Vol.18 『フロンテア・マーシャル』

【スタッフとキャストの紹介】

 西部劇と云ったらジョン・ウェインと云う方が多いと思います。1946年に公開された『スポイラース』(1942年製作)のラストの格闘シーンは、4分間の大立ち回りで壮絶な殴り合いでした。あのジョン・ウェイン(35歳)と対等に格闘をしたのが、ランドルフ・スコット(44歳)でした。B級映画の大スターと云われたランドルフ・スコットは、西部劇への出演本数が一番多い俳優です。やはりB級西部劇映画ファンとしては、ランドルフ・スコットから始めます。 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

ワイアット・アープ
ランドルフ・スコット(41歳)

 ランドルフ・スコット(1898年1月23日~1987年3月2日)はヴァージニア州で生まれ、ノースカロライナ州のシャーロットで育ちました。ハイ・スクール卒業後、19歳で陸軍に入隊して第一次世界大戦中のフランスで従軍します。除隊して帰国後、ジョージア工科大学に入学してアメリカン・フットボールの選手として活躍しますが、背中の怪我のため選手活動を諦めてノースカロライナ大学に転校しますが中退します。その後父親が働く会社で働きますが、演劇に興味を持ち父親の知人のハワード・ヒューズに出会い、彼の紹介で1928年に映画界に足を踏み入れます。演技を学んだ事も無いズブの素人ですから、当然エキストラや端役からスタートです。彼の南部訛りは終生西部劇で活かされますが、その最初の切っ掛けは1929年の『ヴァージニアン』です。初主演のゲイリー・クーパーにヴァージニア訛りや馬術を指導し、エキストラとしても出演しています。その後、セシル・B・デビルの勧めで舞台劇に出演して演技の勉強をしました。パサデナ・プレイハウスの舞台やヴァイン・ストリート・シアターでの公演の合間に、1931年『Women Men Marry』に初出演します。スコットはパラマウントと契約し、1932年のコメディ『空の花嫁』に脇役で出演しました。同年パラマウントの『砂漠の遺産』で主役を演じる様になります。ヘンリー・ハサウェイは、この映画で監督デビューしました。当時パラマウントはサイレント映画のストック映像を使って、リメイクしていました。1933年の『雷鳴の群れ』と『森の男』では、サイレント映画スターのジャック・ホルトの映像と合わせる為に、スコットは黒髪にして口髭を生やして出演しました。西部劇の撮影の合間に他社への貸し出しもあり、ラブ・コメディやホラーなど数本の映画に出演しています。1934年には『戦ふ幌馬車』やRKOへの貸し出しで1935年『ロバータ』に出演しています。1936年パラマウントで『艦隊を追って』で再度ミュージカル映画に出演し、『モヒカン族の最後』、1938年『農園の寵児』に出演しました。この後、20世紀フォックスと契約して『地獄への道』、1939年『フロンティア・マーシャル』・『ヴァージニアの血闘』に出演しました。1941年『西部魂』では改心した無法者という今まで演じた事のない役を演じ、1942年にユニバーサルの『スポイラース』では最初で最後の悪役を演じています。

 第二次世界大戦にアメリカ合州国が参戦した時、スコットは海兵隊の士官に志願しましたが、数年前の背中を負傷していた為に拒否されます。参戦出来ないスコットは、ジョー・エリタとコンビをコメディのツアーを行ったり、自分の牧場で政府の為に食料の調達を行ったり、勿論戦争映画にも出演していました。1942年の『リポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』は、アメリカ海兵隊魂を称える映画で戦意高揚映画です。撮影は日米開戦前に撮影が始まり、公開後は海兵隊への入隊者が一気に増加しました。

 1942年西部劇『スポイラース』に出演し、1943年戦争映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン』・『駆潜艇K-225』・『ガンホー』に出演しています。1946年『静かなる対決』に出演以降は、1962年の『昼下がりの決斗』まで凡そ40本位の西部劇に出演しました。スコットは『昼下がりの決斗』に出演後、64歳で映画界を引退しました。裕福な家庭で育ったスコットは投資をしていて、一億ドル相当の財をなしたと言われています。1987年にビバリーヒルズの自宅で89歳で心臓と肺の病気で亡くなりました。

