Vol.27 『ジャッカルの日』

 今回は、フレデリック・フォーサイス著「ジャッカルの日」を基に製作された『ジャッカルの日』で、監督フレッド・ジンネマンです。ドキュメンタリータッチな作風と、原作に忠実な演出で話題を呼びました。ジンネマン監督が描く主人公は、男の信念を貫く男が多いです。監督自身の分身を描いている様に思います。本作でも主人公のジャッカルは、最後まで自分の信念通して仕事に挑んでいます。

『ジャッカルの日』
発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント

【スタッフとキャストの紹介】

フレッド・ジンネマン(1940年頃)

 ウィーン(オーストリア)生まれのフレッド・ジンネマン(1907年4月29日~1997年3月14日)は、代々医師のユダヤ系ドイツ人の家に生まれました。ウィーン大学在学中に映画界に憧れ、1927年にパリの映画撮影技術学校に入学して映画製作の基礎を学び、その後ドイツでカメラマンの助手になりますが、1929年アメリカに渡りハリウッドに行きます。大恐慌の最中カメラマンになれず、1930年の『西部戦線異状なし』でエキストラをやりました。チーフ助監督と喧嘩をしてクビになった後、ベルホルト・ヴィアテル監督の助手になります。その後、ジンネマンは記録映画監督ロバート・フラハティに申し出て助手になり、映画製作の多くを学びました。1933年、メキシコからの依頼で、ドキュメンタリー映画『波』を監督しました1936年ヘンリー・ハサウェイ監督の『永遠に愛せよ』で第二班監督になり、ウィリアム・ワイラー監督の『孔雀夫人』や1937年ジョージ・キューカー監督の『椿姫』の撮影に参加しました。

 1938年MGMと3年契約で一巻物の短編映画の監督をし、ジンネマンは多くの事を学びました。1941年にB級映画『Kid Glove Killer』で監督デビューし、1942年に『Eyes in the Night』を監督します。1944年にA級映画の『第七の十字架』を監督しましたが、会社側と衝突して再びB級映画に専門になります。何本か監督をした後、仕事を断り続けて停職処分になります。1947年に『山河遥かなり』の監督をしてアカデミー賞にノミネートされますが、ヒットにはなりませんでした。この映画は地味ながら良く出来た作品だと思います。機会を作って紹介します。その後、1952年に異色の西部劇『真昼の決闘』を監督し、この映画は大ヒットします。1953年には、アメリカ陸軍内部を暴くような問題作『地上より永遠に』を発表します。この映画も大ヒットし、監督として不動の地位を得ます。その後、1959年『尼僧物語』、1964年『日曜日には鼠を殺せ』と1966年『わが命つきるとも』では監督と製作をしています。1973年『ジャッカルの日』、1977年『ジュリア』、1982年『氷壁の女』(日本未発売)でも監督と製作をしています。ジンネマンの両親はアメリカへのビザを待っていましたが、1941年と1942年にホロコーストで亡くなっています。ジンネマンは知ったのは、戦後になってからでした。後年、ジンネマンはイギリスに移住していまして、1997年に心臓発作で亡くなりました。

ジャッカル役
エドワード・フォックス(37歳

 暗殺者ジャッカルを演じるのは、エドワード・フォックス( 1937年4月13日生まれ)は、ロンドンのシェルシー出身のイギリスの俳優です。父親のロビン・フォックスは俳優のエージェント、母親のアンジェラ・ワージントンは元女優で作家、弟のジェームズ・フォックスは俳優と芸能一家の長男として生まれました。フォックスは公立の男子寄宿学校“ハロー・スクール”で教育を受け、徴兵制によりロイヤル連隊に入隊して満期完了しました。

 フォックスは1958年に劇場デビューし、1960年代は主に舞台に出演してハムレット役を演じていました。1962年にはエキストラで映画デビューし、1963年『孤独の報酬』にノン・クレジットで出演しました。1967年『裸のランナー』、1969年『素晴らしき戦争』『空軍大戦略』と出演し、1971年の『恋』では英国アカデミー賞助演男優賞を受賞しています。1973年の『ジャッカルの日』で頭脳明晰で冷酷非情な暗殺者ジャッカルを見事に演じています。主役はこの映画だけですが、1977年『遠すぎた橋』、1978年『ナバロンの嵐』、1980年『クリスタル殺人事件』、1982年『ガンジー』、1983年『ネバーセイ・ネバーアゲイン』、1995年『湖畔のひと月』等に出演しています。

ルベル警視役
マイケル・ロンズデール(40歳)

 ルベル警視役のマイケル・ロンズデール{1931年5月24日~2020年9月21日)は、パリ出身のイギリス系フランス人俳優で舞台演出家です。1955年「喝采」で舞台デビューし、1956年に『C‛est arrive å Aden 』に出演して映画界入りしました。1962年『審判』、1963年『日曜日には鼠を殺せ』、1966年『パリは燃えているか?』、1968年『黒衣の花嫁』名地に出演し、1972年の『ジャッカルの日』のクロード・ルベル警部役で世界的に注目を浴びました。1974年『薔薇のスタビスキー』、1976年『パリの灯は遠く』、そして1979年『007 ムーンレイカー』のサー・ヒューゴ・ドラックス役で世界的に有名になりました。1958年よりテレビ映画にも出演し、1974年には舞台演出家としても活動を開始して、演奏会の語り役やラジオ劇や朗読テープ(CD)も多数録音しています。その後、1986年『薔薇の名前』、1993年『日の名残り』、1995年『とまどい』、1998年『RONIN』、2006年『宮廷画家ゴヤは見た』、2009年『アレクサンドリア』等に出演し、2010年『神々と男たち』でセザール賞の助演男優賞を受賞しました。2020年9月21日、パリの自宅で死去したことを代理人から発表されました。89歳没、死因は明らかにされていません。

ゴッツィ役
シリル・キューザック(63歳)

 銃職人(ガン・スミス)のゴッツィ役のシリル・キューザック(1910年11月26日~1993年10月7日)は、南アフリカのナタール州ダーバン生まれのアイルランドの俳優です。キューザックの幼児期に両親が離婚した為、女優だった母親とイギリスに渡り、その後アイルランドに移りました。母親はブレフニ・オロークと再婚し、二人で舞台に出ていました。又、キューザックは7歳で舞台デビューしました。彼はキルデア州ニューブリッジのニューブリッジ・カレッジで学び、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンで法律を学びましたが、学位を取得せずに中退しました。1932年にアベイ座に加入して1945年まで60以上の公演に出演しました。1947年にキューザックは自身の会社、シリル・キューザック・プロダクションズを設立して、ダブロン、パリ・ニューヨークで作品を上演しました。1963年にロンドンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーに加入し、数シーズンにわたって出演しました。1963年にはテレビ映画の「三連祭壇画」での演技でジェイコブス賞を受賞しました。

