Vol.36 『桃色(ピンク)の店』

 今回もスクリュー・ボール・コメディです。原題は“The Shop Around the Corner”ですが、なんと酷い邦題でしょうか。ご存じの方も多いと思いますが、この映画をリメイクしたのが『ユー・ガット・メール』です。監督はエルンスト・ルビッチ、主演はマーガレット・サラヴァンとジェームズ・スチュアートです。

【スタッフとキャストの紹介】

エルンスト・ルビッチ

  エルンスト・ルビッチ(1892年1月28日~1947年1月30日)は、ドイツ・ベルリン生まれの映画監督・映画プロデューサーで、ビリー・ワイルダーの師匠です。1908年の16歳の時に高校を中退し、人気喜劇俳優ヴィクトル・アルノルトに弟子入りします。喜劇俳優をやりながら小道具係や照明の助手をし、1911年にマックス・ラインハルト劇団に入団し、翌年から映画に出演するようになります。1913年、主演作『アルプス高原のマイヤー』でコメディアンとして愉快なユダヤ人のマイヤーを演じ、好評を博して短編シリーズものに多く出演しました。1914年に自身主演の短編喜劇『シャボン玉嬢』で監督デビューし、1916年にオッシー・オスヴェルタを見出して複数の短編映画を撮ります。オスヴァルダは「ドイツのメアリー・ピックフォード」と称され、人気者となりました。1918年から長編映画『呪の目』を発表し、続けて発表した『カルメン』がヨーロッパで大ヒットし名声を得ます。1919年『マダム・デバリュー』を監督して大成功を収め、1922年にメアリー・ピッツフォードに招聘されてアメリカに渡ります。

 1923年にピックフォードの主演映画『ロジタ』を監督し、1924年『結婚哲学』。1925年『当世女大学』の監督をします。この頃から、人物の位置や視線などの映像表現によって人物の感情を描く、独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していったと云われています。1928年パラマウント社に移籍し、1929年にトーキー映画第一作の『ラブ・パレード』、1931年『陽気な中尉さん』、1932年『極楽特急』、1933年の『生活の設計』等を監督します。1934年から製作もするようになり、1935年にマレーネ・ディートリヒ主演の『真珠の頚飾(真珠の首飾り)』を製作しました。1935年1月28日、ナチス・ドイツによってルビッチのドイツ市民権が剥奪されました。ルビッチはドイツに残っていた姉達とその家族、亡き兄の遺児をアメリカに呼び寄せました。ルビッチは1936年1月24日、アメリカの市民権を獲得しました。1937年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました

 1937年『天使』、1938年『青髭八人目の妻』を監督し、『桃色(ピンク)の店』の制作・監督をする事になりましたが、マーガレト・サリヴァンの強い要望に応えて、ジェームズ・スチュアートのスケジュールが空く迄待ちます。その間の1939年にMGMでグレタ・ガルボ主演の『ニノチカ』を製作・監督しました。1941年に独立して『淑女超特急』を製作・監督し、1942年にナチス占領下のポーランドから脱出する芸人の姿を描いた『生きるべきか死ぬべきか』を監督しました。1944年頃より心臓疾患を抱えていた為監督を休業し、1946年に『小間使』で復帰します。1947年11月30日、ベティ・グレイブル主演のミュージカル映画『あのアーミン毛皮の貴婦人』の準備中に、自宅で心臓発作で倒れて死亡しました。55歳でした。ビリー・ワイルダーと西ベルリン映画ジャーナリストクラブによって、1958年にエルンスト・ルビッチ賞が創設されました。毎年ルビッチの誕生日に授賞式が行われています。

クララ・ノヴィック役
マーガレット・サラヴァン(31歳)

 マーガレット・サラヴァン(1909年5月16日~1960年1月1日)は、ヴァージニア州ノーフォーク生まれのアメリカ合州国の女優です。裕福な家庭に育った彼女は、高校の卒業式で学生代表として演説を行うなど学業優秀でしたが、両親の反対を押し切って女優を目指します。1931年にブロードウェイにデビューし、1933年「晩餐八時」に代役で出演していた時に、映画監督のジョン・M・スタールにスカウトされて1933年『昨日』で映画デビューしました。1934年『第三階級』、1935年『お人好しの仙女』『薔薇は何故紅い』、1936年『月は我が家』1941年『裏街』・『新婚第一歩』に出演しています。彼女は舞台活動を重視していた為に映画出演は少ないですが、演技力は高く評価されていました。1938年『三人の仲間』で、ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞を受賞し、アカデミー主演女優賞でノミネートされています。

 ジェームズ・スチュアートとは、1936年『結婚設計図』、1938年『店曝らしの天使』、1940年『桃色(ピンク)の店』『死の嵐』の4本で共演しています。1943年『Cry‟Havoc”』に出演し、1950年の『No Sad Songs for Me』が最後の映画出演となりました。1950年代以降は、難聴と神経衰弱の症状に苦しんでいました。難聴は先天性のもので、周囲の人たちには隠していました。サラヴァンは子供達と過ごす時間を増やす為に映画出演を辞めましたが、長男と次女との関係が上手くいかず、彼女の精神状態を悪化させる一因でした。1960年1月1日にコネチカット州ニューヘイブンのホテルの部屋で、意識不明の状態で発見され病院で死亡が確認されました。検死報告では、薬物の摂取量を誤った事による事故死となっています。51歳でした。

アルフレッド・クラリック役役
ジェームズ・スチュアート(32歳)

 アルフレッド・クラリック役はジェームズ・スチュアートで、彼の略歴は『モーガン先生のロマンス』をご覧ください。

社長のヒューゴ・マトチェック役
フランク・モーガン(50歳)

 フランク・モーガン(1890年6月1日~1949年9月18日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市に生まれのアメリカ合州国の俳優です。モーガンは、コーネル大学卒業後にブロードウェイでデビューし、1914年に『The Suspect』で映画デビューしています。1910年代から1920年代は様々なサイレント映画に出演して、俳優として順調に活躍しました。その後1930年代から1940年代にかけて35年間、主にMGM映画に数多く出演していました1930年『喧嘩商会』、1935年『お人好しの仙女』、1936年『巨星ジーグフェルド』『テムプルのえくぼ』、1937年『ロザリイ』・『サラトガ』等に出演しました。

 1939年『オズの魔法使い』では、マーベル教授、エメラルド・シティの門番、御者、警備員、オズ大魔王の幻影、魔法使いの6役を演じています。1940年『死の嵐』『桃色(ピンク)の店』、1941年『無法街』、1942年『町の人気者』、1944年『クーパーの花婿物語』、1945年『ヨランダと泥棒』、1946年『名犬ラッシー/ラッシーの勇気』、1948年『三銃士』、1949年『甦る熱球』等に出演しています。1940年代にはラジオ番組にも出演したり、1949年には子供向けのレコードを吹き込んでいます。モーガンは、1949年12月12日に心臓発作の為に59歳で急死しました

ヴァダス役
ジョゼフ・シルドクラウト(44歳)

 ジョゼフ・シルドクラウト(1896年3月22日~1964年1月21日)は、オーストリアのウィーン生まれの俳優です。父親は舞台俳優・映画俳優のシルルフ・シルドクラウトです。4歳の時に家族でドイツのハンブルグに移り、そこでピアノやヴァイオリンを習います。その後家族でベルリンに移って、6歳で初舞台を踏んで、1911年にベルリンの王立音楽アカデミーを卒業しました。1912年に家族と共にアメリカに渡りニューヨークで舞台デビューしますが、第一次世界大戦中に一度ヨーロッパに戻り、1920年に再度アメリカに移住して舞台に立ちます。1921年アメリカでの初舞台上演、「リリオム」(映画『回転木馬』の原作)で主役を演じました・その後、サイレント映画に出演したり。時々舞台の仕事もしていました。

 1921年『嵐の孤児』、1927年『キング・オブ・キングス』では親子で共演し、1929年『ショー・ボート』、1934年『奇傑パンチョ』『クレオパトラ』、1936年『砂漠の花園』、1937年『三銃士』等に出演し、『ゾラの生涯』ではアカデミー助演男優賞を受賞しました。1938年『マリー・アントアネットの生涯』、1940年『桃色(ピンク)の店』、1945年『炎の街』、1949年『拳銃の嵐』、1959年『アンネの日記』、1961年『でっかい札束』、1965年『偉大な生涯の物語』等に出演しました。1950年代からはテレビ映画に出演し、「トワイライト・ゾーン」では2エピソードに出演していました。シルドクラウトは、1964年1月21日に心臓発作でニューヨーク市の自宅で亡くなりました。68歳でした。彼の父親も68歳の時に心臓発作で亡くなっています。

ピロビッチ役
フェリックス・ブレザート(45歳)

 フェリックス・ブレザート(1895年3月2日~1949年3月17日)は、ドイツの東プロイセンのエイトクーネン(現在のロシアのネフテロフスキー地区)生まれの舞台・映画俳優です。本作では、クラリックの良き相談相手となり、何かと彼を支える役を好演しています。社長が従業員に意見を求めている時は、直ぐに雲隠れしてしまう惚けた役をこなしています。

 ブレザートは、1914年「十二夜」で舞台デビューし、オーストリア、デンマーク、イギリス、フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビアで演技を続けました。1928年から1935年までは40本のドイツ映画に出演しました。1930年『給油所の三人』に出演してからは、主役を演じるようになりました。1933年にナチスが台頭してきた頃、ユダヤ人のブレザートは、ドイツを離れてオーストリアでドイツ語の映画に出演していました。1938年にアメリカに移住し、1939年『ニノチカ』・『懐かしのスワニー』、1940年『同志X』・『人間エヂソン』・『桃色(ピンク)の店』、1941年『塵に咲く花』『美人劇場』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』、1944年『第七の十字架』、1946年『永遠に君を愛す』、1948年『ジョニーの肖像』『ヒット・パレード』等に出演しました。ブレザートは、1949年3月17日に白血病の為に57歳で急逝しました。

ペピ・カトナ役
ウィリアム・トレーシー(23歳)

 ウィリアム・トレーシー(1917年12月1日 – 1967年7月18日)は、ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれたアメリカ合州国の俳優です。本作では非常に機転が利く使い走りのペピ役で彼が登場すると、その場面は彼の独り舞台のようになる存在感ある俳優です。

 トレーシーは、1938年『汚れた顔の天使』、1940年『ストライク・アップ・ザ・バンド』に出演し、『桃色(ピンク)の店』のぺピ役で有名になり、1941年『タバコ・ロード』『スミス夫妻』に出演しました。トレーシーはジョー・ソーヤーとコンビで、B級コメディ映画のシリーズ8本に出演しました。1941年『タンクス・ミリオン』のドリアン・”ドードー”・ダブルデイ軍曹役で、B級コメディ映画のシリーズ8本に出演しました。1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1952年の『ミスター・ウォーキー・トーキー』が最後の映画となりました。1950年代は主にテレビに出演し、ラジオ番組にも出演していました。トレーシーはカリフォルニア州ハリウッドで、49歳の若さで亡くなりました。

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.35 『モーガン先生のロマンス』の最終章

『モーガン先生のロマンス』のトップはこちら

 パーティーの翌日、キースは学長にフランシーの事を告げようとしますが、真面に相手にされないので彼女は新入生だと言います。キースはフランシーをピーターの教室に連れて行き、植物学の講義を受ける様に言い教室に入れます。(セクシーで可愛いフランシーが教室に入って来たので、男子学生の冷やかしが面白い。)

