Vol.15 『ジンジャー・ロジャース』 最終章

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 1948年の初夏やっと休暇をとり、レラと一緒にオレゴンの自分の牧場に行きました。日よけ付きのブランコに腰掛けていた六月のある日の朝、MGMの幹部から電話がきました。『ブロードウェイのバークレイ夫妻』という作品の出演依頼でした。又フレッドと共演出来るので、喜んで出演を承諾しました。ダンシング・シューズを履くのは十年振りになります。早速エクササイズ、柔軟体操、ストレッチングを始め、稽古が始まる頃には呼吸法を正しく自然に出来るようにしました。監督はチャルズ・ウォルターズ監督、撮影監督はハリー・ストラドリング、共演者はオスカー・レヴァント、ビリー・バーク、ジャック・フランソワ、ゲイル・ロビンスです。この映画でジンジャーとフレッドは、初めてのテクニカラー映画出演となりました。この映画のフレッドの相手役はジュディー・ガーランドでしたが、彼女が撮影に耐えられない状態だったので、ジンジャーが出演する事になりました。音楽担当のハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインが、夫婦のダンシング・チームが再び一緒に踊る見せ場の曲を作ろうとしていました。ジンジャーは『踊らん哉』でフレッドが歌った“誰も奪えぬこの想い”を使うように提案しました。作曲家のハリーは賛成してくれて、“誰も奪えぬこの想い”で再びフレッドと踊り事になりました。フレッドと本格的に稽古を始めると、十年のブランクを感じず数週間振りに踊ったように思ったそうです。この映画でフレッドは新しいダンス・シーンに挑戦しています。“シューズ・ウィズ・ウイングス・オン”で、フレッドは多くの靴たちと踊ります。

1949年『ブロードウェイのバークレイ夫妻』
フレッドと踊るフレッド(左) 沢山の靴と踊るフレッド(右)

 ジンジャーは1948年12月にRKOとの契約を解消し、完全なフリーになります。その頃、ジャック・ブリッグスとの結婚も解消する事にしました。1949年にワ-ナー・ブラザースの『パーフクト・ストレンジャー』の撮影に入ります。監督はブレティン・ウィンダスト、ジンジャーの相手役はデニス・モーガン、助演はセルマ・リッター、マージョリー・ベネット、ジョージ・チャンドラー、ポール・フォードです。続けてワーナー・ブラザースの『目撃者』の撮影に入ります。この映画はクー・クラック・クランを描いたメロ・ドラマですが、KKK団に捕らえられたジンジャーの鞭打ちシーンがあります。監督はスチュワート・ヘイスラー、共演は歌わないドリス・デイ、スティーヴ・コクラン、ロナルド・レーガンです。

 1950年3月、ロサンゼルスのパンテージ・シアターでアカデミー賞授賞式が開催されました。この授賞式でフレッド・アステアの栄誉を称えてオスカーが贈られました。このプレゼンターをジンジャーが行いました。オスカー像には「そのユニークな芸風と、ミュージカル映画の技術への貢献を称えて」と刻まれていました。1950年五月から八月にかけて、ユニバーサルの『ザ・グルーム・ウォア・スパーズ』の撮影に入ります。監督はリチャード・ウォルフ、共演者はジャック・カースン、ジョーン・ディヴィス、ロス・ハンターです。軽めの作品で、ジンジャーは弁護士を演じました。

 ジンジャーは舞台劇「ラヴ・アンド・レット・ラヴ」に出演する事になります。二十一年振りの舞台出演です。作家兼監督はルイ・ヴェルヌイユ、ジンジャーはヴァージア・マクマスの名で一人二役の姉妹を演じました。共演者はポール・マクグラス、トム・ヘルモア、ヘレン・マーシー、ディヴィッド・F・パークンスです。1951年11月19日に幕を開け、51回の公演が行われました。この作品は面白くもないセリフの並んだコメディで、すっかり失望したそうです。1951年11月5日、四度目のライフ誌の表紙を飾った事だけは、嬉しかったそうです。

 舞台終了の二週間後、二十世紀フォックスから『結婚協奏曲』への出演依頼があり、出演を承諾しました。この映画は未だ資格が無い新米判事が、無資格で6組のカップルを結婚さてしまい、その後に起こるトラブルが展開されるコメディです。監督はエドマンド・グールディング、共演者はフレッド・アレン、ヴィクター・ムーアです。この作品が完成した二週間後、再び二十世紀フォックスの『ドリーム・ボート』に出演します。監督はクロード・ビニヨン、ジンジャーの相手役はクリフトン・ウェブ、共演者はフレッド・クラーク、エルサ・ランチェスター、そして新人スターのアン・フランシスとジェフリー・ハンターです。

1942年『結婚協奏曲』
左からヘンリー・フォンダ、
ジンジャー、シーザー・ロメロ

 1952年『モンキー・ビジネス』の撮影に入ります。監督はハワード・ホークス、ジンジャーの相手役はケーリー・グラントで十年振りの共演です。ケーリー・グラントはボーッとした学者役で、ジンジャーは妻を演じます。若返りの薬を発明する仕事をしていますが、二人は実験用のチンパンジーが調合した薬を飲んでしまいます、二人は童心にかえってしまい、大騒動が起こるコメディです。雇主はチャールズ・コバーン、秘書役はマリリン・モンローです。撮影終了後、ジンジャーは休暇を取ってヨーロッパ旅行に出来掛けます。帰国後、パラマウントの『女性よ永遠に』の撮影に入ります。二人の主演男優はウィリアム・ホールデンとポール・ダグラスです。監督のヴァイング・ラバーはジンジャーの好きなタイプの監督ではなく、態度は冷たく思いやりに欠けていたので、この映画に参加した事を後悔したそうです。1953年2月7日、ジンジャーはフランスで出会った弁護士のジャック・ベルジュラと結婚しました。

1952年『モンキー・ビジネス』
ケーリー・グラントとジンジャー(左)
左からマリリン・モンロー、チャールズ・コバーン、ケーリー・グラント

 1953年12月にブロティッシュ・ライオン映画社から、『行きずりの恋』への出演依頼がありました。台本を読んで夫のジャックが相手役なら出演すると、プロデューサーに話します。監督のデイヴィッド・ミラーはジンジャーの申し出に合意しました。ジンジャー初のイギリス映画での共演者は、スタンリー・ベーカー、ハーバート・ロム、コーラル・ブラウンです。夫のジャックは長時間のハードな撮影をこなし、格闘シーンも吹き替えなしでやりました。1954年2月に撮影が終わり、カリフォルニアに戻ります。帰宅後、友人のグインル夫妻からリオデジャネイロのカーニヴァルに招待されます。夫のジャックの説得で二人はリオデジャネイロに行きます。カーニヴァルを楽しんだ後、アルゼンチン大統領のファン・ペロンからブエノスアイレスに招待されます。エヴァ・ペロンの慰霊碑に云ったり、競馬場でホース・ショーを観たり、巨大なバーベキュー・パーティでもてなされました。二人は、アルゼンチンからペルーのリマに向かいます。夫のジャックは闘牛ファンだったので、ジンジャーを闘牛場に連れて行きます。ジンジャーにとって初めて見る闘牛は、残酷で見るのが苦痛だったようです。カリフォルニアの自宅帰って、ジンジャーはのんびり過ごしていましたが、4月にパリに出掛けます。南フランスにも数日滞在し、ローマを訪れます。ローマに滞在中にダリル・F・ザナックから、出演依頼の電話を貰います。帰国後、『意外なる犯行』の脚本を読むと、ジンジャーの役はある女優の役です。その女優が最後には殺人犯だったという役です。プロデューサー兼監督がナナリー・ジョンスン、共演者はレジナルド・ガーディナー、ジーン・ティアニー、ヴァン・ヘフリン、ジョージ・ラフト、オットー・クルーガー、ペギー・アン・ガーナーです。

1954年『行きずりの恋』
ジャック・ベラジェックとジンジャー

 1954年10月、リーランド・ヘイワードからテレビのスペシャル番組「トゥナイト・アット8:30」への出演依頼がありました。ノエル・カワードの短い戯曲三篇を一組にして放映するものです。演出家はオットー・プレミンジャー、三つの劇の相手役は一番目はマーティン・グリーン、二番目はトレヴァー・ハワードです。そして三番目はイルカ・チェイス、グロリア・ヴァンダービルド、エステレ・ウィンウッド、ギグ・ヤング、マーガレット・ヘイズです。この番組はテレビの生番組だったので、ステージの前に観客がいなす。九十分のショーの中で、三つの異なる役を演じるのは、凄いプレッシャーを感じながら演じたそうです。

 次回作はコロンビア社の『消された証人』です。監督は友人のフィル・カールソン、共演者はエドワード・G・ロビンソン、ブライアン・キース、ローン・グリーンです。戯曲「デッド・ビジョン」の映画化で、ジンジャーは三流ギャングのガール・フレンド役です。彼女は服役中ですが、刑務所から連れ出されて警察の厳重な保護を受けます。彼女はギャングのボスに逆らって、共犯者に不利な証言をする役どころです。

1955年『消された証人』
ブライアン・キースとジンジャー(左)
エドワード・G・ロビンソンとジンジャー(右)

 1956年メイ・ウエストガ出演する予定だった『最初の女セールスマン』に出演します。製作と監督はアーサー・ルービン、共演者はキャロル・チャニング、バリー・ネルソン、ジェームス・アーネス、そしてクリント・イーストウッドが小さな役を演じています。1956年は二十世紀フォックスで『十代の犯行』と『オー、メン!オー・ウィメン』の二本の作品に続けて出演しました。1957年半ばにジャックの不貞があり、ジンジャーは離婚しました。

 1957年はテレビ・ショーに定期的にゲストとして出演していました。ジンジャーのテレビ・ショーの企画もありましたが、実現しませんでした。1958年1月、ジンジャーはラスヴェガスのリヴィエラ・ホテルでライブ・ステージの公演を四週間行いました。1959年舞台劇の「ピンク・ジャングル」に出演する事になり、ニューヨーク公演の前にサンフランシスコで三週間公演されました。その時点でプロデューサーは映画の撮影の為にハリウッドへ行ってしまいます。省の問題点の改善も無く給料の未払いもあった為、ジンジャーはこのショーの契約を解消しました。1960年の夏、ジンジャーは念願だったミュージカル・コメディの「アニーよ銃を取れ」に出演しました。東海岸五都市映画の夏期軽劇場サーキットを回りました。この興行後、俳優のG・ウィリアム・マーシャルと知り合い、六か月の交際を経て1961年3月16日にサンタモニカで結婚しました。じかし、二週間も経たないうちに、ウィリアムの飲酒癖が分かりましたが、判断を誤ったまま結婚生活を続けます。ウィリアムはジンジャーから借金をする為、ジンジャーは多くの夏期軽劇場に出演しました。1963年「不沈のモリー・ブラウン」で西部諸州を公演し、「トヴァリッチ」で全国ツァー公演しました。19563年3月、マグナピクチャースで『ハーロウ』に出演します。この映画はジーン・ハーロウの人生を基にした作品で、ジンジャーはジーンの母親役を演じました。監督はアレックス・シーガル、共演はキャロル・リンレイ、バリー・サリヴァン、エフレム・ジンバリスト・Jrです。しかし、この映画は八週間で撮影された残念な作品になってしまいました。そして、この映画がジンジャー最後の映画となります。

 1965年ジンジャーは、ニューヨークの四十四番街のセント・ジェームズ劇場で「ハロー・ドーリー!」に出演します。1967年2月にセント・ジェームズ劇場の公演が終わり、一座と一緒に国内ツァーに回りました。ジンジャーとフレッドは、4月10日のアカデミー賞授賞式で作品賞のプレゼンターとして招待されました。ジンジャーとフレッドは、ステージに上がった時即興のステップを披露して観客に喜んで貰いました。(ジンジャーのアイディアです。)「ハロー・ドーリー!」はニューヨークからボストンまで、全千百十六回の公演で終了しました。

1965年「ハロー・ドーリー!」
ドリー・レヴィー役のジンジャー

 1968年「ハロー・ドーリー!」の長期公演を終了し、ジンジャーはオレゴンの牧場に行きます。のんびり過ごしていましたが、ロンドンのハロルド・フィールディンから国際電話があり、ミュージカル・コメディ「メイム」への出演依頼がありました。開幕は1969年2月、八ヵ月の準備期間がとれるので出演を快諾しました。12月13日にジンジャーは船でロンドンに向かいました。ロンドン到着後すぐに稽古を始め、1969年2月23日の開幕に備えます。「メイム」は、14ヵ月間ロンドンで上演されました。「メイム」では衣装を二十七回も変えるので、非常にハードな作品だったそうです。ジンジャーはウィリアム・マーシャルと離婚する為に離婚申請をしました。その後、ジンジャーは1971年「ココ」の公演でニューイングランド諸州をまわりました。1972年にはJ・C・ベニー社のファッション・コンサルタントになり、ジンジャー・ロジャース・シリーズのランジェリーをデザインしり全国をインタビューして回りました。1974年「ノー・ノー・ナネット」をダラスで公演し、続いて「40カラット」を1975年の夏まで公演しました。 1975年、ロージャース・ローグ・リヴァー・レビューを結成し、「ジンジャー・ロジャース・ショウ」の公演を始めます。12月にオクラハマで幕を開け、それから5年間国中や海外も回りました。そんな中、1977年5月の母親のレラが亡くなりました。悲しみを乗り越えてツァーを続けていました。

「ジンジャー・ロジャース・ショー」
左からロン・スタインベック、
ジェフ・パーカー、マイケル・コディ、ジム・テーラー

 1980年は「エニング・ゴーズ」の全国公演を行い、1983年には「ミス・モファット」をインディアナポリスで公演し、1984年「チャーリーの叔母」をエドモントンで公演しました。そして1985年に念願の舞台演出の依頼がきました。「ベーブス・イン・アームズ」をニューヨーク州たりータウンで、四週間舞台演出をしました。その後も多忙な日々を精力的に過ごされました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.14 『ジンジャー・ロジャース』の続きの続き

