ジンジャー・ロジャース(1911・7・16~1995・4・25)は、ミズリー州のインディアナ生まれの映画俳優、ダンサー、ミュージカル俳優です。妊娠9か月だったジンジャーの母レラ・オーウェンズ・マクマスは、夫に見捨てられましたが、一人で家と秘書の仕事を探して生活を始めました。出産後も職場にジンジャーを連れて出勤し、タイプライターを打って仕事を続けていました。全て自分が決めた通りに実行する母親だったと、ジンジャーが語っていました。”ジンジャー”という名前は彼女が4歳の頃、当時11か月の従妹のヘレンが名付けたそうです。ジンジャーの本名ヴァージニア・キャサリン・マクマスですので、ヴァ-ジニアと皆から呼ばれていました。赤ん坊のヘレンは、ヴァージニアと言えずに色々な呼び方して最後にジンジャーと呼ぶようになりました。それからは皆がジンジャーと呼ぶようになり、ジンジャーと云う名前になったそうです。
1915年、母親のレラはエッセイ・コンテストで作品が一等賞になり、その作品を持って単身ハリウッドに行きました。そこでラオール・ウォルッシュと知り合い、彼の依頼で脚本を書き採用されますが、出来た映画は自分の出した企画からは大きく変わっていました。監督、プロデューサー、俳優によって内容が変わってしまう事を知ります。その後、ヘンリー・キングの紹介で、20世紀フォックス社で脚本を書くようになります。5か月間フォックスの仕事をしていたレラは、ジンジャーをニューヨークに呼び寄せます。レラがハリウッドに行った時のジンジャーは、レラの姉のヴェルダ・ヴァージニアの大家族と一緒に幸せに数年間を過ごしています。母の呼び出しで、6歳のジンジャーは一人でカンサス・シティから列車に乗って、シカゴ経由でニューヨークまで行きました。ニューヨークで母親と楽しく過ごし、公立学校にも通っていましたが、第一次世界大戦の戦況が悪化していた1918年に母親は海兵隊に入隊します。海兵隊に加わった最初の十人の一人だったそうです。レラはワシントンD.C.に移る為、ジンジャーは再びカンサス・シティの叔母さんの家に行くことになります。レラは海兵隊の広報部の仕事をし、短期間ですが海兵隊の新聞「レザーネック」の編集長の代理もやっていました。その頃レラはジョン・ローガン・ロジャースと知り合い、1920年5月にレラが海兵隊を除隊した時に彼と結婚しました。新しい父親の“ジョン・ダディ”は優しくて、本当の父親のようでジンジャーは直ぐ好きになったそうです。
ジンジャーの母親、レラ・イモーガン・ロジャースは舞台脚本も書く才女で、フォートワース・レコード誌の評論家をしていて、映画やヴォードヴィル等の全ての劇場関係の批評を担当していました。1920年当時はヴォードヴィルが流行っていて、フォートワースに来た芸人を母親が家に招待するのでジャンジャーは多くの芸人に会っています。彼女が踊りを覚えたのは、近所の男の子がチャールストンの踊り方を教えてくれた時が初めめでした。それを自分でアレンジして踊るようになりました。1923年頃はチャールストンが各地で大流行していて、フォートワースでも大会が開催されました。ジンジャーはこの地方大会に出て優勝し、ダラスの決勝戦でも優勝してテキサス州のチャンピンになりました。このコンテストの優勝により、彼女は4週間の公演をして回る事になります。母親の手配でコンテストでは次席だった二人と契約して、小さな一座を作って巡業して回ります。これがジンジャーのプロのスタートですが、彼女は誰からもダンスのレッスンは受けていません。この公演後、1925年から1928年の間ジンジャーは母親と全米各地を巡業して経験を積み、ニューヨークに進出して初めてニューヨークの舞台で演じます。
彼女のヴォードヴィルのステージは好評を得ていまして、3本の短編映画に出演する事になります。15分の短編映画は、ヴォードヴィルの歌とダンスを簡単に紹介するものです。因みに、ジンジャーの初デビュー映画は、『キャンパス・スイートハート』と云う短編映画です。この映画を撮影中もヴォードヴィルを続けていた時に、パラマウントからミュージカル・コメディの舞台劇「トップ・スピード」の出演依頼がありました。1929年、18歳のジンジャーはブロードウェイの舞台にデビューを果たします。公演期間中にパラマウント映画のスクリーン・テストを受けて合格し、『恋愛四重奏』に出演する事になります。ジンジャーは舞台と並行して『恋愛四重奏』の撮影もこなします。ここから彼女の掛け持ちが始まっています。3月に「トップ・スピード」の舞台が終わり、その後続けて4月に『喧嘩商会』、5月に『三太郎太平洋横断』と2本の映画に出演します。
