Vol.21 『ビッグ・トレイル』

『ビッグ・トレイル』
発売元:20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント

 『ビッグ・トレイル』の主役は当初パラマウントのゲイリー・クーパーを予定していましたが、貸し出して貰えず無名の新人マリオン・ロバート・モリソンを主役に抜擢しました。ラオール・ウォルシュ監督は、この新人にジョン・ウェインと名付けました。ジョン・ウェインが演じているのは、山や森で動物や原住民と共に暮らすナイフの名人ブレック・コールマン。サイレント映画時代から数多くの映画に出演している名脇役タリー・マーシャルが彼の相棒のジークを演じていて、ヒロインのルース・キャメロン役はマルゲリーテ・チャーチルです。そして、強欲で狡賢い悪役レッド・フラックをタイロン・パワー・シニアが演じています。フラックの相棒ロペスをチャールズ・スティヴンス、もう一人の悪役の賭博師ソープをイアン・キースが演じています。

【スタッフとキャストの紹介】

ラオール・ウォルシュ監督

 ラオール・ウォルシュ(1887年3月11日~1980年12月31日)は、ニューヨーク生まれのアメリカ合州国の映画監督・俳優・映画芸術アカデミー(AMPAS)の創設メンバーです。ウォルシュは高校時代“オメガ・デルタ・クラブ”のメンバーでした。その後シートン・ホール大学に進学しています。1909年に演技を始め、ニューヨーク市で初舞台を踏んでいます。その後ウォルシュは1912年に映画界入りし、ディヴィット・W・グリフィスの手伝いをしながら映画作りを学びました。1913年に本名からラォール・ウォルシュに改名し、短編映画を撮り監督としてもデビューしました。1915年の『国民の創生』ではグリフィス監督のアシスタントを務め、俳優としてリンカーン大統領を暗殺する役を演じています。1915年最も初期の長編ギャング映画『再生』を、マンハッタンのバワリー地区でロケ撮影して監督しました。この映画は公開当時絶賛され、2000年に米国議会図書館によって米国国立フィルム登録簿に保存されました。

 第一次世界大戦中、ウォルシュはアメリカ陸軍の将校として勤務していました。1924年にはダグラス・フェアバンクスが製作・主演した『バグダットの盗賊』の監督に抜擢されます。1926年にはヴィクター・マクラグレンとドロレス・デル・リオ主演の『栄光』を監督しました。1928年グロリア・スワンソン主演の『港の女』では、ウォルシュは13年振りに俳優として出演して監督もしました。1928年の『懐かしのアリゾナ』撮影中に事故の為、右目を失明してアイ・パッチを付けています。1930年に『ビッグ・トレイル』『彼奴(きやつ)は顔役だ!』、1941年『壮烈第七騎兵隊』『いちごブロンド』、1949年『白熱』、1952年『海賊黒ひげ』等を監督しています。1920年代から1960年代までに西部劇からギャング映画やら海洋冒険映画やらコメディと様々のジャンルの映画の監督をしています。ウォルシュは1964年に引退し、1980年12月31日に93歳で心臓発作の為亡くなりました。彼の映画は主人公の人間性を掘り下げ、メリハリのある演出とテンポの良い展開で大好きな監督です。

ブレック・コールマン役
ジョン・ウェイン(23歳)

 ジョン・ウェイン(1907年5月26日~1979年6月11日)は、アイオワ州ウィンターセット生まれの映画俳優、プロデューサー、監督です。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居しました。ウェインは何処に行く時にもエアデール・テリアの愛犬“リトル・デューク”を連れていました。隣人がウェインを“ビッグ・デューク”と呼び始め、以後愛称が“デューク”となりました。高校卒業後に海軍兵学校へ出願しますが入学出来ず、南カリフォルニア大学に入学しました。在学中フットボールをやりましたが、水泳中に怪我をして協議生命を絶たれました。大学時代に田舎の映画スタジオで働き始め、トム・ミックスの紹介で大道具係をするようになり、1928年には端役で映画出演するようになります。1930年にジョン・フォード監督の紹介で、『ビッグ・トレイル』の主役になりました。『ビッグ・トレイル』は、撮影に特殊な70㎜フィルムを使い200万ドルの巨費で製作されましたが、興行的には失敗しジョン・ウェインはその後B級専門俳優として、1939年の『駅馬車』に出演するまで鳴かず飛ばずの状態が続きます。しかしその不遇期間に射撃、乗馬、格闘技を習得したり、歌うカウボーイとして馬に乗りながら歌を歌う映画にも出演しています。1933年の『伝説のガンマン』では白馬に乗ってギターを弾きながら歌っています。

