RKOの新しく製作主任になったパンドロ・S・バーマンは、フレッド・アステア主演のミュージカル舞台劇「陽気な離婚」を観てその作品を買い取ります。邦題『コンチネンタル』は1934年6月から撮影に入りました。監督はマーク・サンドリッチ、共演者はエドワード・ホートン、アルリス・ブラディ、そしてフレッドの舞台劇に出ていたエリック・ローズとエリック・ブロアも出演しました。コン・コンラッドとハーブ・マジソンが作った主題歌“コンチネンタル”は、主題歌に与えられる初めてのアカデミー賞を受賞しました。『コンチネンタル』は他にも作品賞を始め4部門にノミネートされましたが、『或る夜の出来事』に全てさらわれてしまいました。ジンジャーが1934年に出演した映画は7本で、11月14日にルー・エアーズと結婚しています。
ハネ・ムーンから帰ったジンジャーの次回作は、舞台劇を映画化した『ロバータ』です。監督は旧友のビル・サイター、共演者はフレッド、ソプラノ歌手のアイリーン・ダン、ランドルフ・スコット、ヘレン・ウェストリー、そして端役で新人のルシル・ポールが出演しています。(劇中のファッション・ショーでモデルとして登場します。)音楽はジェローム・カーンで、舞台と同じ楽曲を使っています。映画のオープニングから“煙が目にしみる”が流れて、劇中ではアイリー・ダンが歌います。ジンジャーとフレッドが最初に踊ったのは“アイル・ビー・ハード・トュ・ハンドル”で、その踊りはそのまま撮影され最後の二人の笑い声も入っています。木の床で踊るのは、とても気持ち良く踊れて楽しかったと語っています。ジンジャーはダンスの稽古が大好きで、何時間も根気よく続けられるそうです。『ロバータ』ではフレッドとハーミズと三人で、ダンス・ナンバーを1日8時間、6週間の練習でした。『ロバータ』の撮影が終了して一週間も休まないうちに、ジンジャーはパンドロ・S・バーマン監督の『深夜の星』でビル。パウエルと共演します。
『深夜の星』の撮影が終了して六日後、ジンジャーはフレッドと『トップ・ハット』のリハーサルを始めました。共演者はエドワード・ホートン、ヘレン・ブロデリック、エリック・ローズ、エリック・ブロアです。音楽はアーヴィング・バーリンで、“トップ・ハト”、”イズント・ディズ・ラブリディ“、”チーク・トゥ・チーク“”ピッコリーノ“”ノー・ストリングス“と名曲を提供しました。衣装デザインは『ロバータ』に続いて、バーナード・ニューマンです。ジンジャーが希望したドレスは、ブルーのサテンにダチョウの羽根を無数につけた背中が空いているドレスです。ダンス・シーンを撮影の為、ジンジャーの仮設の控室に羽根付きドレスが運ばれてきました。それを見た監督もフレッドもその場にいたスタッフ全員が、そのドレスを使う事に反対でした。ドレスが仮設の控室に届くと同時に、サンドリッチ監督がジンジャーに『コンチネンタル』で着用した白いドレスを着て欲しいと言ってきました。ジンジャーは母親のレラに電話をして、スタジオに来るように言って。仮説の控室戻ります。間もなく、汚れて伸び切ったボロボロの白いドレスが運び込まれました。レラが到着して、事情を話してブルーのドレスを見せて感想を聞きました。レラは気に入ってくれて、サンドリッチ監督にブルーのドレスは素敵なドレスだし、ジンジャーが着るべきだと言います。サンドリッチ監督はレラに、ドレスの事を幹部全員と話し合ってくれないかと言います。レラは、別の女の子を使ったら如何と言って、ジンジャーの手を取ってサッサと楽屋口から外に出ていきました。その時、アーガイル・ネルソンがジャンジャーを引き留め、サンドリッチ監督があのドレスで一度リハーサルをしようと云っていると言います。羽根付きドレスを着て最初フレッドと踊った時、彼が一番嫌っている事が分かったそうです。フレッドの顔には、このドレスは気に入らないと顔に書いてあったと語っていました。踊ると羽根は飛び散りましたが何とか撮影が終わり、次の日のラッシュを観てジャンジャーは満足しました。しかし、試写室にいた誰もジンジャーに声を掛ける事が無く出て行きました。ジンジャーが試写室から出た時、アシスタントの一人が私は奇麗だと思いますと言ってくれたのは嬉しかったそうです。そんな事があった四日後、控室にリボン付きの小箱が配達されて来ました。それはフレッドからのプレゼントで、中にはメモとブレスレットになる金の羽根が一本入っていました。『トップ・ハット』の撮影は約12週間で終わり、続けて『本人出現』の撮影に入ります。『トップ・ハット』は大ヒットし、最高傑作とまで云われました。ニューヨークのラジオシティ・コールで公開された時は、満員の観客が一曲終わる毎に喝采していたと聞かされていたそうです。
