今回ご紹介するのはミステリー映画ですが、オリヴィア・デ・ハヴィランドの一人二役の素晴らしい演技を見て頂きたい作品です。一人二役の俳優が同一画面に登場する映画は沢山あります。本作では、ソファーに座る一人二役のオリヴィア・デ・ハヴィランドが、もう一人のオリヴィア・デ・ハヴィランドの頭を抱きかかえるシーンがあります。フィルム撮影では不可能で、どうやって撮影されたのか一瞬驚く場面です。一人二役の映画を撮る時は、必ず代役を演じる俳優さんが必要です。二人が対話するシーンでは、カメラは一人を背中越しに撮りもう一人は対面状態で撮ります。このシーンで背中を向けているのが代役の俳優さんです。この頭を抱えているシーンでは、代役の横顔だけが見えています。眉毛や目の輪郭はメイキャップでカバー出来ますが、耳の形や耳穴の形が違いますし、唇の形状も違うように思います。以前日本映画で、一人二役の俳優が握手をするシーンを観た事がありました。大曾根辰夫監督の1952年の『魔像』で、主役の坂東妻三郎が一人二役を演じた映画です。ラスト・シーンで二人が握手をしますが、耳の形状と口回りが違うように感じました。CGを使える現在と違い、実写で同時に同じ人間を撮影する方法は無いと思っております。これは私の憶測ですが、如何でしょうか。ご興味が湧いた方は是非DVDでご確認下さい。
【スタッフとキャストの紹介】
監督はフィルム・ノアールの巨匠と言われているロバート シオドマク(1900年8月8日~1973年3月10日)です。彼はドイツのドリスデン生まれの映画監督です。マールブルク大学卒業後、ドイツ国営映画会社のウーファー社に入社して助監督・脚本家として活動を始めます。1930年にはビリー・ワイルダーと組んでコメディを監督し、その後スリラー映画を監督します。ナチス政権が樹立した頃の1933年にパリに移り、コメディ・ミュージカル・ドラマと様々なジャンルの映画を監督します。仕事は順調でしたが、ナチスのパリ侵攻前の1938年にカリフォルニアに渡ります。1941年にパラマウント映画で2年間、1943年にはユニバーサル・スタジオで7年間映画監督として活躍し、1940年代にはアルフレッド・ヒッチコックやフィリッツ・ラングと並ぶスリラー映画の代表的な監督となります。主な作品は、1936年『フロウ氏の犯罪』、1944年『幻の女』・『コブラ・ウーマン』、1945年『容疑者』・『らせん階段』、1946年『暗い鏡』・『殺人者』・1948年『都会の叫び』、1949年『裏切りの街角』、1952年『真紅の盗賊』・1967年『カスター将軍』等です。ロバート・シオドマクは、1973年3月10日にスイスのロカルノで心臓発作の為、72歳で亡くなりました。。
製作と脚本を担当したのは、ナナリー・ハンター・ジョンソン(1897年12月5日~1977年3月25日)です。彼はジョージア州コロンバス生まれのアメリカの脚本家・映画製作者・映画監督・劇作家と多才な方です。1927年から1967年の間に50本位以上の脚本を書き、その半分以上を製作してその内の8本を監督しています。彼はジャーナリストとして数社の新聞に寄稿していましたが、1927年に『ラフ・ハウス・ロージー』の脚本を書き脚本家としてスタートしました。1935年に20世紀フォックスに脚本家として雇われ、映画の製作もするようになります。1943年にはウィリアム・ゲッツと共同でインターナショナル・ピクチャーズを設立しています。彼が手掛けた映画で有名な作品は、1940年『怒りの葡萄』の脚本、1956年『灰色の服を着た男』の脚本と監督です。その他に1936年『虎鮫島脱獄』、1939年『地獄への道』等の脚本を書きました。1941年『タバコ・ロード』では脚本と製作、1944年『飾窓の女』、1945年『無宿者』、1946年『暗い鏡』、1950年『拳銃王』、1951年『砂漠の鬼将軍』と1952年『謎の佳人レイチェル』と1953年『百万長者と結婚する方法』では脚本と製作をしました。1954年の『夜の人々』では監督・脚本・製作をしました。1960年『燃える平原児』、1967年『特攻大作戦』等の脚本です。ジョンソンは、1977年3月25日にハリウッドで肺炎の為、79歳で亡くなりました。
