Vol.25 『Tメン』

『Tメン』
発行:ブロードウェイ社

 今回はアンソニー・マン監督の『Tメン』です。1940年代は本作のようなフイルム・ノアールを撮り、1950年代には多くの西部劇を撮っています。特にジェームズ・スチュアートと撮った西部劇はヒット作が多く、彼が撮った西部劇は全部大好きです。前回登場したアーサー・ケネディはジェームズ・スチュアートの敵役を好演しています。アンソニー・マン監督の演出は、非常に丁寧ながら一味違ったもので緊張感の高め方は素晴らしいです。

【スタッフとキャストの紹介】

アンソニー・マン(1952年頃)

 アンソニー・マン(1906年6月30日~1967年4月29日)は、カリフォルニア州サンディエゴ生まれのアメリカの映画監督、舞台俳優でした。マンが3歳の時に両親は父の治療の為、オーストリアに移ります。マンはサンディエゴ群のロランドに残され、14歳になるまで両院は戻って来ませんでした。1917年マンの家族はニューヨークに移住し、演技に興味を持つようになります。ユダヤ人コウミュニティ・センターで演技を続け、ニューアークのセントラル高校でも舞台に出演していました。1923年に父が亡くなった為、家族の生計を立てる為に高校3年生の時に中退してニューヨークに戻ります。彼は夜景の仕事に就き、日中は舞台の仕事を探していました。数か月後、グリニッジ・ヴィレッジのトライアングル・シアターでフルタイムの仕事に就きます。1925年から舞台に出演し。1929年にはブロードウェイの舞台にも出演しました。1930年に彼はシアター・ギルドでプロダクション・マネージャーなり、最終的には演出家となりますが、演技は続けていました。1937年にセルジニック・インター・ナショナル・ピクチャーズでタレント・スカウト兼キャスティング・ディレクターをして、多くの映画のスクリーン・テストを行いました。数か月後、彼はパラマウント・ピクチャーに移り、助監督になります。1941年の『サリヴァンの旅』でブレストン・スタージェス監督の助監督になり、監督から多くの事を学びました。助監督を3年務めた頃、友人のマクドナルド・キャリーの推薦で1942年の『ドクター・ブロードウェイ』で監督デビューします。1943年『ムーンライト・イン・ハバナ』を監督し、1944年8月ブロードウェイで「子供のための鏡」の演出をしました。1944年に『夜のストレンジャー』、1945年に『たそがれの恋』と監督し、RKOに移って1946年『午前2時の勇気』、リパブリック・ピクチャーズで1946年『仮面の女』、RKOで『バンブー・ブロンド』を監督しました。1947年に『必死の逃避行』『Tマン』『偽証』、1948年に『脱獄の掟』を監督しました。映画評論誌“ハリソンズ・リポート”は、マンの演出を「テンポが速くアクション満載で、張り詰めた演出が興奮とサスペンスを絞り出している」と評論しています。『Tマン』について調べている時に国境警備隊員の事を知り、『国境事件』の脚本が出来て1949年にマンが監督をしました。

 1950年はマンにとって大きな転換期になります。この後の10年間で合計10本の西部劇を監督していますが、そのうちの3本は1050年に公開されています。ロバート・テーラーが先住民を演じる『流血の谷』『ウィンチェスター銃`73』『復讐の荒野』と3本とも素晴らしい映画です。

そして、マンが監督した『サイド・ストリート』は最後のフィルム・ノワールとなりました。『ウィンチェスター銃`73』の成功で、コロンビアはアソニー・マンとジェームズ・スチュアートのコンビで映画を製作します。1951年『怒りの河』、1953年『裸の拍車』、1954年『グレン・ミラー物語』『遠い国』、1955年『ララミーから来た男』『戦略空軍命令』と映画は制作されました。それからマンは様々な映画会社で監督をしました。1955年『シャロン砦』、1956年『愛のセレナーデ』、1957年『最前線』『胸に輝く星』、1958年『西部の人』、1960年『シマロン』・1961年『エルシド』『ローマ帝国の滅亡』、そして最後の作品1968年『殺しのダンディ』では監督と製作をしました。マンの映画に登場する主人公はアンチ・ヒーローが多く、過去に罪を犯していたり問題を抱えています。マンと出会って、ジェームズ・スチュアートは今までと違ったキャラクターを演じるようになりました。マンの映画はロケーション撮影が多いです。自然の風景の中で俳優を撮影する事によって、アクションや演技を強化する事が出来ると語っていました。1967年4月29日、マンはホテルの部屋で心臓発作で亡くなりました。

デニス・オブライアン役
デニス・オキーフ(39歳)

