Vol.50 『透明人間』

 今回ご紹介するのは、H・G・ウェルズ(ハーバード・ジョージ・ウェルズ)原作の「透明人間」です。1933年に初映画化された作品で、後に多くの映画に多大な影響を与えた作品です。

1933年『透明人間』
発売元:ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン株式会社
《特典映像は特殊撮影に興味がある方には必見です》

【スタッフとキャストの紹介】

ジェームズ・ホエール監督(44歳)

 ジェームズ・ホエール(1889年7月22日~1957年5月29日)は、イングランドのダドリー出身の映画監督です。ホエールは7人兄弟の6番目で、兄弟が父親と同様に製鉄業に就きましたが、彼は靴直しの仕事に就きます。彼は自分に絵を描く才能があると知り、ダドリー美術工芸学校の夜間クラスに通います。第一次世界大戦中の1915年8月に軍隊に入隊し、1916年7月にウスターシャー連隊に参加します。1917年8月に捕虜になりますが、その間に絵を描いたりスケッチをしたり、収容所で行われたアマチュア演劇作品では俳優、作家、プロデューサー、セットデザイナーをしていました。停戦後、バーミンガムに戻って舞台俳優になり、舞台演出の仕事も始めて経験を積み上げていきます。1928年にR・C・シェリフの戯曲「旅路の果て」の演出をします。主役は当時まだ無名に近いローレンス・オリビエを起用して大成功を収め、アンリカに移住して1928年「旅路の果て」をブロードウェイの舞台で演出しました。

 1930年にカリフォルニア州ハリウッドで、ハワード・ヒューズ監督の『地獄の天使』で俳優として出演し、ノンクレジットで共同監督をしています。同年、「旅路の果て」の映画版『暁の総攻撃』を監督しました。1931年『ウォタルウ橋』と『フランケンシュタイン』を監督し、『フランケンシュタイン』では360度のパン・ショットを映画で初めて使いました。1932年『魔の家』、1933年『透明人間』、1934年『女を求む』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』・『不在証明なき犯罪』、1936年『ショーボート』等を監督しましたが、映画会社の折り合いが悪く1941年に引退します。1957年5月29日未明に、ハリウッドの自宅のプールで溺死体となって発見されます。警察の捜査で入水自殺と断定されました。彼はハリウッドで活躍して時に自分が同性愛者だと宣言していました。彼が死に至るまでの半生は、1998年の『ゴッドandモンスター』で描かれています。この映画の監督のビル・コンドンも主役のイアン・マッケランもゲイです。

 この映画が後世に多大な影響を与えたのは、透明人間が存在しているように映像に表す手法です。その特殊効果を考え出したのが、特殊効果撮影監督のジョン・P・フルトン(1902年11月4日~1966年7月5日 米ネブラスカ州生)です。彼は測量士をしていましたが、D・W・グリフィス・カンパニーで撮影助手として映画界入りします。彼はそれから光学合成と旅行マット写真の基礎を学び、1929年の『彼女は戦ひに行く』で撮影監督としてデビューします。1931年の『フランケンシュタイン』で特殊効果を担当し、その後ユニバーサルの特殊効果部門の責任者になります。そして本作で画期的な手法で透明人間を映像化します。その撮影方法は、フィルムによる撮影で可能になる方法です。現在ではビデオ・カメラを使ってグリーン・バックで俳優の演技を撮影し、その画像にコンピューターを使ってCGで簡単に合成出来ます。それ以前の長い間はブルー・バックで俳優の演技をフィルムで撮影して、背景と合成して作っていました。どちらも使う機材は違いますが、基本的やっている事は同じです。これらのやり方の基本的なテクニックを考え出したのが、フルトンです。本作で彼が考え出した方法は、透明人間の役者に全身を覆う黒いスーツを着せます。(光を反射しない起毛の布地のフェルトを使って全身スーツを作った)その上から洋服を着てカツラを付け、顔には包帯を巻き帽子を被ります。それから光を反射しない黒い背景で、役者の演技をフィルムで撮影します。この時役者がワイシャツだけを着た状態なら、ワイシャツだけが動いているようにフィルムに撮影されます。フィルムは光が当って感光されて映像となります。バックが黒の場合はフィルムに感光されていませんので、役者を撮影したフィルムを巻き戻して今度は背景を撮影します。このフィルムを現像するとワイシャツだけが動き回る映像が出来上がります。このやり方で顔に巻かれた包帯をほどいていくと、透明人間が現れます。(表現が変ですね。)但し、本作では46,000コマを手で修正して完成させています。誰も思い付かなかったこの撮影方法は、今も受け継がれて多くの映画が作り出されました。ホエール監督からワイシャツだけが動き回るような映像を撮れないかと相談され、可能だと答えたので監督は本作の製作を開始しました。