講義中のピーターの教室を訪れた
フランシー

 ピーターはフランシーにアパートを借りるよう言い、彼女はキースの家から出てアパートに引っ越します。彼女が借りた部屋のベッドは、足側を持ち上げて壁に収納するベッドです。メイドさんがベッド・メイキングして収納してドアを開けて部屋を出る時、風が吹いて部屋の奥のドアがバタンと閉まった時にベッドが倒れてきました、するとメイドさんは“ウォルター”と叫んで、ベッドを収納しました。フランシーは、“ウォルター”って何の事かメイドさんに聞くと、彼女の旦那さんの名前が“ウォルター”で、事ある毎に倒れるので何かが倒れると叫んでしまうと言います。(この“ウォルター”と云う台詞は、度々登場します。)

ベッドを収納する
フランシーとメイドさん

 フランシーが借りたアパートをピーターが訪ねると、そのアパートは女性専用だったので管理人に入室を断られます。仕方なくピーターとフランシーは、二人っきりなる為にボート置き場に行きます。ボート置き場で床に置かれたボートに入って話始めると、静かにするように後ろから声が掛かります。驚いたピーターが立ち上がった時に、壁に掛かった船外機のスイッチを入れた為、ボート置き場は大騒動になります。

ピーターの入室を拒否する管理人(左) ボート置き場での大騒動(右)

 そこから逃げ出してから、ピーターは父親に結婚した事と告げる為大学に行きます。学長室でスピーチの準備をしている父親に話を切り出そうしますが、父親は相手にしないでドアを開けて講堂に入ろうとします。ピーターは、背中越しに大声でフランシーと結婚した事を伝えます。講堂に入った父親は、スピーチを止めて学長室の戻ってきます。それを見た母親は、学長室に向かいます。学長室でピーターと父親が、怒鳴るような言い合いをしています。その様子を見た母親は、心臓の具合が悪くなり椅子に座り込んでしまいます。

父親と言い争うピーター

 ピーターはその場を離れ、フランシーをアパートまで送ります。車を降りたフランシーが“さよなら“と言うので、アパートのエレベーターまで追いかけて行くと、管理人に止められて小さなコントがあります。ピーターはフランシーの部屋に窓から入り、帰らないように説得します。(この場面では、フランシーの揺れ動く心情をジンジャー・ロジャースが好演しています。)

フランシーを説得中のピーター

 フランシーは留まる事になり、ピーターは窓から外に出ます。最後の梯子にぶら下がっている時に、それを見ていたヘレンに声を掛けられます。フランシーに宿題を教えていたと言い訳をして、ピーターはその場を去ります。ベッドで安静にしている母親にヘレンは、ピーターがフランシーの部屋から出て来た事を伝えます。母親は直ぐにベッドから出て、フランシーに会いに行きます。フランシーの部屋で、“あなたとピーターの事は承知よ”と云ったので、フランシーは二人の結婚の事を承知したのだと思います。フランシーは結婚した事を伝えるのに悩みましたと言うと、母親は初耳だと言って椅子に座ります。

フランシーの部屋を訪れた母親(左)  心臓病の真相を話す母親(右)

 椅子に座った母親は笑顔になり、二人の結婚をとても喜んでいる表情します。(ボーラ・ボンディの演技が、素晴らしいです。観ていて、こちらも笑顔になります。)母親はフランシーから煙草を貰い飲もうとすると、フランシーは心臓に悪いからと言って必死で煙草を取り上げます。すると母親は、私の病気は都合良く出てくる病苦だと言います。面倒な事が起こりそうになると、病気になってそれを終わらせてきた、それで良い結婚生活を過ごす事が出来た事をフランシーに言います。

キースと踊るフランシー(左)      陽気に踊る三人(右)

 そこにキースが、フランシーを大学に連れて行く為に登場します。ここからが最大の見せ場、キースとフランシーと母親のダンスが始まります。

三人の踊りに驚く父親(左)    それとも知らずに踊る三人(右)
フランシーに離婚するように告げる父親(左)
父親に反論するフランシー(右)

 三人が踊っている最中、父親が部屋に入って来ます。ここでフランシーと父親の対決です。父親はフランシーの話を真面に聞かず“離婚しろ”の一点張りです。最後にはピーターをクビにするとまで言うので、フランシーは折れて出て行くと伝えます。母親は夫の態度に嫌気がさし、30年我慢してきた事を言い母親も出て行く事にします。

父親の態度に憤慨する母親(左)   家から出る事を告げる母親(右)

 授業中のピーターの教室にキースが入って来て、フランシーが出て行った事を伝えます。ピーターは代講を助手に頼み、用具室でフランシーに電話をし、列車が出るまでに父親を説得すると言います。ピーターとキースは、容疑室のある薬品で酒を造ります。ピーターは、たらふく飲んで教室に戻り講義を始めますが、奇声を上げるので父親は授業を終わらせます。その後父親と話をしますが、列車の発車時刻5分前なので駅に向かおうとしますが、その場にぶっ倒れてしまいます。

器具室で酒を作るピーターとキース(左)
父親にフランシーへの思いを伝えるピーター(右)

 駅で待つフランシーはピーターが来ないので、泣く泣く列車に乗ります。列車の中でもフランシーは泣き崩れていますが、そこにポーターが気を利かせてサンドイッチを持って来ます。(このポーターを演じているのが、ウィリー・ベストです。)笑顔で自慢げにハム・サンドをテーブルに置きます。フランシーは泣きながら、お礼を言って食べようとしますが、涙が止まらず食べられません。笑顔だったポーターは、泣きそうになりながら部屋を出ます。今度は隣の部屋の母親に笑顔でハム・サンドを持って行きますが、母親も涙が止まらず食べる事が出来ません。可愛そうにポーターは、今度も半ベソ状態で部屋を出ます。

フランシーと母親にハム・サンドを届けるポーター

 ポーターは恐る恐るフランシーの部屋にマスタードを届けますが、持ち帰るように言われ部屋を出る時、煙草を注文されます。営業時間が過ぎているので、誰かから調達しますと言って部屋を出ます。他凹を1本手に入れた時に、母親にも煙草を頼まれます。ポーターは母親の方が落ち込んでいるので最後の1本を差し出すと、母親はその煙草を半分にします。半分になった煙草をフランシーに渡すと、”お母さんだ”と言って隣の部屋の母親と再会します。喜んで笑顔になった二人は、ハム・サンドを食べ始めたのでポーターはマスタードを持って来ます。彼が部屋に入ると、又二人とも泣き崩れています。それを見たポーターも泣き出しそうになりますが、この表情をカメラはアップで撮ります。(この顔の演技が、アメリカ人には受けたんでしょうね。)

半分になった煙草を持って来たポーター(左)
再会を喜ぶフランシーと母親(右)

 突然、列車は汽笛と共に急停車します。線路に止まっていた車と衝突した為ですが、間もなく列車は出発します。最後尾の車両から乗り込んだピーターと父親が現れ、父親は母親に帰るように言いますが拒否されます。そこで父親は心臓が痛むと言って仮病を使って部屋に入ります。ピーターはフランシーの部屋に行き、キスしようとした時に上に収納されたベッドが下りてきて、フランシーが思わず“ウォルター”と叫びます。ピーターがドアを閉めるとエンド・マークが出て、よく耳にする音が流れて終わります。洒落っ気タップリ、最後の最後まで楽しませてくれます。

再会を喜ぶフランシーとピーター(左)
上段のベッドが下りて来て”ウォルター”と叫ぶフランシー(右)

 ジョージ・スティーヴンス監督は、列車の個室のセットを2室同時に見られるように作っています。フランシーと母親が夫々いる個室を、ポーターが行ったり来たりして笑顔になったり泣きそうになったりと、ポーター役のウィリー・ベストが存分に演技出来るようにしていると思います。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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『モーガン先生のロマンス』 作品データ

アメリカ 1938年 モノクロ 90分 劇場未公開

原題:Vivacious Lady

監督:ジョージ・スティーヴンス

製作:ジョージ・スティーヴンス

脚本:P・J・ウルフソン・アーネスト・パガノ

撮影:ロバート・デ・グラス

音楽:ロイ・ウェッブ

出演者:ジンジャー・ロジャース、ジェームズ・スチュワート

    ジェームズ・エリソン・ビューラ・ボンディ

    チャールズ・コバーン・フランセス・マーサー

    グラディ・サットン・ジャック・カーソン

    フランクリン・パングボーン、ウィリー・ベスト

Vol.34 『モーガン先生のロマンス』の続き

 脚本が素晴らしいこの映画は、ジョージ・スティーヴンスの冴えた演出で展開されます。小さなコントが連続して登場する感じで、最後まで一気に楽しく鑑賞出来ると思います。映画が始まると六角形のショー・ケースに入った女性用の帽子が映し出され、そのショー・ケースのガラス面にクレジットが表示されます。1930年代も男女共に帽子を被っていまして、特に女性のお洒落には欠かせない必須アイテムでした。

フランシーに一目惚れしてメロメロのピーター(左)
歌うフランシーはセクシーで可愛い(右)

 ニューヨークのナイト・クラブから物語が始まります。真面目な大学教授のピーターは、ナイト・クラブで飲んでいる従弟のキースに、一緒に列車で帰るように伝えます、キースは結婚したい女性がいるので、彼女を口説き落とすまで帰らないと言います。ピーターは彼の言う事には耳を貸さず、学長の父親にピーターを見付けた事を伝える為に電話を掛けに行きます。受付にある電話で長距離電話を掛けますが、大声で話すので受付の女の子から突っ込みが入ります。この会話が軽妙で面白いです。ステージではフランシーが、“You‛ll be Reminded of Me”を歌っています。(ジンジャー・ロジャースの歌が素敵です。)キースのテーブル席に向かうピーターは、フランシーを一目見て恋してしまいます。彼女を見ながら歩くので、途中クーラーポットを倒してしまいます。取り合えず空いているテーブル席に着き、彼女の歌に聞き惚れます。フランシーは歌の邪魔をするピーターの傍まで来て、椅子に座って歌うので彼はもうメロメロです。

オープンの二階建てバスの二人(左)公園でトウモロコシを食べる二人(右)

 キースはピーターがテーブル席に戻る前にトイレに隠れて、ピーターが一人で帰るのを待ちます。ピーターはキースがテーブル席にいないので、椅子に座って待っているとフランシスがやって来て隣の席に座ります。キースが結婚したがっている女性が彼女だとピーターは気が付きますが、話をしている内に二人で食事に出掛ける事になり店を出ます。人込みで混雑する中、大声を出しながら嚙み合わない会話が始まります。ここから夜明けまで語り明かす状況は、残念ながら文章で上手くお伝えする事は出来ません。何とも可笑しいピーターの振る舞いとフランシーの素敵な表情、そして二人の軽妙な会話は観ていて楽しいです。

一向にキスしないピーターに素早くキスするフランシー

 明け方彼女のアパートの玄関前で、ピーターは話をしながらキスをするチャンスを窺いますが、女性に疎い彼は何も出来ません。しかし、フランシーがピーターに軽くキスをして玄関に走って行きます。ピーターはフランシスを追いかけて玄関口でキスをします。(この場面の二人の演技は、素晴らしいです。)別れた直後、ピーターは街角の薬局からフランシーに電話をしてデートを再開します。

 画面は列車の中に変わりピーターは、酔っ払っているキースにフランシーと結婚した事を伝えます。キースは激怒しますが、事既に遅しです。ピーターとフランシーは二人っきりになろうとしますが、アクシデントがあり結局展望車で過ごします。列車がオールド・シャロンに着くと、駅には学長の父親とヘレンが待っていました。ヘレンは父親が勝手決めたピーターの婚約者です。

