Vol.22 『ビッグ・トレイル』の続き

 タイトルの『ビッグ・トレイル』は大規模な幌馬車隊の意味で、50台位の幌馬車隊がミシシッピーからオレゴンまでの4023キロを進む話です。幌馬車隊はコールマンに道先案内人の依頼をしますが、友人トムを殺害して毛皮を盗んだ犯人捜しの為断ります。コールマンは知り合いのリディの家で、西部に向かうルースに人違いをしてキスしてしまいます。ルースは怒ってここから彼への反目が始まります。コールマンは毛皮商人から得た情報から友人殺しの犯人が幌馬車隊にいると思い、道先案内人を引き受けます。既にフラックが案内人になっていましたが、先住民と友好関係にあるコールマンにも幌馬車隊は案内人を依頼します。船上で賭博をしていた賭博師のソープは、船長から下船と町に残る事を禁止されます。ソープは旧知のフラックに会い、幌馬車隊に同行する事にします。

出発準備中の幌馬車隊(左)  出発した幌馬車隊(右)

 この映画の見せ場は、やはり幌馬車隊の道中の出来事を克明に描いている処です。冒頭の幌馬車と群衆の映像は圧巻で、出発準備の状況も分かり易く描かれています。移動を始めた幌馬車隊を画面一杯に捉え、幌馬車と共に移動する牛の群れも映し出しています。その後、川を横切り場面では流れに負けて倒れる幌馬車があったり、牛を向う岸に移動させるさまが分かります。

川を渡る幌馬車隊(左)  沈みながら流される幌馬車(右)

 コールマンは先住民二人を連れ立って、食料調達の為にバッファロー(正しくはアメリカン・バイソン)を狩りに行きます。それを聞いたフラックは、ピートとロペスにコールマンを殺すように指示します。狩りをしているコールマンは、銃で撃たれて倒れます。ピートとロペスは、コールマンを仕留めたとフラックに伝えます。幌馬車隊が川を渡っている時に、コールマンが馬無しで現れてルースの幌馬車で川を渡ります。ルースに声を掛けたフレックたちは、幌馬車から降りて来たコールマンを見て驚きます。コールマンは“どうした。幽霊でも出たか”とフレックに言います。ジークの所に行き、隊を離れたのはピートとロペスだと知ります。その時、突然先住民が丘の上に表れます。コールマンとは旧知の先住民ブラック・エリクたちで、幌馬車隊と友好関係を結びます。

ブラック・エリクと
友好関係を結ぶコールマン

 森を通る時は木を伐採して道を作ったり、崖から幌馬車や牛を下に下す場面があり、下ろし損ねて破壊する幌馬車も描かれています。凄い場面が映し出されていますが、淡々と描かれていて私は少々物足りない感じがしました。この道中の間、コールマンはルースを色々と手助けをした事により、彼女は徐々にコールマンを理解するようになります。一方、邪魔なフラックはコールマンを殺害する為に、ソープの弱みに付け込み殺害させるように仕向けますが、コールマンの相棒のジークに返り討ちに合いソープは射殺されます。

木を伐採して道を作る(左)  崖下に幌馬車や家畜を降ろす(右)

 友好関係にない先住民の襲撃があり、50台位の幌馬車で円陣を組み中に馬や牛を入れ、男達は銃を構え女性は銃の弾込めをして待ち構えます。画面に円陣を組んだ幌馬車隊に向かって先住民が襲撃を始め、銃撃戦が開始されてからの場面は迫力がある場面になっています。先住民の三度の襲撃に耐え、犠牲者を出しながらも何んとか撃退します。コールマンは手伝ってくれた先住民を彼らの村まで送って行きます。幌馬車隊は雨が降る中、沼地を乗り越えて平坦な道に出た時コールマンが帰って来ます。ルースに挨拶に行こうとしますが、5日前に馬車が動かなくなりその場に残った事を知ります。コールマンは直ちにルースたちを助けに行きます。

円陣を組む幌馬車隊(左)  先住民との銃撃戦(右)

 やがて雪が降り吹雪になります。フラックは先に進めないから引き返そうと言いますが、コールマンが皆を説得して先に進みます。フラックは今度ロペスにトムのナイフで、コールマン殺害を命令します。ロペスは殺害に失敗してナイフを置き去りにして逃げ出します。このナイフを見たコールマンは、トム殺害の犯人はフラックとロペスであると確信します。逃げ帰ったロペスは殺害失敗をフラックに告げると、フラックはロペスと共に逃げ出します。

 幌馬車隊は目的地の渓谷を見下ろす山の上に着き、コールマンは皆と別れてフラックとロペスを探しに行こうとします。ルースは必至に制止しようとしますが、コールマンは出て行きます。雪が降る中、ロペスは力尽きたのか倒れています。フラックはロペスを置き去りにして一人で逃げます。雪に埋もれて死んだロペスをコールマンは見つけ、フラックを追跡します。フラックを見つけたコールマンは声を掛け、ナイフを投げてフラックを倒します。

渓谷を見下ろす幌馬車の人たち(左)
コールマンを阻止しようとするルース(右)

 渓谷に着いた幌馬車隊の人たちは、夫々協力し合って家を建てています。ジークはルースにここから出て行くと云う話をしている時、コールマンが向かってきていると気が付きます。ジークはルースにコールマンからの贈り物があるから巨木の辺りに行って見つけるように言います。喜んでルースが巨木の所に行って贈り物を探していると、コールマンが現れるという粋なラスト・シーンで終わります。それにしてもこの巨大の林は圧巻です。

コールマンの話をするッジーク(左)
コールマンを出迎えるルース(右)

