの映画から外そうとしていたようです。(真相は分かりません。)

1944年『恋の十日間』
左からシャーリー・テンプル、
スプリング・バイデン、ジンジャー、
ジョセフ・コットン、トム・チェリー

 1944年10月、MGMから『ウォルドフの週末』の出演依頼がありました。この映画は現代版の『グランド・ホテル』で、アイリーン・ギブソンの衣装を着れるので出演する事にします。監督はロバート・Z・レナード、共演者はウォルター・ビジョン、ラナ・ターナー、ヴァン・ジョンソン、エドワード・ベンチュリー、エドワード・アーノルド、そしてサヴィア・クガートと彼の楽団です。1945年RKOの『ハート・ビート』をサム・ウッド監督で撮り、1946年にはユニヴァーサルで『アメリカの恋人』の撮影に入ります。この映画はジェームズ・マディスン大統領の妻、ドリー・マディソンの歴史小説を基にしたものです。監督はフランク・ポーゼーシ、共演者はバージェス・メレディスとディヴィッド・ニーヴンです。映画の終局場面の科白が納得いかなかったので、レラを自宅に呼んで二人で脚本の書き直しをしました。その原稿を監督とプロデューサーに提出し、二人の了解を得てそのシーンを撮りました。と書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」