父親が決めた婚約者のヘレンと父親

 ピーターが未だ父親に結婚の話をしていないで、フランシーはキースの家に行く事にします。キースと一緒にいるフランシーを見た父親は、悪印象を持ちます。ピーターは父親にフランシーの話をしようとしますが、父親は聞く耳持たずで一切聞こうとしません。(スクリューボール・コメディでは相手の台詞が終わらないうちに話始め、二人の言い合いがよくあります。)家に帰ってからもフランシーの事を話そうとすると、又父親と言い合いが始まります。二人が怒鳴り合っている処に母親が登場しますが、怒鳴り合いが続くので母親は心臓の具合が悪くなってしまいます。

スタンド式の灰皿を持った時にモーガン夫妻が現れる(左)
化粧室で意気投合するフランシーと母親】(右)

 ピーターはフランシーに電話をして大学のパーティーに来るように伝えます。フランシーを新入生としてパーティーに参加しますが、ヘレンの態度に激怒して思わずスタンド式の灰皿を振り上げた時、モーガン夫妻が現れ醜態を晒してしまいます。落ち着きを取り戻す為にフランシーは女性用ラウンジに行き、咥え煙草で靴下を直している時に母親が入ってきます。喫煙者の母親は、フランシーに煙草を一本貰えないか声を掛けてきます、フランシーは喜んで最後の一本を差し出します。一寸躊躇した母親は、その煙草を半分に分けてフランシーに渡します。二人で煙草を吸いながら和やかな会話をして意気投合します。

フランシーとヘレンの口喧嘩(左) 二人の平手打ちが始まる(右)

 会場ではヘレンがピーターにべったりくっ付いてダンスをしています。キースの機転でフランシーはピーターとダンスをし、踊りながら庭に出ます。ピーターはフランシーを庭のベンチで待たせて、両親を呼びに行きます。入れ替わりにヘレンが来てフランシーに話しかけてきます。フランシーは立ち上がってヘレンと向き合います。ここから二人の言い合いが始まり、ヘレンがフランシーに行き成り平手打ちをします。負けじとフランシーも平手打ちのお返しを2回します。今度はヘレンがフランシーの足を蹴り二人の乱闘になります。

蹴とばされて反撃するフランシー(左)
女性の争いに唖然とするモーガン親子(右)

 この頃、ピーターは父親を庭に連れてきますが、フランシーがヘレンを投げる寸前でした。ヘレンがピンでフランシーのお尻を刺したので、ヘレンは投げ飛ばされます。モーガン親子が二人を止めに入りますが、フランシーはヘレンを殴ろうとして父親を殴ってしまいます。母親を連れて来たキースは、この惨事を母親に見せないように会場で踊り始めます。(この場面のスティーヴンス監督の演出は最高で、ジンジャー・ロジャースが滅茶苦茶面白いです。)

講義中のピーターの教室を訪れた
フランシー

 パーティーの翌日、キースは父親の学長にフランシーの事を告げようとしますが、真面に相手にされないので彼女は新入生だと言います。キースはフランシーをピーターの教室に連れて行き、植物学の講義を受ける様に言い教室に入れます。(セクシーで可愛いフランシーが教室に入って来たので、男子学生の冷やかしが面白い。)

ベッドを収納するフランシーと
メイドさん

 ピーターはフランシーにアパートを借りるよう言い、彼女はキースの家から出てアパートに引っ越します。彼女が借りた部屋のベッドは、足側を持ち上げて壁に収納するベッドです。メイドさんがベッド・メイキングして収納してドアを開けて部屋を出る時、風が吹いて部屋の奥のドアがバタンと閉まった時にベッドが倒れてきました、するとメイドさんは“ウォルター”と叫んで、ベッドを収納しました。フランシーは、“ウォルター”って何の事かメイドさんに聞くと、彼女の旦那さんの名前が“ウォルター”で、事ある毎に倒れるので何かが倒れると叫んでしまうと言います。(この“ウォルター”と云う台詞は、度々登場します。)

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『モーガン先生のロマンス』 作品データ

アメリカ 1938年 モノクロ 90分 劇場未公開

原題:Vivacious Lady

監督:ジョージ・スティーヴンス

製作:ジョージ・スティーヴンス

脚本:P・J・ウルフソン、アーネスト・パガノ

撮影:ロバート・デ・グラス

音楽:ロイ・ウェッブ

出演者:ジンジャー・ロジャース、ジェームズ・スチュアート

   ジェームズ・エリソン、ビューラ・ボンディ

   チャールズ・コバーン、フランセス・マーサー

   グラディ・サットン・ジャック・カーソン

   フランクリン・パングボーン、ウィリー・ベスト

Vol.33 『モーガン先生のロマンス』

“VIVACIOUS LADY” 【IMPORT】

 今回ご紹介するのはラブ・コメディ、それもスクリューボール・コメディです。監督はジョージ・スティーヴンス、主演はジンジャー・ロジャースとジェームズ・スチュアートです。スクリューボール・コメディのスクリューボールは、野球などの球技で使われる用語でスピン(回転)しているボールを云い、何処に飛んで行くか分からないボールの事です。これが転じて予想がつかないストーリーが展開して、周りを巻き込んで大騒ぎになるラブ・コメディです。スクリューボール・コメディの始まりは、ハワード・ホークス監督の『特急二十世紀』(1934年)やフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』(1934年)から始まったと云われています。1930年代半ばから1940年代までに作られた映画で、一説にはアメリカが第二次世界大戦に参戦した1941年までと云う説もあります。出会う事が無い身分差のある男女の出会いから始まり、スピード感があるストーリー展開とテンポが良い軽妙な会話が特徴です。大恐慌後の1930年代には女性が社会に進出して働くようになり、自立した女性が男性と対等に意見を言う場面が度々登場します。

【スタッフとキャストの紹介】

ジョージ・スティーヴンス

 ジョージ・スティーヴンス(1904年12月8日~1975年3月8日)は、カリフォルニア州オークランド生まれのアメリカ合州国の映画監督・映画プロデューサー・脚本家・撮影監督です。1921年にカメラマン助手として映画入りし、1927年にハル・ローチの元でローレル&ハーディの短編映画の撮影をしました。1932年にユニバーサル社で助監督に昇格し、のちにRKOに移籍して1933年に『海上御難の巻』で監督デビューしました。1935年の『乙女よ嘆くな』が出世作となり、1936年『有頂天時代』、1937年『踊る騎士』と監督しました。1938年『モーガン先生のロマンス』と1941年『ガンガ・ディン』『愛のアルバム』では製作・監督をしています。 1942年『女性No.1』を監督して、1942年『希望の降る街』と1943年『陽気なルームメイト』では製作も兼ねています。

 第二次世界大戦中はアメリカ陸軍の映画斑に所属し、戦意高揚映画の製作をしていました。西部戦線では連合軍の進撃に随行し、ダッハウ強制収容所の解放直後から現場の記録撮影をして、ニュルンベルク裁判ではその撮影されたフィルムが証拠として上映されました。凄惨な戦争を実体験した事から、今までの娯楽作品中心から人間性を追求するような作品を発表するようになります。1948年『ママの想い出』、1951年『陽の当たる場所』、1953年『シェーン』、1959年『ジャイアンツ』『アンネの日記』を製作・監督しました。5年間かけて制作した1965年『偉大な障害の物語』では脚本を書き監督をしました。1970年『この愛にすべてを』を監督したのが、最後の仕事になりました。1975年カリフォルニア州ランカスターで心臓発作で亡くなりました。

 スティ-ヴンス監督は完璧主義者で、同じシーンをカメの位置を変えて5~6テイク撮ったり、編集時は自身も編集に参加して1年くらい掛けて編集します。ある時にはワン・シーンを撮るのに数ヶ月掛かる事があったと言われています。その為、会社側とは常に険悪な状態だったようです。発表する映画ごとに新しい試みをするので、私はそれを見付けるのが楽しみでした。

フランシー役
ジンジャー・ロジャース(27歳)

 主役のフランシーを演じるのはジンジャー・ロジャースです。彼女の情報は、Vol.12 『ジジャー・ロジャース』をご覧下さい。

ピーター・モーガン・ジュニア役
ジェームズ・スチュアート(30歳)

 ジェームズ・スチュアート(1908年5月20日~1997年7月2日)は、アメリカ合州国ペンシルバニア州インディアナ出身の俳優です。平均的な中流階級のアメリカ人の善良な役柄を多く演じた事により、“アメリカの良心”と呼ばれました。裕福な家庭生まれで、プリンストン大学で建築学と都市工学を学んで大学卒業後、学生演劇集団「ユニバーシティ・プレイハウス・グループ」に参加して俳優を志します。仲間とニューヨークで共同生活をしていましたが、大恐慌後の不況の為、仕事に就けない状態が続いていました、ヘンリー・フォンダの誘いでハリウッドへ行き、MGMと契約して1935年『舗道の殺人』に出演して映画デビューしました。1936年 『超スピード時代』で初主演し、『踊るアメリカ艦隊』『夕日特急』では悪役を演じています。フランク・キャプラ監督の眼に止まり、1938年の『我が家の楽園』と1939年の『スミス都へ行く』で主役を演じ、作品のヒットによりスターとなりします。1940年『桃色(ピンク)の店』、1941年『美人劇場』に出演し、1940年の『フィラデルフィア物語』でアカデミー主演男優賞を受賞しました。本作で共演したジャンジャー・ロジャースは、1940年の『恋愛手帳』でアカデミー主演女優賞を受賞しました。二人は友人同士で、ジェームズ・スチュアートが1942年に出征する時、ジャンジャー・ロジャースに彼の空軍パイロット記章を贈っています。

 第二次世界大戦中は、軍隊に志願して陸軍航空軍のB-24爆撃機のパイロットとして活躍しました。出撃回数は20回、飛行時間は1800時間で1945年3月に大佐に昇進しました。戦後は予備役として軍務にも就いていて、1959年7月に空軍准将に昇進し、1968年3月に空軍を退役した後少将に昇進しています。親友のゲイリー・クーパーが『ヨーク軍曹』でアカデミー賞を受賞した際には、軍服姿でプレゼンターとして授賞式に出席してクーパーにオスカーを手渡しています。

 1946年『素晴らしき哉,人生!』は、フランク・キャプラ監督との最後の映画になりました。1947年『魔法の町』、1948年『出獄』『気高き荒野』、アルフレッド・ヒチコック監督の実験映画と云える『ロープ』に出演しました。1949年に義足の大リーガー、モンティ・ストラットン投手の伝記映画『蘇る熱球』でジューン・アリソンと夫婦役を演じています。1950年『ウィンチェスター銃`73』から、アンソニー・マン監督の作品に多く出演しました。1952年『怒りの河』、1953年『裸の拍車』『雷鳴の湾』『グレン・ミラー物語』、1954年『遠い国』、1955年のスチュアートの企画による『戦略空軍命令』・『ララミーから来た男』と続きました。その他に1950年『折れた矢』『ハ~ヴェイ』はスチュアートがお気に入りの作品で舞台と映画の両方に出演しました。1954年にはヒチコック監督の『裏窓』、1956年の『知りすぎていた男』、1958年『めまい』に出演しました。