 素晴らしい脚本で巨費を掛けてワイド・スクリーンで撮影されたにも関わらす、残念ながらこの映画は興行的に失敗しました。キャリアが浅い無名の新人ジョン・ウェインは、背一杯の演技をしていたと思いますが、やはり観客はスター俳優が出ない映画を観ないのかとも思いました。レンタル店にもあると思いますので、西部劇ファンの方には是非観て頂きたい映画です。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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『ビッグ・トレイル』 作品データ

アメリカ 1930年製作 モノクロ 121分
原題:The Big Trail

監督:ラォール・ウォルッシュ

原作:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

脚本:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

撮影:ルシエン・アンドリオ

助監督:アーチボールド・ブカナン

出演:ジョン・ウェイン、マルゲリーテ・チャーチル

   エル・ブレンデル、タリー・マーシャル

   タイロン・パワー・シニア、チャールズ・スティヴンス

   イアン・キース、フレデリック・バートン

   デイヴィッド・ローリンスラス・パウエル

   ウィリアム・V・モング、マーシャ・ハリス

   ヘレン・パリッシュ

Vol.21 『ビッグ・トレイル』

『ビッグ・トレイル』
発売元:20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント

 『ビッグ・トレイル』の主役は当初パラマウントのゲイリー・クーパーを予定していましたが、貸し出して貰えず無名の新人マリオン・ロバート・モリソンを主役に抜擢しました。ラオール・ウォルシュ監督は、この新人にジョン・ウェインと名付けました。ジョン・ウェインが演じているのは、山や森で動物や原住民と共に暮らすナイフの名人ブレック・コールマン。サイレント映画時代から数多くの映画に出演している名脇役タリー・マーシャルが彼の相棒のジークを演じていて、ヒロインのルース・キャメロン役はマルゲリーテ・チャーチルです。そして、強欲で狡賢い悪役レッド・フラックをタイロン・パワー・シニアが演じています。フラックの相棒ロペスをチャールズ・スティヴンス、もう一人の悪役の賭博師ソープをイアン・キースが演じています。

【スタッフとキャストの紹介】

ラオール・ウォルシュ監督

 ラオール・ウォルシュ(1887年3月11日~1980年12月31日)は、ニューヨーク生まれのアメリカ合州国の映画監督・俳優・映画芸術アカデミー(AMPAS)の創設メンバーです。ウォルシュは高校時代“オメガ・デルタ・クラブ”のメンバーでした。その後シートン・ホール大学に進学しています。1909年に演技を始め、ニューヨーク市で初舞台を踏んでいます。その後ウォルシュは1912年に映画界入りし、ディヴィット・W・グリフィスの手伝いをしながら映画作りを学びました。1913年に本名からラォール・ウォルシュに改名し、短編映画を撮り監督としてもデビューしました。1915年の『国民の創生』ではグリフィス監督のアシスタントを務め、俳優としてリンカーン大統領を暗殺する役を演じています。1915年最も初期の長編ギャング映画『再生』を、マンハッタンのバワリー地区でロケ撮影して監督しました。この映画は公開当時絶賛され、2000年に米国議会図書館によって米国国立フィルム登録簿に保存されました。

 第一次世界大戦中、ウォルシュはアメリカ陸軍の将校として勤務していました。1924年にはダグラス・フェアバンクスが製作・主演した『バグダットの盗賊』の監督に抜擢されます。1926年にはヴィクター・マクラグレンとドロレス・デル・リオ主演の『栄光』を監督しました。1928年グロリア・スワンソン主演の『港の女』では、ウォルシュは13年振りに俳優として出演して監督もしました。1928年の『懐かしのアリゾナ』撮影中に事故の為、右目を失明してアイ・パッチを付けています。1930年に『ビッグ・トレイル』『彼奴(きやつ)は顔役だ!』、1941年『壮烈第七騎兵隊』『いちごブロンド』、1949年『白熱』、1952年『海賊黒ひげ』等を監督しています。1920年代から1960年代までに西部劇からギャング映画やら海洋冒険映画やらコメディと様々のジャンルの映画の監督をしています。ウォルシュは1964年に引退し、1980年12月31日に93歳で心臓発作の為亡くなりました。彼の映画は主人公の人間性を掘り下げ、メリハリのある演出とテンポの良い展開で大好きな監督です。

ブレック・コールマン役
ジョン・ウェイン(23歳)

 ジョン・ウェイン(1907年5月26日~1979年6月11日)は、アイオワ州ウィンターセット生まれの映画俳優、プロデューサー、監督です。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居しました。ウェインは何処に行く時にもエアデール・テリアの愛犬“リトル・デューク”を連れていました。隣人がウェインを“ビッグ・デューク”と呼び始め、以後愛称が“デューク”となりました。高校卒業後に海軍兵学校へ出願しますが入学出来ず、南カリフォルニア大学に入学しました。在学中フットボールをやりましたが、水泳中に怪我をして協議生命を絶たれました。大学時代に田舎の映画スタジオで働き始め、トム・ミックスの紹介で大道具係をするようになり、1928年には端役で映画出演するようになります。1930年にジョン・フォード監督の紹介で、『ビッグ・トレイル』の主役になりました。『ビッグ・トレイル』は、撮影に特殊な70㎜フィルムを使い200万ドルの巨費で製作されましたが、興行的には失敗しジョン・ウェインはその後B級専門俳優として、1939年の『駅馬車』に出演するまで鳴かず飛ばずの状態が続きます。しかしその不遇期間に射撃、乗馬、格闘技を習得したり、歌うカウボーイとして馬に乗りながら歌を歌う映画にも出演しています。1933年の『伝説のガンマン』では白馬に乗ってギターを弾きながら歌っています。