 デニス・オキーフ(1908年3月29日~1968年8月31日)は、アイオワ州フォート・マディソン生まれのアメリカの俳優、脚本家です。両親がアイルランド系のヴォードヴィリアンでしたので、彼は両親のヴォードヴィルに参加し、後に舞台用の寸劇の脚本を書いていました。オキーフは南カリフォルニア大学に通いましたが、父親が亡くなった為に大学2年生の途中で退学しました。父親の死後数年間は、父親のヴォードヴィルを引き継いで続けました。1931年からはバド・フラナガンの名前で、多くの映画にエキストラとして出演しました。1937年クラーク・ゲーブルの推薦でMGMと契約し、デニス・オキーフと改名しました。1938年にウォーレス・ビアリー主演の『ザ・バッドマン・オブ・ブリムストーン』に出演し、その後主に低予算映画に出演しました。オキーフはアクション・ドラマや犯罪ドラマでタフガイ役が多かったですが、シリアスな役もコミカルな役も演じました。1940年『囁きの木陰』、1941年『彼女はゴースト』、1942年『レオパルドマン豹男』、1943年『死刑執行人もまた死す』、1943年の『軍医ワッセル大佐』ではコメディ・スターとして注目されました。1944年『ニューヨークの饗宴』、1950年『鷲と鷹』『六人の脱獄囚』、1954年の『灰色のダイヤ・対決!暗黒組織』では監督・出演しました。その後、1957年『ドラゴン砦の決戦』、1961年『七面鳥艦隊』に出演しました。

 1950年、CBSのラジオ番組「Tメン」に出演したり、いくつかの番組の演出をしたりミステリー小説を書いていました。1950年代には多くのテレビ番組にも出演し、1959年には「デニス・オキーフ・ショー」で主役を務めていました。又、1940年代後半から1960年代にかけてジョナサン・リックのペンネームで脚本を書いたり、1960年代にはアル・エレヴェレットのペンネームで脚本を書いていました。オキーフは1968年にカリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ病院で、肺癌で亡くなりました。60歳でした。

トニー・ジェナード役
アルフレッド・ライダー(31歳)

 アルフレッド・ライダー(1916年1月5日~1995年4月16日)は、アメリカのテレビ、舞台、ラジオ、映画の俳優兼監督です。ライダーは8歳で演劇を始め、後にアクターズ・スタジオで演劇を学び終身会員になりました。彼はブロードウェイの舞台に出演したり、15年続いたラジオ番組の「イージー・エース」にも出演していました。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空軍に所属し、空軍のブロードウェイの舞台や1944年の『有翼の勝利』に出演しました。そして、パラマウントと契約して1946年の『Tメン』に出演しました。

 ハムレット役に拘っていたライダーは、アメリカン・レパートリー・シアター、フォローアップ劇団、マーガレット・ウェブスター・シェイクスピア・カンパニーでハムレット役を演じてツアーに参加しました。最後にアクター・スタジオでもハムレット役を演じています。1950年代はブロードウェイの舞台に出演し続け、テレビにも出演していました。1961年のブロードウェイ舞台劇「遠い国」の監督をしました。1964年にシェイクスピア・イン・ザ・パークで待望のハムレットを演じますが、初日の翌日に役を降ろされます。

 ライダーはアクターズ・スタジオの監督として、UCLAのシアター・グループの演出をしたり、米国政府の教育研究所劇場プロジェクトやロサンゼルス・フリー・シェイクスピア・フェスティバルの芸術監督をしました。1960年代はテレビのゲスト・スターとして、「ワイルド・ウエスト」、「0011ナポレオン・ソロ」等多くの作品に出演していました。「インベーダー」の2シーズンではエイリアンのリーダーのネクサスを演じていました。1961年にブロードウェイで「サイ」が公演された時に、イーライ・ウォラックの代役でベレンジャーを演じました。1969年『勇気ある追跡』に出演し、1979年にテレビのトーク・ショー「ミーティング・オブ・マインズ」の2エピソードの共同監督をしています。ライダーはニュージャージー州のアクターズ・ホームに移り住み、1995年に肝臓癌で亡くなりました。

メアリー・ジェナード役
ジューン・ロックハート(22歳)

 ジューン・ロックハート(1925年6月25日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市生まれの引退した女優です。両親が俳優だったロックハートは8歳で舞台デビューし、メトロポリタン歌劇場の「ピーター・イベットソン」に出演しました。彼女は、カリフォルニア州ビバリーヒルズのウエストレイク女子学校に通いました。彼女は1938年『クリスマス・キャロル』で両親と共演して、映画デビューしました。1940年『凡てこの世も天国も』、1941年『ヨーク軍曹』、1944年『若草の頃』で脇役を演じ、1945年『名犬ラッシー/ラッシーの息子』で主役を演じるようになります。1946年『謎の狼女』・「小鹿物語」、1963年『名犬ラッシーの大冒険』、1998年『ロスト・イン・スペース』に出演しました。1986年の『トロル』では、彼女の娘のアン・ロックハートと同じ役を年代を分けて共演しています。