 1957年『翼よ!あれが巴里の灯だ』、1959年『連邦警察』、1961年『馬上の二人』、1962年『リバティ・バランスを射った男』『西部開拓史』、1965年『シェナンドー河』『飛べ!フェニックス』、1968年『ファイヤーフリークの決斗』・『バンドレロ』、1970年『テキサス魂』、1974年『ザッツ・エンターテインメント』、1976年『ラスト・シューティスト』、1978年『大いなる眠り』、1980年『アフリカ物語』等に出演しました。1984年に長年の映画界への功績を称え、アカデミー賞名誉賞を授与されました。

父親のピーター・モーガン・シニア役
チャールズ・コバーン(61歳)

 オールド・シャロンの大学の学長でピーターの父親を、チャールズ・コバーンが演じています。自分の意見を押し通し、相手の意見を聞かない頑固親父を好演しています。チャールズ・コバーン(1877年6月19日~1961年8月30日)は、ジョージア州メイコン生まれのアメリカ合州国の俳優・演劇プロデューサーです。ジョージア州サバンナで育ち、14歳で地元のサバンナ劇場で働き始めて10代後半で劇場の支配人になります。その後俳優になって、1901年にブロードウェイにデビューします。1905年に女優アイヴァー・ウィリスと劇団を立ち上げ、翌年彼女と結婚しました。劇団の運営に加えて二人は頻繁にブロードウェイで公演しました。1937年にアイヴァーが亡くなると、ロサンゼルスに移り、映画の仕事を始めました。1938年『気高き荒野』、1939年『科学者ベル』『ママは独身』『スタンレー探検記』、1940年『人間エヂソン』、1941年『レディ・イヴ』、1942年『嵐の青春』、1943年『天国は待ってくれる』と出演し、『陽気なルームメイト』でアカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。1944年『ウィルソン』、1945年『ロイヤル・スキャンダル』『アメリカ交響楽』、1946年『育ちゆく年』、1947年『パラダイン夫人の恋』、1949年『狂った殺人計画』・1952年『僕の彼女はどこ?』『モンキー・ビジネス』、1953年『紳士は金髪がお好き』、1956年『八十日間世界一周』、1959年『大海戦史』等に出演しました。通常はコミカルな役を演じていましたが、シリアスな役も独特の風貌で存在感ある演技をしていました。彼は、本当に眼が悪いのでよく片眼鏡をして登場します。コバーンは1961年8月30日、ニューヨーク市で84歳で心臓発作で亡くなりました。

母親のマーサ・モーガン役
ボーラ・ボンディ(49歳)

 ビューラ・ボンディ(1889年5月3日~1981年1月11日)は、リノイ州のシカゴ生まれのアメリカ合州国の俳優です。1891年に一家はインディアナ州バルパライソに移住します。彼女は7歳で俳優として舞台に出演し、8歳でフランシス・シマー・アカデミーを卒業します。その後、バルパライソ大学に入学して1916年に演説の学士号を取得し、1917年に演説の修士号を取得しました。

 1925年からはブロードウェイの舞台に出演し、1929年の舞台劇「街の風景」の演技が高く評価されて、1931年に映画化された『街の風景』では舞台と同じ役を演じて42歳で映画デビューしました。主な出演映画は、1932年『雨』、1935年『お人好しの仙女』、1936年『丘の一本松』、1938年『モーガン先生のロマンス』『気高き荒野』、1939年『スミス都へ行く』、1941年『愛のアルバム』『丘の羊飼い』、1945年『南部の人』『バターンを奪回せよ』、1946年『素晴らしき哉、人生!』・『世界の母』、1948年『蛇の穴』、1949年『秘密指令(恐怖時代)』、1959年『避暑地の出来事』等です。1960年代にはテレビにも出演していて、1976年にテレビ・ドラマの「ウォルトンズ」の演技でエミー賞を受賞し、87歳で晩年まで演技を続けていました、

 デビューが遅かったのでお母さん役やお婆さん役が多いですが、素晴らしい演技で脇を固めてくれています。ジェームズ・スチュアートと共演した4作品で、母親を演じています。『モーガン先生のロマンス』、『気高き荒野』、『スミス都へ行く』、『素晴らしき哉、人生!』です。生涯独身を通し、役者人生を全うされた女優さんです。本作では、賢くて優しい母親を好演し、後半で面白い演技を見せてくれます。ボンダイは1981年1月11日、肋骨の骨折による肺合併症で91歳で亡くなりました。

従弟のキース・モーガン役ジェームズ・エリソン(28歳)

 ジェームズ・エリソン(1910年5月4日~1993年12月23日)は、アイオワ州グスリーで生まれたアメリカ合州国の俳優です。彼はモンタナ州ヴァリアーの牧場で育ち、カウ・ボーイのスキルを身につけました。その後、彼の家族はロサンゼルスに引っ越しました。演技に興味あったエリソンはパサデナ・プレイハウスの劇場芸術学校で演技を学びます、ビバリーヒルズ・シアターの公演に出演しました。1935年から1937年に8本の“ホパロング・キャシディ・シリーズ”で、相棒のジョニー・ネルソンを演じました。1936年にセシル・B・デビルに抜擢され、『平原児』に出演しました。その後、1938年『忘れられた恋人』・『モーガン先生のロマンス』・『娘の三角関係』、1940年『そよ風の町』、1941年『プレイ・ガール』、1942年『不死の怪物』、1943年『私はゾンビと歩いた!』、1946年『憂愁の園』、1950年『ジェロニモ』に出演しました。1950年代後半に映画界から引退し、不動産業で成功しました。エリソンは、1993年12月23日にカリフォルニア州モンテシートで、転倒して首の骨を折り83歳で亡くなりました。

アパートの管理人役
フランクリン・パングホーン(51歳)

 フランクリン・パングホーン(1989年1月23日~1958年7月20日)は、ニュージャージー州ニューアークで生まれたアメリカ合州国のコメディー・キャラクター俳優です。第一次世界大戦中、彼はヨーロッパの第312歩兵で14か月間従軍しました。彼が保険会社で働いていた17歳の時に、女優ミルドレッドホランドと出会いました。2週間の休暇中に舞台に出演し、彼女と共に4年間のツアーに参加した後、ジェシー・ボンステルの会社に入社しました。1930年代初頭は、マック・セネット、ハルローチ、ユニバーサル社、コロンビア社の映画で印象的な脇役を演じていました。又、ハロルド・ロイド、オルセンとジョンソン、リッツ・ブラザーズ等とも共演していました。

 1927年『指紋名探偵』、1933年『空中レビュー』『生活の設計』、1935年『八点鍾』、1937年『街は春風』、1938年『モーガン先生のロマンス』、1940年『七月のクリスマス』、1941年『サリヴァンの旅』、1942年『パームビーチ・ストーリー』、1944年『崇高な時』・『凱旋の英雄』、1948年『洋上のロマンス』等に出演し、テレビの「レッド・スケルトン・シュー」にも出演しています。『空中レビュー時代』ではエリック・ブロアと共演していました。本作では、ジェームズ・スチュアートとのやり取りで面白いシーンを作り上げています。

 パンボーンが演じるキャラクターは、小さい役でもコミカルで記憶に残る役が多く、基本的には同じキャラクターを演じています。エレガントで礼儀正しく、神経質で気難しく、嫌みな態度をとったりするが明るい性格のキャラクターです。彼がよく演じる役は、ホテルの悪意のある従業員、自尊心のあるミュージシャン、気難しいヘッド・ウェイター、熱狂的なバードウォッチャー、他のキャラクターの嫌悪感に苛立ち、又は慌てている役を演じていました。パンボーンの死後、LGBTは彼が映画で演じたキャラクターのいくつかは、ゲイのステレオタイプであると発表していました。

ポーター役
ウィリアム・ベスト(25差)

 ウィリアム・ベスト(1913年5月27日~1962年2月27日)は、ミシシッピ州サンフラワー出身のアメリカ合州国のテレビ・映画俳優です。1935年までは、スリープ&イート(Sleep ‘n’ Eat)とクレジットされています。ベストは、アフリカ系アメリカ人の映画俳優やコメディアンとして初めて有名になった俳優の一人です。彼はステレオタイプの単純なキャラクターを演じる事が多く、非難を受ける事もありました。彼が出演した映画124本の内、77本でスクリーン・クレジットされています。これはアフリカ系アメリカ人の俳優としては異例の偉業です。

 ベストは、休暇中のカップルの運転手としてハリウッドに着いた時、ハリウッドに移住する事にしました。南カリフォルニアの巡回ショーに参加し、ステージ・パフォーマンスを始めます。そのステージを観たタレント・スカウトは、ベストをハリウッド映画に性格俳優として雇いました。1930年『ロイドの足が一番』、1931年『悪魔が跳び出す』、1932年『モンスター・ウォーク』、1934年『ケンタッキー・カーネル』、1935年『新婚旅行の殺人』・『アリゾ二アン』、1938年『モーガン先生のロマンス』『テムプルの愛国者』、1940年『ゴースト・ブレーカーズ』、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『キャビン・イン・ザ・スカイ』、1944年『勝利の園』、1946年『デンジャラス・マネー』等に出演しました。

 ベストが活躍していた1930年代から1950年代は、多くの黒人俳優と同様に家事労働者、運転手、ホテル・航空会社・列車のポーター、エレベーターのオペレーター、管理人、執事、係員、ウェイター、配達員等の演技は正当な評価は得られませんでした。しかし、ベストの自然でコミカルな反応とうまい方言の使い方で、多くの映画に出演してスクリーン・クレジットを与えられました。RKOの1941年『スキャッターグッド・ベインズ』は6本シリーズで製作されましたが、ピップ役で3本に出演しています。

 ベストは麻薬を使用していて、1942年にマリファナ所持で逮捕され、1951年にはヘロイン所持で逮捕され、250ドルの罰金と3年間の執行猶予が科せられました。これ以降映画の仕事は無くなりましたが、ハル・ローチがテレビの仕事でベストを使いました。1950年から1955年まではスチュアート・アーウィンの「The trouble with Father」、1953年から19566年まではCBSの「マイ・リトル・マージー」に出演しています。1954年にブレストン・フォスター主演のテレビ・シリーズ「波止場」やテレビ・シリーズの「ラケット部隊」に出演しました。ベストは1962年2月27日、カリフォルニア州ウッドランド・ヒルのモーチョン・ピクチャー・カントリー・ホームで、癌の為48歳で亡くなりました。次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.31 『オデッサ・ファイル』の最終章

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ジギーを脅す殺し屋(左)  警察署のブラウン警部を訪れたジギー(右)

 “オデッサ”は恋人ジギーからピーターの居所を聞き出させる為に殺し屋を差し向けます。夜の地下道でジギーが帰宅中に、男に襲われてピーターの居所を聞かれている時、タイミング良く車が来たのでジギーは男から逃げて車に乗ります。車の男はブラウン警部で、翌日ジギーは警部に会いに行きますが不在でしたが、婦人警官の警護が付くことになります。

変装して潜入を開始するピーター(左)
“オデッサ”のミュウヘン支部 のリーダー(右)

 準備不足ながらピーターは、変装して“オデッサ”潜入を開始します。途中鉄十字章と短剣を入手して、“オデッサ”のミュウヘン支部に行きます。そこでは様々な質問をされてチェックされますが、モサドが過去の経験から全て準備していたので“オデッサ”に受け入れられます。

バイロイトに行くように指示を受けるピ-ター(左)
ジギーに電話をするピーター(右)

 バイロイトへ列車で移動する為にミュウヘン駅にいたピーターは、ジギーに電話をします。この電話から警護についていた婦人警官が、ピーターがミュウヘンにいる事を知り“オデッサ”に報告します。“オデッサ”はピーターに同行した男から駅で電話をした事を確認し、直ちに殺し屋をバイロイトに差し向けます。