 1938年11月に次回作『ママは独身』の脚本の第一稿が、パン・バーマンから送られてきました。台本を読んで、薄っぺらなストーリーと現実味の無い登場人物だと思い、パン・パーマンに抗議の手紙を書きます。パンは脚本を弁護して、ジンジャーが演じる役は情が厚く人情味がある女性で、ジンジャーにふさわしい映画だと言いました。ジンジャーは彼の言葉を信じて、この映画に出演する事にします。監督はガーソン・カニン、共演者はディヴィッド・ニーヴン、チャールズ・コバ-ン、そして可愛い赤ちゃんです。映画は素晴らしい作品に仕上がり、大衆は好意的な反応を返してくれたそうです。映画はRKOでは最高興行成績を収めた映画の一本になりました。この後、続けて『五番街の女』を撮り14ヶ月ほとんど休みも無く仕事をしていました。4週間の休暇を取り、その後2本のラジオ番組に出演しています。

1939年『ママはママは独身』
ディヴィッド・ニーヴンとジンジャーとエルバート・コブレン・Jr

 1939年11月、『桜草の丘』の撮影に入ります。監督はグレゴリー・ラキャヴァ、ジンジャーの相手役はジョエル・マクリーです。共演者はマージョリー・ランビュー、ヘンリー・トラヴァース、マイルス・マンダークイニー・ヴァーサー、コアン・キャロルです。この映画はジンジャーの俳優としての演技の幅を大きく広げたものになりました。次回作の『ラッキー・パートナー』で、ジンジャーは長い間尊敬していたロナルド・コールマンの相手役になります。監督はマイルス・ストーン、脚本はアラン・スコットとジョン・ヴァン・ドゥルーテンです。共演者はスプリング・バイント、ジャック・カーソン、ハリー・ダヴンポートです。ロナルド・コールマンは完璧な演技者で紳士で、ジンジャーの間違いを指摘したり、何か提案する時は彼女が不快にならないように気を配ってくれたそうです。この時期のRKOはジンジャーをコメディエンヌに仕立てようとしていました。ジンジャーは自分がコメディエンヌなのか主演女優なのか分からなくなっていました。その時、プロデューサーのディヴィッド・ハンプスからベツソ・セラーの「恋愛手帳」の本が送られてきました。本に目を通してみると露骨なラブ・シーンがあり、検閲を通らないと判断しました。母のレラは、うまくリライトしてくれるから大丈夫だと言いました。翌日ディヴィッド・ハンプスから電話があり、RKOはジンジャーの為にこの小説を特別に買い取ったといいます。ダルトン・トランボがリライトするから素晴らしい脚本になるから、その脚本をみてから判断して欲しいと言いました。一ヵ月後にリライトされた『恋愛手帳』の脚本が送られてきました。その脚本は素晴らしい出来で、原作より数段心の琴線触れる作品だと思ったそうです。このキティ役を演じた役者はオスカーを取るだろうとも思ったそうです。ディヴィッド・ハンプスから電話がきた時、ジンジャーは即答で出演する事にします。監督はサム・ウッド、共演者はデニス・モーガン、ジェームズ・クレイグ、グラディス・クーパー、キャサリン・スティーヴンス、メアリー・トリーン、オデット・ミルティ、アーネスト・コサート、エデュアルド・チャネリです。(キャサリン・スティーヴンスは、サム・ウッド監督の娘さんです。)サム・ウッド監督は親しみやすい人でしたが、監督としては頑固なタイプだったそうです。しかし、独善的ではなくどんな小さな声にも耳を傾ける監督だったそうです。この映画を撮り終えて、やりがいのある仕事をしたと実感したと語っています。1940年12月9日付けのライフ誌で『恋愛手帳』の特集が掲載され、表紙にジンジャーの写真が使われたのは二度目です。

1940年『恋愛手帳』
デニス・モーガンとジンジャー(左)
ジンジャーとジェームズ・クレイグ(右)

 1941年にプロデューサーのロバート・シスクから愛の鐘はキッスで鳴ったの脚本が送られてきました。監督がガルソン・カニンと聞いて、ジンジャーは喜びました。彼と撮った『ママは独身』は、とても楽しく仕事が出来たからです。共演者はジョージ・マーフィ、アラン・マーシャル、バージェス・メレディス、フィル・シルバースで、楽しく映画撮影が出来たそうです。

1941年『愛の鐘はキッスで鳴った』
バージェス・メレディス(左)と

フィル・シルバース

 この映画の撮影が始まった頃、RKOからビルトモア・ホテルで行われる1940年度アカデミー賞授賞式に出席するように言われます。『恋愛手帳』は、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀音楽賞、最優秀女優賞にノミネートされていました。今までのアカデミー賞は、省が授与される前に新聞が受賞者を発表していました。1940年のアカデミー賞から事前に受賞者が分からないようにしました。自分の競争相手があまり強力なので、心情的には出席したくなかったそうです。競争相手は『月光の女』のベティ・ディヴィス。『レベッカ』のジョーン・フォンテイン、『フィラデルフィア物語』のキャサリーン・ヘップバーン、『われらの町』のマーサ・スコットです。演技賞のプレゼンターは、アルフレッド・ラントとリン・フォンティーンです。自分は受賞しないと思って、すまして席に座っていました。誰が受賞したかジンジャーには聞こえていませんでした。RKOのジョージ・シェーファー社長が「ジンジャー、君だよ、君だ」と三回言われて、ジンジャーは初めて事態を把握しました。ショック状態のままマイクの前に立ち、スピーチの準備をしていなかったので、母親への感謝と一緒に仕事をしてきた全ての人への感謝を述べました。自分が何と言ったかは、はっきりと覚えていないそうです。この年の最優秀男優賞は、『フィラデルフィア物語』の親友のジェームズ・スチュワートが受賞したので飛び上がって喜んだそうです。授賞式の翌日の朝、スタジオから電話があり出勤が2時間遅くなりました。スタジオに着くと門衛が受賞を祝福してくれたのを始め、ジンジャーの車を見た人は皆車を止めて祝しました。控室で準備をすませてセットに入ると、左右に七人づつタキシードを着た男たちが、トップハットをジンジャーの頭上で交差してアーチを作っていました。立っていた男たちは電気工やスタッフたちで、後ポケットから彼らの工具や道具がのぞいていたそうです。

1941年2月27日アカデミー賞授与式
ジンジャーとジェームズ・スチュアート

 1941年10月13日、ジンジャーは20世紀フォックスの『ロッキー・ハート』の撮影に入ります。この映画は、新聞の殺人事件の記事を基に罹れた戯曲「シカゴ」を映画化したものです。監督はウィリアム・ウェルマン、プロデューサー兼脚本家ハナナリー・ジョンソンです。共演者はアドルフ・マンジョー、ジョージ・モンゴメリー、フィル・シルヴァースが演じるロキシーはダンサーなので、鉄の階段でタップを踊る事を思い付きます。スタジオには鉄の階段がなかったので、ロサンゼルスのダウンタウンの取り壊されたビルにあった階段をスタジオに運んで使いました。鉄の階段はいい音がするので、カメラマンや小道具係が音を出して楽しんでいたそうです。1941年12月7日、彫刻家のイサム・ノグチと連絡を取ってくれた友人から電話を受け、ジンジャーは自分の胸像を掘ってもらう依頼をしました。翌日自宅で会った日系アメリカ人のイサム・ノグチは、穏やかでありながら非凡さを感じ感銘を受けたそうです。彼は一ヶ月程ジンジャーの傍で黙々と作業を続けていました、ある日の午後、ノグチは仕事に区切りのついた処で、もう当分ここには来られないと言います。アメリカ政府が強制収容所に入れようとしていると告げます。彼はこの彫像は強制収容所に持っていって作業は続けると言います。第二次世界大戦後、イサム・ノグチから電話があり、完成した彫像をいつ持って行くかの連絡でした。二日後、彼はピンクの大理石で出来たジンジャーの胸像を持ってきました。強制収容所という苛酷な環境の中でこの胸像を完成させた、彼の粘り強さと勇気に感銘を受けたそうです。

 1942年20世紀フォックスの『運命の饗宴』への出演依頼が来ました。一着の燕尾服を巡る5話のオムニバス映画で、第2話で友人のヘンリー・フォンダとシーザー・ロメロとの共演なので引き受ける事にします。次の映画を撮る2・3週間の隙間での仕事でした。

1942年『運命の饗宴』
ヘンリー・フォンダ(左)と
シーザー・ロメロ

 パラマウントから次回作『少佐と少女』への出演依頼がありました。ニューヨークに住むヒロインが故郷のオハイオに帰ろうとします。しかし、汽車賃が足りなくて半額の子供料金で乗る為に子供に変装してオハイオに行く話です。子供の頃、巡業していた時に同じ経験をしていたので出演する事にしました。監督の候補者がいるというので、ジンジャーはその人と会う事にしました。ハリウッド映画は初めて監督ですが、素晴らしいユーモアのセンスを持ったビリー・ワイルダーが監督に決まります。共演者はレイ・ミランド、リタ・ジョンソン、ダイアナ・リンです。予想通りビリー・ワイルダーは映画を仕切る有能な監督で、俳優にも好ましい態度で接してくれたそうです。撮影が開始してからも役者が決まっていない役がありました。映画の最後の短いシーンに登場するヒロインの母親役です。監督はジンジャーに顔が似ているスプリング・ビントンを予定していましたが、彼女は既に別の映画の予定が入っていました。監督はジンジャーに誰か母親役の役者はいないかと尋ねるので、母親のレラを推薦しました。交渉の結果、レラはジンジャーの母親役で出演しました。ビリーは俳優の演技に満足すると、皆にシャンペンを振舞っていました。ビリーのお陰で本当に楽しんで仕事が出来ましたが、残念ながらビリーとの仕事はこの一本だけでした。

1942年『少佐と少女』
レイ・ミランドとジンジャー(左)ジンジャーとレラ・ロジャース(右)

 サミュエル・ゴールドウィンから『教授と美女』の脚本が送られてきました。ゲイリー・クーパーとの共演作品でしたが、ジンジャーは断りました。サミュエルはジンジャーをスタジオや自宅に招き、出演させる為に得をしましたがジンジャーは出演を断りました。その役はバーバラ・スタヌィックに回されました。『教授と美女』を観た時、ジンジャーは自分の判断が間違っていた事を知ったそうです。リーランド・ヘイワードからパラマウントの『遥かなる我が子』の主演依頼がありました。脚本を読み戦争に向かう24歳の息子の母親役をやりたいと思わなかったので断りました。この役はオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オリヴィアはその役でアカデミー賞を受賞しました。女性用の精神病棟を題材にした『蛇の穴』も断りました。その主役をオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オスカーにノミネートとされました。オリヴィアは良い作品を見極める才能があると思ったそうです。『ヒズ・ガール・フライデー』の出演依頼があった時も、主演男優が決まっていない段階で断ってしまいます。主演がケーリー・グラントに決まり、ロザンド・ラッセルが相手役になってジンジャーは多少後悔したようです。逆にジンジャーはミュージカル映画の『アニーよ、銃を取れ』のアニー役を切望しました。MGMのルイス・B・メイヤーは「ハイヒールとシルクのストッキングが似合う。アニー・オークレイみたいな勇ましい役をやるのは考えられない。」と断られました。ジュディ・ガーランドも降ろされて、ご存じのようにベティ・八トンがその役を演じました。

 1942年6月、RKOの『恋の情報網』の撮影に入ります。監督はレオ・マッケリー、共演者はケーリー・グラントとウォルター・スレザクです。ナチスの脅威を背景に描かれた、ラブ・ストーリーです。第二次世界大戦中はジンジャーも軍の慰問機関USOから依頼を受け、国債のセース、軍のキャンプや病院を訪問していました。1942年9月に南西部の都市への慰問に十日間のツァーに参加しています。陸、海、空、海兵隊のキャンプを慰問しました。その時、兵卒のジャック・ブリックスと一緒にキャンプを回りました。ツァーが終わってからもジョンジャーはジャックと付き合うようになり、三か月後の1943年1月16日にパサディナで結婚式を挙げました。(ルー・エアーズとは1940年3月13日に離婚しています。)

1942年『恋の情報網』
ケーリー・グランドとジンジャー(左)
ウォルター・スレザクとジンジャー(右)

 1944年3月から、セルズニック・インターナショナルの『恋の十日間』の撮影に入ります。監督はウィリアム・ディタリー、共演者はジョセフ・コットン、シャーリー・テンプル、スプリング・バイトン、トム・ターリーです。この映画は「二人一緒の休暇」というラジオ・ドラマを基に作られた作品です。第二次世界大戦中に出会った夫々問題を抱えた二人が恋に落ちる物語です。シャーリー・テンプルによると、ジンジャーがシャーリーをこの映画から外そうとしていたようです。(真相は分かりません。)

1944年『恋の十日間』
左からシャーリー・テンプル、
スプリング・バイデン、ジンジャー、
ジョセフ・コットン、トム・チェリー

 1944年10月、MGMから『ウォルドフの週末』の出演依頼がありました。この映画は現代版の『グランド・ホテル』で、アイリーン・ギブソンの衣装を着れるので出演する事にします。監督はロバート・Z・レナード、共演者はウォルター・ビジョン、ラナ・ターナー、ヴァン・ジョンソン、エドワード・ベンチュリー、エドワード・アーノルド、そしてサヴィア・クガートと彼の楽団です。1945年RKOの『ハート・ビート』をサム・ウッド監督で撮り、1946年にはユニヴァーサルで『アメリカの恋人』の撮影に入ります。この映画はジェームズ・マディスン大統領の妻、ドリー・マディソンの歴史小説を基にしたものです。監督はフランク・ポーゼーシ、共演者はバージェス・メレディスとディヴィッド・ニーヴンです。映画の終局場面の科白が納得いかなかったので、レラを自宅に呼んで二人で脚本の書き直しをしました。その原稿を監督とプロデューサーに提出し、二人の了解を得てそのシーンを撮りました。と書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.13 『ジンジャー・ロジャース』の続き

 RKOの新しく製作主任になったパンドロ・S・バーマンは、フレッド・アステア主演のミュージカル舞台劇「陽気な離婚」を観てその作品を買い取ります。邦題『コンチネンタル』は1934年6月から撮影に入りました。監督はマーク・サンドリッチ、共演者はエドワード・ホートン、アルリス・ブラディ、そしてフレッドの舞台劇に出ていたエリック・ローズとエリック・ブロアも出演しました。コン・コンラッドとハーブ・マジソンが作った主題歌“コンチネンタル”は、主題歌に与えられる初めてのアカデミー賞を受賞しました。『コンチネンタル』は他にも作品賞を始め4部門にノミネートされましたが、『或る夜の出来事』に全てさらわれてしまいました。ジンジャーが1934年に出演した映画は7本で、11月14日にルー・エアーズと結婚しています。

