今回ご紹介するのは、ウィリアム・A・ウェルマンが1942年に製作・監督した日本未公開の『英雄を支えた女』です。原作は、ビーニャ・デルマーがコスモポリタンに発表した短編小説「人間の側面」です。その短編小説をアデラ・ロジャース・セント・ジョンズとソーナ・オーウェンが物語として書き上げ、その物語を基にW・L・リヴァーが脚本にしています。若い女性の伝記作家に100歳のハンナ・セプラー・ホイトが、過去を語る事で物語は展開します。なんとも奇妙な三角関係の物語です。100歳のハンナを演じるのがバーバラ・スタンウィック、ハンナに支えられる夫のイーサン・ホイトを演じるのがジョエル・マクリー、ハンナに恋焦がれるギャンブラーのスティリーを演じるのがブライアン・ドンレビィ、そして若い伝記作家を演じるのがK・T・スティ-ブンスです。
【スタッフとキャストの紹介】
ウィリアム・A・ウェルマン((1896年2月29日~1975年12月9日)は、マサチューセッツ州ブルックライン生まれのアメリカ合州国の映画監督です。サイレント映画時代も含めると80本程の作品を監督しています。トーキー映画が始まった時には、俳優が動いて台詞を言えるように箒にマイクを吊るして音取りをしたり、現在のガン・マイクの原型を作ったりしています。特に航空映画に思い入れが強かったので、機体にカメラを固定するフレームを作ったり、コクピットでカメラマンが隠れて飛行中に俳優を撮影出来るようにモーター駆動のカメラを作ったりと、新しい技術を作り出した人でもあります。
10代の頃は非行少年でしたが、製材所のセールスマンとなりマイナーリーグのホッケーの選手として活躍しました。第一次世界大戦中はノートン・ハルジェス救急隊に入隊して運転手をしていましたが、パリにいる時にフランス外人部隊に入隊して1917年12月3日に戦闘機パイロットとして配属され、エース・パイロットとして目覚ましい活躍をしました。戦後アメリカに帰国したウェルマンは、サンディエゴで新人パイロットの教育を行っていました。その頃、週末には戦闘機でハリウッドに行ってダグラス・フェアバンクスに会っていて、彼の勧めで映画界入りします。最初は俳優になりますが、監督を目指して雑用係から助監督・第2監督となり、1923年に監督デビューします。1927年の『つばさ』は第1回アカデミー賞の作品賞を受賞し、様々なジャンルの映画を送り出しています。1931年『民衆の敵』、1932年『立ち上がる米国』、1933年『飢ゆるアメリカ』、1937年『スター誕生』、1939年『ボー・ジェスト』、1943年『牛泥棒』、1944年『西部の王者』、1945年『G・Iジョー』、1949年『戦場』、1951年『ミズーリ横断』、1952年『女群西部へ!』、1954年『紅の翼』、1955年『中京脱出』などを監督しました
主役のハンナ・セプラー・ホイトを演じるのは、演技派の名優バーバラ・スタンウィック(1907年7月16日~1990年1月20日)です。彼女はニューヨークで5人兄弟の末っ子として生まれました。4歳の時に母親が車の事故で亡くなり、その後父親は彼女を置き去りにして出て行ってしまいます。彼女は里子に出されて里親のもとを転々とし、10歳の時に姉のミルドレッドに引き取られ姉の恋人からダンスを習います。13歳で学校を中退して働き出し、1922年15歳の時にジークフェルド・フォーリーズのコーラス・ダンサーになります。1927年20歳で『ブロードウェイ』で映画デビューしますが舞台の仕事を続けて、1933年26歳でブロードウェイ舞台の主役を演じるようになります。1928年にフランク・フェイと結婚し、共にハリウッドに渡り映画に出演するようになります。
1930年にフランク・キャプラ監督の『希望の星』に出演して、実力派俳優として認められるようになります。その後はキャプラ監督を始め、ジョージ・スティーブンス、ハワード・ホークス、セシル・B・デミル、ブレストン・スタージェスと多くの監督の映画に出演します。ジャンルもラブ・ストーリー、ヒューマン・ドラマ、ラブ・コメディ、西部劇と多岐に渡り、演じる役も様々で演技の幅を広げていきます。1931年『奇蹟の処女』、1933年『風雲のチャイナ』、1935年『愛の弾丸』、1936年『鍬と星』、1937年の『ステラ・ダラス』でアカデミー主演女優賞に初ノミネートされます。(4度オスカーにノミネートされますが、受賞する事はありませんでした。信じられません。)