 キューザックは8歳の時に、1918年『ノックナゴウ』で映画デビューしていました。1947年『邪魔者を消せ』、1950年『女狐』、1958年『ギデオン』、1965年『寒い国から来たスパイ』、1966年『華氏451』、1971年『死刑台のメロディ』、1973年『ジャッカルの日』等に出演しました。1977年にアイルランド語映画『ポイティン』で主役を演じ、1981年『告白』、1984年『1984』、1989年『マイ・レフトフット』等に出演しました。1993年110月7日に運動ニューロン病の為、ロンドンの病院で82歳で亡くなりました。

フレデリック・フォーサイス(34歳)

 原作者のフレデリック・フォーサイス(1938年8月25日生まれ)はイギリスの作家で、スパイ小説や軍隊に関する小説を多数著作しています。1956年から1958年までイギリス空軍に入隊し、除隊後イースター・ディリー・プレスのレポーターになり、1961年からロイター通信社の特派員となりパリ・東ベルリン・プラハで勤務します。1965年BBC放送に転職して1967年にナイジェリアの内戦取材の為、特派員をして現地入りします。この内戦はビアフラ独立の為の戦争で、彼はビアフラ養護の報道をする為、イギリス政府の方針に反対するものだったので特派員を解任されます。1970年パリでシャルル・ド・ゴール大統領の番記者をしている時に、大統領警護員から見聞したエピソードを基に、大統領暗殺未遂事件を小説にしたのが『ジャッカルの日」です。小説は各国で大ヒットし、彼は作家としてデビューします。1973年頃は、イギリスのMI6の協力者として仕事をしています。1972年にナイジェリア内戦で敗れたビアフラ人の為、彼は自費で傭兵部隊を雇い赤道ギニア共和国に対し政権転覆のクーダターを企てます。しかし、買収していたスペインの役人の裏切りにより、傭兵の隊長がスペインで拘束されて失敗します。この話を基に書かれた小説が「戦争の犬たち」です。その後、映画化された「第四の核」等多数の小説を発表しています。

次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.26 『Tメン』の続き

アメリカ財務省(左)  エルエルエルマー・L・アイリー前管理者(右)

 題名で使われている“Tメン”は、“TAX MAN”の略称で、アメリカ財務省の特別税務捜査官の事です。映画は、アメリカ財務省の前管理官エルマー・L・アイリーが組織構成と業績を語るシーンから始まります。この冒頭のシーンから分かるように、財務省の活動を映画でアメリカ国民に周知させる目的で作られたようです。この映画は実話に基づいた映画で、アル・カポネ逮捕以来の大事件である「上海の紙」事件を扱ったものです。偽札偽造団一味を逮捕する為に二人の捜査官が悪の組織に入り込み、黒幕を逮捕するまでの活躍を描いています。アンソニー・マン監督は、ドキュメンタリー・タッチで見事なサスペンス映画に仕上げています。

殺し屋モクシー(左)    偽札を持ち去るモクシー(右)

 本編の冒頭で、偽札を入手した情報提供者が捜査官に偽札を渡す為に現れますが、殺し屋モクシーに射殺され偽札は持ち去られます。銃声を聞いて捜査員が駆け付けた時には、犯人は車で逃げ去ってしまいます。フイルム・ノアールの香りタップリの冒頭シーンです。

図書館でギャングの歴史を学ぶデニスとトニー(左)
公園で記憶の確認をするデニスとトニー(右)

 ロサンゼルスで大量に発見された偽札に、デトロイトのイタリアン・マフィアのヴァントゥッチが関与していると睨み捜査を開始します。潜入する捜査官にデニス・オブライアンとトニー・ジェナーロの二人が選ばれ、デトロイトから捜査を始める事になります。二人はデトロイト・ギャングの歴史を調べ上げ、リバーギャングの事を徹底的に頭に叩き込みます。この辺の展開はテンポも良く、時折入るナレーションでドキュメンタリー・タッチが際立ちます。

ホテルに宿泊予約する二人(左)  ヴァントゥッチ(右)

 二人は偽名でイタリアン・マフィアに通じるホテルに泊まり、地元警察との連携でホテルの主人に逃亡犯だと信じ込ます事に成功します。ホテルの主人の紹介でイタリアン・マフィアのヴァントゥッチに会い、部下となってロサンゼルスに乗り込みます。

シアーノとデニス(左)  
左からトニー、デニス、ポール・スミス、シアーノ(右)

 ヴァントゥッチの紹介でロサンゼルスのジル・シアーノに会い、彼の仲間に加わります。二人は偽札作りに関する手掛かり捜しをし、調査の結果スキーマーと云う男を探し始めます。

スキーマーの作業着を持ち出すデニス(左)
連絡員から報告を受けるデニス(右)

 スキーマーの作業着を工場から持ち出し、本部に送って調べて貰います。その結果、予測される年齢・身長・体重の他に、強い葉巻を好み中国漢方を常用していて、左肩に傷がある男と報告されます。デニスがこの報告を受けるシーンは、今ではお馴染みのやり方ですが良いシーンですね。

薬局で聞き込みをするデニス(左) サウナでスキーマーを見付ける(右)

 デニスは早速薬局周りを始めますが、手掛かりを掴めずにいた時にサウナ好きの男の情報を得ます。それからデニスは、10日間サウナに入りながら遂にスキーマーを見つけ出します。

ロサンゼルス支局で偽札を受け取るデニス(左)
賭博場でスキーマーに出会う(右)

 それからスキーマーを尾行し続けて、秘密の賭博場でわざと偽札を使ってスキーマーに紙幣偽造関係者である事を分からせます。ここで賭博場の男たちに痛めつけられます。その後、デニスはスキーマーの部屋に押し入って、自分が彫刻された偽札の原版を持っている事を告げ、手を組む事になります。

ヴァントゥッチ に激しく詰問される
トニー

 一方トニーは、デニスが急にいなくなったので、一味の連中に彼の行き先や理由を問いただされます。終始「分からない」と答え続けましたが、殺すと脅されて「トニー・ロッコから逃げる為」と言うと ヴァントゥッチ は納得します。

スキーマーを罠に掛ける二人(左)
サウナでトニーに自分を売り込むスキーマー(右)

 それから二人はスキーマーを罠に掛け、トニーはスキーマーと親密になります。そして、スキーマーが周りで起きた犯罪の全てを書いた手帳を隠している事を知ります。

町中で偶然メアリーと出会う
トニーとスキーマー

 しかし、スキーマーと町中を歩いていた時にトニーの妻の友人に会い、その友人は傍にいた妻のメアリーに知らせます。トニーもメアリーも間違いだと言ってその場を去りますが、スキーマーは感付いてしまいます。ジョーン・ロックハートの戸惑った表情とトニーの表情、そしてスキーマーとの三者三様の演技が良いですね。

スキーマーの部屋で手帳を探すトニー(左)
撃たれながらもデニスを罵るトニー(右)