ピーターと印刷屋のベンツザー(左)   ピーターを待つ殺し屋(右)

 バイロイトに着いたピーターは、印刷屋のクラウス・ベンツァーに会い運転免許証の偽造を依頼します。写真は直ぐ撮れないので、月曜日までホテル待つように言われ彼はホテルに行きます。ベンツァーには病気の母親が2階にいて、父親同様に組織に殺される事を心配していて用心する様に言います。殺し屋が着いたのでベンツァーはホテルのピーターに電話をし、今から写真を撮るから印刷所に来るように伝えます。殺し屋は、ベンツァーを外出させてピーターを待ちます。

椅子に座る殺し屋を窓から見る(左)
ベンツァーの母親から金庫の番号を聞き出す(右)

 一方ピーターは不審に思って印刷所に電話をしますが、電話に誰も出ないので罠だと気付きます。印刷所に着いて窓から中を覗くと、見知らぬ男が椅子に座っていました。ピーターは木を登って2回の窓から部屋に侵入します。その部屋は母親の寝室で、母親はピーターを神父だと勘違いして“オデッサ・ファイル”の話をします。ピーターは、母親からファイルが隠してある金庫の番号を聞きだします。

殺し屋との格闘(左)   金庫からオデッサ・ファイルを取り出す(右)

 ピーターは2階から1階の印刷所に降り、印刷機の電源を入れて殺し屋の不意を突いて格闘が始まります。何んとか殺し屋を片付けて、金庫から“オデッサ・ファイル”を手に入れます。

モサドのメンバーにファイルの一部を渡す(左)
ジギーに今後の行動を伝えるピーター(右)

 殺し屋の銃と車(ジャガーXK)を奪い、駅のロッカーにファイルを保管してからジギーに電話をします。ジギーは、婦人警官を部屋に閉じ込めて逃げ出します。ピーターはモサドに行き、ロシュマンを一人で追う事を告げます。ハイテルベルクに着いたピーターは、ホテルでジギーと会い、万が一の時にやるべき事を頼み、ロシュマンの元へ向かいます。

ロシュマンに銃を向けて話すピーター(左)   反撃するピーター(右)

 ピーターはロシュマンが住む古城に忍び込み、銃を手にしてロシュマンの部屋に辿り着きます。銃を向けたままのピーターに、ロシュマンは自分が今のドイツの為に役に立っていると話し出します。ピーターは1944年10月11日のリガの港で射殺された大尉は、柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を着けていたので自分の父親である事を伝えます。ロシュマンをこの場で殺すべきか躊躇しているピーター、引き出しの銃を取ってピーターに反撃しようとするロシュマン。ロシュマンは父親の殺害を否定しながみ隙を見て銃を手に取り発砲します。ピーターは咄嗟に身を交わしロシュマンに反撃し、再び銃を構えようとするロシュマンを射殺します。

火災で崩壊するキーフェル電気研究所(左)
火災を見つめるモサドのメンバー(右)

 ピーターは当局に拘束されますが、3週間後に釈放されます。ジギーはピーターの指示通り、“オデッサ・ファイル”をヴィーゼンタールに届け、ナチス戦犯の逮捕が始まります。無線誘導装置を開発していたキーフェル電気研究所に火災が発生し、研究所は崩壊して無線誘導装置が作られる事は無くなりました。最後にタウバー老人の日記が朗読され、映画は終わります。

 映画は原作から削除さたり変更をしていますが、ロナルド・ニーム監督はテンポの良い演出で個人の復讐劇に纏めています。原作と映画は別物です。本作に登場するナチ・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールとエドワルド・ロシュマン(エドゥアルト・ロシュマンとも表記される)は、実在の人物です。実際のロシュマンは、リガ・ゲットー副司令官でカイザーヴァルト強制収容所の所長です。瀕死の囚人に犬を嗾けて、食い殺されるのを何よりの楽しみしていた狂人です。戦後、ドイツ国防軍伍長の制服を着てオーストリに逃亡します。その後オーストリアからアルゼンチンに逃げ、アルゼンチンからパラグアイに向かう船上で、19977年8月10日心臓発作で死亡しています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『オデッサ・ファイル』 作品データ

1974年製作/アメリカ/129分
原題:The Odessa File
配給:コロムビア映画

監督;ロナルド・ニーム

脚本;ケネス・ロネ、ジョ^ジ・マークスタイン

原作:フレデリック・フォーサイス

製作:ジョン・ウルフ

撮影:オズワルド・モリス

音楽:アンドリュー・ロイド=ウェバー

出演:ジョン・ボイド。マクシミリアン・シェル

   メアリー・タム、マリア・シェル

   ノエル・ウィルマン、デレク・ジャコビ

   ピーター・ジェフリ

Vol.31 『オデッサ・ファイル』の続き

1963年12月23日イスラエルの砂漠を走る戦車隊(左)
任務を命令する司令官とモサドの幹部(右)

 映画のオープニングは砂漠を移動する戦車隊が映し出され、“1963年9月23日イスラエル”と表示されます。前線基地の司令官のテントと思われる場面に変わり、司令官がモサド(イスラエル諜報機関)の幹部に任務を命令します。エジプト軍は、ロケット弾でイスラエルの拠点を攻撃し、その後全土を攻撃してくる。そのロケットの弾頭にはペスト菌とストロンチュウム90が搭載されるので、その計画が成功すればイスラエルは全滅する。無線誘導装置が完成したら、その計画が実行される。無線誘導装置はドイツの何処かの工場で作られているので、探り出して阻止するように伝えます。

夜のハンブルグ(左)   車を停めてラジオを聴くピーター(右)

 1963年11月23日のハンブルグの夜景に場面は変わり、ジョン・ボイト扮する新聞記者ピーター・ミラーが運転する車が街中を走っています。ラジオからはペリー・コモが歌う“クリスマス・ドリーム”が流れていますが、臨時ニュースでケネディ大統領の報道が入ります。ピーター(正しくはペーター)は車を停めてラジオ放送を聞くと、ケネディ大統領が暗殺された事を知ります。

現場に向かう救急車(左)   カール刑事に話を聞くピーター(右)

 その時、救急車が走っていくのが見えたので、新聞記者の習性で救急車を追いかけて現場のアパートに着きます。取材をしようと車から降り、現場の警察官に記者証を見せても現場には入れてくれません。そこにアパートから親友のカール刑事が出て来たので話を聞き、老人がガス自殺した事を知ります。

カール刑事から老人の日記を受け取るピ-ター(左)
ソロモン・タウバーとその妻(右)

 後日、カール刑事から自殺した老人の遺品の包みを渡されます。包みの中には自殺した老人が書いた日記が入っていて、老人の名前はソロモン・タウバーと云うユダヤ人、リガの強制収容所での出来事が綿密書かれていました。(収容所での場面は、モノクロになります)

リガ強制収容所所長
エドワルド・ロシュマン
大尉を射殺するロシュマン(左)
撃たれた大尉の 柏葉・剣付騎士鉄十字勲章 (右)

 リガの強制収容所の所長は、“虐殺者“と云われたエドワルド・ロシュマンSS大尉。日記にはロシュマンの殺しを楽しむ行動が、克明に書かれていました。その日記には、柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を付けたドイツ国防軍の大尉が、ロシュマンに後ろから銃で撃たれた事が書かれていました。

柏葉・剣付騎士鉄十字勲章 (レプリカ)

 この柏葉・剣付騎士鉄十字勲章の受賞は160名、十字勲章のランクでは上から三番目で相当凄い戦功が無ければ受賞出来ません。因みに、外国人の軍人として1名だけ山本五十六が受賞しています。二番目はダイヤモンド柏葉・剣付騎士鉄十字勲章で受章者は27名、1番目は黄金ダイヤモンド柏葉・剣付騎士鉄十字勲章で受章者は、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル空軍大佐の1名だけです。この鉄十字章の話が映画のラストで登場し、ピーターの行動の動機付けが分かります。

戦時中の話をする母親(左
 ピーターの父親の事を涙ながらに話す母親(右)

 ピーターは、ロシュマンの追跡取材を新聞社に売り込むが、全然相手にされず断られます。彼は母親の元を訪れ、戦争中の話や父親の事を聞きます。過去の話をする時のマリア・シェルの演技が、素晴らしいです。彼女の表情はアップで撮られていて、眼で心情を表現しています。

アパートの管理人からタウバーの友人マルクスの事を聞き出す(左)
マルクスからロシュマンの情報を聞き出す(右)

 ピーターは自殺したタウバー老人が住んでいたアパートを訪ね、管理人からタウバーの親友マルクスの事を聞き出し、公園にいたマルクスと話をします。彼の話から“オデッサ”という組織の事とロシュマンが生きている事を知ります。タウバーが警察にロシュマンが生きている事を訴えたが、取り合ってくれずタウバーは絶望してガス自殺した事を知ります。収容所でタウバーの妻が排気ガスで殺害されたから、自分もガス自殺したのかと私は思いました。

ジギーとクリスマス・プレゼントを買い物(左)
地下鉄のホームに落とされたピーター(右)

 ロシュマンの情報を得る為、検事総長室に出向きますが情報は得られず、調査しないように警告されます。その時、ジークフリート師団の集会がある事を知り、その戦友会に潜り込んで写真を撮った為、その場から強制退去させられ暴行を受けます。クリスマス・プレゼントの買い物をした後、地下鉄のホームで電車が入って来た直前にピーターは男に線路上に突き落とされますが、間一髪彼は難を逃れます。

ピーターの電話を受けるカール刑事(左)
ナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタール(右)

 ピーターはウィーンに向かい ナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタール の居所を探りますが、手掛かりが無くカール刑事に協力して貰います。この電話で”オデッサ”にピーターの動きが察知されます。カール刑事の協力でナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールに会い、彼から“オデッサ”の組織の事、ロシュマンの戦後の行動を聞き写真も入手します。

ピーターを拉致するモサド(左)
ピーターを質問攻めモサドのメンバー(右)

 ホテルに戻ると、シュミット博士(“オデッサの”シュルツ)と名乗る男が待ち構えていて、ロシュマンの調査を止める様に脅迫されますが断ります。ピーターがハンブルグに帰る途中、突然モサドに拉致されます。彼が“オデッサの”シュルツと会っていた為、質問攻めに合いますが誤解が解け、彼は“オデッサ”に潜入する事になります。それから6週間のトレーニングに入ります。その間、モサドは病院を利用して、ピーターが元ナチスの軍曹ロルフ・コルブに成り代われる様に訓練します。