”コンチネンタル”を踊る
フレッドとジンジャー

 ハネ・ムーンから帰ったジンジャーの次回作は、舞台劇を映画化した『ロバータ』です。監督は旧友のビル・サイター、共演者はフレッド、ソプラノ歌手のアイリーン・ダン、ランドルフ・スコット、ヘレン・ウェストリー、そして端役で新人のルシル・ポールが出演しています。(劇中のファッション・ショーでモデルとして登場します。)音楽はジェローム・カーンで、舞台と同じ楽曲を使っています。映画のオープニングから“煙が目にしみる”が流れて、劇中ではアイリー・ダンが歌います。ジンジャーとフレッドが最初に踊ったのは“アイル・ビー・ハード・トュ・ハンドル”で、その踊りはそのまま撮影され最後の二人の笑い声も入っています。木の床で踊るのは、とても気持ち良く踊れて楽しかったと語っています。ジンジャーはダンスの稽古が大好きで、何時間も根気よく続けられるそうです。『ロバータ』ではフレッドとハーミズと三人で、ダンス・ナンバーを1日8時間、6週間の練習でした。『ロバータ』の撮影が終了して一週間も休まないうちに、ジンジャーはパンドロ・S・バーマン監督の『深夜の星』でビル。パウエルと共演します。

”アイル・ビー・トゥ・ハンドル”を踊るジンジャーとフレッド(左)
ファッション・ショーに登場するルシル・ポール(右)

 『深夜の星』の撮影が終了して六日後、ジンジャーはフレッドと『トップ・ハット』のリハーサルを始めました。共演者はエドワード・ホートン、ヘレン・ブロデリック、エリック・ローズ、エリック・ブロアです。音楽はアーヴィング・バーリンで、“トップ・ハト”、”イズント・ディズ・ラブリディ“、”チーク・トゥ・チーク“”ピッコリーノ“”ノー・ストリングス“と名曲を提供しました。衣装デザインは『ロバータ』に続いて、バーナード・ニューマンです。ジンジャーが希望したドレスは、ブルーのサテンにダチョウの羽根を無数につけた背中が空いているドレスです。ダンス・シーンを撮影の為、ジンジャーの仮設の控室に羽根付きドレスが運ばれてきました。それを見た監督もフレッドもその場にいたスタッフ全員が、そのドレスを使う事に反対でした。ドレスが仮設の控室に届くと同時に、サンドリッチ監督がジンジャーに『コンチネンタル』で着用した白いドレスを着て欲しいと言ってきました。ジンジャーは母親のレラに電話をして、スタジオに来るように言って。仮説の控室戻ります。間もなく、汚れて伸び切ったボロボロの白いドレスが運び込まれました。レラが到着して、事情を話してブルーのドレスを見せて感想を聞きました。レラは気に入ってくれて、サンドリッチ監督にブルーのドレスは素敵なドレスだし、ジンジャーが着るべきだと言います。サンドリッチ監督はレラに、ドレスの事を幹部全員と話し合ってくれないかと言います。レラは、別の女の子を使ったら如何と言って、ジンジャーの手を取ってサッサと楽屋口から外に出ていきました。その時、アーガイル・ネルソンがジャンジャーを引き留め、サンドリッチ監督があのドレスで一度リハーサルをしようと云っていると言います。羽根付きドレスを着て最初フレッドと踊った時、彼が一番嫌っている事が分かったそうです。フレッドの顔には、このドレスは気に入らないと顔に書いてあったと語っていました。踊ると羽根は飛び散りましたが何とか撮影が終わり、次の日のラッシュを観てジャンジャーは満足しました。しかし、試写室にいた誰もジンジャーに声を掛ける事が無く出て行きました。ジンジャーが試写室から出た時、アシスタントの一人が私は奇麗だと思いますと言ってくれたのは嬉しかったそうです。そんな事があった四日後、控室にリボン付きの小箱が配達されて来ました。それはフレッドからのプレゼントで、中にはメモとブレスレットになる金の羽根が一本入っていました。『トップ・ハット』の撮影は約12週間で終わり、続けて『本人出現』の撮影に入ります。『トップ・ハット』は大ヒットし、最高傑作とまで云われました。ニューヨークのラジオシティ・コールで公開された時は、満員の観客が一曲終わる毎に喝采していたと聞かされていたそうです。

バーナード・ニューマンがスケッチしたダチョウの羽根のドレス(左)
”チーク・トゥ・チーク”をフレッドと踊るジンジャー(右)

 1935年10月には再びフレッドと『艦隊を追って』の撮影に入ります。(仕事の連続で、休む暇もない状態が続いています。)監督はマーク・サンドリッチ、共演者はフレッド、ハリエット・ヒルリアード、ランドルフ・スコット、ルシル・ポール、ベティ・グレィブル、トニーマーチンです。マーク・サンドリッチ監督とは三作目ですが、相変わらず無視されていました。サンドリッチ監督は、フレッドの顔とジンジャーの後頭部を撮るのを信条にしていた。ジンジャーの後姿をロング・ショットで撮って、フレッドの顔の背景になるようにしたのが不愉快だったと語っています。二人の最初のナンバー“レット・ユアセルフ・ゴー”でフレッドは水兵服、ジンジャーはネイヴィーブルーのパンツに白のセーラー・タイプの衣装で踊ります。この曲は後で出て来て、このミュージカル・シリーズで初めてソロ・ダンスをします。ダンスのルーティンを作る時、フレッドは他のダンスと違うものを作ろうと試みていました。ジンジャーは、ダンスの終わり方や色々アイディアを出していました。最後のナンバー“レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス”で、バーナード・ニューマンが作ったペイルブルーのビーズのドレスを着て踊りました。ビーズの重さは11㎏あり、ターンをするとビーズの重さでバランスを崩していました、一回目のテイクで、袖のビーズがフレッドの顎を一撃しました。フレッドは一瞬怯みましたが、ダンスをそのまま続けました。その後二人ともビーズの攻撃を避けながら、数時間踊り続けましたが一度も上手く行きませんでした。結局、一番最初のテイクをサンドリッチ監督は採用しました。このナンバーは歌と踊りだけで物語が展開され、二人の心情が伝わるようになっています。サイレント映画の時代から、良質の映画は映像で物語を伝えます。(このシーンは大好きです。)

ダンス・コンテストで踊るジンジャーとフレッド(左)
ビーズのドレス着てフレッドと踊るジンジャー(右)

 母親のレラはハリウッドでホリータウン・シアターという研究集会を開いていました。RKOはスタジオ内に若手の俳優の為に俳優養成所を作ろうとしていたので、レラの研究集会をスタジオ内でするように依頼します。レラはスタジオ内の小さな劇場で、劇のキャスティングとプロデュースしました。その時の若手俳優は、ルシル・ポール、ベティ・グレイブル、ジョイ・ホッジス、レオン・エイムス、アン・シャーリー、タイロン・パワー、フィリス・フレザーというメンバーでした。一人入会を断ったのは、ジョーン・フォンティンでした。彼女は既にアルフレッド・ヒチコックの『レベッカ』の主役を演じていましたので、レラは納得しました。レラは若手俳優の為に脚本を読み訓練しながら、才能を発揮できる場所を探していました。RKOがルーシーの契約を切る話があった時、ルーシーは有望な若手の一人ですから、ルーシーを首にするのなら私も辞めると云って彼女の契約を継続させました。

 1936年4月にジンジャーはRKOと新しい契約を結ぶ為に交渉していました。ジンジャーはマスメディアによって、大衆には屈託のないブロンド娘というイメージが出来上がっていました。ジンジャーは自分の能力を伸ばしたいと思っていたので、RKOに自分の条件を出します。彼女は今まで何の不満も言わず、無遅刻無欠勤で、会社の指示通りに働き続けました。プロデューサーのバンドロ・S・パーマンの助力もあり、RKOはジンジャーの条件に同意して契約しました。次回作は『有頂天時代』で、監督はジンジャーを無視するマーク・サンドリッチからジョージ・スティーヴンスに代わります。ジョージは素晴らしい監督なので、この映画は今までの自分の演技の幅を拡げられと思ったそうです。共演者はフレッドを始め、ヘレン・ブロデリック、エリック・ブロア、ヴィクター・ムーアとお馴染みメンバーでした。音楽はジェローム・カーンとドロシー・フィールズが担当しました。この映画でフレッドが”今宵の君は“を歌うシーンがありますが、ジンジャーがバスルームから頭を白い石鹸の泡で一杯まま居間に歩いて行きます。しかし、様々なシャンプーを使っても、シェービング・クリームや卵白を泡立てても駄目でした。ジンジャーはホイップ・クリームを使う事を思い付き、このやり方で撮影は成功しました。この方法は、その後十年のシャンプーのコマーシャルに使われました。

ホイップ・クリームで作った
泡の頭のジンジャー

 この映画のラスト・ナンバーネバー・ゴンナ・ダンス”は、ご存じのように48テイク撮影されました。このナンバーの撮影はトラブル続きで、アークライトが消えたり、ノイズがカメラに入ったり、最後のスピンでどちらかのステップをミスしたり、最後の最後にフレッドのカツラが飛んだりしました。ジンジャーは足が痛くて堪らなかったので、靴を脱ぐと皮が剥けて血だらけでした。それを見たハーミズが、撮影を中止しようと言いましたが、ジンジャーは断ってダンスを続けました。『有頂天時代』は大ヒットし、『トップ・ハット』の動員記録を塗り替えました。さらに“今宵の君は”は、アカデミー主題歌賞を受賞しました。

“ネバー・ゴンナ・ダンス”の48テイク目のダンス

 1936年12月24日、『踊らん哉』の撮影が始まりました。共演者はフレッド、エドワード・エヴァレット・ホートン、エリック・ブロア、そして新顔のジェローム・コワンです。楽曲はジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュイン、監督は二度と顔も見たくないマーク・サンドリッチです。この映画ではジンジャーのお面が登場しますので、石膏で顔型を撮ります。鼻に二本のストローをさし、顔全体に石膏を塗って15分間じっとしていました。その15分は、15時間経ったように思ったそうです。出来上がったマスクを付けた女の子たちが登場するシーンは、不気味なマスクと沢山のコピーを見るのは堪えられなかったそうです。

お面を付けたダンサーたちと
ジンジャー(中央)

 本作ではニューヨークのセントラル・パークで撮る予定があり、ンジャーはフレッドとハーミズと3人でどんな踊りにするか考えていました。ハーミズがローラースケートを履いて踊ったらと言いました。フレッドは乗り気ではなかったようですが、ジンジャーはこのアイディアを気に入りました。小道具係にローラースケートを用意して貰って、踊ってみるとフレッドも気に入りハーミズと3人でステップを考えました。ある朝、ジンジャーの許に脅迫状が届きました。フロントは悪戯だから何もしなくて良いと言われました、ジンジャーはFBIに連絡して対処を依頼しました。FBIの「ジンジャー」は、5000ドルが入った封筒を受け渡しに行って犯人の指示通りにしました。間もなく現れた犯人は、FBIに逮捕されて懲役5年の実刑判決を受けました。

ローラースケートを履いて踊る
ジンジャーとフレッド

 1937年6月、RKOの『ステージ・ドア』の撮影に入ります。ジンジャーとキャサリーン・ヘップバーンで主役を分け、監督はグレゴリー・ラキャヴァ。共演者はアドルフ・マンジョー、ジャック・カーソン、コンスタンス・コリア、ルシル・ポール、アン・ミラーでした。キャサリンとは確執がありましたが、ラキャヴァ監督はジンジャーを気に入ってくれてよい部分を引き出してくれました。この映画で歌も踊りも無しのストレート・プレイの俳優として認めてもらえるようになります。9月には舞台劇を脚色した『処女読本』の撮影に入ります。監督はアルフレッド・サンテル、共演者はダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ルシル・ポール・イヴ・アーデン、ジャック・カーソン、そして映画初出演のレッド・スケルトンでした。残念ながら舞台劇ほどの面白みが無く、成功しませんでした。

 休む間もなくジンジャーは『モーガン先生のロマンス(『陽気な淑女』)』の撮影に入ります。監督はジョージ・スティーヴンス、ジンジャーとジェームズ・スチュワートで主役を分け、共演者はチャールズ・コバーン、ビューラ・ボンディ、ジェームズ・エリソン、フランシス・マーサーです。教授がナイトクラブの歌手に一目ぼれして、二人は夜のニューヨークを彷徨い歩くシーンはとてもロマンチックです。この映画でジンジャーはアクション・シーン(?)を演じます。教授の元恋人と口喧嘩から始まって、張り手と蹴りの応酬になり、最後はレスリングもどきになります。

 休暇を取ったジンジャーは、1939年5月に『気儘時代』の撮影に入ります。監督はジンジャーにとって最悪のマーク・サンドリッチです。共演者はフレド、ラルフ・ベラミ^、ハティ・マクダニエル、ジャック・カーソン、音楽はアーヴィング・バーリンです。撮影派ジンジャーお気に入りの一流のカメラマンロバート・デ・ダラスです。本作では脚本家はアラン・スコット、アーネスト・バガン、ダドリー・ココルス、へいがー・ワイルドの四人です。本作のストーリーは今までとは違うもので、本格的なコメディといってもいい位のシナリオです。ジンジャーは優柔不断の女性アマンダを演じましたが、今までミュージカル映画で演じたどの役よりも素晴らしかった。ヨーロッパでは、『気儘時代』は『アマンダ』と呼ばれていたそうです。『気儘時代』は当初テクニカラーで撮る予定でしたが、撮影に入る数日前に予算の関係でモノクロになりました。セットも衣装も音楽もカラー撮影を前提で準備しました。ジンジャーとフレッドは、初めてのカラー映画出演に喜んでいましたが、スタッフも含め全員失望しました。本作でのジンジャーの持ち歌“ヤム”は、フレッドが気に入らなかったお下がりです。このナンバーで新しい踊りをジンジャーが思いつきます。フレッドが片足を伸ばしてテーブルの上に踵をつけ、ジンジャーはその足を飛び越えて踊る「テーブル超え」のアイディアです。フレッドはやる気がなかったので、ハーミズとジンジャーで踊って見せたら、フレッドも納得してこの案は採用されました。今回精神科医役のフレッドがジンジャーに催眠術をかけるシーンも、ジンジャーのアイディアでそれをダンスで表現しています。そのシーンにジンジャーが夢を見る場面が挿入されますが、その場面がスローモーションで撮られました。そのダンスの最中の最後でフレッドとジンジャーの唇が一瞬触れました。後でラッシュを観るとスローモーションで撮られた為、二人がしっかりキスしているように映っています。それを観たフレッドは奇声をあげ、その後皆と一緒に笑いだしました。やはり相手役とのキスは、妻のフィリスが嫌がっていたのが真実の様です。『有頂天時代』でドアの陰でキスしたように見せたのは、フレッドの口にメイキャプ係が口紅を塗ったものでした。