 デニスは偽札の原版と紙の相性を見る為に偽札偽造一味から偽札用の紙を入手し、本部で印刷された裏面だけの偽札1枚を受け取り、残りの紙は分析されます。一味に印刷した偽札を見せて取引交渉を進めますが、トニーの身元がバレた事をデニスは知ります。スキーマーが抹殺され持ち物の中に手帳が無かったので、敵に身元がバレたトニーはスキーマーの部屋で手帳を探します。スキーマーの部屋に一味と同行させられたデニスは、部屋で物色中のトニーに会います。話す間も無く、トニーはモクシーに銃で撃たれます。その時トニーはデニスに向かって、「お前は一流の詐欺師」だと罵って死んでゆきます。最後まで相棒の捜査官を守る言葉を吐き、任務遂行の為に命を落とします。

 これからデニスは一人で敵に立つ向かう事になりますが、一味の鑑定士ポール・スミスは、デニスの持っている原版が造幣局のものだと見抜く人間なので、デニスにその事を知らせる為に捜査官を送ります。伝言が書かれたメモの受け渡しは、デニスと捜査官の突然の殴り合いから始まり、二人が倒れて揉み合っている時に行われます。

隠した原版を取ろうとするデニス

 部屋に戻って伝言を見たデニスは、一味の男から声を掛けられ咄嗟にメモを口に入れてガムを噛むような真似をします。デニスは原版を隠した洗面台に向かいますが、一味の一人が髭を剃ってその場を動きません。仕方なく男に近寄って行き、手を洗い出します。この時カメラは洗面台の下が映る位置にあり、一度・二度とデニスが原版を取ろうとする所を写します。二度目に原版を取って上着のポケットに入れます。何んとかその場から逃げようとするデニスを、一味はボスがいる船に連れて行きます。その船の中には印刷所があり、偽札はそこで作られています。

 船に着いたデニスは、殺しがあったから取引の中止を訴えますが聞き入れられません。敵の手に渡った原版の表面を別室にいるボスが見て、造幣局の原版だと言います。デニスは時間稼ぎの為に、鑑定士のポール・スミスを呼ぶように要求します。一方、デニスの消息が分からなくなった財務局の管理官は、ポール・スミスを見張っていました。一味からの連絡でポール・スミスが動き出したので尾行しますが、途中で尾行不可能になります。

初めて見る原版だと嘘を言うポール・スミス(左)
政府の証人になると言うポール・スミス(右)

 ポール・スミスが船に到着し、原版を見て思いもよらない事を言います。「初めて見る素晴らしい原版だ」と言い、デニスを連れて印刷しに行きます。その後、甲板に出て、「この仕事から足を洗いたいので、政府の証人になる」と言い出します。その直後、ポール・スミスはモクシーに後ろから銃で撃たれて殺害されます。

銃弾を受けながら撃ち返すデニス

 一味の男は丸腰のデニス目掛けて発砲してきます。逃げ回りながらポール・スミスの銃を手に取り撃ち返します。 一味の男 が撃っていた銃が弾切れしますが、別の銃を取り出して撃ち始めます。デニスは立ったまま悠々と歩きながら、撃ち返します。 一味の男 の銃弾が1発デニスに当たりますが、ゆっくりと歩き出して撃ち返し、 一味の男 を倒して自分も倒れ込みます。この銃声を聞きつけて財務局を始め、指令で駆け付けた警官隊などが船に乗り込んで来て一味を全員逮捕します。画面が変わって事件のその後が明かされ、デニスとトニーの妻のメアリーの事が語られます。

 この映画は脚本がよく練られていていますし、場面ごとの台詞も素晴らしいです。特に、一味に潜入した捜査官である事を悟られないようにする受け答えが素晴らしいです。映画はストーリーが解ればそれで満足する方が大半かと思いますが、場面ごとの監督の演出や俳優さんの演技を観るのも楽しいと思います。カメラマン上がりのアンソニー・マン監督は、カメラを少し低い位置に置いて少し見上げるような撮り方をしています。この撮り方が、映画全体に緊張感を醸し出していると思います。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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発行:コスミック出版

『Tメン』 作品データ

アメリカ  1947年 モノクロ  96分

原題:T-MEN

監督:アンソニー・マン

製作:オーブリー・シェンク

原案:ヴァージニア・ケロッグ

脚本:ジョン・C・ヒビンズ

撮影:ジョン・アルトン

音楽:ポール・ソーテル

出演:デニス・オキーフ、メアリー・ミード

   アルフレッド・ライダー、ウォーリー・フォード

   ジューン・ロックハート、チャールズ・マッグロー

Vol.25 『Tメン』

『Tメン』
発行:ブロードウェイ社

 今回はアンソニー・マン監督の『Tメン』です。1940年代は本作のようなフイルム・ノアールを撮り、1950年代には多くの西部劇を撮っています。特にジェームズ・スチュアートと撮った西部劇はヒット作が多く、彼が撮った西部劇は全部大好きです。前回登場したアーサー・ケネディはジェームズ・スチュアートの敵役を好演しています。アンソニー・マン監督の演出は、非常に丁寧ながら一味違ったもので緊張感の高め方は素晴らしいです。

【スタッフとキャストの紹介】

アンソニー・マン(1952年頃)

 アンソニー・マン(1906年6月30日~1967年4月29日)は、カリフォルニア州サンディエゴ生まれのアメリカの映画監督、舞台俳優でした。マンが3歳の時に両親は父の治療の為、オーストリアに移ります。マンはサンディエゴ群のロランドに残され、14歳になるまで両院は戻って来ませんでした。1917年マンの家族はニューヨークに移住し、演技に興味を持つようになります。ユダヤ人コウミュニティ・センターで演技を続け、ニューアークのセントラル高校でも舞台に出演していました。1923年に父が亡くなった為、家族の生計を立てる為に高校3年生の時に中退してニューヨークに戻ります。彼は夜景の仕事に就き、日中は舞台の仕事を探していました。数か月後、グリニッジ・ヴィレッジのトライアングル・シアターでフルタイムの仕事に就きます。1925年から舞台に出演し。1929年にはブロードウェイの舞台にも出演しました。1930年に彼はシアター・ギルドでプロダクション・マネージャーなり、最終的には演出家となりますが、演技は続けていました。1937年にセルジニック・インター・ナショナル・ピクチャーズでタレント・スカウト兼キャスティング・ディレクターをして、多くの映画のスクリーン・テストを行いました。数か月後、彼はパラマウント・ピクチャーに移り、助監督になります。1941年の『サリヴァンの旅』でブレストン・スタージェス監督の助監督になり、監督から多くの事を学びました。助監督を3年務めた頃、友人のマクドナルド・キャリーの推薦で1942年の『ドクター・ブロードウェイ』で監督デビューします。1943年『ムーンライト・イン・ハバナ』を監督し、1944年8月ブロードウェイで「子供のための鏡」の演出をしました。1944年に『夜のストレンジャー』、1945年に『たそがれの恋』と監督し、RKOに移って1946年『午前2時の勇気』、リパブリック・ピクチャーズで1946年『仮面の女』、RKOで『バンブー・ブロンド』を監督しました。1947年に『必死の逃避行』『Tマン』『偽証』、1948年に『脱獄の掟』を監督しました。映画評論誌“ハリソンズ・リポート”は、マンの演出を「テンポが速くアクション満載で、張り詰めた演出が興奮とサスペンスを絞り出している」と評論しています。『Tマン』について調べている時に国境警備隊員の事を知り、『国境事件』の脚本が出来て1949年にマンが監督をしました。