 1939年に出演した『駅馬車』が大ヒットして、主役を演じてたウェインはジョン・フォード作品の看板役者になります。その後『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』『静かなる男』『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを撃った男』等、35年間にフォード作品には20作以上に出演しました。ウェインは西部劇や戦争映画で強くて逞しいヒーローを演じ続けていましたので、“アメリカの英雄”と称賛されていました。しかし、ウェインは兵役についていません。1940年に徴兵が復活し、1941年徴兵該当年齢の34歳でしたが、徴兵猶予を申請して受理されました。第二次世界大戦が終了する1945年までハリウッドに残って21本の映画に出演しました。

 1948年の『赤い河』の大ヒットでウェインは、名実共にスターの座を獲得しました。愛国主義者のウェインはタカ派俳優として非難されていましたが、ベトナム戦争時には1968年『グリー・ベレー』で製作・監督・主演して、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描きました。1964年に肺癌を宣告され片肺を失いますが、闘病を宣言して俳優活動を続けました。ウェインは1949年の『硫黄島の砂』と1960年の『アラモ』で、アカデミー賞にノミネートされましたが受賞出来ませんでした。1969年の『勇気ある追跡』で念願のアカデミー主演男優賞を受賞しました。種がい出演した映画は154本で、西部劇は79本でした。遺作になった1979年の『ラスト・シューティスト』では、過去に出演したヒーロー像と自身の現実を織り交ぜたJ・B・ブックスを演じました。ラストではロン・ハワードに止めの一発を撃たせ、恰もロン・ハワードに未来の映画界を託したような暗示を感じさせます。胃癌の悪化で1979年5月1日からカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院して治療していましたが、1979年6月11日に死亡しました。

ジーク役のリー・マーシャル(66歳)

 タリー・マーシャル(1864年4月10日~1943年3月10日)は、カリフォルニア州ネバダシティ生まれの性格俳優です。マーシャルは私立学校とサンタクララ・カレッジに通い、工学の学位を取得して卒業しました。18歳で舞台に出演し、1883年3月にはサンフランシスコのウインターガーデンの舞台に出演しています。1887年からは、ブロードウェイで様々な舞台に出演しています。マーシャルはエドワード・ヒュー・サザンの元で演技と舞台演出を学び、様々なレパートリー劇場の舞台に出演しました。1914年ハリウッドに移り、『全額支払われた』でスクリーン・デビューしました。その後、膨大な数の作品で様々な役を演じました。1916年『イントレラス』、1918年『スコーマン』、1921年『蓮の花』、1923年『ノートルダムのせむし男』、1929年『フーマンチュー博士の秘密』1930年『ビッグ・トレイル』・『トム・ソーヤの冒険』、1932年『グランド・ホテル』、1935年『二都物語』、1941年『ヨーク軍曹』、1942年『拳銃貸します』等です。マーシャルは1943年3月10日、カリフォルニア州エンシノの自宅で、心臓発作を起こして78歳で亡くなりました。

ルース・キャメロン役
マルゲリーテ・チャーチル(20歳)

 マルゲリーテ・チャーチル(1910年12月26 ~2000年1月9日)は、アメリカの舞台俳優で映画俳優です。子役だったチャーチルは、1922年12月25日にブロードウェイの舞台に初登場します。その後、16歳でブロードウェイの主役女性俳優として称賛されました。彼女の演技を観たフォックス・フィルムの関係者が契約結び、1929年『The  Diolomats』でスリーン・デビューしました。同年ポール・ムニの映画デビュー作『ヴァリアント』に出演し、1930年『ビッグ・トレイル』に主役女優として出演しました。1931ン年『速成成金』・『怪探偵張氏』、1933年『女難アパート』、1936年『歩く死骸』『女ドラキュラ』等に出演し、ブロードウェイの舞台に出演していました。

レッド・フラック役
タイロン・パワー・シニア(61歳)