 1955年にはアメリカCBSで放送されたアンソロジー・テレビ番組の「アポイントメント・ウィズ・アドベンチャー」や単発ドラマ番組の「ウェスティングハウス・スタジオ・ワン」に出演していました。又、NBCの法律ドラマ「ジャスティス」やCBSの「プレイハウス90」にも何度か出演しています。1950年代後半からは、「西部のパラディン 」、「幌馬車隊」、「ローハド」などにゲスト出演していました、1958年「名犬ラッシー」、1963年「ジェネラル・ホスピタル」、1965年「宇宙家族ロビンソン」、1968年「ペチコート大作戦」ではレギュラー出演しています。1960年代以降も「ペリー・メイスン」、「奥様は魔女」、「0011ナポレオン・ソロ」、「じゃじゃ馬億万長者」、「ハッピーデイズ」、「ベガス」、「Dr.刑事クインシー」、「ビバリーヒルズ高校白書」等、多くのテレビ番組にゲスト出演しています。2013年アメリカ航空宇宙局(NASA)は、宇宙探査について一般の人々を鼓舞したとして、ロックハートに“Exceptional Public Achievement Medal”を授与しました。

スキーマー役
ウォレス・フォード(49歳)

 ウォレス・フォード(1898年2月12日~ 1966年6月11日)は、イングランドのランカシャー州ボルトンで生まれ帰化したアメリカのヴォードヴィリアン、舞台俳優、映画俳優です。彼の本名はサミュエル・グランディですが、1942年5月8日に帰化して法的に名前をウォレス・フォードに改名しました。彼の家庭が貧しかった為に叔父と叔母に預けられていましたが、彼が3歳の時にバーナルド孤児院に入れられました。彼が7歳の時に同じ様な境遇の子供達は、大英帝国の政策によってカナダの農家の里親に送られました。サミュエルはマニトバ州の家族の養子なりますが、虐待を受けて何度も家出をしては当局によって連れ戻されていました。かれが11歳の時に最後の家出をして、ウィニペグ・キディーズと呼ばれるカナダをツアーするヴォードヴィルの劇団に入り、パフォーマーとしての訓練を受けました。1914年劇団を辞めて、16歳のサミュエルともう一人の若者、ウォレス・フォードは、貨物列車に無賃乗車で乗り込み南アメリカを目指します。その旅行中にフォードは列車の車輪の下で死亡しました、その後、サミュエルは芸名をウォレス・フォードに改名しました。

 第一次世界大戦中にカンサス州フォート・ライリーでアメリカ騎兵隊に入隊して従軍した後、アメリカの証券会社でヴォードヴィルの舞台俳優になりました。1919年に舞台劇「セブンティーン」に出演し、シカゴで数か月間上演さ、その後ニューヨークのブロードウェイの公演も成功しました。そしてブロードウェイの大ヒット作「アビーのアイルッシュローズ」で主役を演じ、他のブロードウェイの舞台にも出演しました。1938年にはジョン・スタインベック原作の舞台劇「廿日鼠と人間」でも主役を演じています

 映画では1931年の『蜃気楼の女』でクレジット・デビューし、1932年には『フリークス』で主役を務めました。1930年代と1940年代にはハリウッドのB級映画で主役を演じたり。長編映画の脇役を演じていました。1934年『肉弾鬼中隊』、1936年『俺は善人だ』、1935年『男の敵』、1941年『暴力街』、1942年『疑惑の影』、1943年『ベラ・ルゴシの猿の怪人』、1945年『白い恐怖』、1947年『Tメン』『魔法の町』『大いなる別れ』、1947年『罠』、1950年『ハーヴェイ』等に出演しました。1940年代後半から1950年代初頭にかけて性格俳優に転身し、当時人気が出て来た西部劇に出演するようになりました。1951年『インディアン征路』、1954年『テキサスの白いバラ』、1955年『ララミーから来た男』、1959年『ワーロック』に出演しました。1959年にはテレビ映画の「胸に輝く星」にレギュラー出演していました。1965年『いつか見た青い空』のオーレ・パ役の演技は、フォードのキャリアを締めくる作品になりました。フォードは1962年にカリフォルニア州ウッドランドヒルズのモーション・ピクチャー・アンド・テレビジョン・カントリー・ハウス・アンド・ホスピタルで心不全で亡くなりました。

殺し屋モクシー役
チャールズ・マッグロー(33歳)

 チャールズ・マッグロー(1914年5月10日~1980年7月29日)は、アイオワ州デモイン生まれのアメリカの舞台、映画、テレビの俳優です。彼は後に両親と共にオハイオ州アクロンに引っ越し、1932年アクロンの高校を卒業し、大学に入学して1学期を過ごします。マッグローは、貨物船の作業員やナイトクラブでダンサーをしていました。又、劇場のロードカンパニーで活躍し、数十のオフ・ブロードウェイの作品に出演しました。