 1950年はマンにとって大きな転換期になります。この後の10年間で合計10本の西部劇を監督していますが、そのうちの3本は1050年に公開されています。ロバート・テーラーが先住民を演じる『流血の谷』『ウィンチェスター銃`73』『復讐の荒野』と3本とも素晴らしい映画です。

そして、マンが監督した『サイド・ストリート』は最後のフィルム・ノワールとなりました。『ウィンチェスター銃`73』の成功で、コロンビアはアソニー・マンとジェームズ・スチュアートのコンビで映画を製作します。1951年『怒りの河』、1953年『裸の拍車』、1954年『グレン・ミラー物語』『遠い国』、1955年『ララミーから来た男』『戦略空軍命令』と映画は制作されました。それからマンは様々な映画会社で監督をしました。1955年『シャロン砦』、1956年『愛のセレナーデ』、1957年『最前線』『胸に輝く星』、1958年『西部の人』、1960年『シマロン』・1961年『エルシド』『ローマ帝国の滅亡』、そして最後の作品1968年『殺しのダンディ』では監督と製作をしました。マンの映画に登場する主人公はアンチ・ヒーローが多く、過去に罪を犯していたり問題を抱えています。マンと出会って、ジェームズ・スチュアートは今までと違ったキャラクターを演じるようになりました。マンの映画はロケーション撮影が多いです。自然の風景の中で俳優を撮影する事によって、アクションや演技を強化する事が出来ると語っていました。1967年4月29日、マンはホテルの部屋で心臓発作で亡くなりました。

デニス・オブライアン役
デニス・オキーフ(39歳)

 デニス・オキーフ(1908年3月29日~1968年8月31日)は、アイオワ州フォート・マディソン生まれのアメリカの俳優、脚本家です。両親がアイルランド系のヴォードヴィリアンでしたので、彼は両親のヴォードヴィルに参加し、後に舞台用の寸劇の脚本を書いていました。オキーフは南カリフォルニア大学に通いましたが、父親が亡くなった為に大学2年生の途中で退学しました。父親の死後数年間は、父親のヴォードヴィルを引き継いで続けました。1931年からはバド・フラナガンの名前で、多くの映画にエキストラとして出演しました。1937年クラーク・ゲーブルの推薦でMGMと契約し、デニス・オキーフと改名しました。1938年にウォーレス・ビアリー主演の『ザ・バッドマン・オブ・ブリムストーン』に出演し、その後主に低予算映画に出演しました。オキーフはアクション・ドラマや犯罪ドラマでタフガイ役が多かったですが、シリアスな役もコミカルな役も演じました。1940年『囁きの木陰』、1941年『彼女はゴースト』、1942年『レオパルドマン豹男』、1943年『死刑執行人もまた死す』、1943年の『軍医ワッセル大佐』ではコメディ・スターとして注目されました。1944年『ニューヨークの饗宴』、1950年『鷲と鷹』『六人の脱獄囚』、1954年の『灰色のダイヤ・対決!暗黒組織』では監督・出演しました。その後、1957年『ドラゴン砦の決戦』、1961年『七面鳥艦隊』に出演しました。

 1950年、CBSのラジオ番組「Tメン」に出演したり、いくつかの番組の演出をしたりミステリー小説を書いていました。1950年代には多くのテレビ番組にも出演し、1959年には「デニス・オキーフ・ショー」で主役を務めていました。又、1940年代後半から1960年代にかけてジョナサン・リックのペンネームで脚本を書いたり、1960年代にはアル・エレヴェレットのペンネームで脚本を書いていました。オキーフは1968年にカリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ病院で、肺癌で亡くなりました。60歳でした。

トニー・ジェナード役
アルフレッド・ライダー(31歳)

 アルフレッド・ライダー(1916年1月5日~1995年4月16日)は、アメリカのテレビ、舞台、ラジオ、映画の俳優兼監督です。ライダーは8歳で演劇を始め、後にアクターズ・スタジオで演劇を学び終身会員になりました。彼はブロードウェイの舞台に出演したり、15年続いたラジオ番組の「イージー・エース」にも出演していました。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空軍に所属し、空軍のブロードウェイの舞台や1944年の『有翼の勝利』に出演しました。そして、パラマウントと契約して1946年の『Tメン』に出演しました。

 ハムレット役に拘っていたライダーは、アメリカン・レパートリー・シアター、フォローアップ劇団、マーガレット・ウェブスター・シェイクスピア・カンパニーでハムレット役を演じてツアーに参加しました。最後にアクター・スタジオでもハムレット役を演じています。1950年代はブロードウェイの舞台に出演し続け、テレビにも出演していました。1961年のブロードウェイ舞台劇「遠い国」の監督をしました。1964年にシェイクスピア・イン・ザ・パークで待望のハムレットを演じますが、初日の翌日に役を降ろされます。

 ライダーはアクターズ・スタジオの監督として、UCLAのシアター・グループの演出をしたり、米国政府の教育研究所劇場プロジェクトやロサンゼルス・フリー・シェイクスピア・フェスティバルの芸術監督をしました。1960年代はテレビのゲスト・スターとして、「ワイルド・ウエスト」、「0011ナポレオン・ソロ」等多くの作品に出演していました。「インベーダー」の2シーズンではエイリアンのリーダーのネクサスを演じていました。1961年にブロードウェイで「サイ」が公演された時に、イーライ・ウォラックの代役でベレンジャーを演じました。1969年『勇気ある追跡』に出演し、1979年にテレビのトーク・ショー「ミーティング・オブ・マインズ」の2エピソードの共同監督をしています。ライダーはニュージャージー州のアクターズ・ホームに移り住み、1995年に肝臓癌で亡くなりました。

メアリー・ジェナード役
ジューン・ロックハート(22歳)

 ジューン・ロックハート(1925年6月25日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市生まれの引退した女優です。両親が俳優だったロックハートは8歳で舞台デビューし、メトロポリタン歌劇場の「ピーター・イベットソン」に出演しました。彼女は、カリフォルニア州ビバリーヒルズのウエストレイク女子学校に通いました。彼女は1938年『クリスマス・キャロル』で両親と共演して、映画デビューしました。1940年『凡てこの世も天国も』、1941年『ヨーク軍曹』、1944年『若草の頃』で脇役を演じ、1945年『名犬ラッシー/ラッシーの息子』で主役を演じるようになります。1946年『謎の狼女』・「小鹿物語」、1963年『名犬ラッシーの大冒険』、1998年『ロスト・イン・スペース』に出演しました。1986年の『トロル』では、彼女の娘のアン・ロックハートと同じ役を年代を分けて共演しています。