ディミトリ・ティオムキン(1895年5月10日~1979年11月11日)は映画音楽の作曲家・指揮者で、本作の音楽を担当しています。彼はウクライナのクレメンチューク生まれです。サンクトペテルブルク音楽院を卒業後は、ロシアのサイレント映画でピアノ伴奏して生計を立て、ピアニストになる為にピアノを学びます。ロシア革命後、父親と共にベルリンに移住し、ピアノを学びながらクラシック音楽やポピュラー音楽を作曲もしました。その後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でピアニストとして演奏デビューします。1925年にアメリカに移住し、ニューヨークで演奏活動を続けます。1929年10月の株式市場の暴落によりニューヨークでの仕事が激変し、ハリウッドに移ってMGMのミュージカル映画の音楽を担当するようになります。ノン・クレジットの場合もありましたが、1933年『不思議の国のアリス』で本格的に映画音楽を担当しました。1937年に腕を骨折し、ピアニストに復帰出来ない怪我の為、映画音楽の作曲に専念する事になります。ティオムキンは、1937年にアメリカの市民権を得ます。
フランク・キャプラ監督との仕事が多く、1937年『失われた地平線』、1938年『我が家の楽園』、1939年『スミス都へ行く』、1941年『群衆』、1946年『素晴らしき哉、人生』の音楽を担当しています。彼が担当した映画は主な作品だけでも80作はあります。1956年『ジャイアンツ』・『友情ある説得』、1957年『OK牧場の決斗』、1959年『リオ・ブラボー』、1960年『アラモ』、1961年『非情の町』、1963年『北京の55日』、1964年『ローマ帝国の滅亡』等です。1953年『真昼の決闘』、1955年『紅の翼』、1960年『老人と海』でアカデミー賞を受賞しています。『真昼の決闘』の公開時は、興行成績が悪かったので早々に公開は終わりました。ティオムキンはテーマ曲の版権を買い取り、フランキー・レーンに歌わせてシンブル・レコードを発売しました。曲は大ヒットしたので、ユナイテッド・アーチスト社はテックス・リッターに主題歌を歌わせて、4か月後に映画の上映を再開しました。TV映画の「ローハイド」や「ガン・スリンガー」のテーマ曲も担当しています。ディミトリ・ティオムキンは、1979年に転倒して骨盤を骨折した2週間後に、イギリスのロンドンで亡くなりました。84歳でした。
テリー・コリンズとルース・コリンズの二役を演じるのは、オリヴィア・デ・ハヴィランド(1916年7月1日~2020年7月26日)です。彼女は勝気なテリーと控えめなルーズを、話し方や表情の変化によって見事に演じ分けています。本作で彼女は豊かな才能に裏打ちされた演技で評価を受け、その後の作品ではアカデミー賞を受賞します。オリヴィア・デ・ハヴィランドと妹のジョーン・フォンティンは東京で生まれましたが、病弱だった二人の為に母親は夫を東京に残して、1912年にロンドンに戻る事にします。旅の途中でオリヴィアが高熱で倒れた為カリフォルニアに滞在しますが、ジョーンも肺炎に罹り母親はサラトガに移住する事にします。元舞台俳優だった母親のリリアンは、二人にシェークスピアを読み聞かせをしたり音楽や弁論術を学ばせました。オリヴィアは高校時代に演劇部に所属していて、1933年に素人劇団の公演でルイス・キャロル原作の「不思議のアリス」のアリスを演じて初舞台を踏みます。1934年に高校卒業し、サラトガ・コミュニティ劇場で上演される戯曲「真夏の夜の夢」で妖精パック役を演じます。その後、ハリウッド・ボウルで上演されるマックス・ラインハルトが監督する『真夏の夜の夢』で、主役のハーミア役の俳優が降りた為に急遽代役で出演して好評を得ます。ラインハルトが「真夏の夜の夢」の映画化で監督する事になり、ハヴィランドに出演依頼をします。彼女は奨学金でミルズ大学に入学する事になっていましたが、監督の説得に従いワーナー・ブラザースと8年間の出演契約をします。1935年の『真夏の夜の夢』で映画デビューし、当時大人気の喜劇役者ジョー・E・ブラウンの1935年の『ブラウンの怪投手』を始め、3本のコメディ映画に出演します。コメディ路線の評判が芳しくなかったので、当時無名のエロール・フリンの相手役として彼女を起用し、1935年の『海賊ブラッド』に出演させます。この映画は大ヒットして、その後二人が共演する映画は8本製作されます。その間、コメディも含め色々な作品に出演しますが、彼女が望んでいたシリアスで重厚な役を演じる事がありませんだした。