テーブル超えをするジンジャーとフレッド

 ジンジャーの次回作は1939年の『カッスル夫妻』で、第一次世界大戦以前にダンス・ホールで神機を博したヴァーノンとアイリーン・カッスルの伝記映画です。夫のヴァーノン・カッスルは戦争中に飛行機事故で亡くなっています。撮影に入る前からアイリーンはジンジャーに事細かく注文を付けてきました。撮影中も靴のリボンが違うとか、アイリーンが考え出したというショートボブにしろとか小競り合いは続きました。ジンジャーもフレッドも自分たちが気に入らない事は断りました。仲にはいった監督のハンク・ポッターは罵声を浴びながら収めていました。ポッター監督は非常に仕事がやり易く、気配りと機転をもって上手く扱ってくれたそうです。共演者はエドナ・メイ・オリヴァーとウォルター・ブレナンで楽しく仕事が出来たそうです。(この二人は名脇役ですから当然ですね。)1900年初頭のヴァーノンとアイリーンのダンス・パターンは、フォックストロット、マキシン、カッスル・ウォークで、嬉しくなるほど古風で楽しかったと語ったっていました。今回フレッドと共演したミュージカル映画で、二度目のソロ・ナンバーを踊ります。“ヤム・ヤム・マンのダンス・パターンを模倣するアイリーン・カッスルも真似をします。だぶだぶのスーツを着て、このナンバーを踊るのは楽しかったそうです。

“ヤム・ヤム・マン”を踊るジンジャー

 この映画でコンビが解消されると噂が広まり、フレッドと共演する最後の映画であるように思ったそうです。この映画のラスト・ナンバー”ミズリー・ワルツ”の撮影時にはパラマウントやコロンビアの上層部や、RKOで制作中の他のステージのスタッフも加わり大勢の人たちの前で撮影されました。ジンジャーはラスト・ワルツを踊りながら、感極まって涙が浮かんだそうです。

カッスル・ウォークを踊るジンジャーとフレッド(左)
映画のラスト・シーン(右)

 この時のジンジャーの写真は、タイム誌の1939年4月10日号で表紙になりました。と書いた処で、次回に又続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.12 『ジンジャー・ロジャース』

  ジンジャー・ロジャース(1911・7・16~1995・4・25)は、ミズリー州のインディアナ生まれの映画俳優、ダンサー、ミュージカル俳優です。妊娠9か月だったジンジャーの母レラ・オーウェンズ・マクマスは、夫に見捨てられましたが、一人で家と秘書の仕事を探して生活を始めました。出産後も職場にジンジャーを連れて出勤し、タイプライターを打って仕事を続けていました。全て自分が決めた通りに実行する母親だったと、ジンジャーが語っていました。”ジンジャー”という名前は彼女が4歳の頃、当時11か月の従妹のヘレンが名付けたそうです。ジンジャーの本名ヴァージニア・キャサリン・マクマスですので、ヴァ-ジニアと皆から呼ばれていました。赤ん坊のヘレンは、ヴァージニアと言えずに色々な呼び方して最後にジンジャーと呼ぶようになりました。それからは皆がジンジャーと呼ぶようになり、ジンジャーと云う名前になったそうです。

レラ・イモーガン・オーウェンズ 1908年(左)
ヴァージニア・キャサリン・マクマス 3歳(右) 

 1915年、母親のレラはエッセイ・コンテストで作品が一等賞になり、その作品を持って単身ハリウッドに行きました。そこでラオール・ウォルッシュと知り合い、彼の依頼で脚本を書き採用されますが、出来た映画は自分の出した企画からは大きく変わっていました。監督、プロデューサー、俳優によって内容が変わってしまう事を知ります。その後、ヘンリー・キングの紹介で、20世紀フォックス社で脚本を書くようになります。5か月間フォックスの仕事をしていたレラは、ジンジャーをニューヨークに呼び寄せます。レラがハリウッドに行った時のジンジャーは、レラの姉のヴェルダ・ヴァージニアの大家族と一緒に幸せに数年間を過ごしています。母の呼び出しで、6歳のジンジャーは一人でカンサス・シティから列車に乗って、シカゴ経由でニューヨークまで行きました。ニューヨークで母親と楽しく過ごし、公立学校にも通っていましたが、第一次世界大戦の戦況が悪化していた1918年に母親は海兵隊に入隊します。海兵隊に加わった最初の十人の一人だったそうです。レラはワシントンD.C.に移る為、ジンジャーは再びカンサス・シティの叔母さんの家に行くことになります。レラは海兵隊の広報部の仕事をし、短期間ですが海兵隊の新聞「レザーネック」の編集長の代理もやっていました。その頃レラはジョン・ローガン・ロジャースと知り合い、1920年5月にレラが海兵隊を除隊した時に彼と結婚しました。新しい父親の“ジョン・ダディ”は優しくて、本当の父親のようでジンジャーは直ぐ好きになったそうです。

フォートワースのアーツクラブにて 1921年

 ジンジャーの母親、レラ・イモーガン・ロジャースは舞台脚本も書く才女で、フォートワース・レコード誌の評論家をしていて、映画やヴォードヴィル等の全ての劇場関係の批評を担当していました。1920年当時はヴォードヴィルが流行っていて、フォートワースに来た芸人を母親が家に招待するのでジャンジャーは多くの芸人に会っています。彼女が踊りを覚えたのは、近所の男の子がチャールストンの踊り方を教えてくれた時が初めめでした。それを自分でアレンジして踊るようになりました。1923年頃はチャールストンが各地で大流行していて、フォートワースでも大会が開催されました。ジンジャーはこの地方大会に出て優勝し、ダラスの決勝戦でも優勝してテキサス州のチャンピンになりました。このコンテストの優勝により、彼女は4週間の公演をして回る事になります。母親の手配でコンテストでは次席だった二人と契約して、小さな一座を作って巡業して回ります。これがジンジャーのプロのスタートですが、彼女は誰からもダンスのレッスンは受けていません。この公演後、1925年から1928年の間ジンジャーは母親と全米各地を巡業して経験を積み、ニューヨークに進出して初めてニューヨークの舞台で演じます。

1926年 ジンジャーの最初のブロマイド(左)
ボードビル・ショーで「ザ・バレンシア」を踊るジンジャー(右)
1926年 ジンジャーとレラ

 彼女のヴォードヴィルのステージは好評を得ていまして、3本の短編映画に出演する事になります。15分の短編映画は、ヴォードヴィルの歌とダンスを簡単に紹介するものです。因みに、ジンジャーの初デビュー映画は、『キャンパス・スイートハート』と云う短編映画です。この映画を撮影中もヴォードヴィルを続けていた時に、パラマウントからミュージカル・コメディの舞台劇「トップ・スピード」の出演依頼がありました。1929年、18歳のジンジャーはブロードウェイの舞台にデビューを果たします。公演期間中にパラマウント映画のスクリーン・テストを受けて合格し、『恋愛四重奏』に出演する事になります。ジンジャーは舞台と並行して『恋愛四重奏』の撮影もこなします。ここから彼女の掛け持ちが始まっています。3月に「トップ・スピード」の舞台が終わり、その後続けて4月に『喧嘩商会』、5月に『三太郎太平洋横断』と2本の映画に出演します。

1930年 『恋愛四重奏』
モンタ・ベル監督とジンジャー

 「トップ・スピード」の舞台が終了後、ジョージ&アイラ・ガーシュイン兄弟の新作ミュージカル舞台劇「ガール・クレイジー」のオーデションを受けます。19歳のジンジャーは見事主役の座を勝ち取り、ガーシュイン兄弟と仕事をする事になります。製作が始まる前にガーシュインの家でディナー・パーティーがあり、そこで「 ガール・クレイジー 」の楽曲が、 ジョージ ・ガーシュインのピアノ演奏で披露されました。ガーシュイン兄弟はジンジャーの為に、“バット・ノット・フォー・ミー”と“抱きしめたあなた”の2曲を用意していました。ジョージは彼独特のシング・トークで、ピアノを弾きながら歌詞を語りました。ジョンジャーは2曲とも気に入り、特に“抱きしめたいあなた”は絶対ヒットすると思ったそうです。

1930年 「ガール・クレージー」
ジンジャーとアレン・カーンズ

 八月からリハーサルが始まりましたが、プロデューサーのアレックス・アーロンズとヴィントン・フリードリーがダンスの振り付けが良くないので、アレックスが友人のダンサーを呼ぶ事になまりした。そして、ある日劇場に小柄の紳士が現れます。それがフレッド・アステアでした。アレックスの指示でダンス・ナンバーを一通り踊り、“抱きしめたいあなた”をもう一度踊るようにフレッドが言い、随所にステップを加えて修正しました。そして、フレッドとジンジャーは“抱きしめたいあなた”を踊ります。これが、二人の最初のダンスです。その後もフレッドはアレックスに呼ばれて、ジンジャーのダンスを調整する為に訪れ、フレッドの指導で未熟な部分は修正されます。彼女は以前から人の物まねが上手だったせいか、フレッドの踊りについて踊るのは簡単で、自分のステップは彼のステップにピッタリ合っていたと言っていました。そして、フレッドは単なるダンスの指導者で特別の印象を受けなかったとも言っていました。

 1930年10月14日に「ガール・クレイジー」は上演開始となり、272回公演が続き大ヒットとなります。この公演のオーケストラは、レッド・ニコルズ・アンド・ヒズ・ファイヴ・ペニーズです。そうです。あの1950年の『五つの銅貨』でお馴染みのレッド・ニコルズのバンドです。メンバーは、ドラムがジーン・クルーパ、ピアノがロジャー・イーデンス、クラリネットがベニー・グッドマン、サックスがジミー・ドーシ、トロンボーンがグレン・ミラーとジャック・ティーガーデンと云うそうそうたるメンバーです。公演中に時々ガーシュインが来て、ピアノを弾く事もあったそうです。「 ガール・クレイジー」終了後、ジンジャーは立て続けに数本の映画に出演します。

 1932年にはフリーになってワーナー・ブラザーズで2本、フォックスで2本出演した後、再びワーナー・ブラザーズと契約してバックステージ・ミュージカルの『四十二番街』に出演します。この映画の監督はロイド・ベーコン、振付師は新しいスタイルを生み出したバズビー・バークレイ、主役はワーナー・バクスターと新人のビビ・ダニエルズです。ジンジャーの役はコーラス・ガールで、非常に印象的で存在感のある演技をしていました。彼女のアイディアで片メガネを掛けて、訛った英語を喋っていました。『四十二番街』は大ヒットし、今も1930年代の最高傑作とも言われています。

1933年 『四十二番街』
ウナ・マーケルとジンジャー

 1933年はこの後立て続けに2本の映画に出演し、次にマービン・ルロイ監督の『ゴールド・ディガーズ』では一攫千金を夢見るコーラス・ガールのフェイ・フォーチュン役で出演します。オープニングでジンジャーはコインを散りばめた衣装を着て、オープニングで登場して「ウィー・アー・イン・ザ・マネー」を歌います。彼女の唇が、画面一杯に映し出されます。この後も『プロフェショナル・スウィートハート』、『恋に賭けるな』、『彼女の戦術』、『めりけん音頭』と1933年には9本の映画に出演しています。ジンジャーは『恋に賭けるな』で憧れていたルー・エアーズと共演しました。彼女は『西部戦線異状なし』でルー・エアーズを観た時から、彼に恋していたと語っています。その言葉通りにジンジャーはルーとデートを重ね、1934年11月14日に彼と結婚しました。

1933年『ゴールド・ディガーズ』
コインのドレスを着るジンジャー

 1933年7月に『空中レビュー』の製作が決定し、ドロシー・ジョーダンが結婚で役を降りたのでジンジャーが代わりに出演する事になりました。前にも書きましたがジンジャーは歌手役で、黒のスケスケのドレスを着てキュートでセクシーに“ミュージック・メイクス・ミー”を歌います。

“ミュージック・メイクス・ミー”を歌うジンジャー

 リオ・デ・ジャネイロで地元の楽団の演奏途中から、ジンジャーとフレッドは“カリオカ”を踊り、“カリオカ”旋風を起こします。“カリオカ”のダンスは、二人が額と額を付けて踊る処が大変ユニークで、ダンサー全員が額と額を付けて踊ります。この額と額を付けて踊るアイディアは、振付師のハーミズ・パンが思いついものです。RKOは、この映画の成功で財政難を解消し、フレッドとジンジャーのコンビを主役にして映画化を決定します。

“カリオカ”を踊るジンジャーとフレッド

と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

発行所:キネマ旬報社 1994年

Vol.8 『フレッド・アステア』 最終章

『フレッド・アステア』のトップはこちら

 1951年、MGMが準備を進めていた『恋愛準決勝』に取り掛かる事になります。相手役のジューン・アリスンと振付師のニック・キャッスルと共にリハーサルを始めます。しかし、ジューン・アリスン(当時、ディック・パウエル夫人)の妊娠が分かり、役を降りる事になります。ジュディ・ガーランドに出演依頼をした処、快諾してくれたのでリハーサルを再開しましたが、ジュディが病気になり役を降ります。チャック・ウォルターズが監督する事になっていましたが、別の仕事の為に降りてしまいます。開始後5週間経っても主演女優も監督も決まっていない状態です。1週間後、ジューン・パウエルが出演する事になり、やっとリハーサルが再開されました。ジェーン・パウエルは本来ダンサーではありませんが、芸達者な女優なので素晴らしいダンスを披露してくれます。『略鬱された七人の花嫁』で主演しています。フレッドはスタンリー・ドーネンを監督に指名します。スタンリー・ドーネンは最初振付師でしたが、最近監督になったばかりでした。共演はピ-ター・ローフォードとウィンストン・チャーチルの娘のサラ・チャーチルです。この映画は原題”Royal Wedding”が示すように、フィリップ王子とエリザベス王女のロイヤル・ウエディングの模様も後半に登場します。小柄なジューンは、パワフルなダンスでフレッドの相手をします。彼女は映画の出演本数は少ないですが存在感のある女優で、ジャズ・シンガーとしても有名な方です。フレッドはこの映画で、以前から構想していた壁や天井で踊ります。大掛かりな舞台とそれを動かす装置作りは大変だったと思いますが、このシーンは有名ですね。