 1955年にはアメリカCBSで放送されたアンソロジー・テレビ番組の「アポイントメント・ウィズ・アドベンチャー」や単発ドラマ番組の「ウェスティングハウス・スタジオ・ワン」に出演していました。又、NBCの法律ドラマ「ジャスティス」やCBSの「プレイハウス90」にも何度か出演しています。1950年代後半からは、「西部のパラディン 」、「幌馬車隊」、「ローハド」などにゲスト出演していました、1958年「名犬ラッシー」、1963年「ジェネラル・ホスピタル」、1965年「宇宙家族ロビンソン」、1968年「ペチコート大作戦」ではレギュラー出演しています。1960年代以降も「ペリー・メイスン」、「奥様は魔女」、「0011ナポレオン・ソロ」、「じゃじゃ馬億万長者」、「ハッピーデイズ」、「ベガス」、「Dr.刑事クインシー」、「ビバリーヒルズ高校白書」等、多くのテレビ番組にゲスト出演しています。2013年アメリカ航空宇宙局(NASA)は、宇宙探査について一般の人々を鼓舞したとして、ロックハートに“Exceptional Public Achievement Medal”を授与しました。

スキーマー役
ウォレス・フォード(49歳)

 ウォレス・フォード(1898年2月12日~ 1966年6月11日)は、イングランドのランカシャー州ボルトンで生まれ帰化したアメリカのヴォードヴィリアン、舞台俳優、映画俳優です。彼の本名はサミュエル・グランディですが、1942年5月8日に帰化して法的に名前をウォレス・フォードに改名しました。彼の家庭が貧しかった為に叔父と叔母に預けられていましたが、彼が3歳の時にバーナルド孤児院に入れられました。彼が7歳の時に同じ様な境遇の子供達は、大英帝国の政策によってカナダの農家の里親に送られました。サミュエルはマニトバ州の家族の養子なりますが、虐待を受けて何度も家出をしては当局によって連れ戻されていました。かれが11歳の時に最後の家出をして、ウィニペグ・キディーズと呼ばれるカナダをツアーするヴォードヴィルの劇団に入り、パフォーマーとしての訓練を受けました。1914年劇団を辞めて、16歳のサミュエルともう一人の若者、ウォレス・フォードは、貨物列車に無賃乗車で乗り込み南アメリカを目指します。その旅行中にフォードは列車の車輪の下で死亡しました、その後、サミュエルは芸名をウォレス・フォードに改名しました。

 第一次世界大戦中にカンサス州フォート・ライリーでアメリカ騎兵隊に入隊して従軍した後、アメリカの証券会社でヴォードヴィルの舞台俳優になりました。1919年に舞台劇「セブンティーン」に出演し、シカゴで数か月間上演さ、その後ニューヨークのブロードウェイの公演も成功しました。そしてブロードウェイの大ヒット作「アビーのアイルッシュローズ」で主役を演じ、他のブロードウェイの舞台にも出演しました。1938年にはジョン・スタインベック原作の舞台劇「廿日鼠と人間」でも主役を演じています

 映画では1931年の『蜃気楼の女』でクレジット・デビューし、1932年には『フリークス』で主役を務めました。1930年代と1940年代にはハリウッドのB級映画で主役を演じたり。長編映画の脇役を演じていました。1934年『肉弾鬼中隊』、1936年『俺は善人だ』、1935年『男の敵』、1941年『暴力街』、1942年『疑惑の影』、1943年『ベラ・ルゴシの猿の怪人』、1945年『白い恐怖』、1947年『Tメン』『魔法の町』『大いなる別れ』、1947年『罠』、1950年『ハーヴェイ』等に出演しました。1940年代後半から1950年代初頭にかけて性格俳優に転身し、当時人気が出て来た西部劇に出演するようになりました。1951年『インディアン征路』、1954年『テキサスの白いバラ』、1955年『ララミーから来た男』、1959年『ワーロック』に出演しました。1959年にはテレビ映画の「胸に輝く星」にレギュラー出演していました。1965年『いつか見た青い空』のオーレ・パ役の演技は、フォードのキャリアを締めくる作品になりました。フォードは1962年にカリフォルニア州ウッドランドヒルズのモーション・ピクチャー・アンド・テレビジョン・カントリー・ハウス・アンド・ホスピタルで心不全で亡くなりました。

殺し屋モクシー役
チャールズ・マッグロー(33歳)

 チャールズ・マッグロー(1914年5月10日~1980年7月29日)は、アイオワ州デモイン生まれのアメリカの舞台、映画、テレビの俳優です。彼は後に両親と共にオハイオ州アクロンに引っ越し、1932年アクロンの高校を卒業し、大学に入学して1学期を過ごします。マッグローは、貨物船の作業員やナイトクラブでダンサーをしていました。又、劇場のロードカンパニーで活躍し、数十のオフ・ブロードウェイの作品に出演しました。

1942年『不死の怪物 』でノン・クレジットで映画デビューしました。1943年『カレー大空襲』『駆逐艦ジョーンズ』『駆潜艇K-225 』、1944年『第七の十字架』とノン・クレジットで出演しています。1946年フィルム・ノワールの『殺人者』の殺し屋役でクレジット・デビューします。1947年『ミネソタの娘』『真夏の暴動』『ギャングスター』『Tメン』、1948年『ベルリン特急』『月下の銃声』、1949年『秘密指令』『国境事件』、1950年『サイド・ストリート』とノン・クレジットも含めて出演し。1952年『その女を殺せ』では主役を演じています。その後、A級映画にも出演するようになり、1954年b『トコリの橋』、1958年『全巻発進せよ』『手錠のまゝの脱獄』・『ロケット・パイロット』、1960年『スパルタカス』、1963年『鳥』『おかしなおかしなおかしな世界』、1967年『冷血』、1968年『奴らを高くつるせ』、1971年『ジョニーは戦場へ行った』、1977年『合衆国最後の日』等に出演しました。

 マッグローは、1949年3月13日のノワール風ラジオ番組『パット・ノヴァク・フォー・ハイヤー』等のラジオ番組に出演しています。又、1954年から「アドベンチャーズ・オブ・ザ・ファルコン」で主役のマイク・ワーリング役を演じ、1955年『カサブランカ』ではリック・ブレイン役を演じました。その他、「ボナンザ」、「ガンスモーク」、「保安官ワイアット・アープ」、「アンタッチャブル」等にゲスト出演しました。1980年7月29日、カリフォルニア州スタジオ・シティの自宅のバス・ルームで転倒して、ガラスのドアを破損して腕などに多くの傷を負い上腕動脈を切断する事故で、出血多量の為に死亡しました。

エヴァンジェリン役
メアリー・ミード(24歳)

 メアリー・ミード(1923年11月24日~2003年12月10日)は、ルイジアナ州生まれのアメリカの映画女優です。1945年『ワンダーマン』でゴールドウィンガールとして出演し、1947年『Tメン』、1948年『IN THIS CORNER』に出演しています。1949年パリでテッド・グルーヤと結婚し、1951年“カジノ・ド・パリ”やロンドンの”ピガール・クラブ“で「ゲイ・パリ」で公演していました。その後、アメリカに戻って”ウォールド・アストリア・ホテル“等の会場で講演しました。本編は次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.24 『窓』の続き