 1939年に出演した『駅馬車』が大ヒットして、主役を演じてたウェインはジョン・フォード作品の看板役者になります。その後『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』『静かなる男』『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを撃った男』等、35年間にフォード作品には20作以上に出演しました。ウェインは西部劇や戦争映画で強くて逞しいヒーローを演じ続けていましたので、“アメリカの英雄”と称賛されていました。しかし、ウェインは兵役についていません。1940年に徴兵が復活し、1941年徴兵該当年齢の34歳でしたが、徴兵猶予を申請して受理されました。第二次世界大戦が終了する1945年までハリウッドに残って21本の映画に出演しました。

 1948年の『赤い河』の大ヒットでウェインは、名実共にスターの座を獲得しました。愛国主義者のウェインはタカ派俳優として非難されていましたが、ベトナム戦争時には1968年『グリー・ベレー』で製作・監督・主演して、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描きました。1964年に肺癌を宣告され片肺を失いますが、闘病を宣言して俳優活動を続けました。ウェインは1949年の『硫黄島の砂』と1960年の『アラモ』で、アカデミー賞にノミネートされましたが受賞出来ませんでした。1969年の『勇気ある追跡』で念願のアカデミー主演男優賞を受賞しました。種がい出演した映画は154本で、西部劇は79本でした。遺作になった1979年の『ラスト・シューティスト』では、過去に出演したヒーロー像と自身の現実を織り交ぜたJ・B・ブックスを演じました。ラストではロン・ハワードに止めの一発を撃たせ、恰もロン・ハワードに未来の映画界を託したような暗示を感じさせます。胃癌の悪化で1979年5月1日からカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院して治療していましたが、1979年6月11日に死亡しました。

ジーク役のリー・マーシャル(66歳)

 タリー・マーシャル(1864年4月10日~1943年3月10日)は、カリフォルニア州ネバダシティ生まれの性格俳優です。マーシャルは私立学校とサンタクララ・カレッジに通い、工学の学位を取得して卒業しました。18歳で舞台に出演し、1883年3月にはサンフランシスコのウインターガーデンの舞台に出演しています。1887年からは、ブロードウェイで様々な舞台に出演しています。マーシャルはエドワード・ヒュー・サザンの元で演技と舞台演出を学び、様々なレパートリー劇場の舞台に出演しました。1914年ハリウッドに移り、『全額支払われた』でスクリーン・デビューしました。その後、膨大な数の作品で様々な役を演じました。1916年『イントレラス』、1918年『スコーマン』、1921年『蓮の花』、1923年『ノートルダムのせむし男』、1929年『フーマンチュー博士の秘密』1930年『ビッグ・トレイル』・『トム・ソーヤの冒険』、1932年『グランド・ホテル』、1935年『二都物語』、1941年『ヨーク軍曹』、1942年『拳銃貸します』等です。マーシャルは1943年3月10日、カリフォルニア州エンシノの自宅で、心臓発作を起こして78歳で亡くなりました。

ルース・キャメロン役
マルゲリーテ・チャーチル(20歳)

 マルゲリーテ・チャーチル(1910年12月26 ~2000年1月9日)は、アメリカの舞台俳優で映画俳優です。子役だったチャーチルは、1922年12月25日にブロードウェイの舞台に初登場します。その後、16歳でブロードウェイの主役女性俳優として称賛されました。彼女の演技を観たフォックス・フィルムの関係者が契約結び、1929年『The  Diolomats』でスリーン・デビューしました。同年ポール・ムニの映画デビュー作『ヴァリアント』に出演し、1930年『ビッグ・トレイル』に主役女優として出演しました。1931ン年『速成成金』・『怪探偵張氏』、1933年『女難アパート』、1936年『歩く死骸』『女ドラキュラ』等に出演し、ブロードウェイの舞台に出演していました。

レッド・フラック役
タイロン・パワー・シニア(61歳)

 タイロン・パワー・シニア(1869年5月2日 ~1931年12月23日)は、イギリス・ロンドン生まれのアメリカの舞台俳優で映画俳優です。パワー家は4代続いた芸能一家で、アイルランドの人気コメディアンのウィリアム・グラートン・・タイロン・パワーから始まり、フレデリック・タイロン・エドモンド・パワー(タイロン・パワー・シニア)、タイロン・エドワード・パワー3世(タイロン・パワー・ジュニア)、タイロン・ウィリアム、パワー4世と4代続いています。

 タイロン・パワー・シニアは、ロンドンのハンプトンにある私立全寮制男子校のハンプトン・スクールに通い、その後イングランド南東部のドーバーにある全寮制のドーバ-・ケレッジに通いました。1883年、14歳の時両親の意向でイギリスからフロリダに行き、柑橘類の栽培を学びました。数年後、パワーは農作業から逃げ出してフロリダ州セントオーガスティンの劇場会社に入社します。1889年11月29日に「私設秘書」で舞台デビューし、1889「ベッキー・シャープ」、1903年「ユリシーズ」に出演しました。1908年の「家の召使」は124回上演され、その他多くのシェイクスピア劇で様々な役を演じ、世界中をツァーで回りました。1914年にはサイレント映画『貴族政治』、1918年『私の子供はどこにいますか?』等で主役を演じていましたが、悪役に転向して大成功を収めます。パワーは1930年の『ビッグ・トレイル』で悪役のレッド・フラックを演じましたが、唯一のトーキー映画でした。その後、1919年の『奇跡の男』のサウンド・リメイク版の『ミラクルマン』の撮影に入りますが、1931年12月23日にハリウッド・アスレチック・クラブのアパートで、心臓発作で亡くなりました。62歳でした。