1942年『不死の怪物 』でノン・クレジットで映画デビューしました。1943年『カレー大空襲』『駆逐艦ジョーンズ』『駆潜艇K-225 』、1944年『第七の十字架』とノン・クレジットで出演しています。1946年フィルム・ノワールの『殺人者』の殺し屋役でクレジット・デビューします。1947年『ミネソタの娘』『真夏の暴動』『ギャングスター』『Tメン』、1948年『ベルリン特急』『月下の銃声』、1949年『秘密指令』『国境事件』、1950年『サイド・ストリート』とノン・クレジットも含めて出演し。1952年『その女を殺せ』では主役を演じています。その後、A級映画にも出演するようになり、1954年b『トコリの橋』、1958年『全巻発進せよ』『手錠のまゝの脱獄』・『ロケット・パイロット』、1960年『スパルタカス』、1963年『鳥』『おかしなおかしなおかしな世界』、1967年『冷血』、1968年『奴らを高くつるせ』、1971年『ジョニーは戦場へ行った』、1977年『合衆国最後の日』等に出演しました。

 マッグローは、1949年3月13日のノワール風ラジオ番組『パット・ノヴァク・フォー・ハイヤー』等のラジオ番組に出演しています。又、1954年から「アドベンチャーズ・オブ・ザ・ファルコン」で主役のマイク・ワーリング役を演じ、1955年『カサブランカ』ではリック・ブレイン役を演じました。その他、「ボナンザ」、「ガンスモーク」、「保安官ワイアット・アープ」、「アンタッチャブル」等にゲスト出演しました。1980年7月29日、カリフォルニア州スタジオ・シティの自宅のバス・ルームで転倒して、ガラスのドアを破損して腕などに多くの傷を負い上腕動脈を切断する事故で、出血多量の為に死亡しました。

エヴァンジェリン役
メアリー・ミード(24歳)

 メアリー・ミード(1923年11月24日~2003年12月10日)は、ルイジアナ州生まれのアメリカの映画女優です。1945年『ワンダーマン』でゴールドウィンガールとして出演し、1947年『Tメン』、1948年『IN THIS CORNER』に出演しています。1949年パリでテッド・グルーヤと結婚し、1951年“カジノ・ド・パリ”やロンドンの”ピガール・クラブ“で「ゲイ・パリ」で公演していました。その後、アメリカに戻って”ウォールド・アストリア・ホテル“等の会場で講演しました。本編は次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.24 『窓』の続き

皆に作り話をしているトミー(左)
嘘をつくのをやめるように云う両親(右)

 映画の舞台は、ニューヨークのイースト地区の古いアパートです。そこに住むボビー・ドリスコル扮するトミー少年は、日常的に周りの人間に作り話をする嘘つき少年です。自分が思いついた事を直ぐ口に出して嘘をつきますが、本人はそんな話を誰も信じないと思っています。そんな嘘話からアパートを追い出せれそうになり、両親はウンザリしながらも父親はトミーに嘘を言わないように言い聞かせます。出ずっぱりのボビー・ドリスコルの演技は、自然で本当に上手いです。表情、特に目の表情がとても良いと思います。

5階の非常階段で寝るトミー(左)   窓から覗くトミー(右)

 暑く寝苦しいある夜、トミーは窓から出て4階の非常階段で寝る事にしますが、5階の方が涼しそうなので寝場所を変えます。寝付けずにいると5階のケラーソン夫妻の部屋から物音がするので窓から覗いてみると、3人が争っていて一人の男が倒れました。その男の背中に血痕があり、続いてハサミが床に落ちます。画面はトミー少年が見たままを映し出していて、観客は彼と共に殺人を目撃します。昨今の映画の様に全て映像で魅せるよりもリアル感があると思います。

殺害されて床に倒れた男(左)   ケラーソン夫妻(右)

 殺人を目撃した事を直ぐ母親に話しても相手にされず、翌朝父親に話しても信じてもらえず、夢だったんじゃないかと言われてしまいます。母親はトミーに外出しないで部屋にいるように言いますが、トミーは窓から抜け出して警察署に行きます。

警察署で殺人目撃を伝えるトミー(左)
ケラーソン夫妻の部屋を調べる刑事(右)

 警察でも本気で相手にしてくれませんでしたが、トミーを納得させる為に刑事が同行して帰宅します。刑事は直ぐ署に帰ろうとしますが、思い止まって念の為5階のケラーソン夫妻の部屋を訪問します。勿論刑事とは名乗らず、アパート改修工事の見積もりに来たと言い、部屋を隈なく調べます。殺人現場の部屋の床には不審な染みがありますが、天井から落ちてきたものによって出来た様に見えます。刑事は何も手掛かり無しの状態で、署に帰り報告します。

トミーを連れ出すケラーソン夫妻

 母親はケラーソン夫妻に迷惑を掛けたと思い、嫌がるトミーを連れて謝罪に行きます。それによってケラーソン夫妻は、トミーがどこまで知っているか確かめる作戦を立て始めます。父親は夜勤の仕事で夜は不在で、タイミング良く母親の姉の病気が悪化して母親が出掛ける事になります。ケラーソン夫妻は、このチャンスを逃さず行動を開始します。ここから抜け目のないケラーソン夫妻と12歳のトミー少年の攻防が始まります。逃げ惑うトミーの子供らしい行動と、ケラーソン夫妻の追跡はハラハラ・ドキドキの連続です。