1939年『大平原』・『ゴールデン・ボーイ』、1941年、『レディ・イヴ』・『群衆』・『教授と美女』、1944年にビリー・ワイルダー監督の『深夜の告白』で、男を破滅させる魔性の女を演じて更に芸域を広げます。1946年『呪いの血』、1947年『カリフォルニア』、1950年『復讐の荒野』、1954年『重役室』でヴェネチア国際映画祭の審査員特別賞を受賞しました。1955年『欲望の谷』、1956年『烙印なき男』、1957年『四十挺の拳銃』、1964年『青春カーニバル』等に出演しました。
1950年代まで映画に出演し続けますが、1960年からTVに進出して「バーバラ・スタンウィック・ショー」のホストと主役を1年間務め、1965年から1969年まで「バークレー牧場」では出演とプロデューサーもしました。日本でも人気のあったTV映画で、アメリカでも好評で多くのファンに愛されました。この両作品でエミー賞を受賞しています。気取らず性格の良い彼女は、共演者やスタッフから愛され尊敬をされていました。映画の主演本数も多く、素晴らしい演技の作品が多いです。スタンウィックは1981年にフィルム・ソサエティの特別賞、1982年にはアカデミー名誉賞、1983年にはゴールデン・グローブ賞とエミー賞を受賞しています。1990年カリフォルニア州サンタモニカで心不全の為亡くなりました。82歳でした。
後に英雄となるイーサン・ホイトを演じるのは、ジョエル・マクリー(1905 年 11 月 5日~1990年10月20日)です。彼はカリフォルニア州サウス パサデナ出身の映画俳優で、1927年からエキストラやスタントマンの出演から始まって1976年の『アドベンチャー・カントリー』までの50年間に100本以上の映画に出演しました。彼はハリウッド高校を卒業後、ポモナ大学で演劇とパブリック・スピーキングのコースを受講し1929年に卒業しました。
1932年『銀鱗に躍る』から主役を演じるようになり、1930年RKOに移籍して、1932年『南海の劫火』でドロレス・デル・リオと共演し、ドラマやコメディも演じられる二枚目スターとして認められるようになります。1932年の『猟奇島』ではフェイ・レイと共演していますが、『キング・コング』のジャングルのセットの一部を使って撮影されました。昼間は『キング・コング』の撮影で使い、夜間に『猟奇島』の撮影がされました。
マクリーは、様々なジャンルで多くのキャラクターを演じました。1935年『私のテンプル』、1936年『大自然の凱歌』、1936年『バーバリー・コースト』、1936年『紐育の顔役』・『新天地』、1939年『大平原』、1940年『海外特派員』、1941年『サリヴァンの旅』、1943年『陽気なルームマイト』等に出演しました。彼は自分の信条に合わない役や、以前演じた様な役のオファーは断っています。特に第二次世界大戦中は、英雄の軍人役は断っています。
1940年代に入ってからは出演映画の殆どが西部劇で、歳を取るに従って西部劇に出演するのが快適だったと、晩年インタビューで答えていました。1944年『西部の王者』、1946年『落日の決闘』、1947年『復讐の二連銃』、1949年『死の谷』、1953年『ローン・ハンド孤高の男』、1959年『ダッジ・シティ』、1962年『昼下がりの決斗』等に出演しました。彼はランドルフ・スコットと共にB級映画の2代スターと言われています。ランドルフ・スコットは保安官とか南軍の将校役を多く演じていて、そんなイメージがあって似合っていると思っています。一方、ジョエル・マクリーには固定したイメージが浮かびませんので、演技力のある俳優さんだと思います。以前、キャサリン・ヘップバーンが一緒に仕事をした最高の俳優の一人であると感じたと言っていました。又、ジョエル・マクリーはスペンサー・トレイシーやハンフリー・バガートと並んでランク付けされるべきだったとも語っていました。1990年10月20日、ロサンゼルスのウッドランドヒルズにあるモーション・ピクチャー・アンド・テレビジョン・カントリーハウス・アンド・ホスピタルで肺炎の為84歳で亡くなりました。