1939年の『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトン役は、彼女が望んでいた役でしたが、監督のジョージ・キューカーは妹のジョーン・フォンティンにその役出演依頼をします。ジョーンはスカーレット役を望んでいたので出演を断り、姉のハヴィランドを推薦したと言われています。最終的には社長のジャック・ワーナーの妻のアンが後押ししたと言われています。メラニー役で絶賛を浴びシリアスな役を演じたいと願っていましたが、会社は相変わらず純情可憐な娘や乙女役しか演じさせない事に不満を募らせ、以前と同様な役の脚本を突き返すようになり、エロール・フリンとの共演映画も終わらせます。その後1941年『いちごブロンド』や1943年『カナリア姫』等に出演しますが、ワーナー・ブラザースはオリヴィアに6か月の契約延長を告げますが、彼女はこの申し入れを断ります。その当時の法律では、契約中の俳優が製作会社からの配役を拒否した場合は、その作品の撮影期間を契約期間に加算延長を認めていました。ベティ・ディヴィスが1930年代に訴訟を起こしましたが敗訴しています。殆どの俳優はこの契約を受け入れていましたが、1943年8月にオリヴィアは会社を相手に出演拒否に対する契約期間延長処置への訴訟を起こし、彼女は勝訴します。製作会社の絶大な権限を弱め、俳優たちに自由な創作活動を与えたこの判決は、ハリウッド映画界に大きな影響を与えました。今でもこの判例は、「デ・ハヴィランド法」と言われています。しかし、敗訴したワーナー・ブラザースは彼女に関する書簡を他の縁が製作会社に送り付け、その後彼女は「ブラック・リスト女優」として2年間映画出演する事が出来ませんでした。そしてお蔵入りになっていた『まごころ』が公開されてから、彼女はパラマウント映画と3本の出演契約をし、1946年の『暗い鏡』に出演します。この映画での演技から彼女は大きく飛躍し、シリアスで重厚な役を演じる俳優となって行きます。彼女はベティ・ディヴィスと親交が深く終生親友でした。彼女の主な出演作品は、1935年『真夏の夜の夢』・『海賊ブラッド』、1936年『進め龍騎兵』、1938年『ロビンフッドの冒険』、1939年『風と共に去りぬ』、1941年『壮烈第七騎兵隊』、1943年『カナリア姫』、1946年『暗い鏡』・『遥かなる我が子』、1948年『蛇の穴』、1949年『女相続人』、1952年『謎の佳人レイチェル』、1958年『誇り高き叛逆者』、1964年『不意打ち』・『ふるえて眠れ』等です。
精神分析医スコット・エリオットを演じるのは、リュー・エアーズ(1908年12月28日~1996年12月30日)です。アメリカ合州国のミネアポリスで、バンジョー、ギター、ピアノ等が弾けるのでアリゾナ大学(薬学)卒業後、楽団に入団して演奏活動をしていました。テス社と6か月の契約をして1929年に映画デビューし、1930年の『西部戦線異状なし』で主役のポール・バウマーを演じました。衝撃的なラスト・シーンで映画は大ヒットし、演じたエアーズの名は世界中に知れ渡ります。映画俳優なり立てで有名になりましたが、経験不足もありスターにはなりませんでした。1935年からフォックス社のB級映画に出演するようになります。1938年MGMで「ドクター・キルデア(ジェームズ・キルダーレ博士)」シリーズの9本に出演しました。1942年3月に徴兵され、彼は良心的兵役拒否者を宣言します。彼の行動は、アメリカ国民にも映画会社にも受け入れられませんでした。(看護兵デスモンド・T・ドスを主人公にした2016年の映画『ハグソーリッジ』で、良心的兵役拒否者の事はお分かり頂けると思います。)エアーズは1942年5月18日アメリカ陸軍に入隊し、太平洋方面に医者と牧師の城主として任務に就きます。レイテ島やフィリピンやニューギニア等で、3年半医療軍団に活動して従軍星章を3度授与されます。この従軍星章で得た報酬は、全てアメリカ赤十字に寄付しています。1946年に映画に復帰しますが、戦争映画への出演は拒否してワーナー・ブラザースとの長期契約中も2本の映画出演だけでした。その後は時々映画に出演し、宗教活動に専念します。1960年からは、テレビ映画に出演するようになり俳優活動を再開しています。主な出演映画は、1930年『西部戦線異状なし』、1933年『あめりか祭』、1938年『素晴らしき休日』、1946年『暗い鏡』、1948年『ジョニー・ベリンダ』、1953年『ドノヴァンの脳髄』、1964年『大いなる野望』、1973年『最後の猿の惑星』等です。