皆に作り話をしているトミー(左)
嘘をつくのをやめるように云う両親(右)

 映画の舞台は、ニューヨークのイースト地区の古いアパートです。そこに住むボビー・ドリスコル扮するトミー少年は、日常的に周りの人間に作り話をする嘘つき少年です。自分が思いついた事を直ぐ口に出して嘘をつきますが、本人はそんな話を誰も信じないと思っています。そんな嘘話からアパートを追い出せれそうになり、両親はウンザリしながらも父親はトミーに嘘を言わないように言い聞かせます。出ずっぱりのボビー・ドリスコルの演技は、自然で本当に上手いです。表情、特に目の表情がとても良いと思います。

5階の非常階段で寝るトミー(左)   窓から覗くトミー(右)

 暑く寝苦しいある夜、トミーは窓から出て4階の非常階段で寝る事にしますが、5階の方が涼しそうなので寝場所を変えます。寝付けずにいると5階のケラーソン夫妻の部屋から物音がするので窓から覗いてみると、3人が争っていて一人の男が倒れました。その男の背中に血痕があり、続いてハサミが床に落ちます。画面はトミー少年が見たままを映し出していて、観客は彼と共に殺人を目撃します。昨今の映画の様に全て映像で魅せるよりもリアル感があると思います。

殺害されて床に倒れた男(左)   ケラーソン夫妻(右)

 殺人を目撃した事を直ぐ母親に話しても相手にされず、翌朝父親に話しても信じてもらえず、夢だったんじゃないかと言われてしまいます。母親はトミーに外出しないで部屋にいるように言いますが、トミーは窓から抜け出して警察署に行きます。

警察署で殺人目撃を伝えるトミー(左)
ケラーソン夫妻の部屋を調べる刑事(右)

 警察でも本気で相手にしてくれませんでしたが、トミーを納得させる為に刑事が同行して帰宅します。刑事は直ぐ署に帰ろうとしますが、思い止まって念の為5階のケラーソン夫妻の部屋を訪問します。勿論刑事とは名乗らず、アパート改修工事の見積もりに来たと言い、部屋を隈なく調べます。殺人現場の部屋の床には不審な染みがありますが、天井から落ちてきたものによって出来た様に見えます。刑事は何も手掛かり無しの状態で、署に帰り報告します。

トミーを連れ出すケラーソン夫妻

 母親はケラーソン夫妻に迷惑を掛けたと思い、嫌がるトミーを連れて謝罪に行きます。それによってケラーソン夫妻は、トミーがどこまで知っているか確かめる作戦を立て始めます。父親は夜勤の仕事で夜は不在で、タイミング良く母親の姉の病気が悪化して母親が出掛ける事になります。ケラーソン夫妻は、このチャンスを逃さず行動を開始します。ここから抜け目のないケラーソン夫妻と12歳のトミー少年の攻防が始まります。逃げ惑うトミーの子供らしい行動と、ケラーソン夫妻の追跡はハラハラ・ドキドキの連続です。

警察官に助けを求めるトミー

 ケラーソン夫妻にアパートから連れ出されたトミーは隙を見て逃げ出しますが、二人に捕まりタクシーでアパートに連れ戻されます。途中で見かけた警察官にトミーは助けを求めますが、ケラーソン夫妻に警察官は丸め込まれてしまいます。トミーはタクシーの中で気絶させられ、アパートに連れ戻されます。その頃父親もトミーの事が心配で会社を早く退社してアパートに戻ります。ここでのケラーソン夫妻と父親の行き違いが絶妙に演出されています。

5階の手すりに座らされたトミー(左)
警察官に行方不明の息子の話をする父親(右)

 ケラーソン夫妻は、気絶をしたトミーを5階の非常階段の手すりに座らせてトミーが自然に落ちる様にします。女がそれを止めさせようとした時、男と揉み合いになった隙に気絶をした振りをしていたトミーは屋根に向かって逃げ出します。一方父親はトミーの置手紙を見て5階のケラーソン夫妻の部屋を探したりします。そして、外にいた警察官に子供が行方不明だと伝え、捜索を手伝って貰います。

ケラーソンの追跡から隠れるトミー

 屋根に逃げたトミーを執拗に追いかけるケラーソン夫妻、光と影の素晴らしいカメラ・ワークで息を呑むシーンが続きます。トミーは何とか建物の中に逃げ込みますが、ケラ-ソン夫妻はじわじわと迫って来ます。トミーは5階から3階と逃げて行きますが、崩壊して階段が無い3階に追い込まれます。途中建物の一部が崩れ落ちる場面では、瓦礫や梁が落ちてくる処を下からカメラで捉えているので迫力があります。

梁の上に追い込まれたトミー

 追い詰められたトミーは柱が無くなった一本の梁に逃れます。ケラーソンはトミーを落とそうと迫って来ます。トミーの機転でケラーソンは梁ごと落ちてしまいます。しかし、内部が倒壊しそうな建物で、トミーが掴まっている梁も落ちそうな状態です。

梁に掴まっているトミーを見上げる両親(左)
マットに飛び降りたトミー(右)

 梯子を用意する猶予もありませんので、警官隊は円形のマットを持って飛び降りるように言います。トミーは勇気を出して飛び降りて、無事救助されます。トミーは両親に、もう作り話はしないと誓います。

良い子になったトミー

 こんな素晴らしい作品が埋もれてしまうのは、とても残念です。『窓』は、コスミック出版の下記のDVD10枚セットに入っています。このセットにはサスペンス映画の傑作・佳作が満載のセットでお勧めです。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

「サスペンス映画コレクション 名優が演じる 戦慄の世界」
『Tメン』,『窓』,『生まれながらの殺し屋』,『上海ジェスチャ』が
入っているのお得なDVD10枚セット発行:コスミック出版
発行:コスミック出版 2020年6月9日発売

『窓』 作品データ

1949年製作 アメリカ モノクロ 73分
原題:The Windo

監督:テッド・テズラブ

製作:フレデリック・ウルマン・ジュニア

原作:コーネル・ウーリッチ

脚色:メル・ディネリ

撮影:ウィリアム・スタイナー

音楽:ロイ・ウェッブ

出演:ボビー・ドリスコル、バーバラ・ヘイル

   アーサー・ケネディ、ポール・スチュアート

   ルース・ローマン、アンソニー・ロス

Vol.23 『窓』

 今回はサスペンス映画『窓』です。監督はテッド・テズラブ、主演はウォルト・ディズニーがお気に入りだったボビー・ドリスコルです。

『窓』
発行元:ブロードウェイ

【スタッフとキャストの紹介】

 テッドテズラフ(1903年6月3日~1995年1月7日)は、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の映画監督です。1926年からカメラマンになり、1931年『光に叛く者』、1935年『ルムバ』、1936年『襤褸と宝石』、1938年『トム・ソーヤの冒険』、1942年『晴れて今宵は』『奥様は魔女』、1946年『汚名』等の撮影をしました。テズラブは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍少佐として従軍した後に1947年の『パナマ・ギャング戦争』から監督になります。1948年『孤児(みなしご)』、1949年『窓』、1950年『白銀の嶺』、1955年『四十人の女盗賊』等を監督しました。本作では俯瞰撮影や影を上手く使った撮影等、サスペンス映画に欠かせないショットと編集で緊張感を盛り上げています。