モサドのメンバーから訓練を受けるピーター

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『オデッサ・ファイル』 作品データ

1974年製作/アメリカ
原題:The Odessa File
配給:コロムビア映画

監督;ロナルド・ニーム

脚本;ケネス・ロネ、ジョ^ジ・マークスタイン

原作:フレデリック・フォーサイス

製作:ジョン・ウルフ

撮影:オズワルド・モリス

音楽:アンドリュー・ロイド=ウェバー

出演:ジョン・ボイド。マクシミリアン・シェル

   メアリー・タム、マリア・シェル

   ノエル・ウィルマン、デレク・ジャコビ

   ピーター・ジェフリ

Vol.30 『オデッサ・ファイル』

『オデッサ・ファイル』
発売:ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント

 前回に続きフレデリック・フォーサイス原作の映画、『オデッサ・ファイル』です。監督はロナルド・ニーム、1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』でお馴染みかと思います。フォーサイスが。特派員時代に収集した情報から書き上げた小説です。小説を基にした映画の場合、比較をして観る楽しみ方もあると思います。しかし、小説と映画は別物です。文章で書かれた小説は、上限が無く無限に描く世界を拡げられます。一方、映画は製作費・製作期間・上映時間等、多くの制約があります。例えば小説では数行の文章で書かれたものも、映画ではセットを作ったり或いはロケ地で撮ったりします。そうすると小説のどの部分を生かし、どこを切るかの選択が必要になります。プロデューサーと監督の考えの違いも大きく関わってきます。よくある話で、監督が撮った映画が120分だった時に、会社側が100分とか90分に短縮される事があります。最近は公開当時版のDVDが発売された何年か後に、ディレクターズ・カット版の上映時間が長いDVDが発売される事があります。これは単に、会社が金儲けする為かと思いますが。

【スタッフとキャストの紹介】

ロナルド・ニーム

 ロナルド・ニーム(1911年4月23日~2010年6月16日)は、イギリスの映画プロデューサー、監督、撮影監督、脚本家です。ニームは写真家のエルヴィン・ニームと有名な女優のアイビー・クローズの長男として、ロンドンのヘンドンで生まれました。ニームはユニバーシティ・カレッジ・スクールと、ハーストピアポイント・カレッジで学びました。父親が1923年に亡くなった為、アングロ・ペルシャ石油会社の事務員としての仕事に就きました。その後、母親の人脈を通じて、エルストリー・スタジオにメッセンジャー・ボーイとして入社しました。

 ニームは1929年にイギリス初のトーキー映画で、アルフレッド・ヒッチコック監督の『恐喝(ゆすり)』でアシスタント・カメラマンになりました。1933年の『ハッピー』で撮影監督となり、1938年『ウエヤ殺人事件』、1941年『バーバラ少佐』、1942年『軍旗の下に』『戦闘機失踪』を撮影しました。『軍旗の下に』に成功によりデヴィッド・リーン監督とプロデューサーのアンソニー・アランとニームは、共同でシネギルド社を設立しました。三人で映画を制作し、共同で脚本を執筆しました。このトリオの最初の3本は、1944年『幸福なる種族』『逢引き』、1945年『陽気な幽霊』で三作品とも共同脚本でした。1946年の『大いなる遺産』では撮影をせず、製作と脚本を担当しました。1947年に『テイク・マイ・ライフ』で監督デビューし、『オリヴァ・ツイスト』と1949年『情熱の友』の製作をして。アンソニー・アランの後シネギルド社を去りました。

 1949年『黄金の竜』の脚本を書き監督をし、1951年にウィリアム・エドワード・グリーンの伝記映画『マジック・ボックス』を製作しました。1952年『The Promoter』、1960年『TUNES OF GLORY』の監督をし、1961年『ザーレンからの脱出』では製作と監督をしています。1962年ジュディ・ガーランド最後の映画『愛と歌の日々』、1966年『泥棒貴族』、1968年『ミス・ブロンディの青春』、1970年『クリスマス・キャロル』、1972年『ポセイドン・アドベンチャー』、1974年『オデッサ・フィル』、1970年『メテオ』を監督しました。1986年『サクセス・ストーリー‘88/天才的記憶術の使い方』が最後の監督作品になりました。ニームは、2010年6月16日に足の骨折による合併症で亡くなりました。99歳でした。

ピーター・ミラー役
ジョン・ボイド(36歳)

 主人公のピーター・ミラー役を演じるのは、ジョン・ボイト(ジョン・ヴォイトと表記される事もあります)です。ジョン・ボイト(1938年12月29日生まれ)はニューヨーク州のヨンカーズ出身で、ワシントンD.C.のアメリカ・カトリック大学で数学を専攻していましたが、シェイクスピの「真夏の夜の夢」に出演した事で役者を目指します。大学卒業後、ニューヨークで舞台演出や舞台美術を学び、オフ・ブロードウェイやブロードウェイの舞台で俳優として活動しました。

 1967年『墓石と決闘』に29歳で映画デビューし、1969年『真夜中のカーボーイ』(正しくは、“カウボーイ”ですが)で注目され、1970年『キャッチ22』、1972年『脱出』、1974『オデッサ・ファイル』、1977年『殺意の行方 』等に出演しました。1978年の『帰郷』ではアカデミー主演男優賞とカンヌ国際映画祭男優を受賞している演技派俳優です。1979年『チャンプ』、1985年の『暴走機関車』ではゴールデングローブを受賞しています。1995年『ヒート』、1996年『ミッション:インポッシブル』、1997年『レインメーカー』、1998年『エネミー・オブ・アメリカ』、2001年『パール・ハーバー』、2004年『クライシス・オブ・アメリカ』、2007年『トランスフォーマー』、2017年『奇跡の絆』等に出演しました。出演する作品を選ばない方のようで、1997年『アナコンダ』にも出演しいています。又。長年不仲だったと云われていた娘のアンジェリーナ・ジョリーと、2001年の『トゥームレイダー』では共演しています。又、テレビ・ドラマでは2009年『24 -TWENTY FOUR-』の出演し、2013年『レイ・ドノヴァン ザ・フィクサー』では3度目のゴールデン・グローグ賞を受賞しています。

エドワルド・ロシュマン役
マクシミリアン・シェル(44歳)

 元ナチスのSS幹部でユダヤ人強制収容所の所長だったエドワルド・ロシュマンを演じるのが、マクシミリアン・シェルです。マクシミリアン・シェル(1930年12月8日~2014年2月1日)は、オーストリアのウィーンで生まれたオーストリアの俳優です。母親は女優、父親は小説家・詩人で、兄弟のマリア、カール、イミーは俳優です。彼は、3歳の時にウィーンで劇場デビューしました。1938年にオーストアリがナチス・ドイツに併合された時に一家はスイスに逃げてチューリッヒに移住しました。シェルは古典を学び、10歳の時には戯曲を書いていました。第二次世界大戦後、彼はドイツに移りってミューヘン大学に入学し、哲学と美術史を学びました。その後、チューリッヒに戻ってスイス陸軍に1年間従事しました。その後、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ・スクルールに1年間通い、チューリッヒ大学で1年間学び、バーセル大学に6か月間再入学しました。この期間中、シェルは古典劇と現代劇の両方の舞台に出演し、バーゼル激情で本格的に演技を始めました。

 シェルは1955年『戦場の叫び』で映画デビュー、『暗殺計画7.20』等、7本の映画に出演しました。1958年ブロードウェイの演劇、アイラ・レヴィンの「インターロック」に出演する為に米国に招待され、ピアニストの役を演じました。(シェルは、熟練したピアニスト兼指揮者でした。)1958年『若き獅子たち』でハリウッド・デビューしました。1960年にドイツに戻り、ドイツのテレビ映画「ハムレット」でハムレットを演じ、舞台でもハムレットを演じました。1959年、テレビの生放送の「ニュールンベルグ裁判」で弁護人役を演じました。シェルは1961年の映画『ニュールンベルグ裁判』で同じ役を演じ、ドイツ語を話す俳優に初めてのアカデミー賞主演男優賞を受賞しました。合わせてニューヨーク映画批評家賞も受賞しました。1964年『トプカピ』、1967年『誇り高き戦場』、1969年『ジャワの東』、そして1970年の『初恋』では製作・監督・脚本・出演をしました。英語とドイツ語の両方を完璧に話せるシェルは、ナチスに時代をテーマにした戦争映画等に多く出演しています。1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『セント・アイブス』、1977年『戦争のはらわた』・『遠い橋』『ジュリア』に出演しています。その他、1979年『ブラック・ホール』、1983年『青春の殺意』、1984年『炎のレジスタンス』、1994年『リトル・オデッサ』,1997年『17 セブンティーン』、2007年のドイツ映画『眠れる美女』、2009年『ブラザーズ・ブルーム』等に出演しました。その他、多くのテレビ・ドラマや舞台に出演していました。2014年2月1日、オーストリアのインスブルックで亡くなりました。83歳でした。

ピーターの母親役
マリア・シェル(48歳)

 主人公ピーターの母親を演じているのは、マクシミリアン・シェルの姉のマリア・シェルです。マリア・シェル(1926年1月15日~2006年4月26日)は、オーストリアのウィーンで生まれたオーストリア・スイスの女優です。1938年にオーストアリがナチス・ドイツに併合された時に一家はスイスに逃げてチューリッヒに移住しました。マリアはプロとしていくつかの劇場で演技を学び、1942年『シュタイブルッフ』で映画デビューしました。第二次世界大戦後、1948年『トランペットの天使』、1951年『マッチ・ボックス』・『ドクター・ホール』で主役を演じています。1952年『かくて我が恋は終りぬ』、1953年『事件の核心』、1956年の『居酒屋』でヴェネチア国際映画祭主演女優賞を受賞しています。1957年『白夜』・『ローズ・ベルトンの罪』に出演しています。

 1958年『カラマーゾフの兄弟』でハリウッド・デビューし、1959年『縛り首の木』、1960年『シマロン』に出演しています。1970年『血まみれの裁判官』、1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『さすらいの航海』、1978年『スーパーマン』、1982年『サン・スーシーの女』に出演しています。その他、テレビ映画やブロードウェイの舞台にも出演していました。マリアは、2005年4月26日、肺炎のためオーストリア のケルンテン州の自宅で、肺炎の為亡くなりました。79歳でした。

ジギー役のメアリー・タム(24歳)

 メアリー・タム(1950年3月22日~2012年7月26日)は、イギリスの主にテレビに出演した女優です。父親の兄弟四人がソビエト連邦の強制収容所で亡くなった後、エストニアから逃れてイングランドのヨークシャーに移りました。タムは、エストニア人の父とオペラ歌手のロシア人のハーフの母との間に、ヨークシャーのウェストライディングのブラッドフォードで生まれました。タムはエストニア語しか話せませんでしたが、小学校に入学してから英語を学びました。11歳の時に奨学金を受けて、ブラッドフォード・ガールズ・グラマー・スクールに通い、市内のシビック・シアターに参加していました。1969年から1971年までロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートで学び、卒業して準会員になっています。1971年バーミンガム・レパートリー・カンパニーで舞台デビューしました。1972年にロンドンに移住し、ミュージカルの『マザー・アース』に出演し、1973年にBBCのテレビ番組「ドナティの陰謀」でテレビに初出演しました。

 1973年『異界への扉』で映画デビューし、1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『ポプル・ラッズ』、2001年『アマゾネス・グラディエーター』に出演しました。イギリスのBBCで放映された「ドクター・フー」は、SFテレビ・ドラマで、世界最長のテレビ・ドラマ・シリーズです。1963年から1989年と2005年から現在(2024年)も放映されています。タムは1978年から1980年までのシーズン16・17で、ロマーナ役で出演していました。1983年、BBCのテレビ・ドラマ「ジェーン・エア」を始め、多くのテレビに出演して活動しました。2012年7月26日に癌で亡くなりました。62歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.29 『ジャッカルの日』の続きの続き

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 ジャッカルはローマでレンタ・カーの白いアルファ・ロメオ・スパイダーに乗り、貸ガレージで車体の下に潜り込んで車に細工をして特製の銃を隠します。英国特捜部から連絡を受けたリベル警視は、ポール・ダンカンの行方を捜査し始めます。

車体の下から部品を外すジャッカル(左)
部品に銃を隠すジャッカル(右)