 タイロン・パワー・シニア(1869年5月2日 ~1931年12月23日)は、イギリス・ロンドン生まれのアメリカの舞台俳優で映画俳優です。パワー家は4代続いた芸能一家で、アイルランドの人気コメディアンのウィリアム・グラートン・・タイロン・パワーから始まり、フレデリック・タイロン・エドモンド・パワー(タイロン・パワー・シニア)、タイロン・エドワード・パワー3世(タイロン・パワー・ジュニア)、タイロン・ウィリアム、パワー4世と4代続いています。

 タイロン・パワー・シニアは、ロンドンのハンプトンにある私立全寮制男子校のハンプトン・スクールに通い、その後イングランド南東部のドーバーにある全寮制のドーバ-・ケレッジに通いました。1883年、14歳の時両親の意向でイギリスからフロリダに行き、柑橘類の栽培を学びました。数年後、パワーは農作業から逃げ出してフロリダ州セントオーガスティンの劇場会社に入社します。1889年11月29日に「私設秘書」で舞台デビューし、1889「ベッキー・シャープ」、1903年「ユリシーズ」に出演しました。1908年の「家の召使」は124回上演され、その他多くのシェイクスピア劇で様々な役を演じ、世界中をツァーで回りました。1914年にはサイレント映画『貴族政治』、1918年『私の子供はどこにいますか?』等で主役を演じていましたが、悪役に転向して大成功を収めます。パワーは1930年の『ビッグ・トレイル』で悪役のレッド・フラックを演じましたが、唯一のトーキー映画でした。その後、1919年の『奇跡の男』のサウンド・リメイク版の『ミラクルマン』の撮影に入りますが、1931年12月23日にハリウッド・アスレチック・クラブのアパートで、心臓発作で亡くなりました。62歳でした。

フラックの相棒ロペス役
チャールズ・スティヴァンス(37歳)

 チャールズ・スティヴァンス(1893年5月26日~1964年8月22日)は、アリゾナ州ソロモンビル生まれのアメリカ合州国の俳優です。彼は1915年から1961年の間に約200本の映画に殆どノン・クレジットで出演しました。親友のダグラス・フェアバンクス・シニアの映画には、ほぼ全てに出演しています。スティヴンスは1916年『国民の創生』で映画デビューし、西部劇では主にネティブ・アメリカンやメキシコ人を演じています。1921年『三銃士』、1922年『ロビン・フット』、1926年『海賊』、1929年『鉄仮面』、1930年『ビッグ・トレイル』、1939年『フロンティア・マーシャル』、1940年『荒野の勇者 キット・カーソン』、1941年『血と砂』等に出演しました。又、1937年からの『ワイルド・ウエスト・デイズ』は13本の連続映画に出演し、1942年からの『オーバーランド・メール』も15本の連続映画に出演しています。1950年代には多くのテレビ番組に出演しています。「名犬リンチンチン」、「怪傑ゾロ」、「ローン・レンジャー」や日本未放映の「ワイルド・ウエストの冒険」、「キット・カーソンの冒険」、「スカイ・キング」にレギュラー出演しています。1961年のトニー・カーティス主演の『硫黄島の英雄』が遺作になりました。

賭博師ソープ役
イアン・キース(31歳

 イアン・キース或いはアイアン・キース(1899年2月27日~ 1960年3月26日)は、アメリカの俳優です。彼はマサチューセッツ州ボストンで生まれ、シカゴで育ちました。シカゴのフランシス・パーカー・スクールで教育を受け、16歳の時に学校の舞台壁でハムレットを演じました。キースは1919年に本名のキース・ロスの名で、ボストンのコンプリー・レパートリー・シアターで舞台に出演し、ブロードウェイではイアン・キースとして出演していました。1924年『嬲られ者』で映画デビューし、1925年『我が子』、1927年『美人国二人行脚』、1930『ビッグ・トレイル』、1932年『暴君ネロ』、1933年『クリスチナ女王』、1934年『クレオパトラ』、1935年『十字軍』・『三銃士』、1940年『シーホーク』、1947年『悪魔の往く町』、1948年『三銃士』、1955年『凶弾の舞台』・『水爆と深海の怪物』、1956年『十戒』等に出演しました。『三銃士』の1935年度版と1948年のリメイク版ではド・ロシュフォール伯爵を演じていました。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。