スティーブンソン警部補を演じるのは、アメリカの映画俳優で劇作家の名優トーマス・ミッチェル(1892年7月11日~1962年12月17日)です。1939年の『駅馬車』で飲んだくれのブーン医師を演じているので、ご存じの方が多いと思います。彼はニュージャージー州エリザベス生まれで、高校卒業後に地元の新聞社に入社して新聞記者になります。1913年に新聞社を退社して、チャールズ・コバーンのシェークスピア劇団に入団して舞台俳優になります。1916年にブロードウェイ・デビューし、その後フロイド・ディールと共同で脚本を書くようになり舞台劇の演出もするようになります。1928年の舞台劇「Little Accident」が、1930年に『貰い児紛失事件』と1944年に『クーパーの花婿物語』として2度映画化されました。彼は1934年の『わたしのすべてを』で脚本家として映画界にデビューします。その後コロンビア映画と契約し、1936年の『クレイグの妻』で映画俳優として本格的にデビューします。と云うのは、彼は1度だけ1923年にサイレント映画『文明病』に映画出演していました。その後は数々の大作で存在感のある脇役として活躍しました。1939年の『駅馬車』でアカデミー助演男優賞を受賞し、テレビでは1952年にエミー賞の主演男優賞を受賞し、1953年には舞台劇「Hazel Flagg」でトニー賞ミュージカル主演男優賞を受賞し、アカデミー賞とエミー賞と三つの賞を受賞した最初の俳優となります。とにかく才能に溢れた方です。主な出演映画は、1937年『失はれた地平線』・『ハリケーン』、1939年『駅馬車』・『コンドル』・『スミス都へ行く』・『風と共に去りぬ』・『ノートルダムの傴僂男』、1942年『運命の饗宴』、1943年『ならず者』・『肉体と幻想』、1944年『西部の王者』・『黒い河』、1946年『暗い鏡』・『素晴らしき哉、人生!』、1952年『真昼の決闘』、1961年『ポケット一杯の幸福』等です。トーマス・ミッチェルは、11962年2月17日にフィラデルフィアの公演先で倒れ、癌の為ビバリーヒルズの自宅で亡くなりました70歳でした。
ラスティを演じているリチャード・ロング(1927年12月17日~1974年12月21日)は、アメリカ合州国の俳優です。1946年にアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの『離愁』で映画デビューし、同年オーソン・ウェルズがロングの演技に感銘を受けて『オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー』に出演させ、続けて『暗い鏡』に出演しました。アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが、ユニバーサル・ピクチャーズと合併後も1947年『卵と私』に出演しました。ロングはユニバーサル社と契約し、1948年『愛土地の大地』、1949年『裏切りの街角』で聴覚障碍者の役で素晴らしい援護をし、ラスト・シーンが印象的です1949年『ダイナマイト夫婦』、1950年『命知らずの男』に出演しました。
1950年12月、朝鮮戦争中に徴兵されてカリフォルニア州フォート・オードで、マーティン・ミルナー、デビッデ・ジャンセン、クリント・イーストウッドらと2年間勤務しました。1953年『わたしの願い』、1954年『カスカチワの狼火』、1959年『地獄へつづく部屋』、1963年『渚のデイト』等に出演しました。その後テレビに出演するようになり、「幌馬車隊」、「西部のパラディン」、「百万弗貰ったら」、「トワイライト・ゾーン」等にゲスト出演しました。ロングはワーナー・ブラザースと契約して「連邦保安官」、「ハワイアン・アイ」等に出演し、1958年「マーベリック」でレギュラー出演しました。1959年から1960年まで「バーボン・ストリート」の主役を演じ、1960年から1962年まで「サンセット77」にレギュラー出演しました。1965年から1969年まで1「バークレイ牧場」ではビクトリア・バークレーの長男役で112話に出演しています。1970年から1971年まで「ぼくらのナニー」の主役を演じました。 ロングは若い頃に肺炎を患い、心臓が弱っていました。成人後心臓のトラブルを経験し、1961年最初の心臓発作を起こした。再度の心臓発作治療の為に、ロサンゼルスのターザナ医療センターに1か月入院した後に、1974年12月21日に47歳で亡くなりました。次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。
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