フラックの相棒ロペス役
チャールズ・スティヴァンス(37歳)

 チャールズ・スティヴァンス(1893年5月26日~1964年8月22日)は、アリゾナ州ソロモンビル生まれのアメリカ合州国の俳優です。彼は1915年から1961年の間に約200本の映画に殆どノン・クレジットで出演しました。親友のダグラス・フェアバンクス・シニアの映画には、ほぼ全てに出演しています。スティヴンスは1916年『国民の創生』で映画デビューし、西部劇では主にネティブ・アメリカンやメキシコ人を演じています。1921年『三銃士』、1922年『ロビン・フット』、1926年『海賊』、1929年『鉄仮面』、1930年『ビッグ・トレイル』、1939年『フロンティア・マーシャル』、1940年『荒野の勇者 キット・カーソン』、1941年『血と砂』等に出演しました。又、1937年からの『ワイルド・ウエスト・デイズ』は13本の連続映画に出演し、1942年からの『オーバーランド・メール』も15本の連続映画に出演しています。1950年代には多くのテレビ番組に出演しています。「名犬リンチンチン」、「怪傑ゾロ」、「ローン・レンジャー」や日本未放映の「ワイルド・ウエストの冒険」、「キット・カーソンの冒険」、「スカイ・キング」にレギュラー出演しています。1961年のトニー・カーティス主演の『硫黄島の英雄』が遺作になりました。

賭博師ソープ役
イアン・キース(31歳

 イアン・キース或いはアイアン・キース(1899年2月27日~ 1960年3月26日)は、アメリカの俳優です。彼はマサチューセッツ州ボストンで生まれ、シカゴで育ちました。シカゴのフランシス・パーカー・スクールで教育を受け、16歳の時に学校の舞台壁でハムレットを演じました。キースは1919年に本名のキース・ロスの名で、ボストンのコンプリー・レパートリー・シアターで舞台に出演し、ブロードウェイではイアン・キースとして出演していました。1924年『嬲られ者』で映画デビューし、1925年『我が子』、1927年『美人国二人行脚』、1930『ビッグ・トレイル』、1932年『暴君ネロ』、1933年『クリスチナ女王』、1934年『クレオパトラ』、1935年『十字軍』・『三銃士』、1940年『シーホーク』、1947年『悪魔の往く町』、1948年『三銃士』、1955年『凶弾の舞台』・『水爆と深海の怪物』、1956年『十戒』等に出演しました。『三銃士』の1935年度版と1948年のリメイク版ではド・ロシュフォール伯爵を演じていました。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.20 『フロンテア・マーシャル』おまけ

 西部劇の定番として、悪人との対決や復讐劇の中にヒロインとのロマンスを絡める話が多いです。しかし、『フロンテア・マーシャル』では、アラン・ドワン監督はワイアット・アープを沈着冷静で凄腕のガン・マンとして描き、彼のロマンスを排除しています。その代わり架空の女性二人を登場させて、ドク・ホリディとサラとジェニーの三角関係を導入しています。この映画はワイアット・アープの実名を使用した最初の映画で、アープの妻のジョセフィーン・アープに版権料を払って製作された為、ワイアット・アープのロマンスに触れていないようにしています。ジョセフィーン・アープは、作家のスチュアート・N・レイクにワイアットが口述したトゥームストーンでの話から、大部分を削除したり言い換えをしています。彼女が話す経歴は虚偽が多く実像を把握するのは難しいですが、現在分かっている情報で確実な事は、元舞台俳優で娼婦だった事です。

コルト・バントライン・スペシャル 1956年(上)
コルト・シングル・アクション・アーミー1874年(下)

 ドク・ホリディことジョン・ヘンリー・ホリデイは、歯科医師の免許を持っていた為“ドク”とか“ドク・ホリディ”と呼ばれていました。歯科医師ながら劇中では難しい外科手術をしていて素晴らしいシーンになっていますが、勿論映画の創作です。ワイアットとドクの出会い後、酒場のカウンターで拳銃談義の時に“コルト・バントライン・スペシャル”の話が出て、ドクの愛用銃となっていましたが、ワイアットの銃が定説になっています。作家のネッド・バントライン(本名:エドワード・ゼイン・キャロル・ジャドソン・シニア)が、コルト社に銃身12インチの“コルト・バントライン・スペシャル”を発注した事になっています。しかし、調査の結果ではコルト社へ発注した記録はありませんでした。これは実在した証拠が無い為、「ワイアット・アープ:フロンティア・マーシャル」を書いた作家のスチュアート・N・レイクの創作だと云われています。

バント・ライン・スペシャルとストック

 コルト社の銃は全てシリアル・ナンバーが打たれていますので、調べた処“コルト・バントライン・スペシャル”は1956年から製作していました。この映画の時代設定の1881年には存在していません。劇中ドクは手術後カーリーに射殺され、彼の墓に1880年没した事になっていましたが、実際には1887年11月8日にコロラド州グレンウッド・スプリングスで、肺結核の為35歳で亡くなっています。

 本作の最後にジェニーに射殺されたカーリイ・ビルは、“ザ・カウボーイズ”のメンバーで彼らの邪魔をするワイアットと対立する悪党です。“ザ・カウボーイズ”は牛泥棒もする悪党集団で、アイク・クラントン一家もメンバーですが本作には登場しません。カーリイ・ビルは、OKコラールの銃撃戦の後に郊外の材木作業所に隠れていた時にワイアットに射殺されています。