トミー・ウッドリー役の
ボビー・ドリスコル(12歳)

 ボビー・ドリスコル(1937年3月3日~1968年3月30日頃)は、アメリカ合州国アイオワ州シーダーラピッズ生まれの俳優です。ボビーが誕生して間もなくデモインに引っ越して、1943年頃まで暮らしました。アスペクトを扱う仕事をしていた父親が健康を害し、医者のアドバイスに従ってロサンゼルスに引っ越します。1943年に両親の勧めで、ボビーはMGMの『迷へる天使』のオーディショをン受けました。ボビーがスタジオ内を見学していた時に、好奇心から質問するボビーを監督が気に入り、40人以上の応募者の中から選ばれました。1943年『迷へる天使』、1944年『ファイティンッグ・サリヴァンズ』、1946年『潜行決死隊』等、数本の映画に小さな役で出演してウォルト・ディズニーと契約しました。1946年に実写とアニメの映画『南部の唄』に出演しました。この映画は、農場で働く黒人のリーマス役のジェームズ・バスケット(1904年2月16日~1948年7月9日)が、農場主の息子ジョニー役のボビー・ドリスコルや黒人の子供に話すお伽話がアニメになる映画です。この映画では農場主の白人と下働きの黒人が対等に描かれていて、南北戦争前に白人と黒人奴隷が平等であるかのような誤解を招くと問題視されて、ディズニー側が自主規制と云うより封印しました。ですから映画の上映も無く、過去に発売されたビデオ・テープとレーザー・ディスク以外発売される事はありません。蛇足ながら、リーマス役のジェームズ・バスケットは『南部の唄』で、アフリカ系男性俳優として初めてアカデミー特別賞を受賞しています。

 1948年にアニメ映画の『メロディ・タイム』では声の出演をし、アニメと実写の『わが心にかくも愛しき(私の心よ)』にも出演しました。ボビーはRKOに貸し出されて、『窓』に出演しました。前年にRKOを買収したハワード・ヒューズは、ボビーの演技が気に入らなったようで、公開を遅らせて1949年5月に公開しました。ヒューズの予想に反して映画は大ヒットし、ボビーのリアルな演技を「ニューヨーク・タイム誌」は称賛しました。1949年の第22回アカデミー賞授賞式では、『わが心にかくも愛しき』と『窓』の演技が評価されてアカデミー・ジョブナイル賞を受賞しています。

 1950年ディズニー・スタッジオ初の完全実写映画『宝島』に出演しました。この映画はイギリスで撮影されましたが、ボビーはイギリスの労働許可証を持っていませんでした。ボビーの家族とディズニーは、罰金を科され国外退去を命じられます。控訴準備の為に6週間の滞在を許可されたので、バイロン・ハスキン監督はボビーのクローズ・アップを全て撮影しました。ボビーと彼の両親がカリフォルニアに戻った後は、イギリス人の代役を使って残りを撮影しました。『宝島』は世界的なヒットとなりました。

 1951年『グーフィーのお父さん』、1952年『グーフィーのライオン狩り』でグーフィーの息子のマックス役で声の出演をしました。実写映画では1951年『When I Groe Up』、1952年『ハッピー・タイム』にしゅつえんしました。そして1953年長編アニメーション『ピーター・パン』で、ピーター・パンの声で出演し、アニメーション制作ではピーター・パンの顔のモデルも務めました。『ピーター・パン』劇場公開後、ディズニーとの契約がキャンセルされ、映画の出演が無くなりテレビとラジオの仕事をしました。両親は子役俳優が通うハリウッド・プロフェッショナル・スクールを退学させて、公立のユニバーシティ・ハイスクールに通わせました。転校後、ボビーは出演した映画の事で笑い者にされたりして成績は大幅に下がり、ドラッグを摂取するようになります。翌年ボビーはハリウッド・プロフェッショナル・スクールに復学し、1955年5月に卒業しました。ボビーは1956年にマリファナ所持でハジメテ逮捕されましたが、告発は却下されました。1955年『スカーレット・コート』に出演し、1958年に最後の出演映画『パーティー・クラッシャーズ』に出演しました。ボビーが洗車している時に、二人の野次馬とイザコザガあって一人を銃で殴った為、暴行罪で起訴されましたが告訴は取り下げられました。ボビーの最後のテレビ映画出演は、アンソロジー・ドラマテレビ・シリーズ「The Best of the Post」とテレビ映画「ブラナガン」での小さな役での出演でした。ボビーは1961年の後半に麻薬中毒患者として有罪判決を受け、カリフォリニア州チノの麻薬リハビリーテンション・センターに収監されました。1965年、ボビーはブロードウェイの舞台に出演しようとニューヨークに移住しましたが、失敗に終わります。1965年以降、アンディ・ウォーホルのグリニッチ・ヴィレッジにあるアート・コミュニティに出入りするようになり、芸術家として活動しました。その頃、アンダーグラウンド映画『Dirt』に出演し、これが遺作となりました。

 1968年3月30日、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるアパートで遊んでいた二詠の少年が、簡易ベッドに横たわるボビーの遺体を発見しました。死後検査の結果、彼は薬物使用による進行したアテローム性動脈硬化症による心不全で死亡したと診断されました。遺体には身元を確認出来るものが無く、身元不明のホームレスと扱われた彼の遺体は、ニューヨーク市のハート島ポッターズフィルドにある共同墓地に埋葬されました。1969年後半に母親がディズニー・スタジオに連絡を取り、ボビーの行方を探して欲しいと依頼します。ニューヨーク市警察で行われた指紋照合の結果、ハート島の共同墓地に埋葬されたのはボビーだと数ヶ月後に判明しました。カリフォルニア州にある父親の墓石にボビーの名は刻まれていますが、彼の遺体はハート島の共募地に埋蔵されたままです。

メアリー・ウッドリー役の
バーバラ・ヘイル(27歳)

バーバラ・ヘイル(1922年4月18日~2017年1月26日)は、イリノイ州デカルブ生まれの映画およびテレビの俳優です。1940年、ヘイルはイリノイ州ロックフォードのロックフォード高校最後の卒業生の一員でした。その後、シカゴに移転して、モデルをしながらシカゴ美術アカデミーに通いました。1943年ハリウッドに移り、RKOと契約をして、『ギルダースリーブのバッド・デイ』で映画デビューしました。ノン・クレジットで端役で出演し、1944年“名探偵ファルコン”シリーズの2本に出演しました。1948年『緑色の髪の少年』、1949年『ジョルスン ~再び歌う~』、1950年『ザ・ジャックポット』、1953年『最後の酋長』・『路上のライオン』、1956年『第7騎兵隊』、1957年『開拓者の血闘』(最後の主演作品)等に出演し、1978年『ビッグ・ウェンズディ』では、ヘイルの実の息子のウィリアム・カットが演じるキャラクターの母親役を演じました。