客船のホールで踊るフレッドとジューン(左)
オーデションでサラと踊るフレッド(右
天井や陰で踊るフレッド(左)
左からピータ、ジューン、フレッド、そしてサラ(右)

 1952年、ヴェラ・エレンと『ベル・オブ・ニューヨーク』の撮影に入りますが、1946年に企画を中止した映画です。1910年の時代設定が退屈だったのとファンタジーが嚙み合っていない映画に思われます。フレッドが空中に浮かび上がって踊るシーンがありますが、批評家にも観客にも受け入れられなかったようです。八か月取り組んだが、失敗作だったとフレッドが語っています。1953年、MGMは『バンド・ワゴン』を企画します。姉のアデールと出演した舞台劇の「バンド・ワゴン」の楽曲を使いますが、新しくシナリオは書き下ろされました。監督はヴィンセント・ミネリ、フレッドの相手役はシド・チャリシーです。この映画はバック・ステージ物ながらかなりの大作で、ジャック・ブキャナン、オスカー・レヴァント、ナネット・ファプレイが出演しました。フレッドはシド・チャリシーの事を卓越したダンサーで、素晴らしいパートナーだ。彼女には正確さに加えて美しいダイナマイトだと評していました。ニューヨークの批評家は大絶賛しましたが、ハリウッドの方は酷評でした。

公園でシドと踊るフレッド(左)
劇中でのシドとフレッドのダンス(右)

1953年『バンド・ワゴン』

 1954年20世紀フォックスから『足ながおじさん』の現代版ミュージカルの出演依頼があり、フレッドは即決で契約しました。監督はジーン・ネグレスコ、作詞作曲はジョニー・マーサー、振付はローラン・プチです。フレッドの相手役は、フランス出身のバレエ・ダンサーレスリー・キャロンです。彼女は誠実で真面目で優れたアーティストで、自分が完璧に自信を持てるまでダンスも演技しませんでした。彼女の為に撮影は何分でも何時間でも止まる事がありましたが、フレッドはそんな彼女を称賛していました。リハーサルを始めていた7月に奥さんのフィリスの病状が悪化して二度目の手術をする事になり、フレッドは一時撮影現場から離れます。回復するかに見えたフィリスは、1954年9月13日に亡くなりました。フレッドはこの仕事を辞めようとしましたが、フォックス社から映画を続けるように説得されます。気持ちの準備が整った10月から仕事を再開しました。映画が完成するとフレッドは初めて宣伝の為にテレビに出る事になります。ダンスも台本も無しで、全てアドリブだったのは楽しかったと語っていました。「エド・サリバン・ショー」では、エドに呼ばれて客席から登場してカメラ前に出ていました。

バレエ・ダンスのレスリーと踊るフレッド(左)
レスリーとフレッドのダンス(右)

 あるカクテル・パーティーでMGMのロジャー・イーデンズに偶然会った時、パラマウント社の『パリの恋人』(原題:ファニー・フェイス)の出演依頼がありました。オードリー・ヘップバーンが脚本を気に入って、フレッド・アステアが出演するなら出ると言っている。フレッドは即答で快諾しました。偉大なる美しきオードリー・ヘップバーンと共演出来るのは、唯一最後のチャンスだと思ったそうです。オードリーはフレッドと踊れる日を20年待って実現する事になりました。監督はスタンリー・ドーネン、振付はユージン・ローリングとフレッド・アステアです。音楽はジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンの過去の楽曲が使われました。パリでの撮影は雨が続き、チュイルリー公園でのファッション写真撮影シーンは、雨の中で行われました。シャンティイーのラ・レーヌ・ブランシュ教会で、二人はロマンティックなダンス・シーンを撮る事になっていました。雨が執拗に降り続け、最後の最後にギリギリ撮影可能になりました。雨は上がっても地面は乾いていない状態です。二か月以上踊っていないダンス・ナンバーを、非常に広いエリアを踊りました。帰国後、フレッドはニューヨークに行って、テレビや新聞雑誌で宣伝活動しました。今回もエド・サリバンの番組にも出演しています。映画はロードショウ公開で、大成功を収めました。

古本屋でのフレッドとオードリー(左)
教会の敷地で踊るフレッドとオードリー(右)

 MGMの『絹の靴下』の準備が整い、1956年9月からリハーサルが始まりました。『絹の靴下』はブローウェイのミュージカル・コメディを映画化したもので、映画の『ニノチカ』を懸案したものでした。監督はルーベン・マヌーリアン、音楽はコール・ポーター、フレッドの相手役はシド・チャリシー、共演者はジャニス・ペイジ、ピーター・ローレです。シドとのダンスを楽しみにしていたフレッドは、彼女と沢山のダンスを踊り、どれも出来が良かったと語っていました。ミュージカルが下火になっていたにも関わらず、1957年に公開されたこの映画はヒットしました。『絹の靴下』撮影終了後、様々なスタジオから脚本が送られてきましたが、本当にやりたいものはありませんでした。もうミュージカル映画は充分やりつくしたと思ったそうです。

フレッド、シド・チャリシー、ジャニス・ペイジ(左)
シド・チャリシーと踊るフレッド(右)

 フレッドは1957年にテレビで、歌わないし踊らない番組を企画します。毎週日曜日夜の「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の中で放送された、「インプ・オン・コブウェブ・リーシュ」という題名の30分のコメディです。歌わない踊らないコディアンとしてのフレッドは視聴者に受け入れられました。これに気をよくしたフレッドは、生放送のダンス特番を作ろうと思い企画してクライスラー社と契約します。クライスラー社から番組の内容はフレッドに一任され、一時間の特別番組をカラーで生放送する事になりました。フレッドは明確なコンセプトを持ち、ダンスのアイディアを練り上げました。そしてバリー・チェイスに共演を依頼しました。バリーは『足ながおじさん』と『絹の靴下』に無名のダンサー役で出演していて、彼女の仕事にフレッドは感銘を受けていました。また、練り上げたダンスは部分的に彼女の独特のスタイルからインスピレーションを得ています。振り付けはハーミズ・パンとフレッドが担当しました。20人ほどのメンバーは7週間のリハーサルを行い、フレッドはその前に5週間のリハーサルをしていました。クライスラー社提供の「アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア」は、1958年10月17日に放送されました。放送終了後、視聴者とマスコミの両方から、批判の声なしに称賛されました。この特番は1968年までの10年間に合計4回放送され、9個のエミー賞を受けています。(このテレビ番組の邦題は、「今宵アステアとともに」です。)

1858年の生放送で踊るバリーとフレッド
1968年の最後の生放送で踊るバリーとフレッド

 1958年にスタンリー・クレイマー監督から、『渚にて』で科学者のオズボーン役を演じてほしいと出演依頼がありました。主演はグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、共演はアンソニー・パーキンス、ドナ・アンダソンです。この映画は特撮を一切使わないSF映画として有名な映画です。核戦争が起こり、北半球に住んでいた人たちは死亡し、南半球のオーストラリアだけが辛うじて生きて居られる状態です。しかし、核の汚染は南半球にも広がってきて、人類の全滅が間近に迫っているという内容です。フレッドはストレートの俳優として出演しています。

フレッドとエヴァ・ガードナー(左)
自分のレース・カーを運転するフレッド(右)

 その後1968年に『フェニアンの虹』でフレッド最後のミュージカル映画に出演し、1974年に『タワーリング・インフェルノ』にストレ-トの俳優として出演してアカデミー助演男優賞にノミネートされています。1974年に『ザッツ・エンターテインメント』、1976年に『ザッツ・エンターテインメント パート2』と出演しています。1985年の『ザッツ・ダンシング』ではフレッド本人は出ていませんが、過去の映画での出演をしています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝

Vol.7 『フレッド・アステア』の続きの続き

 ジンジャー・ロジャースとのコンビ解消後、1940年にフレッド・アステアはMGMで『踊るニューヨーク』の撮影に入ります。監督はノーマン・タウログ、共演者はエリノア・パウエルとジョージ・マーフィです。この映画の原題は『Broadway Melody of 1940』といい、ブロードウェイ・メロディ・シリーズの4作目でシリーズの最終作です。共演のエリノア・パウエルは1930年代に大活躍したタップ・ダンサーで、タップの女王と言われていました。ダンスの神様とタップの女王の共演は、私にとっては奇跡のような映画です。正確無比でパワフルなエリノアと軽快に華麗なダンスをするフレッドとのダンス・シーンは最高ですね。この映画では二人のタップ・ダンスを十二分に堪能出来ます。ジョージ・マーフィはストレートーの俳優もしますが、歌も踊りも笑顔も素晴らしい俳優です。後に彼は映画会社の社長やアメリカの下院議員にもなった方です。この映画でフレッドはジョージと組んで、初めて男性コンビで踊ります。この映画は当初カラー映画を予定していましたが、第二次世界大戦時の為モノクロで撮影されました。映画の出来は良かったのですが、世界情勢が不安な事もありスマッシュ・ヒットにはなりませんでした。

エリノア・パウエルのダンス・シーン(左)
ジョージと踊るエリノア(右)
レストランで踊るエリノアとフレッド(左)
ビギン・ザ・ビギンを踊るエリノアとフレッド(右)

 その年フレッドは、パラマウントから公開される『セカンド・コーラス』に出演します。監督はハンク・ポッター、振り付けはお馴染みのハーミー・パン、共演者はポーレット・ゴダード、バージェス・メレディス、アーティー・ショー楽団です。フレッドは、アーティー・ショー楽団の指揮をしながらダンスをするアイディアを実行しました。この映画の音楽はジャズで構成されていたので、フレッドにとっては初めてのスウィング・ジャズ物となりました。

ポーレッド・ゴダードと踊るフレッド(左)
アーティー・ショー楽団の指揮をしながら踊るフレッド(右)

 『セカンド・コーラス』の撮影終了後、フレッドには次回作の予定が入っていませんでした。そのような時、コロンビア映画社のプロデューサーだったジーン・マーキーから、若い女優との共演に関するオファーがありました。B級映画に数本出演しているが、本来ダンサーで将来大スターになるだろうと言いてきました。その女優リタ・カンシーノは、ヴィルボード時代の旧友エドゥアルド・カンシーノの娘で、芸名がリタ・ヘイワースになったばかりでした。後日コロンビア社から連絡があり、出演を承諾してくれるなら続けてもう一本撮りたいとの依頼でした。それから今度はパラマウント社から連絡があり、ビング・クロスビーが出演する『スイング・ホテル』への出演依頼が入りました。戦時下の暗い空気の中、ハリウッドはミュージカル映画で追い払おうとしたのでは無いかと考えたそうです。リタとの最初の共演映画は『踊る結婚式』で、彼女にとっては初めての主演映画です。監督はシドニー・ランフェールド、音楽はコール・ポーターです。リタは訓練を受けた完璧さと個性を持ってフレッドと踊りました。楽しく撮影で来たのは、この映画が第二次世界大戦の軍務を背景にした映画だったので、殆ど軍服姿なので着替える必要がなかったのと、リタと共演できた事だと語っていました。

営倉でソロ・ダンスを踊るフレッド(左)
ウエディング・ドレスのリタと踊るフレッド(右)
1942年『踊る結婚式』

 次回作はパラマウント社の『スイング・ホテル』です。監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリン、主役は当時大人気のビング・クロスビーです。今回のフレッドのソロ・ダンスには花火を使った新しい趣向のものがあります。この花火のナンバーは、爆竹を鳴らしてステップに合わせてリズミカルに爆発させるものです。床にワイヤーを巡らせて、特定の場所で花火の火花が走るように仕掛けたものです。非常に迫力があるダンス・シーンになっています。そして、この映画で初めて「ホワイト・クリスマス」がビング・クロスビーによって歌われました。この曲は世界的に大ヒットし、クリスマスの定番ソングとして長年親しまれました。

ビング・クロスビーとフレッド(左
花火の火花と踊るフレッド(右)

 フレッドは1942年の9月から、ハリウッド勝利委員会が手配した戦時公債ツァーに出かけます。このツァーは公債の販売促進する為に、工場、パーティー、路上集会、劇場でのショーに出演するもので、州をくまなく回ります。(アメリカの国民は、このようなツァーで戦争国債を購入していた訳です。)タイトなスケジュールのツァーが終わり、『晴れて今宵は』の撮影に入ります。監督はウィリアム・A・サイター、音楽はジェローム・カーンです。リタとの共演も二度目で楽しく仕事が出来たそうです。映画はなかなかの成績を上げ、リタの美貌と才能は絶賛されました。

とても魅力的なリタ・ヘイワース(左)
リタと踊るフレッド(右)
1942年『晴れて今宵は』

 1943年にRKOの『青空に踊る』に出演します、監督はエド・グリフィス、音楽はジョニー・マーサーとハロルド・アレン、共演者は若手のジョーン・レスリーです。戦友役のロバート・ライアンは、この映画でデビューしました。第二次世界大戦中なので、フレッドは、「フライイング・タイガー」に乗るパイロットを演じました。次回作は決まっていましたが撮影は遅れていて、「ハリウッド戦時公債大行進」いう大規模な戦時公演ツァーに参加します。ハリウッド・スターが大勢出演し、二週間特別列車で東西両海岸の大都市を回りました。

ロバート・ライアンとフレッド(左)
ジョーン・レスリーと踊るフレッド(右)