警察官に助けを求めるトミー

 ケラーソン夫妻にアパートから連れ出されたトミーは隙を見て逃げ出しますが、二人に捕まりタクシーでアパートに連れ戻されます。途中で見かけた警察官にトミーは助けを求めますが、ケラーソン夫妻に警察官は丸め込まれてしまいます。トミーはタクシーの中で気絶させられ、アパートに連れ戻されます。その頃父親もトミーの事が心配で会社を早く退社してアパートに戻ります。ここでのケラーソン夫妻と父親の行き違いが絶妙に演出されています。

5階の手すりに座らされたトミー(左)
警察官に行方不明の息子の話をする父親(右)

 ケラーソン夫妻は、気絶をしたトミーを5階の非常階段の手すりに座らせてトミーが自然に落ちる様にします。女がそれを止めさせようとした時、男と揉み合いになった隙に気絶をした振りをしていたトミーは屋根に向かって逃げ出します。一方父親はトミーの置手紙を見て5階のケラーソン夫妻の部屋を探したりします。そして、外にいた警察官に子供が行方不明だと伝え、捜索を手伝って貰います。

ケラーソンの追跡から隠れるトミー

 屋根に逃げたトミーを執拗に追いかけるケラーソン夫妻、光と影の素晴らしいカメラ・ワークで息を呑むシーンが続きます。トミーは何とか建物の中に逃げ込みますが、ケラ-ソン夫妻はじわじわと迫って来ます。トミーは5階から3階と逃げて行きますが、崩壊して階段が無い3階に追い込まれます。途中建物の一部が崩れ落ちる場面では、瓦礫や梁が落ちてくる処を下からカメラで捉えているので迫力があります。

梁の上に追い込まれたトミー

 追い詰められたトミーは柱が無くなった一本の梁に逃れます。ケラーソンはトミーを落とそうと迫って来ます。トミーの機転でケラーソンは梁ごと落ちてしまいます。しかし、内部が倒壊しそうな建物で、トミーが掴まっている梁も落ちそうな状態です。

梁に掴まっているトミーを見上げる両親(左)
マットに飛び降りたトミー(右)

 梯子を用意する猶予もありませんので、警官隊は円形のマットを持って飛び降りるように言います。トミーは勇気を出して飛び降りて、無事救助されます。トミーは両親に、もう作り話はしないと誓います。

良い子になったトミー

 こんな素晴らしい作品が埋もれてしまうのは、とても残念です。『窓』は、コスミック出版の下記のDVD10枚セットに入っています。このセットにはサスペンス映画の傑作・佳作が満載のセットでお勧めです。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

「サスペンス映画コレクション 名優が演じる 戦慄の世界」
『Tメン』,『窓』,『生まれながらの殺し屋』,『上海ジェスチャ』が
入っているのお得なDVD10枚セット発行:コスミック出版
発行:コスミック出版 2020年6月9日発売

『窓』 作品データ

1949年製作 アメリカ モノクロ 73分
原題:The Windo

監督:テッド・テズラブ

製作:フレデリック・ウルマン・ジュニア

原作:コーネル・ウーリッチ

脚色:メル・ディネリ

撮影:ウィリアム・スタイナー

音楽:ロイ・ウェッブ

出演:ボビー・ドリスコル、バーバラ・ヘイル

   アーサー・ケネディ、ポール・スチュアート

   ルース・ローマン、アンソニー・ロス

Vol.23 『窓』

 今回はサスペンス映画『窓』です。監督はテッド・テズラブ、主演はウォルト・ディズニーがお気に入りだったボビー・ドリスコルです。

『窓』
発行元:ブロードウェイ

【スタッフとキャストの紹介】

 テッドテズラフ(1903年6月3日~1995年1月7日)は、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の映画監督です。1926年からカメラマンになり、1931年『光に叛く者』、1935年『ルムバ』、1936年『襤褸と宝石』、1938年『トム・ソーヤの冒険』、1942年『晴れて今宵は』『奥様は魔女』、1946年『汚名』等の撮影をしました。テズラブは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍少佐として従軍した後に1947年の『パナマ・ギャング戦争』から監督になります。1948年『孤児(みなしご)』、1949年『窓』、1950年『白銀の嶺』、1955年『四十人の女盗賊』等を監督しました。本作では俯瞰撮影や影を上手く使った撮影等、サスペンス映画に欠かせないショットと編集で緊張感を盛り上げています。

トミー・ウッドリー役の
ボビー・ドリスコル(12歳)

