Vol.15 『ジンジャー・ロジャース』 最終章

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 1948年の初夏やっと休暇をとり、レラと一緒にオレゴンの自分の牧場に行きました。日よけ付きのブランコに腰掛けていた六月のある日の朝、MGMの幹部から電話がきました。『ブロードウェイのバークレイ夫妻』という作品の出演依頼でした。又フレッドと共演出来るので、喜んで出演を承諾しました。ダンシング・シューズを履くのは十年振りになります。早速エクササイズ、柔軟体操、ストレッチングを始め、稽古が始まる頃には呼吸法を正しく自然に出来るようにしました。監督はチャルズ・ウォルターズ監督、撮影監督はハリー・ストラドリング、共演者はオスカー・レヴァント、ビリー・バーク、ジャック・フランソワ、ゲイル・ロビンスです。この映画でジンジャーとフレッドは、初めてのテクニカラー映画出演となりました。この映画のフレッドの相手役はジュディー・ガーランドでしたが、彼女が撮影に耐えられない状態だったので、ジンジャーが出演する事になりました。音楽担当のハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインが、夫婦のダンシング・チームが再び一緒に踊る見せ場の曲を作ろうとしていました。ジンジャーは『踊らん哉』でフレッドが歌った“誰も奪えぬこの想い”を使うように提案しました。作曲家のハリーは賛成してくれて、“誰も奪えぬこの想い”で再びフレッドと踊り事になりました。フレッドと本格的に稽古を始めると、十年のブランクを感じず数週間振りに踊ったように思ったそうです。この映画でフレッドは新しいダンス・シーンに挑戦しています。“シューズ・ウィズ・ウイングス・オン”で、フレッドは多くの靴たちと踊ります。

1949年『ブロードウェイのバークレイ夫妻』
フレッドと踊るフレッド(左) 沢山の靴と踊るフレッド(右)

 ジンジャーは1948年12月にRKOとの契約を解消し、完全なフリーになります。その頃、ジャック・ブリッグスとの結婚も解消する事にしました。1949年にワ-ナー・ブラザースの『パーフクト・ストレンジャー』の撮影に入ります。監督はブレティン・ウィンダスト、ジンジャーの相手役はデニス・モーガン、助演はセルマ・リッター、マージョリー・ベネット、ジョージ・チャンドラー、ポール・フォードです。続けてワーナー・ブラザースの『目撃者』の撮影に入ります。この映画はクー・クラック・クランを描いたメロ・ドラマですが、KKK団に捕らえられたジンジャーの鞭打ちシーンがあります。監督はスチュワート・ヘイスラー、共演は歌わないドリス・デイ、スティーヴ・コクラン、ロナルド・レーガンです。

 1950年3月、ロサンゼルスのパンテージ・シアターでアカデミー賞授賞式が開催されました。この授賞式でフレッド・アステアの栄誉を称えてオスカーが贈られました。このプレゼンターをジンジャーが行いました。オスカー像には「そのユニークな芸風と、ミュージカル映画の技術への貢献を称えて」と刻まれていました。1950年五月から八月にかけて、ユニバーサルの『ザ・グルーム・ウォア・スパーズ』の撮影に入ります。監督はリチャード・ウォルフ、共演者はジャック・カースン、ジョーン・ディヴィス、ロス・ハンターです。軽めの作品で、ジンジャーは弁護士を演じました。

 ジンジャーは舞台劇「ラヴ・アンド・レット・ラヴ」に出演する事になります。二十一年振りの舞台出演です。作家兼監督はルイ・ヴェルヌイユ、ジンジャーはヴァージア・マクマスの名で一人二役の姉妹を演じました。共演者はポール・マクグラス、トム・ヘルモア、ヘレン・マーシー、ディヴィッド・F・パークンスです。1951年11月19日に幕を開け、51回の公演が行われました。この作品は面白くもないセリフの並んだコメディで、すっかり失望したそうです。1951年11月5日、四度目のライフ誌の表紙を飾った事だけは、嬉しかったそうです。

 舞台終了の二週間後、二十世紀フォックスから『結婚協奏曲』への出演依頼があり、出演を承諾しました。この映画は未だ資格が無い新米判事が、無資格で6組のカップルを結婚さてしまい、その後に起こるトラブルが展開されるコメディです。監督はエドマンド・グールディング、共演者はフレッド・アレン、ヴィクター・ムーアです。この作品が完成した二週間後、再び二十世紀フォックスの『ドリーム・ボート』に出演します。監督はクロード・ビニヨン、ジンジャーの相手役はクリフトン・ウェブ、共演者はフレッド・クラーク、エルサ・ランチェスター、そして新人スターのアン・フランシスとジェフリー・ハンターです。