ギャンブラーのスティリーを演じるのは、ブライアン・ドンレヴィ(1901年2月9日~1972年4月5日)です。彼は北アイルランド出身で、アメリカで活躍した映画俳優です。生後10ヶ月でアメリカのウィスコンシン州ラシーンに移住し、9歳の時にオハイオ州クリーウランドで移住しました。彼は15歳の時にメキシコに渡り年齢を偽ってパンチョ・ビリャの革命を阻止する政府軍に入隊し、第一次世界大戦に従軍してラファイエット戦闘機隊で活躍しました。1920年代に入ってからニューヨークの舞台で俳優として出演するようになり、サイレント映画にも出演するようになります。1935年の『バーバリー・コースト』で人気が出始め1936年『当たり屋勘太』1937年『シカゴ』、1939年『大平原』・『地獄への道』と出演し、同年の『ボー・ジェスト』では冷酷非情な悪役を見事に演じました。
1941年『ブルースの誕生』、1942年『ガラスの鍵』・『ウェーク島攻防戦』、1943年『死刑執行人もまた死す』、1944年『モーガンズ・クリークの奇跡』、1945年『落日の決闘』・『ハリウッド宝船』、1946年『インディアン渓谷』、1947年『死の接吻』、1948年『戦略爆撃指令』、1949年『狂った殺人計画』、1950年『命知らずの男』、1953年『死刑(リンチ)される女』、1955年『原子人間』、1957年『宇宙からの侵略者』、1965年『蠅男の呪い』等に出演しました。1959年の『戦雲』では映画の最後に登場し、少ない出番ながら存在感の演技を披露しています。1950年代末まで西部劇・戦争映画・ギャング映画等、様々なジャンルの映画に出演しています。1950年代からTV映画にもゲスト出演するようになり、日本で1858年に放映された「Gメン」(1952年製作)では、世界各地を飛び回って密輸団・暗殺団・スパイ団を相手に活躍する、アメリカ政府のシークレット・エージェントのスティーブ・ミッチェルを演じました。ドンレヴィは1971年に喉頭癌の手術を受け、1972年4月6日にカリフォルニア州ロサンゼルスのウッドランドヒルズにあるモーション・ピクチャー・アンド・テレビジョン・カントリーハウス・アンド・ホスピタルで亡くなりました。71歳でした。
若い女流伝記作家を演じるのは、K・T・スティーブンス(1919年7月20日~1994年6月13日)です。彼女はロサンゼルス生まれの映画及びテレビ俳優で、サム・ウッド監督の娘さんです。父親が監督した1921年のサイレント映画『ペックの悪い少年』で、2歳の時の映画デビュー(?)しています。その後、自分の意志で映画に出演するようになった時は、サム・ウッドの娘だと知られぬようにK・T・スティーブンスと名乗っていました。当初キャサリン・スティーブンスとも名乗っていた時期もありましたが、最終的にK・T・スティーブンスとなっています。
メイン州スコヒガンで演劇を学びブロードウェイの舞台にも出演するようになります。その後父親が監督した1940年の『恋愛手帳』に出演し、1944年『住所不明』、1949年『ニューヨーク港』、1950年『ハリエット・クレイグ』、1958年『月へのミサイル』、1969年『ボブ&キャロル&テッド&アリス』、1994年『コリーナ、コリーナ』が最後の映画出演でした。1960年代からは『マッコイじいさん』、『反逆児』、『ブラナガン』、『ライフルマン』、『アイ・ラブ・ルーシー』等、多くのテレビ映画に出演していました。スティーブンスは1994年6月13日、カリフォルニア州ブレントウッドの自宅で肺癌の為、74歳でした。
次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。
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