 本作では物語を簡潔にしてすっきり纏める為か、アープ兄弟は登場していません。実際は兄のヴァージル・アープが警察署長代理で、ワイアットは兄の任命で保安官代理となり、弟のモーガンとウォーレンも同様に保安官代理になっています。銃撃戦があったコラール(CORRAL)は、一時的に牛や馬等の家畜を置く場所で街のすぐ近くにあります。このコラールは日本には無いものなので、『OK牧場の決斗』の公開時に日本のユナイト社はコラールを牧場にしました。映画が大ヒットした為、日本ではコラールが牧場になってしまいました。映画ではこの銃撃戦を決闘として作り上げていますが、実際は“ザ・カウボーイズ”のメンバーが銃器を所持してOKコラールに集合していた為、武装解除を伝えに行ったヴァージルを銃で撃って来たので始まったものです。偶発的に起こった銃撃戦で、決闘ではありません。その時ヴァージルは肩を撃たれて負傷しています。アイク・クラントン一家のその場にいましたが、アイク・クラントンは逃げ出し息子のビリー・クラントンは射殺されています。実際の処、どの映画にも出てこない群保安官のジョニイ・ビーハンの事は、今回は書きませんが機会があれば書きたいと思っています。

『荒野の決闘』、『OK牧場の決斗』、『トゥームストーン』

 映画は史実通りに作る必要も無く、監督の思うテーマに沿うように脚色されて面白くなれば良いと思っています。ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』(1946年)は、『フロンテア・マーシャル』の基本的なプロットを引き継でいます。ワイアットとクレメンタインのロマンスを中心に、クラントン一家との対立によるアープ兄弟との決闘にしています。一方、ジョン・スタージェス監督は『OK牧場の決斗』(1957年)では史実と別にワイアットとドクの男の友情を軸に、クラントン一家との決闘での銃撃戦をメインに活劇映画として仕上げています。史実に近い映画としては、ジョージ・P・コスマスト監督の『トゥームストーン』(1993年)です。この映画のドク・ホリディは、ほぼ史実に沿った状態で描かれています。ドク・ホリディ役のバル・キルマーが良いですね。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

『フロンテア・マーシャル』のトップはこちら

Vol.19 『フロンテア・マーシャル』の続き

金鉱脈を探すエド・シーフェリン(左)  銀鉱石を発見したエド(右)

 オープニング・タイトルで1887年南アリゾナの岩山の頂が映り、一人の男がアパッチ族の調査をしながら金鉱脈を探しています。男の名前はエド・シーフェリン、彼は広大な銀鉱脈を発見しました。カリフォルニアのゴールド・ラッシュに続き、シルバー・ラッシュが始まりトゥームストーンが大都市になるまでを3分弱でドワン監督は演出しています。銀鉱脈を発見したエド・シーフェリンは、トゥームソーンの設立者です。

左からカーター、チャーリー、カーリー

 “歓楽の宮殿”を経営しているベン・カーターの元に、カーリー・ビルと三人組が金を運んできます。通りの向かいに新規開店した“ベラ・ユニオン”を眺めながら、インディアン・チャーリーにウィスキーを好きなだけ飲ませます。チャーリーは泥酔した状態で“ベラ・ユニオン”に入り、客の一人を撃ち殺して立て籠ります。周辺は騒然となり、市長は保安官に逮捕するように命令しますが、ワード・ボンド演じる保安官は拒否します。煩くて眠れないと、2階からワイアット・アープが声を掛けて降りてきます。その場で保安官代理になり、一人酒場に乗り込み銃で1発撃ち込んで倒し、気絶した酔っぱらいの片足を掴んで引き吊りながら出来ます。(このシーンのランドルフ・スコットは、とてもカッコいいです。)市長から保安官になって欲しい依頼されますが、断ります。その直後、ワイアットはカーリーを始めとする3人組に連れ出されてリンチにあいます。ワイアットは先程断った市長の申し入れを受けて保安官になり、3人組を同じ場所に連れ出に仕返しをし警告して帰ります。

チャーリーを引き摺り出すワイアット

 “ベラ・ユニオン”で歌うジェリーがステージを終えて、ポーカーをしているテーブルに来ます。一人の手札を見て、向かいに座るダンにサインを送ります。それを見ていたワイアットは、ジェリーを表に連れ出して注意をします。ジェリーはワイアットに平手打ちをしたので、ワイアットはジェリーを水桶に放り込みます。ポーカーを続けていると、ドク・ホリディが現れます。ドクはジェリーの件で文句を言ってきますが、急に咳き込んでしまいます。過去にドクとイザコザガあったダンは、ドクを射殺しようとしますがワイアットが阻止します、ワイアットに命を救われた事により、二人は友人となります。カウンターでワイアットはウィスキーを飲み、禁酒中のドクはミルクを飲んで拳銃談義で盛り上がります。

左からドク、ピート、ワイアット

 そんな時、ドクの婚約者のサラが現れます。ドクとサラは奥の部屋で話始めて、ドクが肺病の自分の事を構わないで帰るように話し、ジェリーを呼んで彼女を愛しているとサラに伝えます。サラは諦めて明日の駅馬車で帰る決心をします。後ほどワイアットはサラの部屋を訪れて、ドクを救えるのは貴女しかいないし、ドクが愛しているのは貴女だと伝えて説き伏せます。ワイアットの説得でサラは町に残る事にします。