  その頃ジャッカルは車で国境を越え、まんまとフランスに入国します。移動途中OASに電話連絡をした時に、ウォーレンの自白により名前を知られた事を知ります。徐々に捜査の手は、ジャッカルに迫りつつあります。ジャッカルは、ニースのホテルでロビーにいたモンペリオ夫人に近づき一夜を共にします。

国境で手荷物検査を受けるジャッカル(左)
モンペリオ夫人と語り合うジャッカル(右)

 ルベル警視はポール・ダンカンがニースのホテルに泊まった事を知り、ニースに飛んでジャッカル逮捕に向かいますが、一足違いで逃げられます。ホテルの従業員からの供述からジャッカルと一夜を共にしたモンペリオ夫人の家へヘリコプターで急行します。

ホテル従業員から証言を得るルベル警視(左)
モンペリオ夫人とルベル警視(右)

 その頃ジャッカルは、OASとの電話でフランス当局に車も割り出された事を知ります。早速ナンバー・プレートを盗み、車を青色に塗り替えます。その時、ルベル警視が乗るヘリコプターが飛んで行きます。ジャッカルは、車体の下に隠した銃を取り出し、モンペリオ夫人の家に向かいます。

車体を青に塗り替えるジャッカル(左)
車体の下に隠した銃を取り出す(右)

 途中交通事故を起こし、彼の車は大破します。相手の車は動く状態で、運転していた男は死亡していたのでその車で夫人の家に向かいます。ルベル警視が来た事で困惑している夫人を再び誘惑して一夜を共にします。翌朝、逃げているなら匿うと言う夫人にキスをしながら、ジャッカルは首を絞めて殺害します。任務遂行の為、何の躊躇も無く人を殺すジャッカルを、無表情で演じているエドワード・フォックスが良いですね。そして、カバンに隠してあったパスポートを取り出し、髪を栗色に染めてデンマーク人教師のペーア・ルントクビストに変装します。ジャッカルは夫人の車を盗んで駅に向かい、電車に乗ってパリに向かいます。

ジャッカルが突然訪問して困惑するモンペリオ夫人(左)
変装するジャッカル(右)

 その頃ルベル警視はモンペリオ夫人の殺害を知り、夫人の車の発見から電車でパリに着くと判断しパリ駅に向かいます。既にジャッカルは、反対車線を走るパトカーを眺めながらタクシーでサウナに向かっていました。サウナで知り合ったジュールの誘いで彼の部屋に行きます。

電車でパリに向かうジャッカル(左)
サウナでジュールと知り合いになる(右)

 ルベル警視はOASの女スパイを突き止め、会議の席上で情報がこの会議の出席者から漏れていた事を伝えます。女スパイに騙され情報を漏らした役人はその場から退席します。この場面での最後のオチが良いですね。その役人の部屋で女スパイを逮捕した時、既にその役人は自殺していました。

内部から情報が漏れていた事を伝えるルベル警視(左)
自分だと悟って立ち上がる役員(右)

 その後の会議でルベル警視は、暗殺実行日は3日後の解放記念日8月25日だと予測します。その発言に内務大臣は納得し、ルベル警視無しでも逮捕出来ると思い彼を解任します。内務大臣はモンペリオ夫人殺害の犯人として、ペーア・ルントクビストを全国に指名手配して大々的にテレビに流します。買い物に出掛けたジュールは、街角のテレビでジャッカルの顔を観て帰宅後にその話をします。部屋のテレビで殺人犯の報道している時に、ジュールは彼が殺人犯だと気が付きますが、時既に遅く呆気なく殺されてしまいます。

内務大臣はルベル警視を解任します(左)
街角で観たテレビにジャッカルが出ていた事を伝えるジュール(右)

 10万人を動員したにも関わらず、内務大臣の予想は大きく外れ無駄に2日間が過ぎ、解放記念日にルベル警視は再任されて任務に復帰します。式典が行われるノートルダム寺院前の広場は、警官によって厳重な警戒網が張られます。屋根には狙撃手が大勢配置され、不審者は直ぐ逮捕出来る状態になっています。ルベル警視は式典会場を見回り不審者探しをします。しかし、殆ど絶望的で成す術も無い状態です。式典の映像は実際の映像を使っているようです。

式典会場を見回るルベル警視(左)  いよいよ式典が始まります(右)

 そんな中、両手で松葉杖を使いながら警官に歩み寄る片足の老人が現れます。変装したジャッカルは警官に身分証を見せながら、以前下見したアパートを自宅だと言ってアパートに向かいます。

松葉杖で歩いてくる片足の老人(左)
警官の検問を受ける変装したジャッカル(右)

 管理人室で管理人のおばさんに水を所望します。管理人は笑顔で答えて快く水道の水をコップに入れている後ろから、ジャッカルは一撃を喰らわして管理人を倒し、折り曲げて吊り下げていた左足を伸ばします。

ジャッカルの申し出に笑顔で答える管理人(左)
吊っていた足を下すジャッカル(右)

 最上階へと階段を駆け登り、部屋に入って窓から外の様子を伺います。銃を組み立てて暗殺の準備をし、式典が始まるのを待ちます。やがて式典が始まりスコープを覗いて銃を構えてチャンスを待つジャッカル。

窓から外を見るジャッカル(左) 【屋根の上や屋上に待機する警官(右)
銃を組み立てて椅子の上に置く(左) 炸裂弾を装填するジャッカル(右)

 一方。ルベル警視は一人の警官から何か情報を得て、ジャッカルが潜む最上階の部屋に向かいます。

狙撃場所を特定するルベル警視(左
 窓から狙いをつけるジャッカル(右)

 ジャッカルは大統領を狙って銃を撃ちますが、大統領が頭を下げた為に外してしまいます。次の弾を銃に装填している時に機関銃を持った警官が入って来た為、銃で射殺します。

照準を合わせて撃つが、弾は外れる

 次の弾を込めようとした時に、ルベル警視は警官の機関銃を手に取ってジャッカルを射殺します。その後、ジャッカルの埋葬シーンがあって、太鼓の音共に映画は終わります。

次の弾を装填するジャッカル(左)
その前に機関銃でジャッカルを撃つルベル警視(右)

 この映画はドキュメンタリー・タッチで描かれ、作り話が真実にも思われるようなものです。正に、映画は嘘を本当の様に見せる素晴らしい芸術です。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『ジャッカルの日』 作品データ

イギリス・フランス 1973年 カラー 142分
原題:The Day of the Jackal

監督:フレッド・ジンネマン

製作:ジョン・ウルフ

原作:フレデリック・フォーサイス

脚本:ケネス・ロス

撮影:ジャン・トウニエ

編集:ラルフ・ケンプレン

音楽:ジョルジョ・ドルリュー  

出演:エドワード・フォックス、アラン・バデル 

   トニー・ブリットン、シリル・キューザック

   マイケル・ロンズデール、エリック・ポーター

   デルフィーヌ・セイリング、オルガ・ジョルジュ=ピコ

   デレク・ジャコピ、スキージャン・マルタン

   ミシェル・オークレール、モーリス・デ

Vol.28 『ジャッカルの日』の続き

 映画のオープニングと共に太鼓の音が鳴り、冒頭から緊張感を高めるのは音楽担当のジョルジュ・ドルリューの業です。(彼はフランソワーズ・トリフォー監督の映画の音楽を多く担当しています。)少し間があって、“1962年8月のフランス”続けて“アルジェリアの独立を認めたド・ゴール大統領は・・・”とナレーションが入り、軍部など右翼過激派地下組織のOASから恨みを買っていた事が分かります。本編が始まり、閣僚会議終了により、大統領がシトロエンDSに乗り込み移動を始めます。途中待ち伏せしていたOASのメンバーに機関銃で襲撃せれますが、危機一髪で無事逃げ去ります。この襲撃事件に加わった軍部のバスチアレ中佐は銃殺刑になり、銃で撃たれた後も士官が拳銃で仕上げをするシーンはリアリティがあります。フランス政府はOASの組織は、消滅したと考えます。

OASのメンバーによる襲撃(左)
銃弾を受ける大統領専用車のシトロエンDS(右)

 OASの残党ロダン大佐はオーストリアに逃亡潜伏し、幹部3人でド・ゴール暗殺の為に殺し屋を雇う事を決定します。ロダン大佐は既に英国から殺し屋を手配済みで、翌日幹部3人は殺し屋と会い暗殺の依頼をします。報酬は50万ドル、当時のドルのレートは日本円で1ドル360円ですから、途轍もない金額です。幹部はそんな金は無いと言いますがB、殺し屋は平然と“銀行から奪え”と言い暗殺の依頼を受けます。帰り際に名前を聞かれ、殺し屋は“ジャッカル”と名乗ります。ジャッカルは終始アスコット・タイを絞めていまして、非常に懐かしいスタイルです。それからOASは次々と銀行を襲い始めます。

再度大統領暗殺を計画するOAS幹部(左) ジャッカルと会って契約を結(右)

 ジャッカルは墓場で若くして亡くなった墓から成り代わる人物を決め、パスポート申請をします。そしてジェノバに移動して馴染みの銃職人(ガン・スミス)のゴッツィに会い、今回の暗殺に使用する銃を発注します。ここでの二人のやり取りは、非常にリアリティがあって大好きなシーンです。

銃職人のゴッツィに会い特性銃製作の依頼をするジャッカル(左)
銃のラフ・スケッチを見て見積もりをするゴッツィ(右)

 ジャッカルは空港でデンマーク人教師のパスポートを盗み、ローマからパリに移動して狙撃する場所を探します。決めた建物の管理人が不在時に管理人室に入り、最上階の部屋の鍵の複製を作る為の型を取ります。

目を付けたアパートの管理人を見るジャッカル(左)
鍵の型を取るジャッカル)右)

 OASは大統領官邸の役人に女スパイを送り込み、フランス当局の動きを把握します。連続する現金強奪にフランス当局は、OASの犯行と睨み捜査を開始。OAS幹部の二人がローマに移動したので、フランス当局はウォーレンスキーの動きを追います。

8㎜を観るフランス軍の将軍と特捜部部長(左)
不審な動きを見せるウォーレンスキー(右)

 8㎜カメラで撮影された映像から不審な動きを察知し、非合法な方法で彼を拉致して拷問で自白させます。この場面での自白から供述書を作成する方法は、今では考えられない大変手間の掛かるやり方です。

拷問を受けるウォーレンスキー(左)
別室で供述から文書を作成するスタッフ(右)

 ウォーレンスキーの供述から大統領暗殺計画らしいと判断したフランス当局は、パリで一番優秀な刑事のクロード・ルベル警視に内務大臣が全権を任せます。ルベル警視は、各国に秘密捜査の依頼をします。

内務大臣(左)から暗殺者逮捕の命令を受けるルベル警視(右)

 ルベル警視もジャッカルに負けない位の切れ者で、現場の叩き上げ刑事の執念で追い詰めて行きます。ここからルベル警視とジャッカルの攻防が始まります。

 ローマに戻ったジャッカルは、写真屋に依頼していた偽のパスポートを受け取りに行きますが、多額の報酬を要求して脅迫するので彼を簡単に始末します。

ジャッカルを脅迫する写真屋(左) 写真屋を倒し鍵を探すジャッカル(右)

 その後、出来上がった特注の銃を受け取りにゴッツィの家に行きます。部品を一個づつ確認しながら銃を組み立て、特性の炸裂弾6発と試射の弾を受け取ります。このシーンは、ガン・マニアにとっては本当にワクワクしますね。

銃を組み立てるジャッカル(左)    特注の炸裂弾(右)