 ボビー・ドリスコル(1937年3月3日~1968年3月30日頃)は、アメリカ合州国アイオワ州シーダーラピッズ生まれの俳優です。ボビーが誕生して間もなくデモインに引っ越して、1943年頃まで暮らしました。アスペクトを扱う仕事をしていた父親が健康を害し、医者のアドバイスに従ってロサンゼルスに引っ越します。1943年に両親の勧めで、ボビーはMGMの『迷へる天使』のオーディショをン受けました。ボビーがスタジオ内を見学していた時に、好奇心から質問するボビーを監督が気に入り、40人以上の応募者の中から選ばれました。1943年『迷へる天使』、1944年『ファイティンッグ・サリヴァンズ』、1946年『潜行決死隊』等、数本の映画に小さな役で出演してウォルト・ディズニーと契約しました。1946年に実写とアニメの映画『南部の唄』に出演しました。この映画は、農場で働く黒人のリーマス役のジェームズ・バスケット(1904年2月16日~1948年7月9日)が、農場主の息子ジョニー役のボビー・ドリスコルや黒人の子供に話すお伽話がアニメになる映画です。この映画では農場主の白人と下働きの黒人が対等に描かれていて、南北戦争前に白人と黒人奴隷が平等であるかのような誤解を招くと問題視されて、ディズニー側が自主規制と云うより封印しました。ですから映画の上映も無く、過去に発売されたビデオ・テープとレーザー・ディスク以外発売される事はありません。蛇足ながら、リーマス役のジェームズ・バスケットは『南部の唄』で、アフリカ系男性俳優として初めてアカデミー特別賞を受賞しています。

 1948年にアニメ映画の『メロディ・タイム』では声の出演をし、アニメと実写の『わが心にかくも愛しき(私の心よ)』にも出演しました。ボビーはRKOに貸し出されて、『窓』に出演しました。前年にRKOを買収したハワード・ヒューズは、ボビーの演技が気に入らなったようで、公開を遅らせて1949年5月に公開しました。ヒューズの予想に反して映画は大ヒットし、ボビーのリアルな演技を「ニューヨーク・タイム誌」は称賛しました。1949年の第22回アカデミー賞授賞式では、『わが心にかくも愛しき』と『窓』の演技が評価されてアカデミー・ジョブナイル賞を受賞しています。

 1950年ディズニー・スタッジオ初の完全実写映画『宝島』に出演しました。この映画はイギリスで撮影されましたが、ボビーはイギリスの労働許可証を持っていませんでした。ボビーの家族とディズニーは、罰金を科され国外退去を命じられます。控訴準備の為に6週間の滞在を許可されたので、バイロン・ハスキン監督はボビーのクローズ・アップを全て撮影しました。ボビーと彼の両親がカリフォルニアに戻った後は、イギリス人の代役を使って残りを撮影しました。『宝島』は世界的なヒットとなりました。

 1951年『グーフィーのお父さん』、1952年『グーフィーのライオン狩り』でグーフィーの息子のマックス役で声の出演をしました。実写映画では1951年『When I Groe Up』、1952年『ハッピー・タイム』にしゅつえんしました。そして1953年長編アニメーション『ピーター・パン』で、ピーター・パンの声で出演し、アニメーション制作ではピーター・パンの顔のモデルも務めました。『ピーター・パン』劇場公開後、ディズニーとの契約がキャンセルされ、映画の出演が無くなりテレビとラジオの仕事をしました。両親は子役俳優が通うハリウッド・プロフェッショナル・スクールを退学させて、公立のユニバーシティ・ハイスクールに通わせました。転校後、ボビーは出演した映画の事で笑い者にされたりして成績は大幅に下がり、ドラッグを摂取するようになります。翌年ボビーはハリウッド・プロフェッショナル・スクールに復学し、1955年5月に卒業しました。ボビーは1956年にマリファナ所持でハジメテ逮捕されましたが、告発は却下されました。1955年『スカーレット・コート』に出演し、1958年に最後の出演映画『パーティー・クラッシャーズ』に出演しました。ボビーが洗車している時に、二人の野次馬とイザコザガあって一人を銃で殴った為、暴行罪で起訴されましたが告訴は取り下げられました。ボビーの最後のテレビ映画出演は、アンソロジー・ドラマテレビ・シリーズ「The Best of the Post」とテレビ映画「ブラナガン」での小さな役での出演でした。ボビーは1961年の後半に麻薬中毒患者として有罪判決を受け、カリフォリニア州チノの麻薬リハビリーテンション・センターに収監されました。1965年、ボビーはブロードウェイの舞台に出演しようとニューヨークに移住しましたが、失敗に終わります。1965年以降、アンディ・ウォーホルのグリニッチ・ヴィレッジにあるアート・コミュニティに出入りするようになり、芸術家として活動しました。その頃、アンダーグラウンド映画『Dirt』に出演し、これが遺作となりました。

 1968年3月30日、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるアパートで遊んでいた二詠の少年が、簡易ベッドに横たわるボビーの遺体を発見しました。死後検査の結果、彼は薬物使用による進行したアテローム性動脈硬化症による心不全で死亡したと診断されました。遺体には身元を確認出来るものが無く、身元不明のホームレスと扱われた彼の遺体は、ニューヨーク市のハート島ポッターズフィルドにある共同墓地に埋葬されました。1969年後半に母親がディズニー・スタジオに連絡を取り、ボビーの行方を探して欲しいと依頼します。ニューヨーク市警察で行われた指紋照合の結果、ハート島の共同墓地に埋葬されたのはボビーだと数ヶ月後に判明しました。カリフォルニア州にある父親の墓石にボビーの名は刻まれていますが、彼の遺体はハート島の共募地に埋蔵されたままです。