 次回作の『ジーグフェルド・フォーリーズ』はMGMの大作で、監督はヴィンセント・ミネリ、出演者はMGMの多くのスターが出演しました。1900年代から1930年代に数々の舞台を演出したフローレンス・ジーグフェルド・ジュニアが、嘗て大好評だった「ジーグフェルド・フォーリーズ」を天国から演出するという映画です。「影なき男」シリーズのウィリアム・パウエルが、ジーグフェルドを演じました。監督のヴィンセント・ミネリは大掛かりなセットを作り、当時の「ジーグフェルド・フォーリーズ」を再現しています。フレッド待望のカラー映画です。フレッドはルシール・ブレマーと2曲踊ります。2曲目はチャイナ・タウンが舞台で、幻想シーンの二人は赤い衣装で手に大きな扇子を持って踊ります。どちらもセリフは無く、踊りだけで物語が分かるようになっています。そして、ジーン・ケリーと初めてコンビを組んで踊っています。この映画でジュディ・ガーランドが歌う「クレマタント夫人」は、ラップでしょうね。撮影終了後フレッドは、軍人と軍人の家族のサポートをするUSO(United Service Organizationsの略)の慰問旅行でロンドンに向かいます。その後、戦火の中フランス、ベルギー、オランダ等のヨーロッパ各地を6週間慰問して回りました。

ルシール‣ブレマーと踊るフレッド(左)
ジーン・ケリーとフレッド(右)

 1945年MGMで『ヨランダと泥棒』の撮影に入ります。監督は前作に続きヴィンセント・ミネリ、相手役も同様にルシール・ブレマーでした。ファンタジー色が強いせいか、興行的には不調に終わりました。パラマウント社でビンク・クロスビー主演の『ブルー・スカイ』に出演します。監督はステュアート・ヘイスラー、音楽はアーヴィング・バーリン、振り付けはハーミンズ・バンです。芸達者なビリー・デ・ウルフが素晴らしい演技を披露しています。この映画でフレッドが踊る「プッティング・オンザ・リッチ」は最高です。ステッキを使ってソロを踊ったあとに後ろのカーテンが空き、中には7人のフレッドが立っています。そして、8人のフレッドが踊ります。バックの七人の動きを細かく確認した処、フレッドは七人分のダンスを個別に撮っています。このシーンの撮影に満足出来たフレッドは、パラマウントの特殊効果部の尽力のお陰だと感謝していました。

ビング・クロスビーとビリー・デ・ウルフ(左)
7人のフレッドと踊るフレッド・アステア(右)
1946年『ブルー・スカイ』

 母親の助言もあり、フレッドはこの映画を最後に引退する事にします。1947年フレッドはダンス・スクールを始めます。150名の教師の訓練をしましたが、思うように事業は進みませんでした。そんなある日ライオネル・ハンプトンの「ジャック・ザ・ベル・ボーイ」を聞いた時、仕事に戻りたいと突然思ったそうです。勿論映画の予定はありませんでした。処がMGMからスクリーン復帰の依頼電話がありました。『イースター・パレード』のリハーサル中、ジーン・ケリーが足首を骨折したので代役をして欲しいとの事でした。ジーン・ケリーの依頼もあり『イースター・パレード』に出演する事になります。監督はリチャード・ウォルターズ、音楽はアーヴィング・バーリン、相手役はジュディ・ガーランド、共演者はピーター・ロフォードとアン・ミラーです。映画はフレッドに合わせて大幅な変更をして撮影されました。この映画のお勧めは、二人が浮浪者姿で歌って踊る「しゃれ者二人組」です。ジュディはコミカルに本当に楽しそうに踊っています。映画は大ヒットし、観客はフレッドのカムバックを歓迎しました。

ジュディと踊るフレッド(左)
浮浪者姿で踊るジュディとフレッド(右)

 次回作はMGMで『ブロードウェイのバークレイ夫妻』をジュディと共演する事が決まりました。監督はチャック・ウォルターズ、音楽はハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインです。撮影が始まる頃にジュディが病気で出演出来なくなり、ジュディの要望で代役を立てる事になりました。簡単に代役は見つからないと思っていたら、偶然にもジンジャー・ロジャースが出演可能でした。『カッスル夫妻』撮った時に話していたコンビ再結成が突然実現しました。ジンジャーはこの10年間歌もダンスもやっていませんでしたが、見事にコンビは復活しました。リハーサルのシーンは最高です。ピッタリ息が合って楽しそうに踊る二人を観ているだけで、なんだか嬉しくなりました。今回のフレッドの新しいダンスは、靴修理店での空想シーンで沢山の靴と共演するソロ・ダンスです。この映画は未公開でしたが、フレッドとジンジャーのダンスをカラーで観られるお勧めの一本です。

楽しそうに踊るジャンジャーとフレッド(左)
沢山の靴と踊るフレッド(右)

 MGMジャック・カミングズから『土曜は貴方に』の脚本が届きます。ヴォードヴィル時代からの友人二人の物語で、フレッドは大いに気に入りジャックに撮影が待ち遠しいと伝えます。この物語はダンサーで作詞家のバート・カルマーと作曲家のハリー・ルビーの実話を基にした映画です。カルマー役がフレッドで、ハリー役はコメディアンのレッド・スケルトンが演じました。監督はリチャード・ソープ、共演者はダンシング・スターのヴェラ・エレン、振り付けはハーミズ・パンです。タップ・ダンスとパントマイムを組み合わせたナンバーでは、ダイナミックなヴェラのダンスを楽しめます。フレッドはこの映画を非常に気に入っていると語っています。

フレッドとヴェラ・エレンの踊り(左)
レッド・スケルトンとフレッド(右)

 以前から予定に入っていたパラマウントの『レッツ・ダンス』の撮影に入ります。監督はノーマン・マクラウド、振り付けはハーミン・パン、フレッドの相手役はベティ・ハットンです。カーボーイ姿の二人が揉み合うコミカルなナンバーでは、パワフルなベティのダンスが観られます。それとフレッドはピアノを相手にダンスをします。この映画は大々的に封切られたにも関わらず、早々に立ち消えてしまいました。

ピアノを相手に踊るフレッド(左)
コミカルに踊るフレッドとベティ・ハットン(右)

そして、又次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝

Vol.6 『フレッド・アステア』の続き

 『空中レビュー』の撮影の為、フレッドはRKOのスタジオに行くとプロデューサーのルー・ブロックが出迎えてくれました。彼とスタジオ・ヘッドのメリアン・クーパーと様々な部門のヘッドに挨拶回りをします。RKOの作業過程とMGMの作業過程が違い、各スタジオには夫々独自のやり方がある事を知ります。『空中レビュー』の監督はソーントン・フリーランド。出演者はドロレス・デル・リオ、ジーン・レイモンドと歌手のレウール・ルーリアンまでは決まっていましたが、フレッドの相手役は未だ決まっていませんでした。やがて相手役は、古くからの友人のジンジャー・ロジャースに決まります。その頃彼女は、1年以上ミュージカルではないストレート・プレイの映画に出ていました。フレッドはジンジャーに踊りたいか聞いた処、ストレートを続けたかったけどミュージカルもやると答えます。フレッドのダンス・シーンは、ハーミズ・パンと二人で作りました。ジンジャーとは幾つかのステップを試したり、二人で楽しく踊ってダンス・シーンを作っていきます。本作での二人の重要なシーンは、「カリオカ」の1曲だけですが素晴らしいいダンス・シーンに仕上がっています。この映画は1933年に公開後大ヒットし、フレッドは映画界に自分の居場所を確保したと思ったそうです。撮影終了後、最後の舞台「陽気な離婚」ロンドン公演の為に出発します。この舞台劇で使われた楽曲は同じでも既に内容を改善していたので、姉のアデールとやっていたのとは違うものになっていました。「陽気な離婚」は大成功に終わり、フレッドの舞台劇への出演は終了します。

「カリオカ」を踊るジャンジャーとフレッド

 プロデューサーのパンドロ・バーマンが、次回作は「陽気な離婚」の映画化すると言ってきました。監督はマーク・サンドリッチで、相手役はジンジャー・ロジャースと聞きフレッドは大いに喜びます。映画版の題名は『The Gay Divorcee』で、日本公開時の題名は『コンチネンタル』です。オリジナルの舞台版から大きく変更され、フレッドの役は作家からプロのダンサーに代わります。舞台版のナンバー「ナイト・アンド・デイ」やテーブル・ダンスはそのまま使われました。それにハーブ・マジスンとコン・コンラッドが書き下ろしたナンバー「コンチネンタル」が加わり、その曲を使った大掛かりなダンス・シーンが取り入れられました。脚本の出来も良く、容易く満足しないジンジャーが自分の役を快く引き受けました。1934年の『コンチネンタル』は大ヒットし、フレッドとジンジャーのコンビは国際的な人気を得ます。

「ナイト・アンド・ディ」を踊るフレッドとジンジャー(左)
「コンチネンタル」を踊る二人(右)

 この成功でRKOは、次回作に『ロバータ』を製作する事を決定します。元々舞台劇だった「ロバータ」を大掛かりなミュージカル映画に作り替えられました。監督はウィリアム・A・サイター、出演者はフレッドとジンジャーとアイリーン・ダン、そして西部劇でお馴染みのランドルフ・スコットです。ジェローム・カーン作曲の「煙が目にしみる」をアイリーン・ダンが歌い、ファッション・ショーでこの曲に合わせてフレッドとジンジャーが素晴らしいダンスを披露します。映画は大ヒットし、「煙が目にしみる」は歌い継がれスタンダード・ナンバーとなりました。

「煙が目にしみる」を歌うアイリーン・ダン(左)
「煙が目にしみる」を踊るフレッドとジンジャー(右)

 1935年は監督はマーク・サンドリッチで、オリジナル・ミュージカルの『トップ・ハット』に出演します。アヴィーング・バーリン作曲の「チーク・トゥ・チーク」をフレッドが歌いながらジンジャーと優雅に踊ります。しかし、今回のジンジャーが着たドレスは全身羽根に覆われたもので、踊るたびに羽根が取れてステージ中に飛び回る状態でした。踊り直すたびに床に落ちた羽根を全て拾い集めてからリハーサルは再開されました。落下物が減り始めて落ち着いた時に撮影をして何とか終了しました。この映画もヒットして、次回作は『艦隊を追って』に決まります。この頃フレッドは、ラジオ番組の「ラッキー・ストライク・ヒット・パレード」のMCを6週間ほど担当していました。

羽付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド

 1936年の次回作『艦隊を追って』の監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアヴィーング・バーリンと前作と同じメンバーです。端役ですが、ベティ・グレイブルとルシール・ポールが出演しています。この映画の劇中劇でジンジャーが着たドレスは沢山のビーズ付きでした。ジンジャーがターンすると袖はビーズの塊になって、スカートの裾は如何にも重そうに回っています。撮影中にフレッドはビーズのパンチを顎に受けてしまいます。4分の撮影を終了した時は、眩暈がしたままで自分の踊りの出来は分からない状態でした。その後撮り直しをしますが、納得いくテイクが撮れず諦めます。翌日最初のテイクを試写すると、完璧だったのでこのシーンの撮影は終了します。(個人的な話ですが、このシーンで使われた「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス」は大好きです。)1936年に公開されたこの映画も大ヒットしましたが、この頃フレッドとジンジャーはいつまで続けられるか自分たちの状況を頻繁に話し合っていました。

コンテストに出場して踊るフレッドとジンジャー(左)
ビーズ付きドレスを着たジンジャーと踊るフレッド(右)

 二人の6本目の共演作は『有頂天時代』に決まり、監督はジョージ・スティーブンス、音楽はジェローム・カーンです。フレッドの役はギャンブル好きのダンサーで、ジンジャーはダンス教室の講師です。フレッドは「ボージャングルズ」のナンバーで、スクリーン・プロセスを使った新しい試みをしています。曲名が示すようにビル・ボージャングル・ロビンソンに敬意を表して、顔を黒塗りにしてタップ・ダンスを行います。(ビル・ロビンソンは現在のソロ・タップ・ダンスのスタイル確立した人で、タップ・ダンスの神様と言われています。彼の誕生日の5月25日は、アメリカではタップ・ダンスの日になっています。)

ダンス教室で踊るフレッドとジンジャー(左)
スクリーン・プロセスを使って踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーの次回作は『踊らん哉』で、監督はマーク・サンドリッチ、音楽はジョージとアイラのガーシュイン兄弟が担当しました。フレッドはバレエ・ダンサー役、ジンジャーはジャズ・ダンサーの役をやる事になりました。物語が新聞のフェイク・ニュースによって、二人は窮地に落ちる騒動が起きます。(当時は新聞が最先のメディアです。昔は新聞で、今はインターネットで同様の事が起きていますね。)毎回新しい踊りに挑戦するフレッドは、大型客船の機関室で機械の動きに合わせて踊ったり、ジンジャーとローラースケートを履いて踊ります。劇中ジンジャーの等身大でそっくりな人形が出てきたり、ラストではジンジャーのお面をつけた大勢のダンサーが登場して踊ります。

客船内のオーケストラ付きレストランで踊るフレッドとジンジャー(左)
ローラー・スケートを履いて踊るフレッドとジンジャー(右)

 『有頂天時代』が公開されて大ヒットしましたが、これまでになく早く客の入りが減り始めました。それでジンジャーの了解をとって、別の共演者と映画を1本撮る事にしました。次回作は前から企画してあった『踊る騎士』になり、監督はジョージ・スティーブンズ、音楽はジョージ・ガーシュウィンが担当します。相手役は当時RKOと契約したばかりの若くて可愛いジョーン・フォンテーに決まります。ジョーンはダンサーではないが、多少ダンスを習った事があったので、フレッドは彼女のダンスを心配していませんでした。フレッドがジョーンと踊ったのは1曲だけで、彼女は見事にやり遂げました。頻繁に撮影現場に訪れるジョージ・ガーシュウィンが現れないので、彼に電話をしたら彼が病気だった事が分かります。その電話の数週間後に彼は亡くなりました。『踊る騎士』はやろうとした事が出来たし、悪くない映画になったフレッドは思っていました。公開後、第一週の終わりから全国的に客の入りは減少しました。

左からジョージ・バーズ、グレイシー・アレン、フレッド・アステア(左)ジョーン・フォンテーンと踊るフレッド(右)

 フレッドとジンジャーは、あと一作か二作撮る事にします。次回作の『気儘時代』は監督をマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリンが担当する事になりました。この頃、フレッドは出演女優とキスしないのは、妻のフィリスが許さないからだと云う伝説が広まっていました。イチャイチャしたラブ・シーンは止めようと言ったのはフレッドで、べたべたしたシーンが無い方が斬新な映画になると考えたからでした。しかし、今回は夢の中のダンスという設定で、一部分はスロー・モーションでキス・シーンを撮影しました。映画は上々の出来でしたが、興行収入は絶好調の頃には及びませんでした。