 途中市場でスイカを買って郊外の森で試射を行います。スイカを顔に見立てて木に吊るし、100m程離れた位置にある木に、細いロープを少し緩めに括り付け、銃をロープの輪に入れて捩じって銃を固定します。

スイカを木に吊るしに行くジャッカル(左)  銃をロープで固定する(右)
木に吊るされたスイカ〚遠くて見えない〛(左)
スコープを覗くジャッカル(右)

 試射用の弾を込め、遠くにあるスイカをスコープで覗きながら試射します。弾がスコープの照準と一致するようにスコープを2度調整し、炸裂弾を装填して最後の試射を行います。

照準から外れて左斜め下に着弾(左)  照準を調整するジャッカル(右)

 この時カメラの位置が変わり、的になるスイカの傍から見た位置になって、炸裂弾によりスイカは砕け散ります。炸裂弾の威力が、もの凄く強力な事を印象付ける演出です。

炸裂弾を銃に装填する(左)        砕け散るスイカ(右)

 フランスのルベル警視の依頼で調査を始めた英国特捜部長ブライアンは、英国外務部長ハリーと公園で会って噂になっている情報を聞きます。1961年にドミニカの独裁者トリヒーヨを暗殺したのは、英国人の犯行らしい事を知ります。兵器商の現地代表で名前はチャールズ・カルスロップと云い、射撃の名手で暗殺後行方不明になっている。フランス語でジャッカルのスペルは“CHACAL”で。チャールズ・カルスロップの名前の頭3文字を組み合わせると、合致するので彼がジャッカルだと告げられます。英国特捜部は、この情報を基に捜査をしてジャッカルは偽のパスポートで出国と判断し、死亡者名簿と突き合わせをしてポール・ダンカンと確定します。今だったらコピューターで直ぐ調べる事が出来ますが、全て人海戦術で人間が資料を1枚づつ調べて行きます。

手前が外務部のハリー、隣が特捜部のブライアン(左)
ハリーが新聞に”CHACAL”と書く(右)

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『ジャッカルの日』 作品データ

イギリス・フランス 1973年 カラー 142分
原題:The Day of the Jackal

監督:フレッド・ジンネマン

製作:ジョン・ウルフ

原作:フレデリック・フォーサイス

脚本:ケネス・ロス

撮影:ジャン・トウニエ

編集:ラルフ・ケンプレン

音楽:ジョルジョ・ドルリュー  

出演:エドワード・フォックス、アラン・バデル 

   トニー・ブリットン、シリル・キューザック

   マイケル・ロンズデール、エリック・ポーター

   デルフィーヌ・セイリング、オルガ・ジョルジュ=ピコ

   デレク・ジャコピ、スキージャン・マルタン

   ミシェル・オークレール、モーリス・デナム

Vol.27 『ジャッカルの日』

 今回は、フレデリック・フォーサイス著「ジャッカルの日」を基に製作された『ジャッカルの日』で、監督フレッド・ジンネマンです。ドキュメンタリータッチな作風と、原作に忠実な演出で話題を呼びました。ジンネマン監督が描く主人公は、男の信念を貫く男が多いです。監督自身の分身を描いている様に思います。本作でも主人公のジャッカルは、最後まで自分の信念通して仕事に挑んでいます。

『ジャッカルの日』
発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント

【スタッフとキャストの紹介】

フレッド・ジンネマン(1940年頃)

 ウィーン(オーストリア)生まれのフレッド・ジンネマン(1907年4月29日~1997年3月14日)は、代々医師のユダヤ系ドイツ人の家に生まれました。ウィーン大学在学中に映画界に憧れ、1927年にパリの映画撮影技術学校に入学して映画製作の基礎を学び、その後ドイツでカメラマンの助手になりますが、1929年アメリカに渡りハリウッドに行きます。大恐慌の最中カメラマンになれず、1930年の『西部戦線異状なし』でエキストラをやりました。チーフ助監督と喧嘩をしてクビになった後、ベルホルト・ヴィアテル監督の助手になります。その後、ジンネマンは記録映画監督ロバート・フラハティに申し出て助手になり、映画製作の多くを学びました。1933年、メキシコからの依頼で、ドキュメンタリー映画『波』を監督しました1936年ヘンリー・ハサウェイ監督の『永遠に愛せよ』で第二班監督になり、ウィリアム・ワイラー監督の『孔雀夫人』や1937年ジョージ・キューカー監督の『椿姫』の撮影に参加しました。

 1938年MGMと3年契約で一巻物の短編映画の監督をし、ジンネマンは多くの事を学びました。1941年にB級映画『Kid Glove Killer』で監督デビューし、1942年に『Eyes in the Night』を監督します。1944年にA級映画の『第七の十字架』を監督しましたが、会社側と衝突して再びB級映画に専門になります。何本か監督をした後、仕事を断り続けて停職処分になります。1947年に『山河遥かなり』の監督をしてアカデミー賞にノミネートされますが、ヒットにはなりませんでした。この映画は地味ながら良く出来た作品だと思います。機会を作って紹介します。その後、1952年に異色の西部劇『真昼の決闘』を監督し、この映画は大ヒットします。1953年には、アメリカ陸軍内部を暴くような問題作『地上より永遠に』を発表します。この映画も大ヒットし、監督として不動の地位を得ます。その後、1959年『尼僧物語』、1964年『日曜日には鼠を殺せ』と1966年『わが命つきるとも』では監督と製作をしています。1973年『ジャッカルの日』、1977年『ジュリア』、1982年『氷壁の女』(日本未発売)でも監督と製作をしています。ジンネマンの両親はアメリカへのビザを待っていましたが、1941年と1942年にホロコーストで亡くなっています。ジンネマンは知ったのは、戦後になってからでした。後年、ジンネマンはイギリスに移住していまして、1997年に心臓発作で亡くなりました。

ジャッカル役
エドワード・フォックス(37歳

 暗殺者ジャッカルを演じるのは、エドワード・フォックス( 1937年4月13日生まれ)は、ロンドンのシェルシー出身のイギリスの俳優です。父親のロビン・フォックスは俳優のエージェント、母親のアンジェラ・ワージントンは元女優で作家、弟のジェームズ・フォックスは俳優と芸能一家の長男として生まれました。フォックスは公立の男子寄宿学校“ハロー・スクール”で教育を受け、徴兵制によりロイヤル連隊に入隊して満期完了しました。

 フォックスは1958年に劇場デビューし、1960年代は主に舞台に出演してハムレット役を演じていました。1962年にはエキストラで映画デビューし、1963年『孤独の報酬』にノン・クレジットで出演しました。1967年『裸のランナー』、1969年『素晴らしき戦争』『空軍大戦略』と出演し、1971年の『恋』では英国アカデミー賞助演男優賞を受賞しています。1973年の『ジャッカルの日』で頭脳明晰で冷酷非情な暗殺者ジャッカルを見事に演じています。主役はこの映画だけですが、1977年『遠すぎた橋』、1978年『ナバロンの嵐』、1980年『クリスタル殺人事件』、1982年『ガンジー』、1983年『ネバーセイ・ネバーアゲイン』、1995年『湖畔のひと月』等に出演しています。

ルベル警視役
マイケル・ロンズデール(40歳)

 ルベル警視役のマイケル・ロンズデール{1931年5月24日~2020年9月21日)は、パリ出身のイギリス系フランス人俳優で舞台演出家です。1955年「喝采」で舞台デビューし、1956年に『C‛est arrive å Aden 』に出演して映画界入りしました。1962年『審判』、1963年『日曜日には鼠を殺せ』、1966年『パリは燃えているか?』、1968年『黒衣の花嫁』名地に出演し、1972年の『ジャッカルの日』のクロード・ルベル警部役で世界的に注目を浴びました。1974年『薔薇のスタビスキー』、1976年『パリの灯は遠く』、そして1979年『007 ムーンレイカー』のサー・ヒューゴ・ドラックス役で世界的に有名になりました。1958年よりテレビ映画にも出演し、1974年には舞台演出家としても活動を開始して、演奏会の語り役やラジオ劇や朗読テープ(CD)も多数録音しています。その後、1986年『薔薇の名前』、1993年『日の名残り』、1995年『とまどい』、1998年『RONIN』、2006年『宮廷画家ゴヤは見た』、2009年『アレクサンドリア』等に出演し、2010年『神々と男たち』でセザール賞の助演男優賞を受賞しました。2020年9月21日、パリの自宅で死去したことを代理人から発表されました。89歳没、死因は明らかにされていません。

ゴッツィ役
シリル・キューザック(63歳)

 銃職人(ガン・スミス)のゴッツィ役のシリル・キューザック(1910年11月26日~1993年10月7日)は、南アフリカのナタール州ダーバン生まれのアイルランドの俳優です。キューザックの幼児期に両親が離婚した為、女優だった母親とイギリスに渡り、その後アイルランドに移りました。母親はブレフニ・オロークと再婚し、二人で舞台に出ていました。又、キューザックは7歳で舞台デビューしました。彼はキルデア州ニューブリッジのニューブリッジ・カレッジで学び、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンで法律を学びましたが、学位を取得せずに中退しました。1932年にアベイ座に加入して1945年まで60以上の公演に出演しました。1947年にキューザックは自身の会社、シリル・キューザック・プロダクションズを設立して、ダブロン、パリ・ニューヨークで作品を上演しました。1963年にロンドンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーに加入し、数シーズンにわたって出演しました。1963年にはテレビ映画の「三連祭壇画」での演技でジェイコブス賞を受賞しました。

 キューザックは8歳の時に、1918年『ノックナゴウ』で映画デビューしていました。1947年『邪魔者を消せ』、1950年『女狐』、1958年『ギデオン』、1965年『寒い国から来たスパイ』、1966年『華氏451』、1971年『死刑台のメロディ』、1973年『ジャッカルの日』等に出演しました。1977年にアイルランド語映画『ポイティン』で主役を演じ、1981年『告白』、1984年『1984』、1989年『マイ・レフトフット』等に出演しました。1993年110月7日に運動ニューロン病の為、ロンドンの病院で82歳で亡くなりました。

フレデリック・フォーサイス(34歳)

 原作者のフレデリック・フォーサイス(1938年8月25日生まれ)はイギリスの作家で、スパイ小説や軍隊に関する小説を多数著作しています。1956年から1958年までイギリス空軍に入隊し、除隊後イースター・ディリー・プレスのレポーターになり、1961年からロイター通信社の特派員となりパリ・東ベルリン・プラハで勤務します。1965年BBC放送に転職して1967年にナイジェリアの内戦取材の為、特派員をして現地入りします。この内戦はビアフラ独立の為の戦争で、彼はビアフラ養護の報道をする為、イギリス政府の方針に反対するものだったので特派員を解任されます。1970年パリでシャルル・ド・ゴール大統領の番記者をしている時に、大統領警護員から見聞したエピソードを基に、大統領暗殺未遂事件を小説にしたのが『ジャッカルの日」です。小説は各国で大ヒットし、彼は作家としてデビューします。1973年頃は、イギリスのMI6の協力者として仕事をしています。1972年にナイジェリア内戦で敗れたビアフラ人の為、彼は自費で傭兵部隊を雇い赤道ギニア共和国に対し政権転覆のクーダターを企てます。しかし、買収していたスペインの役人の裏切りにより、傭兵の隊長がスペインで拘束されて失敗します。この話を基に書かれた小説が「戦争の犬たち」です。その後、映画化された「第四の核」等多数の小説を発表しています。

次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。