 フルトンはパラマウント社の特集効果を担当し、1935年の『フランケンシュタインの花嫁』の小人のシーンを撮影し、1945年『ダニー・ケイの天国と地獄』ではアカデミー特殊効果賞を受賞しています。1954年『黒い絨毯』、・『巨像の道』『裏窓』『麗しのサブリナ』の特殊効果を担当し、同年の『トコリの橋』では2度目のアカデミー賞を受賞しています。その後、MGMへ移籍して1956年の『十戒』で紅海が二つに割れるシーンの画期的な特殊撮影を手掛け、アカデミー賞の最終特別効果賞を受賞しました。アルフレッド・ヒチコック監督の映画は殆ど担当し、1955年『泥棒成金』、1956年『知りすぎた男』、1958年『めまい』等です。1960年代初頭にパラマウント社を去った後、特殊効果の仕事を続けていましたが、1969年の『空軍大戦略』の撮影中にスペインで感染症に罹り、1966年7月5日にロンドンの病院で亡くなりました。63歳でした。

脚本家
ロバート・C・シュリフ(37歳)

 脚本を担当したのは、イギリスの劇作家・脚本家・小説家のロバート・セドリック・シュリフ(1896年6が6日~1975年11月13日)です。キングストン・グラマー・スクールを卒業後、父親が保険会社に勤めていた影響か、彼は1914年にロンドンの保険会社に就職します。第一次世界大戦中は陸軍大尉としてフランスで参戦し、1917年にハッシェンデールの戦いで重傷を負い戦功十字賞を受けます。戦後、1918年から1928年まで保険調査員として働き。1928年に自身の戦争中の体験に基づいた戯曲「旅路の果てに」を発表します。この戯曲をジェームズ・ホエールが演出して、大ヒットします。1931年から1934年にオックスフォード大学ニュー・カレッジに通いながら映画の脚本も書くようになります。H・G・ウェルズが透明人間を社会から孤立した人間の象徴として生み出したキャラクーだったので、その意向を描いたR・C・シュリフの脚本が選ばれました。1933: 年『透明人間』『チップス先生さようなら』、1935:年 『四枚の羽根』、1941年『美女ありき』、1942:年『純愛の誓い』、1945: 年『邪魔者は殺せ』、1948:年 『四重奏』、1955年『暁の出撃』等の脚本を担当しました。

ジャック・グリフォン博士役
クロード・レインズ(37歳)

 透明人間になったジャック・グリフォン博士役は、映画界では殆ど無名のクロード・レインズが主役を演じました。(ホエール監督が彼の声が気に入っての大抜擢でした。)

クロード・レインズ(1896年11月10日~1967年5月30日)は、ロンドンのスラム街だったクラパム生まれで、近隣のキャンパーウェル界隈で育ちました。レインズは父親が俳優だった事もあり、10歳で舞台にエキストラとして出演し俳優を目指します。俳優の呼び出し係となって学校を辞め、新聞配達や路上教会聖歌隊に加わり家計を助けながら1911年に端役で初舞台を踏みます。その後、舞台監督として「青い鳥」のオーストラリア巡業に参加し、1914年から1年間、メルボルン、シドニーを回りレインズ自身も時折俳優として出演しました。帰国後、第一次世界大戦の為イギリス陸軍に従軍しますが、戦闘中に敵の毒ガスの攻撃で片目を失明します。1919年除隊後に、シェフィールドの劇団を経てロンドンの舞台に立つようになり、働きながら王立演劇学校で学びます。1920年にはサイレント映画にも出演し、1926年に妻と共にニューヨークに渡り夫婦で舞台出演します。このアメリカ巡業で実力が認められ、1928年にブロードウェイの舞台で主役を務めます。1,933年にボリス・カーロフの代役として、『透明人間』の主役を演じ、顔はラスト・シーンで1度しか出ませんでしたが、彼の名前は一躍有名になります。そして、1934年の『情熱なき犯罪』で本格的に映画俳優のキャリアをスタートさせます。1938年『ロビンフットの冒険』、1939ン年『スミス都へ行く』、1940年『シーホーク』、1942年『カサブランカ』、1943年『オペラの怪人』、1946年『汚名』『シーザーとクレオパトラ』等に出演しました。1947年にフリーとなり、映画出演のかたわらニューヨークの舞台に立っています。1950年『白銀の峰』、1960年『失われた世界』、1962年『アラビアのロレンス』、1964年『偉大な生涯の物語』等多くの映画に出演しました。1967年5月30日に内臓疾患の為に70歳で亡くなりました。