メアリー・ウッドリー役の
バーバラ・ヘイル(27歳)

バーバラ・ヘイル(1922年4月18日~2017年1月26日)は、イリノイ州デカルブ生まれの映画およびテレビの俳優です。1940年、ヘイルはイリノイ州ロックフォードのロックフォード高校最後の卒業生の一員でした。その後、シカゴに移転して、モデルをしながらシカゴ美術アカデミーに通いました。1943年ハリウッドに移り、RKOと契約をして、『ギルダースリーブのバッド・デイ』で映画デビューしました。ノン・クレジットで端役で出演し、1944年“名探偵ファルコン”シリーズの2本に出演しました。1948年『緑色の髪の少年』、1949年『ジョルスン ~再び歌う~』、1950年『ザ・ジャックポット』、1953年『最後の酋長』・『路上のライオン』、1956年『第7騎兵隊』、1957年『開拓者の血闘』(最後の主演作品)等に出演し、1978年『ビッグ・ウェンズディ』では、ヘイルの実の息子のウィリアム・カットが演じるキャラクターの母親役を演じました。

 ヘイルはテレビ映画「ペリー・メイスン」で法務秘書デラ・ストーリーを演じました。この番組は1957年から1966年まで271話制作されました。ヘイルはこの役でエミー賞のドラマシリーズ助演女優賞を受賞しました。1985年に再び「新・ペリー・メイスン」は1995年まで29本製作され、ヘイルとレイモンド・バーは出演しました。ヘイルは2017年1月26日、カリフォルニア州シャーマンオークスの自宅で、慢性閉館性肺疾患の合併症により94歳で亡くなりました。

エド・ウッドリー役の
アーサー・ケネディ(35歳)

 アーサー・ケネディ(1914年2月17日~1990年1月5日)は、マサチューセッツ州ウースター生まれの舞台および映画俳優です。ケネディはウースターのサウス高校に通い、ウースターアカデミーを卒業しました。その後ペンシルバニア州ピッツバーグのカーネギー工学大学で演劇を学び、1934年に学士号を取得して卒業しました。ケネディはニューヨーク市に移り、ジョン・ケネディと名乗ってグループ・シアターに入団し、レパートー会社のツァーに参加しました。1937年9月にセント・ジェームズ劇場で「リチャード三世」に出演し、ブロードウェイ・デビューしました。1939年には「ヘンリー四世、パート1」に出演しました。

 ケネディは1940年の『栄光の都』で映画デビューし、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『空軍/エア・フォース』に出演しました。第二次世界大戦中は1943年から1945年までアメリカ陸軍航空軍に勤務し、俳優・ナレーターとして航空訓練映画を製作していました。1940年代から1960年半ばにかけて、『高原児』『チャンピオン』、『ガラスの動物園』、『必死の逃亡者』『走り来る人々』『エルマー・ガントリー』、『バラバ』『アラビアのロレンス』『シャイアン』『ミクロの決死圏』等に出演しました。特に1951年『怒りの河』、1955年『ララミーから来た男』での悪役の演技は素晴らしいです。又、同時期ケネディは舞台にも出演していて、1949年アーサー・ミラーの「セールスマンの死」でトニー賞を受賞しています。ほかに1947年「オール・マイ・サン」、1953年「るつぼ」、1961年「ベケット」、1968年「プライス」に出演しています。1975年に奥さんが亡くなってからは映画出演への興味が失せて、数本の映画に出演しただけでした。

ジョー・ケラーソン役の
ポール・スチュアート(41歳)

 ポール・スチュワート(1908年3月13日~1986年2月17日)は、ニューヨークのマンハッタン生まれの劇場、ラジオ、映画、テレビの性格俳優、監督、プロデューサーです。彼は公立学校に通い、コロンビア大学で法律を学びました。1925年にベラスコ劇場トーナメントで優勝して、ニューヨークで舞台デビューします。その後、1930年にはブロードウェイの舞台に出演し、1932年まで舞台に出演していました。スチュアートはシンシナティに移り、ラジオ局WLWで働くようになります。13ヶ月間、WLWのラジオ制作に関する演技、アナウンス、監督、プロデュース、脚本、音響効果の制作等のあらゆる仕事をしました。スチュアートはニューヨークに戻り、ラジオ番組の「マーチ・オブ・タイム」に出演しました。1934年、スチュワートは仕事を得る事が出来なかったオーソン・ウェルズをノウルズ・エントリキン監督に紹介しました。エントリキンはウェルズにラジオでの最初の仕事を与えました。1935年3月、スチュワートはウェルズをホーマー・フィケット監督に推薦し、ウェルズはオーディションを受けてパートリー会社に採用されました。パートリー会社の「マーチ・オブ・タイム」はラジオで最も人気のある番組で、ドラマの出演者は俳優やアナウンサー等で構成されていました。スチュアート、ウェルズ、アグネス・ムーアヘッド、ジャネット・ノーラン、リチャード・ウィドマーク、アート・カーニー、レイ・コリンズ、ペドロ・デ・コルドバ、ナンシー・ケリー、ジョン・マッキンタイア等が、マーキュリー・シアターで演じるメンバーの一部です。1938年10月に放送されたドラマ仕立ての「宇宙戦争」で、スチュワートはリハーサルディレクター、俳優、共同脚本を担当しました。1939年にはアーティ・ショー楽団の最初のボーカリストとなり、ラジオ、映画、テレビに出演していました。そしてウェルズの依頼を受けて、1941年の『市民ケーン』で映画デビューします。1941年3月24日から6月28日までセント・ジェームズ劇場で、「ネイティブサン」に出演しました。