1935年10月には再びフレッドと『艦隊を追って』の撮影に入ります。(仕事の連続で、休む暇もない状態が続いています。)監督はマーク・サンドリッチ、共演者はフレッド、ハリエット・ヒルリアード、ランドルフ・スコット、ルシル・ポール、ベティ・グレィブル、トニーマーチンです。マーク・サンドリッチ監督とは三作目ですが、相変わらず無視されていました。サンドリッチ監督は、フレッドの顔とジンジャーの後頭部を撮るのを信条にしていた。ジンジャーの後姿をロング・ショットで撮って、フレッドの顔の背景になるようにしたのが不愉快だったと語っています。二人の最初のナンバー“レット・ユアセルフ・ゴー”でフレッドは水兵服、ジンジャーはネイヴィーブルーのパンツに白のセーラー・タイプの衣装で踊ります。この曲は後で出て来て、このミュージカル・シリーズで初めてソロ・ダンスをします。ダンスのルーティンを作る時、フレッドは他のダンスと違うものを作ろうと試みていました。ジンジャーは、ダンスの終わり方や色々アイディアを出していました。最後のナンバー“レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス”で、バーナード・ニューマンが作ったペイルブルーのビーズのドレスを着て踊りました。ビーズの重さは11㎏あり、ターンをするとビーズの重さでバランスを崩していました、一回目のテイクで、袖のビーズがフレッドの顎を一撃しました。フレッドは一瞬怯みましたが、ダンスをそのまま続けました。その後二人ともビーズの攻撃を避けながら、数時間踊り続けましたが一度も上手く行きませんでした。結局、一番最初のテイクをサンドリッチ監督は採用しました。このナンバーは歌と踊りだけで物語が展開され、二人の心情が伝わるようになっています。サイレント映画の時代から、良質の映画は映像で物語を伝えます。(このシーンは大好きです。)
母親のレラはハリウッドでホリータウン・シアターという研究集会を開いていました。RKOはスタジオ内に若手の俳優の為に俳優養成所を作ろうとしていたので、レラの研究集会をスタジオ内でするように依頼します。レラはスタジオ内の小さな劇場で、劇のキャスティングとプロデュースしました。その時の若手俳優は、ルシル・ポール、ベティ・グレイブル、ジョイ・ホッジス、レオン・エイムス、アン・シャーリー、タイロン・パワー、フィリス・フレザーというメンバーでした。一人入会を断ったのは、ジョーン・フォンティンでした。彼女は既にアルフレッド・ヒチコックの『レベッカ』の主役を演じていましたので、レラは納得しました。レラは若手俳優の為に脚本を読み訓練しながら、才能を発揮できる場所を探していました。RKOがルーシーの契約を切る話があった時、ルーシーは有望な若手の一人ですから、ルーシーを首にするのなら私も辞めると云って彼女の契約を継続させました。
1936年4月にジンジャーはRKOと新しい契約を結ぶ為に交渉していました。ジンジャーはマスメディアによって、大衆には屈託のないブロンド娘というイメージが出来上がっていました。ジンジャーは自分の能力を伸ばしたいと思っていたので、RKOに自分の条件を出します。彼女は今まで何の不満も言わず、無遅刻無欠勤で、会社の指示通りに働き続けました。プロデューサーのバンドロ・S・パーマンの助力もあり、RKOはジンジャーの条件に同意して契約しました。次回作は『有頂天時代』で、監督はジンジャーを無視するマーク・サンドリッチからジョージ・スティーヴンスに代わります。ジョージは素晴らしい監督なので、この映画は今までの自分の演技の幅を拡げられと思ったそうです。共演者はフレッドを始め、ヘレン・ブロデリック、エリック・ブロア、ヴィクター・ムーアとお馴染みメンバーでした。音楽はジェローム・カーンとドロシー・フィールズが担当しました。この映画でフレッドが”今宵の君は“を歌うシーンがありますが、ジンジャーがバスルームから頭を白い石鹸の泡で一杯まま居間に歩いて行きます。しかし、様々なシャンプーを使っても、シェービング・クリームや卵白を泡立てても駄目でした。ジンジャーはホイップ・クリームを使う事を思い付き、このやり方で撮影は成功しました。この方法は、その後十年のシャンプーのコマーシャルに使われました。