「トップ・スピード」の舞台が終了後、ジョージ&アイラ・ガーシュイン兄弟の新作ミュージカル舞台劇「ガール・クレイジー」のオーデションを受けます。19歳のジンジャーは見事主役の座を勝ち取り、ガーシュイン兄弟と仕事をする事になります。製作が始まる前にガーシュインの家でディナー・パーティーがあり、そこで「 ガール・クレイジー 」の楽曲が、 ジョージ ・ガーシュインのピアノ演奏で披露されました。ガーシュイン兄弟はジンジャーの為に、“バット・ノット・フォー・ミー”と“抱きしめたあなた”の2曲を用意していました。ジョージは彼独特のシング・トークで、ピアノを弾きながら歌詞を語りました。ジョンジャーは2曲とも気に入り、特に“抱きしめたいあなた”は絶対ヒットすると思ったそうです。
八月からリハーサルが始まりましたが、プロデューサーのアレックス・アーロンズとヴィントン・フリードリーがダンスの振り付けが良くないので、アレックスが友人のダンサーを呼ぶ事になまりした。そして、ある日劇場に小柄の紳士が現れます。それがフレッド・アステアでした。アレックスの指示でダンス・ナンバーを一通り踊り、“抱きしめたいあなた”をもう一度踊るようにフレッドが言い、随所にステップを加えて修正しました。そして、フレッドとジンジャーは“抱きしめたいあなた”を踊ります。これが、二人の最初のダンスです。その後もフレッドはアレックスに呼ばれて、ジンジャーのダンスを調整する為に訪れ、フレッドの指導で未熟な部分は修正されます。彼女は以前から人の物まねが上手だったせいか、フレッドの踊りについて踊るのは簡単で、自分のステップは彼のステップにピッタリ合っていたと言っていました。そして、フレッドは単なるダンスの指導者で特別の印象を受けなかったとも言っていました。
1930年10月14日に「ガール・クレイジー」は上演開始となり、272回公演が続き大ヒットとなります。この公演のオーケストラは、レッド・ニコルズ・アンド・ヒズ・ファイヴ・ペニーズです。そうです。あの1950年の『五つの銅貨』でお馴染みのレッド・ニコルズのバンドです。メンバーは、ドラムがジーン・クルーパ、ピアノがロジャー・イーデンス、クラリネットがベニー・グッドマン、サックスがジミー・ドーシ、トロンボーンがグレン・ミラーとジャック・ティーガーデンと云うそうそうたるメンバーです。公演中に時々ガーシュインが来て、ピアノを弾く事もあったそうです。「 ガール・クレイジー」終了後、ジンジャーは立て続けに数本の映画に出演します。
1932年にはフリーになってワーナー・ブラザーズで2本、フォックスで2本出演した後、再びワーナー・ブラザーズと契約してバックステージ・ミュージカルの『四十二番街』に出演します。この映画の監督はロイド・ベーコン、振付師は新しいスタイルを生み出したバズビー・バークレイ、主役はワーナー・バクスターと新人のビビ・ダニエルズです。ジンジャーの役はコーラス・ガールで、非常に印象的で存在感のある演技をしていました。彼女のアイディアで片メガネを掛けて、訛った英語を喋っていました。『四十二番街』は大ヒットし、今も1930年代の最高傑作とも言われています。
1933年はこの後立て続けに2本の映画に出演し、次にマービン・ルロイ監督の『ゴールド・ディガーズ』では一攫千金を夢見るコーラス・ガールのフェイ・フォーチュン役で出演します。オープニングでジンジャーはコインを散りばめた衣装を着て、オープニングで登場して「ウィー・アー・イン・ザ・マネー」を歌います。彼女の唇が、画面一杯に映し出されます。この後も『プロフェショナル・スウィートハート』、『恋に賭けるな』、『彼女の戦術』、『めりけん音頭』と1933年には9本の映画に出演しています。ジンジャーは『恋に賭けるな』で憧れていたルー・エアーズと共演しました。彼女は『西部戦線異状なし』でルー・エアーズを観た時から、彼に恋していたと語っています。その言葉通りにジンジャーはルーとデートを重ね、1934年11月14日に彼と結婚しました。
1933年7月に『空中レビュー』の製作が決定し、ドロシー・ジョーダンが結婚で役を降りたのでジンジャーが代わりに出演する事になりました。前にも書きましたがジンジャーは歌手役で、黒のスケスケのドレスを着てキュートでセクシーに“ミュージック・メイクス・ミー”を歌います。
リオ・デ・ジャネイロで地元の楽団の演奏途中から、ジンジャーとフレッドは“カリオカ”を踊り、“カリオカ”旋風を起こします。“カリオカ”のダンスは、二人が額と額を付けて踊る処が大変ユニークで、ダンサー全員が額と額を付けて踊ります。この額と額を付けて踊るアイディアは、振付師のハーミズ・パンが思いついものです。RKOは、この映画の成功で財政難を解消し、フレッドとジンジャーのコンビを主役にして映画化を決定します。
と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。
※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。
参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」