フローラ・クランリー役
グロリア・スチュアート(23歳)

 原作に登場しないジャックの恋人フローラ・クランリー役をグロリア・スチュアート(1910年7月4日~2010年9月26日)が演じました。彼女はカルフォルニア州サンタモニカ出身のアメリカの女優です。1932年『魔の家』、1933年『透明人間』、1935年『ゴールド・ディガース36年』、1936年テムプルの福の神虎鮫島脱獄、1938年『農園の寵児』等に出演しましたが、1940年代からはデコバージュの製作や画家として活躍するようになり各地で展覧会も開催しています。又、映画俳優組合の設立にも尽力しています。1975年からはテレビに出演するようになり俳優業を続け、87歳の1997年に『タイタニック』で101歳になった主人公のローズを演じました。2004年の『ランド・オブ・ブレンティ』が最後の映画出演になりました。晩年は肺癌と乳癌で苦しみ、2010年9月26日に肺癌の為に100歳で亡くなりました。

アーサー・ケンプ博士役
ウィリアム・ハリガン(39歳)

 ジャックの同僚アーサー・ケンプ博士役を、ウィリアム・ハリガン(1894年3月27日~1966年2月1日)が演じました。彼はニューヨーク市生まれの俳優で、5歳の時に舞台デビューして父親のエドワード・ハリガンと共演しました。1906年にはブロードウェイ・デビューして、父親と共演しました。彼はニューヨーク陸軍士官学校に通い、第一次世界大戦中は第77師団の第307歩兵連隊の大尉でした。1930年代から1940年代はブロードウェイの舞台に出演し、ブロードウェイの舞台劇「ミスター・ロバーツ」でキャプテン役を演じています。彼の映画デビューは1915年の『三国の事件』で、1957年の『罪人の街』まで多くに作品に出演していました。

クランリー博士役
ヘンリー・トラバース(59歳)

 クランリー博士を演じたのがヘンリー・トラバース(1874年3月5日~1965年10月18日)で、ノーサンバーランド州ブルドー生まれのイギリスの映画・舞台俳優です。彼は1894年にイギリスで舞台俳優としてデビューし、自分より年上の老け役を演じていました。1091年「平和の代償」でブロードウェイ・デビューしますが、1度イギリスに戻ります。その後アメリカに定住し、1917年11月から1938年12月までブロードウェイの舞台で活躍します。彼がブロードウェイで最後に出演したのが、舞台戯曲「我が家の楽園」で祖父のヴァンダーホーフ役でした。

 1933年の『ウィーンでの再会』で映画デビューし、同年『透明人間』、1934年『濁流』、1938年『黄昏』、1939年『スタンレー探検記』、1940年『人間エヂソン』、1941年『ハイ・シエラ』『教授と美女』、1942年『心の旅路』『ミニヴァー夫人』、1943年『疑惑の影』『キューリー夫人』、1945年『聖メリーの鐘』、1946年『小鹿物語』等に52本の映画に出演しました。特に1946年の『素晴らしき哉、人生!』では、守護天使クレランス・オドボディ役を好演しています。1949年に引退し、1965年動脈硬化の為に91歳で亡くなりました。

ジェニー・ホール役
ウナ・オコナー(53歳)

 下宿屋の女将ジェニー・ホール役はウナ・オコナー(1880年10月23日~1959年2月4日)で、彼女はアイルランド生まれのアメリカの女優です。大げさに騒ぎまくるコミカルな役が多く、ジェームズ・ホエール監督がお気に入りの女優です。彼女はアイルランドのダブリンにあるアビー劇場で俳優としてデビューしました。ある舞台劇がダブリンとニューヨークで上演されたので、1911年11月20日にマキシン・エリオット劇場でアメリカ・デビューします。1913年までロンドンに拠点を置き、時折アメリカの舞台にも出ていました。1929年『ダークレッドローズ』で映画デビューし、1933年『カヴァルケード』で舞台でも演じた役で映画に出演しました。この映画出演の成功により、彼女はアメリカに定住します。その後、1933年『透明人間』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』、1936年『鍬と星』、1938年『ロビンフットの冒険』、1940年『シーホーク』、1942年『心の旅路』、1945年『聖メリーの鐘』等の映画に出演しながら、ブロードウェイの舞台にも出演しています。1957年『情婦』が最後の映画出演作品でした。ウナ・オコナーは1959年2月4日、ニューヨーク市のメアリー・マニング・ウォルッシュ・ホームで、心臓病の為に78歳で亡くなりました。生涯独身を通し、舞台と映画に人生を捧げた人生でした。一度見たら忘れられない、愛すべきキャラクーの持ち主でした。次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。