この映画のラスト・ナンバー“ネバー・ゴンナ・ダンス”は、ご存じのように48テイク撮影されました。このナンバーの撮影はトラブル続きで、アークライトが消えたり、ノイズがカメラに入ったり、最後のスピンでどちらかのステップをミスしたり、最後の最後にフレッドのカツラが飛んだりしました。ジンジャーは足が痛くて堪らなかったので、靴を脱ぐと皮が剥けて血だらけでした。それを見たハーミズが、撮影を中止しようと言いましたが、ジンジャーは断ってダンスを続けました。『有頂天時代』は大ヒットし、『トップ・ハット』の動員記録を塗り替えました。さらに“今宵の君は”は、アカデミー主題歌賞を受賞しました。
1936年12月24日、『踊らん哉』の撮影が始まりました。共演者はフレッド、エドワード・エヴァレット・ホートン、エリック・ブロア、そして新顔のジェローム・コワンです。楽曲はジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュイン、監督は二度と顔も見たくないマーク・サンドリッチです。この映画ではジンジャーのお面が登場しますので、石膏で顔型を撮ります。鼻に二本のストローをさし、顔全体に石膏を塗って15分間じっとしていました。その15分は、15時間経ったように思ったそうです。出来上がったマスクを付けた女の子たちが登場するシーンは、不気味なマスクと沢山のコピーを見るのは堪えられなかったそうです。
本作ではニューヨークのセントラル・パークで撮る予定があり、ンジャーはフレッドとハーミズと3人でどんな踊りにするか考えていました。ハーミズがローラースケートを履いて踊ったらと言いました。フレッドは乗り気ではなかったようですが、ジンジャーはこのアイディアを気に入りました。小道具係にローラースケートを用意して貰って、踊ってみるとフレッドも気に入りハーミズと3人でステップを考えました。ある朝、ジンジャーの許に脅迫状が届きました。フロントは悪戯だから何もしなくて良いと言われました、ジンジャーはFBIに連絡して対処を依頼しました。FBIの「ジンジャー」は、5000ドルが入った封筒を受け渡しに行って犯人の指示通りにしました。間もなく現れた犯人は、FBIに逮捕されて懲役5年の実刑判決を受けました。
1937年6月、RKOの『ステージ・ドア』の撮影に入ります。ジンジャーとキャサリーン・ヘップバーンで主役を分け、監督はグレゴリー・ラキャヴァ。共演者はアドルフ・マンジョー、ジャック・カーソン、コンスタンス・コリア、ルシル・ポール、アン・ミラーでした。キャサリンとは確執がありましたが、ラキャヴァ監督はジンジャーを気に入ってくれてよい部分を引き出してくれました。この映画で歌も踊りも無しのストレート・プレイの俳優として認めてもらえるようになります。9月には舞台劇を脚色した『処女読本』の撮影に入ります。監督はアルフレッド・サンテル、共演者はダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ルシル・ポール・イヴ・アーデン、ジャック・カーソン、そして映画初出演のレッド・スケルトンでした。残念ながら舞台劇ほどの面白みが無く、成功しませんでした。
休む間もなくジンジャーは『モーガン先生のロマンス(『陽気な淑女』)』の撮影に入ります。監督はジョージ・スティーヴンス、ジンジャーとジェームズ・スチュワートで主役を分け、共演者はチャールズ・コバーン、ビューラ・ボンディ、ジェームズ・エリソン、フランシス・マーサーです。教授がナイトクラブの歌手に一目ぼれして、二人は夜のニューヨークを彷徨い歩くシーンはとてもロマンチックです。この映画でジンジャーはアクション・シーン(?)を演じます。教授の元恋人と口喧嘩から始まって、張り手と蹴りの応酬になり、最後はレスリングもどきになります。