サラの出現で困窮するドク

 市長は銀塊の輸送をいつもと違う方法で輸送するので、ワイアットに警護を依頼します。ドアの外でそれを聞いていたジェリーは、ワイアットに復讐する為にベン・カーターに駅馬車を襲うように言います。翌朝ワイアットが馬車に乗車しようとすると、既にドクが乗車していてワイアットと同行する事になります。ドクはワイアットがサラを説得したので、自分が町を出る事にしたとワイアットに云い、余計な事をするなと怒ります、ワイアットはドクをトゥームソーンに連れ帰すと言い合いになりますが、カーターやカーリーたちが駅馬車を襲ってきます。

馬車の中で言い合いになる
ワイアットとドク

 銃撃戦で銃撃戦でカーターを射殺し、撃ち合いながらトゥームストーンに引き返します。途中ドクは銃で撃たれて怪我をします。ドクの治療は始まりますが、ここからサラとジェリーの女の闘いが始まります。看護師のサラには流石のジェニーも部屋から追い出されてしまします。

ドクの治療をするサラ

 そんな時にワイアットとカーリーの仲間との撃ち合いがあり、酒場のピートの子供のパブロが流れ弾に当たって負傷します。町の医者が不在の為、急遽ドクが手術を行う事になります。ここではジェニーはサラと協力して、子供の命を救おうと奔走します。無事手術が終わりサラと通りに出た時、ドクはカーリーに射殺されます。

手術中のドクとサラを見つめるジェニー

 カーリーの呼び出しに応じてワイアットは、OK・コラール(牧場ではありません)に一人で向かい逃げたカーリー以外の全員を射殺します。カーリーは馬のいる所まで逃げて、ライフルでワイアットを撃ちますが、ジェニーがカーリーを射殺します。翌朝、サラは町に残りジェニーは町を出ます。

カーリーを射殺するジェニー(左)ドクの墓に別れを告げるジェニー(右)

 ランドルフ・スコットは、沈着冷静なワイアット・アープ像を見事に演じています。銃で撃つ時も基本的には殺さず負傷させる心情が現れています。彼は保安官役がピッタリあっていますね。ドク役のシーザー・ロメロは死に急ぎ死に場所を探している男から、サラに再会して負傷してからは穏やかさを表すようになり、手術のシーンでは昔のドクに変わってゆく様をキッチリ演じています。一方、サラ役のナンシー・ケリーはとても18歳とは思えない堂々とした演技で、ドクに語りかけるシーンは素晴らしいです。そして、ジェリー役のビニー・バーンズの演技は最高です。パブロの命を救おうとする時の表情や動き、ドクとサラのやり取りを見ている時の表情や、、最後に駅馬車で街を出る時にドクの墓を見る時の表情。どれもジェリーの心情が上手く表れています。本当に素晴らしい女優さんです。

 この映画は、勿論史実と違う点が多々あります。架空の女性二人を登場させて、ドクとの三角関係を軸に物語は展開されています。同じ題材を扱った作品も多いので、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

「西部劇パ-フェクト・コレクション 復讐の荒野
『復讐の荒野』,『砂漠の精霊』,『掠奪の町』,『フロンティア・マーシャル』等が収録されている、大変お得な10枚セットです。
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フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニーズ・バンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チェイニー・Jr

Vol.18 『フロンテア・マーシャル』

【スタッフとキャストの紹介】

 西部劇と云ったらジョン・ウェインと云う方が多いと思います。1946年に公開された『スポイラース』(1942年製作)のラストの格闘シーンは、4分間の大立ち回りで壮絶な殴り合いでした。あのジョン・ウェイン(35歳)と対等に格闘をしたのが、ランドルフ・スコット(44歳)でした。B級映画の大スターと云われたランドルフ・スコットは、西部劇への出演本数が一番多い俳優です。やはりB級西部劇映画ファンとしては、ランドルフ・スコットから始めます。 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

ワイアット・アープ
ランドルフ・スコット(41歳)

 ランドルフ・スコット(1898年1月23日~1987年3月2日)はヴァージニア州で生まれ、ノースカロライナ州のシャーロットで育ちました。ハイ・スクール卒業後、19歳で陸軍に入隊して第一次世界大戦中のフランスで従軍します。除隊して帰国後、ジョージア工科大学に入学してアメリカン・フットボールの選手として活躍しますが、背中の怪我のため選手活動を諦めてノースカロライナ大学に転校しますが中退します。その後父親が働く会社で働きますが、演劇に興味を持ち父親の知人のハワード・ヒューズに出会い、彼の紹介で1928年に映画界に足を踏み入れます。演技を学んだ事も無いズブの素人ですから、当然エキストラや端役からスタートです。彼の南部訛りは終生西部劇で活かされますが、その最初の切っ掛けは1929年の『ヴァージニアン』です。初主演のゲイリー・クーパーにヴァージニア訛りや馬術を指導し、エキストラとしても出演しています。その後、セシル・B・デビルの勧めで舞台劇に出演して演技の勉強をしました。パサデナ・プレイハウスの舞台やヴァイン・ストリート・シアターでの公演の合間に、1931年『Women Men Marry』に初出演します。スコットはパラマウントと契約し、1932年のコメディ『空の花嫁』に脇役で出演しました。同年パラマウントの『砂漠の遺産』で主役を演じる様になります。ヘンリー・ハサウェイは、この映画で監督デビューしました。当時パラマウントはサイレント映画のストック映像を使って、リメイクしていました。1933年の『雷鳴の群れ』と『森の男』では、サイレント映画スターのジャック・ホルトの映像と合わせる為に、スコットは黒髪にして口髭を生やして出演しました。西部劇の撮影の合間に他社への貸し出しもあり、ラブ・コメディやホラーなど数本の映画に出演しています。1934年には『戦ふ幌馬車』やRKOへの貸し出しで1935年『ロバータ』に出演しています。1936年パラマウントで『艦隊を追って』で再度ミュージカル映画に出演し、『モヒカン族の最後』、1938年『農園の寵児』に出演しました。この後、20世紀フォックスと契約して『地獄への道』、1939年『フロンティア・マーシャル』・『ヴァージニアの血闘』に出演しました。1941年『西部魂』では改心した無法者という今まで演じた事のない役を演じ、1942年にユニバーサルの『スポイラース』では最初で最後の悪役を演じています。