1942年『結婚協奏曲』
左からヘンリー・フォンダ、
ジンジャー、シーザー・ロメロ

 1952年『モンキー・ビジネス』の撮影に入ります。監督はハワード・ホークス、ジンジャーの相手役はケーリー・グラントで十年振りの共演です。ケーリー・グラントはボーッとした学者役で、ジンジャーは妻を演じます。若返りの薬を発明する仕事をしていますが、二人は実験用のチンパンジーが調合した薬を飲んでしまいます、二人は童心にかえってしまい、大騒動が起こるコメディです。雇主はチャールズ・コバーン、秘書役はマリリン・モンローです。撮影終了後、ジンジャーは休暇を取ってヨーロッパ旅行に出来掛けます。帰国後、パラマウントの『女性よ永遠に』の撮影に入ります。二人の主演男優はウィリアム・ホールデンとポール・ダグラスです。監督のヴァイング・ラバーはジンジャーの好きなタイプの監督ではなく、態度は冷たく思いやりに欠けていたので、この映画に参加した事を後悔したそうです。1953年2月7日、ジンジャーはフランスで出会った弁護士のジャック・ベルジュラと結婚しました。

1952年『モンキー・ビジネス』
ケーリー・グラントとジンジャー(左)
左からマリリン・モンロー、チャールズ・コバーン、ケーリー・グラント

 1953年12月にブロティッシュ・ライオン映画社から、『行きずりの恋』への出演依頼がありました。台本を読んで夫のジャックが相手役なら出演すると、プロデューサーに話します。監督のデイヴィッド・ミラーはジンジャーの申し出に合意しました。ジンジャー初のイギリス映画での共演者は、スタンリー・ベーカー、ハーバート・ロム、コーラル・ブラウンです。夫のジャックは長時間のハードな撮影をこなし、格闘シーンも吹き替えなしでやりました。1954年2月に撮影が終わり、カリフォルニアに戻ります。帰宅後、友人のグインル夫妻からリオデジャネイロのカーニヴァルに招待されます。夫のジャックの説得で二人はリオデジャネイロに行きます。カーニヴァルを楽しんだ後、アルゼンチン大統領のファン・ペロンからブエノスアイレスに招待されます。エヴァ・ペロンの慰霊碑に云ったり、競馬場でホース・ショーを観たり、巨大なバーベキュー・パーティでもてなされました。二人は、アルゼンチンからペルーのリマに向かいます。夫のジャックは闘牛ファンだったので、ジンジャーを闘牛場に連れて行きます。ジンジャーにとって初めて見る闘牛は、残酷で見るのが苦痛だったようです。カリフォルニアの自宅帰って、ジンジャーはのんびり過ごしていましたが、4月にパリに出掛けます。南フランスにも数日滞在し、ローマを訪れます。ローマに滞在中にダリル・F・ザナックから、出演依頼の電話を貰います。帰国後、『意外なる犯行』の脚本を読むと、ジンジャーの役はある女優の役です。その女優が最後には殺人犯だったという役です。プロデューサー兼監督がナナリー・ジョンスン、共演者はレジナルド・ガーディナー、ジーン・ティアニー、ヴァン・ヘフリン、ジョージ・ラフト、オットー・クルーガー、ペギー・アン・ガーナーです。

1954年『行きずりの恋』
ジャック・ベラジェックとジンジャー

 1954年10月、リーランド・ヘイワードからテレビのスペシャル番組「トゥナイト・アット8:30」への出演依頼がありました。ノエル・カワードの短い戯曲三篇を一組にして放映するものです。演出家はオットー・プレミンジャー、三つの劇の相手役は一番目はマーティン・グリーン、二番目はトレヴァー・ハワードです。そして三番目はイルカ・チェイス、グロリア・ヴァンダービルド、エステレ・ウィンウッド、ギグ・ヤング、マーガレット・ヘイズです。この番組はテレビの生番組だったので、ステージの前に観客がいなす。九十分のショーの中で、三つの異なる役を演じるのは、凄いプレッシャーを感じながら演じたそうです。

 次回作はコロンビア社の『消された証人』です。監督は友人のフィル・カールソン、共演者はエドワード・G・ロビンソン、ブライアン・キース、ローン・グリーンです。戯曲「デッド・ビジョン」の映画化で、ジンジャーは三流ギャングのガール・フレンド役です。彼女は服役中ですが、刑務所から連れ出されて警察の厳重な保護を受けます。彼女はギャングのボスに逆らって、共犯者に不利な証言をする役どころです。

1955年『消された証人』
ブライアン・キースとジンジャー(左)
エドワード・G・ロビンソンとジンジャー(右)