休暇を取ったジンジャーは、1939年5月に『気儘時代』の撮影に入ります。監督はジンジャーにとって最悪のマーク・サンドリッチです。共演者はフレド、ラルフ・ベラミ^、ハティ・マクダニエル、ジャック・カーソン、音楽はアーヴィング・バーリンです。撮影派ジンジャーお気に入りの一流のカメラマンロバート・デ・ダラスです。本作では脚本家はアラン・スコット、アーネスト・バガン、ダドリー・ココルス、へいがー・ワイルドの四人です。本作のストーリーは今までとは違うもので、本格的なコメディといってもいい位のシナリオです。ジンジャーは優柔不断の女性アマンダを演じましたが、今までミュージカル映画で演じたどの役よりも素晴らしかった。ヨーロッパでは、『気儘時代』は『アマンダ』と呼ばれていたそうです。『気儘時代』は当初テクニカラーで撮る予定でしたが、撮影に入る数日前に予算の関係でモノクロになりました。セットも衣装も音楽もカラー撮影を前提で準備しました。ジンジャーとフレッドは、初めてのカラー映画出演に喜んでいましたが、スタッフも含め全員失望しました。本作でのジンジャーの持ち歌“ヤム”は、フレッドが気に入らなかったお下がりです。このナンバーで新しい踊りをジンジャーが思いつきます。フレッドが片足を伸ばしてテーブルの上に踵をつけ、ジンジャーはその足を飛び越えて踊る「テーブル超え」のアイディアです。フレッドはやる気がなかったので、ハーミズとジンジャーで踊って見せたら、フレッドも納得してこの案は採用されました。今回精神科医役のフレッドがジンジャーに催眠術をかけるシーンも、ジンジャーのアイディアでそれをダンスで表現しています。そのシーンにジンジャーが夢を見る場面が挿入されますが、その場面がスローモーションで撮られました。そのダンスの最中の最後でフレッドとジンジャーの唇が一瞬触れました。後でラッシュを観るとスローモーションで撮られた為、二人がしっかりキスしているように映っています。それを観たフレッドは奇声をあげ、その後皆と一緒に笑いだしました。やはり相手役とのキスは、妻のフィリスが嫌がっていたのが真実の様です。『有頂天時代』でドアの陰でキスしたように見せたのは、フレッドの口にメイキャプ係が口紅を塗ったものでした。
ジンジャーの次回作は1939年の『カッスル夫妻』で、第一次世界大戦以前にダンス・ホールで神機を博したヴァーノンとアイリーン・カッスルの伝記映画です。夫のヴァーノン・カッスルは戦争中に飛行機事故で亡くなっています。撮影に入る前からアイリーンはジンジャーに事細かく注文を付けてきました。撮影中も靴のリボンが違うとか、アイリーンが考え出したというショートボブにしろとか小競り合いは続きました。ジンジャーもフレッドも自分たちが気に入らない事は断りました。仲にはいった監督のハンク・ポッターは罵声を浴びながら収めていました。ポッター監督は非常に仕事がやり易く、気配りと機転をもって上手く扱ってくれたそうです。共演者はエドナ・メイ・オリヴァーとウォルター・ブレナンで楽しく仕事が出来たそうです。(この二人は名脇役ですから当然ですね。)1900年初頭のヴァーノンとアイリーンのダンス・パターンは、フォックストロット、マキシン、カッスル・ウォークで、嬉しくなるほど古風で楽しかったと語ったっていました。今回フレッドと共演したミュージカル映画で、二度目のソロ・ナンバーを踊ります。“ヤム・ヤム・マン”のダンス・パターンを模倣するアイリーン・カッスルも真似をします。だぶだぶのスーツを着て、このナンバーを踊るのは楽しかったそうです。
この映画でコンビが解消されると噂が広まり、フレッドと共演する最後の映画であるように思ったそうです。この映画のラスト・ナンバー”ミズリー・ワルツ”の撮影時にはパラマウントやコロンビアの上層部や、RKOで制作中の他のステージのスタッフも加わり大勢の人たちの前で撮影されました。ジンジャーはラスト・ワルツを踊りながら、感極まって涙が浮かんだそうです。
この時のジンジャーの写真は、タイム誌の1939年4月10日号で表紙になりました。と書いた処で、次回に又続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。
※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。
参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」