 第二次世界大戦中、スチュワートはニューヨークに本拠を置く戦争情報局で、1941年から1943年まで勤務しまし、ドキュメンタリー映画のナレーションを担当していました。又、“ボイス・オブ・アメリカ”でアメリカの新聞のニュース、社説、有名な演説等をヨーロッパに向けて放送しました。その他、アメリカ兵士の士気を高めるラジオ番組を放送したり、戦時国債の購入促進させるラジオ番組を制作していました。

 戦後スチュワートは、俳優として『窓』『チャンピオン』『デッドラインUSA]、『蜘蛛の巣』、『偉大な生涯の物語』、『冷血』、『オーソン・ウェルズのフェイク』『ピンク・パンサー4』、『風の向こうへ』等多くの映画に出演しました。1950年にはロードウェイ公演の「ミスター・ロバーツ」に出演しています。テレビでは「トワイライト・ゾーン」、「ドクター・キルディア」、「ペリー・メイスン」、「マニックス」、「スパイ大作戦」、「ロックフォードの事件メモ」、「コロンボ」等の監督をしました。スチュワートは、5,000のラジオやテレビ番組に出演または監督しましたが、通常はクレジットされていません。スチュワートは長い闘病生活の末、1986年2月17日にロサンゼルスのシダーズ・サイナイ・メディカル・センターで、心不全の為77歳で亡くなりました。

ジーン・ケラーソン役の
ルース・ローマン(27歳)

 ルース・ローマン(1922年12月22日~1999年9月9日)は、マサチューセッツ州リン生まれのアメリカの映画、舞台、テレビの女優です。ローマンはボストンのウィリアム・ブラックストーン・スクールとガールズ・ハイスクルールに通いました。その後、ボストンの名門ビショップ・リー・ドラマティック・スクールに入学し、女優を目指します。ニューイングランド・レパートリー・カンパニーとエリザベス・ピーボディ・プレイヤーズで演技するスキルをさらに高めた後、ブロードウェイの舞台に立つ為にニューヨークに移ります。ローマンは生計を立てる為、タバコガール、帽子チェックガール、モデルとして働き貯金もしました

 ローマンはハリウッドに移り、1943年『ステージ・ドア・キャンティーン』で映画デビューしました。その後、1944年『君去りし後』、1946年『ギルダ』、1948年『善人サム』、1949年『窓』『チャンピオン』、1650年『ダラス』、1951年『見知らぬ乗客』、1954年『遠い国』・『暗黒街脱出』、1965年『アカプルコの出来事』等に出演しました。1954年から始まったユニバーサル映画の『ジャングルの女王』シリーズ13本に出演しました。

 1960年代にはテレビに出演し始めて、1962年「最後のカルテ」、1963年「ブレーキング・ポイント」、1968年「スパイ大作戦」シーズン3に出演しました。その他、「ガンスモーク」、「ボナンザ」「裸の町」、「ルート66」、「バークにまかせろ」、「FBI」、「アイ・スパイ」等にゲスト出演しています。ローマンは、1999年9月9日カリフォルニア州ラグナビーチの別荘で、眠っている間に自然死しました。76歳でした。

ロス刑事役のアンソニー・ロス(40歳)

 アンソニー・ロス(1909年2月23日~1955年10月26日)は、ニューヨーク市生まれのブロードウェイの舞台、テレビ、映画の性格俳優です。彼はブラウン大学を卒業し、フランスに移ってソルボンヌ大学とナンシー大学で学びました。帰国後、1932年にブロードウェイ・デビューします。1944年にテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」の初演メンバーとして出演しています。

 1944年からノン・クレジットで映画デビューし、1947年『死の接吻』、1950年『拳銃王』、1952年『危険な場所で』、そして1951年コロンビア・ピクチャーの15話連続映画の『ミステリアス・アイランド(原題)』に出演しました。1954年のCBSのテレビ映画シリーズ「The Telltale Clue」で警察署長のリチャード・ヘイルを演じました。1955年ミュージック・ボックス・シアターで「バス・ストップ」の公演を終えたて、マンハッタンのアパートで就寝中に心臓発作で亡くなりました。46歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。