 第二次世界大戦にアメリカ合州国が参戦した時、スコットは海兵隊の士官に志願しましたが、数年前の背中を負傷していた為に拒否されます。参戦出来ないスコットは、ジョー・エリタとコンビをコメディのツアーを行ったり、自分の牧場で政府の為に食料の調達を行ったり、勿論戦争映画にも出演していました。1942年の『リポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』は、アメリカ海兵隊魂を称える映画で戦意高揚映画です。撮影は日米開戦前に撮影が始まり、公開後は海兵隊への入隊者が一気に増加しました。

 1942年西部劇『スポイラース』に出演し、1943年戦争映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン』・『駆潜艇K-225』・『ガンホー』に出演しています。1946年『静かなる対決』に出演以降は、1962年の『昼下がりの決斗』まで凡そ40本位の西部劇に出演しました。スコットは『昼下がりの決斗』に出演後、64歳で映画界を引退しました。裕福な家庭で育ったスコットは投資をしていて、一億ドル相当の財をなしたと言われています。1987年にビバリーヒルズの自宅で89歳で心臓と肺の病気で亡くなりました。

 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

 アラン・ドワン(1885年4月3日~1981年12月28日)は、カナダのオンタリオ州トロント生まれのアメリカの映画監督、プロデューサー、脚本家です。1892年12月4日に、ドワン一家はウィンザーからデトロイトまでフェリーで渡米しました。アラン・ドワンはノートルダム大学で工学を学んだ後、シカゴの照明会社に勤務しましたが、映画業界に関心を持っていました。エッサネイ・スタジオの脚本家になる機会があり、脚本家になります。1911年経営者から消滅寸前の映画会社の調査を依頼され、カリフォリニア向かいます。調査した会社の状況は最悪だったので、シカゴの依頼人に会社を解散するように伝えます。依頼人はアラン・ドワンに会社の運営を一任します。アラン・ワンは1911年8月から1912年7月までカリフォリニア州ラ・メサで、カリフォルニアで最初のスタジオのフライング・A・スタジオを運営しました。その後、アラン・ドワンは西部劇やコメディを数多くの映画を監督しました。1922年にはダグラス・フェアバンクスの『ロビン・フット』やグロリア・スワンソンの8本の長編映画を監督しました。

 トーキー映画時代になり、ドワンはシャーリー・テンプルの1937年『ハイディ』、1938年『農園の寵児』を監督しました。約50年の長いキャリアの中で、あああ125本の映画を監督しました。1949年『硫黄島の砂』、1923年」私刑される女』、1954年『バファロウ平原』、1956年『敵中突破せよ!』等です。

ドク・ホリディ
シーザー・ロメロ(32歳)

 シーザー・ロメロ(1907年2月15日~1994年1月1日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの俳優、活動家です。ロメロはニュージャージー州ブラッドビーチで育ち、ブラッドビーチ小学校、アズベリーパーク高校、カレッジエイト・スクール、リバーデル・カントリーデイ・スクールに通いました。銀行の仕事をしながら、ダンスのトレーニングを受けます。1927年ブロードウェイの「Lady Do!」でダンサーとして開花し、1933年から映画に出演するようになります。ロメロは、1930年代から1950年代にかけて、映画で「ラテンの恋人」を演じ、通常は脇役を演じていました。1934年『影なき男』で悪役を演じ、1935年の『スペイン狂想曲』ではマレーネ・ディートリッヒの相手役で主役を演じました。1935年『メトロポリタン』、1938年『マイ・ラッキー・スター』、1939年からは『シスコ・キッド』シリーズの6本に出演しました。1942年の『オーケストラの妻たち』ではグレンミラー楽団のピアノ・プレイヤー役を演じています。

 1942年10月12日にロメロはアメリカ沿岸警備隊に入隊し、太平洋戦域に従軍しました。1943年11月には沿岸警備隊の乗組員を乗せた攻撃輸送艦キャバリエ (USS Cavalier, APA-37) に乗船し、テニアン島とサイパン島で上陸作戦に従事しました。ロメロは最終的には艦長になりました。その後、1948年『奥様武勇伝』、1954年『ヴェラクレス』、1955年『スピードに命を賭ける男』、1956年『八十日間世界一周』、1960年『オーシャンと十一人の仲間』、1962年『電話にご用心』等に出演しました。1950年代半ばからは多くのテレビ映画に出演し、1965年「0011ナポレオン・ソロ」ではスラッシュのフランス支部のボスを演じ、1966年から1968年までは、「バットマン」でジョーカーを演じていました。1985年から1987年までは、「ファルコン・クエスト」でピーター・スタヴロス役を演じました。

 共和党員のロメロは、1964年のカリフォルニア州の上院選で親友のジョージ・マーフィの選挙応援を積極的に行います。マーフィは民主党のピエール・サリジャーを破って当選し、マーフィは1965年1月1日から1971年1月1日までの1期6年間上院議員を務めました。その後、1966年と1970年の知事選でロナルド・レーガンの為に選挙応援をし、1968年、1976年、1980年、1984年の4回の大統領選挙でも全て選挙応援をしました。ロメロは1994年1月1日、カリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ・ヘルス・センターで、気管支炎と肺炎の治療中に血栓の合併症により86歳で亡くなりました。