夢の中で踊るフレッドとジンジャー(左)
フレッドとジンジャーのキス・シーン(右)

 フレッドとジンジャーの映画は次回作の『カッスル夫妻』で最後になると発表されました。1939年9月頃からリハーサルが始まりましたが、二人とも完全な最後だとは思っていませんでした。存命中のアイリーン・キャッスルの物語を映画化するのは多くの困難がありました。特にアイリーンを演じるジンジャーに大きな負荷が掛かりました。アイリーンとヴァーノンのダンスは一世を風靡し、アイリーンの一挙一動は圧倒的な影響力を持っていました。例えばアイリーンがボブヘアにした時は、それこそ全ての女性が真似をしたがり多くの人たちが実際にボブヘアにしていました。当時は何もかもキャッスルで、キャッスル・ハット、キャッスル・シューズ、キャッスルズ・バイ・ザ・シー(レストラン)と数えきれないくらいのキャッスル何とかがありました。フレッド自身もキャッスル夫妻に大きな影響を受け、ステップやスタイルをアレンジして取り入れていました。以前アイリーンが自分たちの物語が映画化される時は、ヴァーノン役をやって欲しいと言われていました。映画が完成するとアイリーンは、多少の不満はあるが素晴らしい映画になったと書いた手紙が届きました。フレッドとジンジャーのコンビが解消された『カッスル夫妻』に最高の出来だと評価は得られましたが、興行収入はトップ・レベルまではいきませんでした。

カッスル・ウォークで踊るフレッドとジンジャー

 その後、ジンジャーは演技派の俳優としてキャリアを続けて、『恋愛手帳』でアカデミー主演女優賞を受賞します。一方、フレッドは映画界から離れて色々な媒体で踊り続けていました。と書いた処で、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料:青土社発行 「フレッド・アステア自伝」 

Vol.5 『フレッド・アステア』

フレッド・アステア(5歳)

 今回は、ダンスの神様とも云われたフレッド・アステア(1899年5月10日~1987年6月22日)です。トップ・ハット、燕尾服、ホワイト・タイのスタイルでお馴染みだと思います。ダンサー、歌手、俳優として1930年代から長きに渡って活躍しました。特に1930年代から1950年代までは数多くのミュージカル映画で、華麗なダンスと軽快なタップ・ダンスを披露して世界中の人々を魅了しました。しかし、彼のトレード・マークの様に思われているトップ・ハットと燕尾服とホワイト・タイのスタイルは、大嫌いだと告白しています。

アデール・アステア

 フレッド・アステアがショー・ビジネスの世界に足を踏み入れる切掛けは、姉のアデールが、ダンス・スクールに入学した事でした。オマハに父親を残し、母親とアデールと共にニュー・ヨークに移住し、ダンス・スクールに通い始めます。1904年、フレッドが4歳半の時です。1歳年上のアデールは既にダンスが上手い少女で、周りから天才少女と云われていました。その頃のフレッドは大してダンスに興味も無く、アデールが入学するから彼も入学しました。毎日のスケジュール決まっていて、ダンス・スクールが終わると母親の授業を受け、それから劇場通いもしていました。

フレッド(左)とアデール

 その後演劇学校で演劇を学んでいた時に1回だけのリサイタルがあり、アデールと二人で「シラノ・ド・ベルジュラック」をやる事になりました。この頃のフレッドはアデールより背が低かった為に、アデールが男装してシラノをやりフレッドは女装してロクサーヌを演じました。次のリサイタルでは、二個の大きなウェディング・ケーキの小道具を使ったヴォードビル芸をやりました。この芸で1年後にプロ・デビューします。アステア姉弟のダンスと歌と演目のヴォードビルは好評を得て、旅巡業のカンパニーに加わって全米各地を巡業します。巡業が終わる頃には、9歳と7歳のアステア姉弟はヴェテランのヴォードヴィリアンと見なされるようになりました。しかし、アデールの身長が伸び二人で演目をやるのが難しくなり、フレッドは2年程仕事を休んで公立学校通いをします。

フレッド(13歳)とアデール(14歳)

 充電期間を終えてアステア姉弟は、ニュー・ヨークでの大劇場の前座から新しい公演を始めますが、結果は芳しくなく再び地方巡業の旅に出ます。約2年程、アメリカ中西部の多くのおんぼろ小屋に出演していました。この状態から抜け出す為に、父親の知人のオーシリア・コーチャ氏に指導を依頼します。ここでコーチャ氏からアステア姉弟は、ダンスの総てを習いショーマンシップを6か月に渡って学びます。オーシリア・コーチャ氏は今までやっていた演目から会話を削り、歌とダンスだけの演目になるようアドバイスをしてくれて、新しい振り付けや新曲を加えて再構築してくれました。アステア姉弟はこの新しい演目でスタートしますが、最初は思うような結果が出ませんでした。忍耐強く巡業を続けていた時にアイオウア州ノダヴェンポートで、黒人タップ・ダンサーのビル・ロビンソンに出会います。この偉大なビル・ロビンソンがアステア姉弟の踊りを観て、「君は踊れるね」とフレッドに声を掛けてきました。それから二人でダンスについて語り合ったり、お互いのステップを比べたりしました。又、ビル・ロビンソンはビリヤードの名人だったので、フレッドはビリヤードも習いました。ビル・ロビンソンはタップ・ダンスを一新した人で、現在のような軽快で洒落たスタイルを作った方です。階段を使ったダンスが有名で、映画『ザッツ・ダンシング』でシャーリー・テンプルと踊っているシーンを観る事が出来ます。

 その後、アステア姉弟はニューオリンズを皮切りにビッグ・タイムのプログラムで人気を獲得していきます。この頃、アステア姉弟はピアノの実演をしていたジョージ・ガーシュウィンに出会いミュージク・コメディの話で盛り上がります。ジョージ・ガーシュウィンもミュージク・コメディを書きたいと言っていて、「自分が書いて君たちがそれに出演出来たら凄いと思わないか?」と言いましたが数年後に実現します。アステア姉弟は、1915年から1916年にヴォードビル最後のツァーに出掛け大好評の内にヴォードヴィリアンの仕事を終えます。そして、ブロードウェイ・ミュージカル・コメディの舞台に挑みます。

1931年 舞台劇「バンド・ワゴン」

 1917年「オーヴァー・ザ・トップ」を皮切りに、1931年「バンド・ワゴン」までの10作をアステア姉弟は舞台を務め上げます。因みに1924年の「レディ・ビー・グッド」の曲は、ジョージ・ガーシュウィンが書きました。姉のアデールは、1931年の「バンド・ワゴン」を最後に結婚する為引退します。このミュージカル「バンド・ワゴン」は大ヒッとし、今までとは違ったミュージカルになっていて新しいスタイルを作ったと評されました。フレッドはソロとなって1932年「陽気な離婚」に出演しますが、アデール抜きでは良い結果が出ませんでした。この公演中に映画に挑戦する決断をして、友人経由でリーランド・ヘイワードに映画界入りの助力を依頼しました。結果はすぐ出て、RKOでミュージカル大作の『空中レビュー』の出演が決まりました。この公演を終えて、交際中だったフィリス・ポッターと結婚してハリウッドに向かいます。

 ハリウッド入りしたフレッド・アステアを待っていたのは、MGMの役員でした。RKOの契約が開始する前にMGMの映画にゲスト出演する話になっていて、何の準備も無く直ちに仕事に入る事になります。出演する映画は、1933年の 『ダンシング・レディ』で、主演はジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルです。数週間のリハーサルの後、2~3週間撮影して、『ダンシング・レディ』の仕事は終了します。この映画の出演で、フレッドは舞台劇と映画の違いの多くを学び、映画の仕事は面白くて楽しいものだと思います。この映画でフレッドは、劇中クラーク・ゲーブルに名前を呼んで貰い、彼とジョーン・クロフォードと同じシーンに出演出来たのは、観客への最高の紹介だった語っています。

左から:フレッド・アステア、
クラーク・ゲーブル、
ジョーン・クロフォード

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

*参考資料

発行所 青土社
初版 2006年11月10日

Vol.3 「リリアン・ギッシュ」の続き

 独立したリリアンは、次の映画を外国で撮ってみたいと考えていました、『東への道』で共演したリチャード・バーセルメスは、既にグリフィスの許を離れてインスピレーション・ピクチャーズに移籍していました。その彼が、リリアンに一緒に仕事をしないかと声を掛けて来ました。その頃リリアンは、宗教を題材にした小説の「ホワイト・シスター」を読んでいて、この小説を映画化したいと持っていました。その話をインスプレーション・ピクチャーズの二人の代表とヘンリー・キング監督に話した処、賛同してくれて映画化する事になりました。撮影はイタリアで行われますが、メンバーが一人足りない状態でした。あるイギリス人俳優の芝居を観て、仕事の依頼をしたら引き受けてくれました。そのイギリス人俳優は、ロナルド・コールマンです。リリアンはイタリア行きの船で、幸運な事に枢機卿のモンセニョル・ボンツァーノと知り合います。枢機卿はリリアンたちがカトリックの信仰を題材にした映画を撮ることを知り、協会側の援助を約束してくれました。イタリアでの撮影は、多くのイタリア人スタッフの協力で順調に終わる事が出来ました。リリアンはこの映画の制作に関してすべてに関与していて、ニューヨークに戻ってからフィルムの編集をして音楽をつけています。『ホワイト・シスター』1923年9月5日に、ニューヨークの四十四丁目劇場で封切られました。その後、リリアンは12巻のプリントを全国上映用に9巻に縮める作業をしました。初めてイタリアで撮影されたアメリカ映画の『ホワイト・シスター』は、当初否定的だったMGMが配給に同意し興行は成功しました。

1923年『ホワイト・シスター』

 次回作もインスプレーション・ピクチャーズで『ロモラ』を撮影する事になり、リリアンは再びイタリアに向かった。監督はヘンリー・キングで、共演者は妹のドロシーとロナツド・コールマンと演劇界から転向した新人のウィリアム・パウエルです。現地撮での影は、『ホワイト・シスター』で素晴らしい仕事をしてくれたスタッフを呼び寄せました。彼らは予想以上の素晴らしいセットを作ってくれて、撮影はワン・シーンを残して無事終了します。ヘンリー・キングは別の仕事に行ってしまったので、リリアンは編集作業と残りのワン・シーンを撮影して完了させます。『ロモラ』はMGMの配給で封切られました。1924年12月1日ニューヨークのJ・M・コーハン劇場でプレミアムが行われ、12月6日にロサンゼルス.の新築のチャイニーズシアターで封切られました。ロサンゼルスのプレミアムはお祭り騒ぎで、その5日間は睡眠も食事もまともに出来ない状態でした。リリアンは映画の仕事は大好きだけど、名声や人気に関する対応は苦手だったようです。彼女は自分の演技力を高めてよい映画を作る事で、映画が芸術として認められる事を目指していました。リリアンがイタリアで映画を撮っていた間にハリウッドは大きく様変わりしていました。広い敷地に作られた多くのスタジオが出来た上に、映画製作の全過程が全て変わっていて細かく部門分けがされていました。組合が出来て職種が独立して部門別に運営されていました。リリアンが映画界入りしたと当時のように俳優が企画を出したり、自分の衣装を調達したりメイクをする事が出来なくなっていました。

 リリアンはMGMと契約をしましたが、次回作の準備は何もしいない状態でした。彼女は以前から暖めていた『ラ・ポエーム』を選出し、フランス人のマダム・フレディことフレッド・ド・グレザックを呼んで映画用に脚色する事を依頼しました。MGMのアーヴィング・タールバーブは好きな監督は誰かと聞かれて、最近の映画を観ていないので近作を用意して貰います。その中から製作途中だったキング・ヴィダーを指名し、その映画のキャスト全員参加して貰うよう依頼しました。撮影はヘンドリック・サートフを指名しました。サートフは「リリアン・ギッシュ・レンズ」と名付けた、独自のソフト・フォーカス・レンズを発明していました。さらにリリアンはアーヴィングにバンクロ・フィルムを使って映画を撮影するように伝えます。当時バンクロ・フィルムは出来たばかりの新しいフィルムで、誰も扱い方を知らない状態でした。このフィルムは非常に感度が高く、『ロモラ』では全編このフィルムで撮影した事をアーヴィングに伝えます。これからはこのフィルムを使う事になるからラボの人をイタリアに行かせて扱い方を学ばせるように勧めます。実際にこのフィルムを使ってみて素晴らしさが分るとMGMは現像設備を全てバンクロ・フィルム用のラボを作り直しました。さらにリリアンは、カメラマンと監督がシーンの設計やライティング・プランを立て易いようにミニチュア・セットを作るように提案しています。

 リリアンにとって分業化されたハリウッド形式は馴染めない事が多かったようです。例えば衣装に使う生地ひとつにしても、貧困に喘ぐ主人公のミミが着るドレスを安い生地で作ってきますが、スクリーンに映すと素敵なドレスに見えてしまいます。使い古した絹を使うと粗末なドレスに見える事が、衣装デザイナーは理解していないとか。貧困のミミが住む屋根裏部屋のセットが大きいので不満を言うと、製作費をかけないと興行側に映画を高く売れなくなると言って、不釣り合いな大きなセットに馴染めず仕事をした事。通しのリハーサルをしない事や撮影の時に音楽を流すとか、リリアンには馴染めない事が多い撮影だったようです。しかし、その様な状況の中でもリリアンはミミの死の床のシーン撮影の為に、病院で末期症状の結核患者の様子を様子観察して迫真の演技をしました。撮影前のリリアンを見ていた監督を始め周りの人たちは、本当に死んでしまうのではないかと心配していました。キング・ヴィダー監督は、早く撮影しないと映画が完成しないと心配し、このシーンを正視出来ず撮影には立ち会っていません。