 1956年メイ・ウエストガ出演する予定だった『最初の女セールスマン』に出演します。製作と監督はアーサー・ルービン、共演者はキャロル・チャニング、バリー・ネルソン、ジェームス・アーネス、そしてクリント・イーストウッドが小さな役を演じています。1956年は二十世紀フォックスで『十代の犯行』と『オー、メン!オー・ウィメン』の二本の作品に続けて出演しました。1957年半ばにジャックの不貞があり、ジンジャーは離婚しました。

 1957年はテレビ・ショーに定期的にゲストとして出演していました。ジンジャーのテレビ・ショーの企画もありましたが、実現しませんでした。1958年1月、ジンジャーはラスヴェガスのリヴィエラ・ホテルでライブ・ステージの公演を四週間行いました。1959年舞台劇の「ピンク・ジャングル」に出演する事になり、ニューヨーク公演の前にサンフランシスコで三週間公演されました。その時点でプロデューサーは映画の撮影の為にハリウッドへ行ってしまいます。省の問題点の改善も無く給料の未払いもあった為、ジンジャーはこのショーの契約を解消しました。1960年の夏、ジンジャーは念願だったミュージカル・コメディの「アニーよ銃を取れ」に出演しました。東海岸五都市映画の夏期軽劇場サーキットを回りました。この興行後、俳優のG・ウィリアム・マーシャルと知り合い、六か月の交際を経て1961年3月16日にサンタモニカで結婚しました。じかし、二週間も経たないうちに、ウィリアムの飲酒癖が分かりましたが、判断を誤ったまま結婚生活を続けます。ウィリアムはジンジャーから借金をする為、ジンジャーは多くの夏期軽劇場に出演しました。1963年「不沈のモリー・ブラウン」で西部諸州を公演し、「トヴァリッチ」で全国ツァー公演しました。19563年3月、マグナピクチャースで『ハーロウ』に出演します。この映画はジーン・ハーロウの人生を基にした作品で、ジンジャーはジーンの母親役を演じました。監督はアレックス・シーガル、共演はキャロル・リンレイ、バリー・サリヴァン、エフレム・ジンバリスト・Jrです。しかし、この映画は八週間で撮影された残念な作品になってしまいました。そして、この映画がジンジャー最後の映画となります。

 1965年ジンジャーは、ニューヨークの四十四番街のセント・ジェームズ劇場で「ハロー・ドーリー!」に出演します。1967年2月にセント・ジェームズ劇場の公演が終わり、一座と一緒に国内ツァーに回りました。ジンジャーとフレッドは、4月10日のアカデミー賞授賞式で作品賞のプレゼンターとして招待されました。ジンジャーとフレッドは、ステージに上がった時即興のステップを披露して観客に喜んで貰いました。(ジンジャーのアイディアです。)「ハロー・ドーリー!」はニューヨークからボストンまで、全千百十六回の公演で終了しました。

1965年「ハロー・ドーリー!」
ドリー・レヴィー役のジンジャー

 1968年「ハロー・ドーリー!」の長期公演を終了し、ジンジャーはオレゴンの牧場に行きます。のんびり過ごしていましたが、ロンドンのハロルド・フィールディンから国際電話があり、ミュージカル・コメディ「メイム」への出演依頼がありました。開幕は1969年2月、八ヵ月の準備期間がとれるので出演を快諾しました。12月13日にジンジャーは船でロンドンに向かいました。ロンドン到着後すぐに稽古を始め、1969年2月23日の開幕に備えます。「メイム」は、14ヵ月間ロンドンで上演されました。「メイム」では衣装を二十七回も変えるので、非常にハードな作品だったそうです。ジンジャーはウィリアム・マーシャルと離婚する為に離婚申請をしました。その後、ジンジャーは1971年「ココ」の公演でニューイングランド諸州をまわりました。1972年にはJ・C・ベニー社のファッション・コンサルタントになり、ジンジャー・ロジャース・シリーズのランジェリーをデザインしり全国をインタビューして回りました。1974年「ノー・ノー・ナネット」をダラスで公演し、続いて「40カラット」を1975年の夏まで公演しました。 1975年、ロージャース・ローグ・リヴァー・レビューを結成し、「ジンジャー・ロジャース・ショウ」の公演を始めます。12月にオクラハマで幕を開け、それから5年間国中や海外も回りました。そんな中、1977年5月の母親のレラが亡くなりました。悲しみを乗り越えてツァーを続けていました。

「ジンジャー・ロジャース・ショー」
左からロン・スタインベック、
ジェフ・パーカー、マイケル・コディ、ジム・テーラー

 1980年は「エニング・ゴーズ」の全国公演を行い、1983年には「ミス・モファット」をインディアナポリスで公演し、1984年「チャーリーの叔母」をエドモントンで公演しました。そして1985年に念願の舞台演出の依頼がきました。「ベーブス・イン・アームズ」をニューヨーク州たりータウンで、四週間舞台演出をしました。その後も多忙な日々を精力的に過ごされました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」