 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

 アラン・ドワン(1885年4月3日~1981年12月28日)は、カナダのオンタリオ州トロント生まれのアメリカの映画監督、プロデューサー、脚本家です。1892年12月4日に、ドワン一家はウィンザーからデトロイトまでフェリーで渡米しました。アラン・ドワンはノートルダム大学で工学を学んだ後、シカゴの照明会社に勤務しましたが、映画業界に関心を持っていました。エッサネイ・スタジオの脚本家になる機会があり、脚本家になります。1911年経営者から消滅寸前の映画会社の調査を依頼され、カリフォリニア向かいます。調査した会社の状況は最悪だったので、シカゴの依頼人に会社を解散するように伝えます。依頼人はアラン・ドワンに会社の運営を一任します。アラン・ワンは1911年8月から1912年7月までカリフォリニア州ラ・メサで、カリフォルニアで最初のスタジオのフライング・A・スタジオを運営しました。その後、アラン・ドワンは西部劇やコメディを数多くの映画を監督しました。1922年にはダグラス・フェアバンクスの『ロビン・フット』やグロリア・スワンソンの8本の長編映画を監督しました。

 トーキー映画時代になり、ドワンはシャーリー・テンプルの1937年『ハイディ』、1938年『農園の寵児』を監督しました。約50年の長いキャリアの中で、あああ125本の映画を監督しました。1949年『硫黄島の砂』、1923年」私刑される女』、1954年『バファロウ平原』、1956年『敵中突破せよ!』等です。

ドク・ホリディ
シーザー・ロメロ(32歳)

 シーザー・ロメロ(1907年2月15日~1994年1月1日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの俳優、活動家です。ロメロはニュージャージー州ブラッドビーチで育ち、ブラッドビーチ小学校、アズベリーパーク高校、カレッジエイト・スクール、リバーデル・カントリーデイ・スクールに通いました。銀行の仕事をしながら、ダンスのトレーニングを受けます。1927年ブロードウェイの「Lady Do!」でダンサーとして開花し、1933年から映画に出演するようになります。ロメロは、1930年代から1950年代にかけて、映画で「ラテンの恋人」を演じ、通常は脇役を演じていました。1934年『影なき男』で悪役を演じ、1935年の『スペイン狂想曲』ではマレーネ・ディートリッヒの相手役で主役を演じました。1935年『メトロポリタン』、1938年『マイ・ラッキー・スター』、1939年からは『シスコ・キッド』シリーズの6本に出演しました。1942年の『オーケストラの妻たち』ではグレンミラー楽団のピアノ・プレイヤー役を演じています。

 1942年10月12日にロメロはアメリカ沿岸警備隊に入隊し、太平洋戦域に従軍しました。1943年11月には沿岸警備隊の乗組員を乗せた攻撃輸送艦キャバリエ (USS Cavalier, APA-37) に乗船し、テニアン島とサイパン島で上陸作戦に従事しました。ロメロは最終的には艦長になりました。その後、1948年『奥様武勇伝』、1954年『ヴェラクレス』、1955年『スピードに命を賭ける男』、1956年『八十日間世界一周』、1960年『オーシャンと十一人の仲間』、1962年『電話にご用心』等に出演しました。1950年代半ばからは多くのテレビ映画に出演し、1965年「0011ナポレオン・ソロ」ではスラッシュのフランス支部のボスを演じ、1966年から1968年までは、「バットマン」でジョーカーを演じていました。1985年から1987年までは、「ファルコン・クエスト」でピーター・スタヴロス役を演じました。

 共和党員のロメロは、1964年のカリフォルニア州の上院選で親友のジョージ・マーフィの選挙応援を積極的に行います。マーフィは民主党のピエール・サリジャーを破って当選し、マーフィは1965年1月1日から1971年1月1日までの1期6年間上院議員を務めました。その後、1966年と1970年の知事選でロナルド・レーガンの為に選挙応援をし、1968年、1976年、1980年、1984年の4回の大統領選挙でも全て選挙応援をしました。ロメロは1994年1月1日、カリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ・ヘルス・センターで、気管支炎と肺炎の治療中に血栓の合併症により86歳で亡くなりました。

サラ・アレン
ナンシー・ケリー(18歳)

 ナンシー・ケリー(1921年3月25日 – 1995年1月2日)は、マサチューセッツ州ローウェル生まれのアメリカ合州国の俳優です。ケリー家は演劇一家で、母親のナン・ケリーはサイレント映画の女優です。母親は一歳のナンシーをモデルとしてキャリアをスタートさせ、子役として1926年の『女王蜂』で映画デビューさせます。ナンシーは、ベントレー・スクール・フォー・ガールズ、イマキュレート・コンセプション・アカデミー、セント・ローレン・アカデミーで学びました。ナンシーは9歳まで子役モデルとして、様々な広告に登場しました。その頃のナンシーは、“アメリカで最も写真に撮られた子供”と言われていました。1929年にはシェイクスピア劇「マクベス」でブロードウェイ・デビューし、1954年にブロードウェイ舞台劇「悪い種子」して1955年トニー賞を受賞しました。1933年から1934年にかけてNBCラジオで放送された、ラジオ・ドラマ「オズの魔法使い」でドロシー・ゲイルを演じました。CBSラジオで1931年から1945年まで放送されていた「マイチ・オブ・タイム」にも出演していました。この番組はタイム社提供のラジオ・ドキュメントとドラマで、ナンシーはドラマに出演していました。このラジオ・ドラマにはラジオ俳優や司会者の他に映画俳優も出演しています。オーソン・ウェルズは11人の人物を演じています。アート・カーニー、ジョン・マッキンタイア、アグネス・ムーアヘッドも出演していました。