1926年『ラ・ポエーム』撮影風景 
左からサートス、キング・ヴィダー
アーヴィング、リリアン

 MGMは次回作の企画を立てていなかったので、リリアンは『緋文字』を提案しました。ルイス・B・メイヤーがストーリーは面白いが、教会と婦人団体が反対しているので出来ないと言いました。それでリリアンは教会と婦人団体の代表に手紙を出した処、リリアンが個人的に全ての責任を取るなら良い事になりました。監督はスウェーデンのヴィクトール・シェーストレスを指名し、相手役はメイヤーの推薦するスウェーデン俳優のラース・ハンソンに決まります。この映画では、リリアンは英語でラース・ハンソンはスウェーデン語なのでお互いに相手の言葉は分からない状態で撮影されました。撮影終了まで残り2週間の時、母親が卒中の発作で倒れて危篤の連絡がドロシーから入りました。3日以内にロサンゼルスを発てば、英国行の定期船に乗船出来る事が分りました。ヴィクトール・シェーストレスは24時間ぶっ通しのスケジュールを組んで、2週間分の仕事を3日間で撮るスケジュールを組みます。その3日間は誰も一睡もせずにリリアンの出演シーンを撮り終えます。ロサンズルスからニューヨークまでの5日間の長旅の間、列車が止まるたびに何百人という人々がプラットホームに出迎えていました。新聞各紙がリリアンの母親の病気とリリアンの英国行を報じていた為、母親へのお見舞いと回復を祈る言葉を言う為に駆けつけていました。この時の出来事は、一生忘れない思い出だと自伝に書かれています。

 1927年にリリアンが企画に加わらなかった『アンニ・ローリー』を撮り、彼女は『風』を企画してカリフォルニア州南部のモハーヴェ砂漠で撮影を始めました。撮影現場は非常に過酷な状態で、気温は摂氏49度に達してその場で現像する事は不可能でした。撮影スタッフはフィルムを凍らせてカルヴァー・シティの現像所に送り、そこで解凍して現像する事になりました。撮影自体も最悪の状態で、8台の飛行機用プロペラで砂を吹き付けられ、砂嵐を効果を出す為に硫黄が焚かれていました。その硫黄は燃えた状態で飛んで来て服を焦がしたりしました。その後、急に温度が下がり本物の砂嵐が猛烈なハリケーンが起こりました。その最中、キャンプに戻るシーンを撮影しました。『風』が完成して試写を見終わって、アーヴィング・タールバーグを始め全員が最高の映画を作ったと思ったそうです。しかし、何か月も公開されずリリアンはMGMに呼び戻されます。国内の8人の大手の興行主が試写を観て、ラストをハッピー・エンドに変えて欲しいと告げられます。これを聞いて仕方なく興行主たちの希望に従う事になってしまいました。その後『敵』を撮り終えて、MGMとの契約は終わります。

 リリアンの為にマックス・ラインハルトがユナイトで3本監督すると予定と聞き、ユナイト社と契約します。母親の病気治療の為、リリアンはドイツに行きます。ここでラインハルト邸(前世紀に建てられた城)に招かれ、3か月逗留する事になります。母親の治療はあと数か月掛るので、リリアンは単身ニューヨークに戻ります。帰国してみると仕事をする環境が大きく変わっていました。ラインハルトの次回作はトーキーで撮る事になりましたが、最初用意していたテレーザ・ノイマンの話はトーキーでは撮れないとラインハルトは判断して帰国してしまいます。リリアンは『白鳥』の企画を提出し、撮影準備を始めます。ラインハルトの代わりに来た監督は度胸しか持ち合わせが無く、リリアンが考えていたのとはまるで違う芝居をさせられます。共演の男性陣も素晴らしい顔ぶれでしたが、映画のテンポが悪く退屈なものでした。落胆したリリアンは、ユナイトとの契約から手を引かせてもらいたいと申し出ます。

 リリアンは映画界からブロードウェイの舞台俳優を目指します。批評家のジョージ・ジーン・ネーサンが、リリアンが憧れていた舞台女優のルース・ゴードンに会わせてくれます。リリアンとルースは意気投合し、その後ルースが舞台演出家のジェド・ハリスに会わせてくれました。ジェド・ハリスは、アントン・チェーホフ原作の「ワーニャ叔父さん」のエレナ役をリリアンに依頼します。リリアンは快諾し稽古に励みますが、ジェドも彼の助手もリリアンに演技のアドバイスはありませんでした。ジェドはリリアンに、君は映画の監督をした事があるから自分の思うよう演技するように言われます。リリアンはその言葉に驚きながらも自力で役作りをしました。1930年11月29日「ワーニャ叔父さん」は好評の内に公演の幕を閉じ、リリアンの演技は称賛されました。リリアンは本格的に舞台俳優として、「椿姫」、「パイン街九番地」「ハムレット」、「スター・ワゴン」、「父と暮らせば」と多くの舞台に出演しました。

 1942年、リリアンは10年振りに『奇襲部隊は夜明けに突撃す』に出演しました。20年前は自分の出演する映画の責任を持ったり、映画製作の様々な作業に関わる事が出来ました。この頃は言われたままに動いて給料を貰うだけになっていて、何ら刺激の無い仕事になっていました。その後、1946年『白昼の決闘』、1948年『ジョニーの肖像』、1960年『許されざる者』、1954年『狩人の夜』、1955年『蜘蛛の巣』などに出演し、1987年『八月の鯨』がリリアンの遺作となりました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

*参考文献 筑摩書房 『リリアン・ギッシュ自伝』

Vol.2 「リリアン・ギッシュ」

 リリアン・ギッシュ(1893・10・14~1993・2・27)様は、アメリカ合州国オハイオ出身の映画俳優・舞台俳優・監督(1作のみ)です。

ギッシュ姉妹の両親

 母メアリー・ロビンスン・マコネルと父ジェームズ・リー・ギッシュの長女で、1歳年下の妹ドロシー・ギッシュがいる。父はオハイオで商売をしていたが、新しい商売始める為に単身にニューヨークに行ってしまう。残された母子は十分な生活が出来ない為にニューヨークに行くが、父親は暫くすると姿を消してしまいます。必死に働く母のドロシーに女優のドロレス・ローンが舞台の仕事を紹介し母親は舞台俳優になります。俳優の仕事で何とか生活する事が出来るようになった時、女優仲間のアリス・ナイルズが別の仕事の話を持ってきました。彼女は巡業に出る事になったが、相手役の子役にリリアンを使いたいと言ってきました。母親は最初断りますが、収入が増えるので彼女の申し入れを受けます。こうしてリリアンは、5歳にして地方巡業で舞台デビューします。そして間もなく妹のドロシーも4歳で舞台デビューし、二人の姉妹は夫々の旅巡業生活が始まりました。その後、母親も旅巡業に加わり母子が一緒になったり、別々になりながら役者生活を続けました。その後、母親は貯めたお金でイースト・セントルイスにアイスクリーム・パーラーを開き、リリアンは修道院内にあるユルシュリー学園で修道院生活をします。

ドロシーとリリアン(5歳頃)  ドロシーとリリアン(10代の頃)

 卒園後は母親の許に戻って、繁盛している店の手伝いをします。隣が映画館で妹のドロシーと映画を観た時、友人のグラディス・スミスがその映画に出ていたので驚きます。その後、映画館が火事になり母親の店も全焼してしまい、無一文の状態になります。ギッシュ一家はマシロンに戻り、母親はスプリングフィールドに出稼ぎに出かけます。リリアンが19歳の時、ギッシュ一家は再び舞台俳優になる為にニューヨークに行きます。そしてバイオグラフ・カンパニーでグラディスに会います。グラディスは芸名をメアリー・ピックフォードと言い、舞台の合間に映画に出ていると言います。ギッシュ一家に映画に出るように勧め、ディヴィッド・ウォーク・グリフイスを紹介します。その日直ぐにギッシュ姉妹はカメラ・リハーサルが受け、エキストラ役でギッシュ一家は出演します。翌日からリハーサル・テストで撮影した残りを3日間で撮影したのが、1912年に『見えざる敵』として上映されました。これがギッシュ姉妹の映画デビュー作です。(この当時の映画館はニッケル・オデオンと呼ばれる5セント映画館で、12分前後の短編映画を上映していました。)この年リリアンは舞台の仕事の合間に延べ14本の短編映画に出演します。

 1913年は舞台巡業とブロードウェイの公演を終えたリリアンは療養を兼ねて、2月にニューヨークからロサンゼルスに列車で5日間かけて行きます。ロサンゼルスには既にバイオグラフ社の撮影所があり、グリフィスはそこで映画を製作していました。グリフィスと再会したリリアンは、彼と契約してグリフィス組の専属俳優になりました。1913年は短編映画と中編映画を合わせて15本、1914年は中編映画と長編映画を合わせて13本に出演しました。この間グリフィスから演技指導を受け、また映画作りも学びリリアンは映画俳優として大きく成長しました。

 1915年、グリフィスは入念に大量の資料を調べて全て史実通りに制作した『国民の創生』でリリアンを主役に抜擢します。この映画はサイレント映画ですが、グリフィスは劇場で演奏するオーケストラ用の音楽スコアーも製作しています。上映後、全米で物議を起こしましたが、南部人から見たアメリカ合州国誕生を史実通りに制作された映画です。1916年にグリフィスは超大作の『イントレランス』を製作し、リリアンは永遠の母親役を演じます。劇中の出番が無いので、彼女の撮影は1時間ほどで終わります。体が空いたリリアンは常にグリフィスとカメラマンのビリーと一緒にいて、『イントレランス』制作過程の全てを知る事になります。この映画でグリフィスは、クレーン撮影の基になる装置を作りました。それはエレベーターを備えた高い塔で、土台はレールに乗っていて人力で移動させるものです。この装置で巨大なセット全景を俯瞰で撮ってから、一気に一輪の白薔薇のクローズ・アップの撮影をしました。

 アメリ合州国がドイツに宣戦布告した1917年、ギッシュ一家は『世界の心』の撮影の為、グリフィスに呼ばれてロンドンに行った。グリフィスはイギリスのロイド・ジョージ首相から、イギリスとフランスの為にプロパガンダ映画を製作するように依頼されていた。リリアンがロンドンに着いてから何度もドイツ軍の空襲が昼夜続いていた。ロンドンで演技のリハーサルを終え、映画の舞台であるパリに向かう事になった。しかし、カメラマンのビリー・ビッツァーの本名が、ゴットリーブ・ウィルヘルム・ビッツァーとドイツ系の為パリには行けなくなった。仕方なくビリーを残し、グリフィスとギッシュ一家はパリに向かった。パリもロンドン同様に連日ドイツ軍の空襲は続いていた。撮影は前線近くで行われ、6か月過ぎた11月末にハリウッドに戻り、それから残りのシーンを撮影して12月末にようやく完成させます。

 1918年の秋、ダグラス・フェアバンクスが「中国人と少女」と云う短編小説を映画化するようにグリフィスに勧めました。グリフィスは小説を読み、リリアンを主役して映画化します。原作の少女が12歳なので、リリアンは断ります。初めて断りを入れたにも関わらずグリフィスは全く相手にせず、衣装部屋に行って用意をするように言います。その時リリアンは身体の具合が悪くて、這うようにして衣裳部屋に行き衣装を決めて帰宅します。その時も体調は酷く悪い状態で、通行人に見えない場所を探して横になって休みながら4時間かけて帰宅します。リリアンは当時流行っていたスペイン風邪に罹っていました。しかし、不思議な事に終戦の知らせを聞いてから解放に向かい、完治してからマスク着用で撮影に復帰します。撮影は昼夜を問わず18日間で終了します。グリフィスがパラマウントにこの映画を持っていたら、主役は死んでしまう映画は当たらないと全面否定されます、グリフィスは2・3日後にパラマウントに訪れ、ネガとプリントを買い取ります。1919年1月に、メアリー・ピックフォード、ダグラク・フェアバンクス、チャーリー・チャンプリンとデビット・R・グリフィスが設立した制作兼配給会社のユナイテッド・アーティスト社の最初の配給作品となります。この映画は『散りゆく花』とタイトルがされ、1919年5月13日にニューヨークで封切られました。当時として高価な3ドルの入場料にも関わらず映画は大ヒットします。グリフィスは、ハッピーエンドでない映画でも観客は観る事を証明しました。

ユナイテッド・アーティストの設立
左からグリフィス、ピックフォード、
チャップリン、フェアバンクス

 その年のある日、グリフィスがリリアンの家に来て、妹のドロシーの映画を撮るように言います。君は私と同じくらい映画作りの事は分かっている筈だと言います。リリアンは以前からドロシーの陽気さとユーモアが映画に十分に出ていなかったので、自分なら出来るかも知れないと思い引き受けます。こうしてリリアンは『亭主改造』の監督をします。(因みに女性監督第1号は、1914年に『ベニスの商人』を監督したロイス・ウェーバーです。)『亭主改造』は上映時間61分の作品で、1920年6月公開されました。リリアンは監督が大変ハードな仕事なのが理解出来、その後二度と監督はしないで俳優業に専念します。

リリアンとリチャド・バーセルメスとドロシー

 監督業を終えたリリアンにグリフィスが次回作の話を持ってきます。どうしてもヒット作を出す必要があったので、グリフィスは舞台用のメロ・ドラマ「東への道」の権利得るために大金をつぎ込んで手に入れていました。「東への道」は時代遅れのメロ・ドラマで、巡業一座の演目で田舎では20年来親しまれたものでした。この映画の最後の野外ロケはリリアンにとって厳しい撮影でした。厳冬の寒空の下での撮影が続き、最後の撮影はヴァーモント州のホワイト・リヴァー・ジャンクションで行われました。川は厚い氷に覆われていたので、ダイナマイトで爆破したりノコギリで切って一日の撮影用流氷を作りました。この流氷が流れるシーンの撮影は3週間かかりました。リリアンは流氷の上に横になっていて、その流氷は下流に流されて行くスリル満点のシーンです。この時リリアンのアイディアで、片手と髪を水に垂らすことにしました。撮影が始まると髪は凍り、手は火傷をしたようにひりひりと痛かったと自伝に書いてありました。この撮影をした3週間の間少なくとも20回以上氷の上に乗っていたので、70年経った時でも寒い所に長い間いると手に痛みを感じるとも書いてありました。『東への道』は大ヒットし、主役のリリアンの演技は称賛されました。

 1921年グリフィスが次回作「ファウスト」の企画を持ってリリアンに会いに来ました。リリアンが調べたら「ファウスト」はアメリカで当たらないと思い、グリフィスに舞台劇の「二人の孤児」の映画化を提案します。グリフィスはこの舞台劇を観て時代設定をフランス革命の時代に変え、ギッシュ姉妹を出演させて167分の大作を作り上げます。この映画は『嵐の孤児』の題名で、1921年12月28日にボストンで封切られ好評を得ます。この映画を最後にリリアンは独立して、グリフィスの許から離れる事になります。次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献 筑摩書房 「リリアン・ギッシュ 自伝」