サラ・アレン
ナンシー・ケリー(18歳)

 ナンシー・ケリー(1921年3月25日 – 1995年1月2日)は、マサチューセッツ州ローウェル生まれのアメリカ合州国の俳優です。ケリー家は演劇一家で、母親のナン・ケリーはサイレント映画の女優です。母親は一歳のナンシーをモデルとしてキャリアをスタートさせ、子役として1926年の『女王蜂』で映画デビューさせます。ナンシーは、ベントレー・スクール・フォー・ガールズ、イマキュレート・コンセプション・アカデミー、セント・ローレン・アカデミーで学びました。ナンシーは9歳まで子役モデルとして、様々な広告に登場しました。その頃のナンシーは、“アメリカで最も写真に撮られた子供”と言われていました。1929年にはシェイクスピア劇「マクベス」でブロードウェイ・デビューし、1954年にブロードウェイ舞台劇「悪い種子」して1955年トニー賞を受賞しました。1933年から1934年にかけてNBCラジオで放送された、ラジオ・ドラマ「オズの魔法使い」でドロシー・ゲイルを演じました。CBSラジオで1931年から1945年まで放送されていた「マイチ・オブ・タイム」にも出演していました。この番組はタイム社提供のラジオ・ドキュメントとドラマで、ナンシーはドラマに出演していました。このラジオ・ドラマにはラジオ俳優や司会者の他に映画俳優も出演しています。オーソン・ウェルズは11人の人物を演じています。アート・カーニー、ジョン・マッキンタイア、アグネス・ムーアヘッドも出演していました。

 ナンシーは1938年から1956年までに、27本の映画に出演して主役の女性を演じました。1938年『サブマリン爆撃隊』、1939年『地獄への道』・『紅の翼』・『スタンレー探検記』、1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1943年『ターザン砂漠へ行く』、1956年『悪い種子』などです。その後、1963年まではテレビにコンスタントに出演し、ブロードウェイでは「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」でマーサ役を数か月演じました。1970年代半ばにテレビにも復帰しています。ナンシーは1995年1月2日、糖尿病の合併症でカリフォルニア州ベルエアの自宅で亡くなりました

ジェニー役のビニー・バーンズ(36歳)
1945年『海賊バラクーダ』アン役のバーンズ(右)

 ビニー・バーンズ(1903年3月25日 – 1998年7月27日)は、ロンドンのイズリントン生まれのイギリスの女優です。バーンズは、コーラス・ガール、看護師、ダンス・ホステスをし、1923年に短編映画で映画デビューしました。イギリスで1933年『ヘンリー八世の私生活』、1934年『ドン・ファン』に出演し、その後ハリウッドに渡ります。1935年『米国の機密室』、1936年『モヒカン族の最後』、1938年『素晴らしき休日』、1942年『西部の顔役』、1966年『青春がいっぱい』等に出演しました。特に.1945年『海賊バラクーダ』では女海賊役で、剣を振り回してアクション・シーンも演じています。1973年『エーゲ海の旅情』の出演を最後に引退しました。バーンズは1998年7月27日、ビバリーヒルズで95歳で老衰で亡くなりました。

ベン・カーター
ジョン・キャラダイン(30歳)

 ジョン・キャラダイン(1906年2月5日~1988年11月27日)はニューヨーキ出身のアメリカ合州国の俳優です。彼が二歳の時父親が亡くなり、母親は再婚しました。ジョンはフィラデルフィアの学校で彫刻を学び、ニューヨークの叔父ピーター・リッチモンドの元で暮らしたり、肖像画を描きながら各地を旅していました。シェイクスピア劇を観てから俳優の道に進みます。1925年に初めて舞台に立ち、1930年から“ピーター・リッチモンド”と名乗りますが、1933年に“ジョン・キャラダイン”と改名して多くの映画に出演しました。1930年代はノン・クレジットで、1933年『透明人間』、1934年『クレオパトラ』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』等に出演しています。1936年『虎鮫島脱出』・『テンプルのえくぼ』・『砂漠の花園』、1937年『我は海の子』・『ハリケーン』、1938年『サブマリン爆撃隊』等に出演しました。ジョン・フォード作品の1939年『駅馬車』、1940年『怒りの葡萄』の出演で脚光を浴びるようになります。1940年代には自身のシェイクスピア劇団でツアーを行うなど、舞台でも活躍しました。1941年には『西部魂』・『血と砂』・『マンハント』に出演し、1944年ユニバーサルの『フランケンシュタインの館』でベラ・ルゴシ、ロン・チャイニー・ジュニアに次いで三代目のドラキュラ伯爵を演じました。その後も数本ドラキュラ伯爵を演じ、1983年『魔人館』では、ヴィンセント・プライス、クリストファー・リー、ピーター・カンシングの父親役を演じています。1945年『落ちた天使』・『大砂塵』、1956年『十戒』・『八十日間世界一周』、1958年『誇り高き反逆者』、1962年『リバティ・バランスを射った男』、1954年『シャイアン』、1976年『ラスト・シューテスト』等に出演し、1986年まで映画に出演していました。彼の息子の四人、ブルース・キャラダイン、デヴィッド・キャラダイン、キース・キャラダイン、ロバート・キャラダインは俳優になりました。1988年11月27日にイタリアのミラノで、82に歳で亡くなりました。と書いた処で本編は次回に続きます。 最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

発売元:株式会社ジュネス企画

フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニー・バーンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チャイニー・Jr