 ナンシーは1938年から1956年までに、27本の映画に出演して主役の女性を演じました。1938年『サブマリン爆撃隊』、1939年『地獄への道』・『紅の翼』・『スタンレー探検記』、1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1943年『ターザン砂漠へ行く』、1956年『悪い種子』などです。その後、1963年まではテレビにコンスタントに出演し、ブロードウェイでは「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」でマーサ役を数か月演じました。1970年代半ばにテレビにも復帰しています。ナンシーは1995年1月2日、糖尿病の合併症でカリフォルニア州ベルエアの自宅で亡くなりました

ジェニー役のビニー・バーンズ(36歳)
1945年『海賊バラクーダ』アン役のバーンズ(右)

 ビニー・バーンズ(1903年3月25日 – 1998年7月27日)は、ロンドンのイズリントン生まれのイギリスの女優です。バーンズは、コーラス・ガール、看護師、ダンス・ホステスをし、1923年に短編映画で映画デビューしました。イギリスで1933年『ヘンリー八世の私生活』、1934年『ドン・ファン』に出演し、その後ハリウッドに渡ります。1935年『米国の機密室』、1936年『モヒカン族の最後』、1938年『素晴らしき休日』、1942年『西部の顔役』、1966年『青春がいっぱい』等に出演しました。特に.1945年『海賊バラクーダ』では女海賊役で、剣を振り回してアクション・シーンも演じています。1973年『エーゲ海の旅情』の出演を最後に引退しました。バーンズは1998年7月27日、ビバリーヒルズで95歳で老衰で亡くなりました。

ベン・カーター
ジョン・キャラダイン(30歳)

 ジョン・キャラダイン(1906年2月5日~1988年11月27日)はニューヨーキ出身のアメリカ合州国の俳優です。彼が二歳の時父親が亡くなり、母親は再婚しました。ジョンはフィラデルフィアの学校で彫刻を学び、ニューヨークの叔父ピーター・リッチモンドの元で暮らしたり、肖像画を描きながら各地を旅していました。シェイクスピア劇を観てから俳優の道に進みます。1925年に初めて舞台に立ち、1930年から“ピーター・リッチモンド”と名乗りますが、1933年に“ジョン・キャラダイン”と改名して多くの映画に出演しました。1930年代はノン・クレジットで、1933年『透明人間』、1934年『クレオパトラ』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』等に出演しています。1936年『虎鮫島脱出』・『テンプルのえくぼ』・『砂漠の花園』、1937年『我は海の子』・『ハリケーン』、1938年『サブマリン爆撃隊』等に出演しました。ジョン・フォード作品の1939年『駅馬車』、1940年『怒りの葡萄』の出演で脚光を浴びるようになります。1940年代には自身のシェイクスピア劇団でツアーを行うなど、舞台でも活躍しました。1941年には『西部魂』・『血と砂』・『マンハント』に出演し、1944年ユニバーサルの『フランケンシュタインの館』でベラ・ルゴシ、ロン・チャイニー・ジュニアに次いで三代目のドラキュラ伯爵を演じました。その後も数本ドラキュラ伯爵を演じ、1983年『魔人館』では、ヴィンセント・プライス、クリストファー・リー、ピーター・カンシングの父親役を演じています。1945年『落ちた天使』・『大砂塵』、1956年『十戒』・『八十日間世界一周』、1958年『誇り高き反逆者』、1962年『リバティ・バランスを射った男』、1954年『シャイアン』、1976年『ラスト・シューテスト』等に出演し、1986年まで映画に出演していました。彼の息子の四人、ブルース・キャラダイン、デヴィッド・キャラダイン、キース・キャラダイン、ロバート・キャラダインは俳優になりました。1988年11月27日にイタリアのミラノで、82に歳で亡くなりました。と書いた処で本編は次回に続きます。 最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

発売元:株式会社ジュネス企画

フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニー・バーンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チャイニー・Jr