 ヘイルはテレビ映画「ペリー・メイスン」で法務秘書デラ・ストーリーを演じました。この番組は1957年から1966年まで271話制作されました。ヘイルはこの役でエミー賞のドラマシリーズ助演女優賞を受賞しました。1985年に再び「新・ペリー・メイスン」は1995年まで29本製作され、ヘイルとレイモンド・バーは出演しました。ヘイルは2017年1月26日、カリフォルニア州シャーマンオークスの自宅で、慢性閉館性肺疾患の合併症により94歳で亡くなりました。

エド・ウッドリー役の
アーサー・ケネディ(35歳)

 アーサー・ケネディ(1914年2月17日~1990年1月5日)は、マサチューセッツ州ウースター生まれの舞台および映画俳優です。ケネディはウースターのサウス高校に通い、ウースターアカデミーを卒業しました。その後ペンシルバニア州ピッツバーグのカーネギー工学大学で演劇を学び、1934年に学士号を取得して卒業しました。ケネディはニューヨーク市に移り、ジョン・ケネディと名乗ってグループ・シアターに入団し、レパートー会社のツァーに参加しました。1937年9月にセント・ジェームズ劇場で「リチャード三世」に出演し、ブロードウェイ・デビューしました。1939年には「ヘンリー四世、パート1」に出演しました。

 ケネディは1940年の『栄光の都』で映画デビューし、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『空軍/エア・フォース』に出演しました。第二次世界大戦中は1943年から1945年までアメリカ陸軍航空軍に勤務し、俳優・ナレーターとして航空訓練映画を製作していました。1940年代から1960年半ばにかけて、『高原児』『チャンピオン』、『ガラスの動物園』、『必死の逃亡者』『走り来る人々』『エルマー・ガントリー』、『バラバ』『アラビアのロレンス』『シャイアン』『ミクロの決死圏』等に出演しました。特に1951年『怒りの河』、1955年『ララミーから来た男』での悪役の演技は素晴らしいです。又、同時期ケネディは舞台にも出演していて、1949年アーサー・ミラーの「セールスマンの死」でトニー賞を受賞しています。ほかに1947年「オール・マイ・サン」、1953年「るつぼ」、1961年「ベケット」、1968年「プライス」に出演しています。1975年に奥さんが亡くなってからは映画出演への興味が失せて、数本の映画に出演しただけでした。

ジョー・ケラーソン役の
ポール・スチュアート(41歳)

 ポール・スチュワート(1908年3月13日~1986年2月17日)は、ニューヨークのマンハッタン生まれの劇場、ラジオ、映画、テレビの性格俳優、監督、プロデューサーです。彼は公立学校に通い、コロンビア大学で法律を学びました。1925年にベラスコ劇場トーナメントで優勝して、ニューヨークで舞台デビューします。その後、1930年にはブロードウェイの舞台に出演し、1932年まで舞台に出演していました。スチュアートはシンシナティに移り、ラジオ局WLWで働くようになります。13ヶ月間、WLWのラジオ制作に関する演技、アナウンス、監督、プロデュース、脚本、音響効果の制作等のあらゆる仕事をしました。スチュアートはニューヨークに戻り、ラジオ番組の「マーチ・オブ・タイム」に出演しました。1934年、スチュワートは仕事を得る事が出来なかったオーソン・ウェルズをノウルズ・エントリキン監督に紹介しました。エントリキンはウェルズにラジオでの最初の仕事を与えました。1935年3月、スチュワートはウェルズをホーマー・フィケット監督に推薦し、ウェルズはオーディションを受けてパートリー会社に採用されました。パートリー会社の「マーチ・オブ・タイム」はラジオで最も人気のある番組で、ドラマの出演者は俳優やアナウンサー等で構成されていました。スチュアート、ウェルズ、アグネス・ムーアヘッド、ジャネット・ノーラン、リチャード・ウィドマーク、アート・カーニー、レイ・コリンズ、ペドロ・デ・コルドバ、ナンシー・ケリー、ジョン・マッキンタイア等が、マーキュリー・シアターで演じるメンバーの一部です。1938年10月に放送されたドラマ仕立ての「宇宙戦争」で、スチュワートはリハーサルディレクター、俳優、共同脚本を担当しました。1939年にはアーティ・ショー楽団の最初のボーカリストとなり、ラジオ、映画、テレビに出演していました。そしてウェルズの依頼を受けて、1941年の『市民ケーン』で映画デビューします。1941年3月24日から6月28日までセント・ジェームズ劇場で、「ネイティブサン」に出演しました。

 第二次世界大戦中、スチュワートはニューヨークに本拠を置く戦争情報局で、1941年から1943年まで勤務しまし、ドキュメンタリー映画のナレーションを担当していました。又、“ボイス・オブ・アメリカ”でアメリカの新聞のニュース、社説、有名な演説等をヨーロッパに向けて放送しました。その他、アメリカ兵士の士気を高めるラジオ番組を放送したり、戦時国債の購入促進させるラジオ番組を制作していました。

 戦後スチュワートは、俳優として『窓』『チャンピオン』『デッドラインUSA]、『蜘蛛の巣』、『偉大な生涯の物語』、『冷血』、『オーソン・ウェルズのフェイク』『ピンク・パンサー4』、『風の向こうへ』等多くの映画に出演しました。1950年にはロードウェイ公演の「ミスター・ロバーツ」に出演しています。テレビでは「トワイライト・ゾーン」、「ドクター・キルディア」、「ペリー・メイスン」、「マニックス」、「スパイ大作戦」、「ロックフォードの事件メモ」、「コロンボ」等の監督をしました。スチュワートは、5,000のラジオやテレビ番組に出演または監督しましたが、通常はクレジットされていません。スチュワートは長い闘病生活の末、1986年2月17日にロサンゼルスのシダーズ・サイナイ・メディカル・センターで、心不全の為77歳で亡くなりました。

ジーン・ケラーソン役の
ルース・ローマン(27歳)

 ルース・ローマン(1922年12月22日~1999年9月9日)は、マサチューセッツ州リン生まれのアメリカの映画、舞台、テレビの女優です。ローマンはボストンのウィリアム・ブラックストーン・スクールとガールズ・ハイスクルールに通いました。その後、ボストンの名門ビショップ・リー・ドラマティック・スクールに入学し、女優を目指します。ニューイングランド・レパートリー・カンパニーとエリザベス・ピーボディ・プレイヤーズで演技するスキルをさらに高めた後、ブロードウェイの舞台に立つ為にニューヨークに移ります。ローマンは生計を立てる為、タバコガール、帽子チェックガール、モデルとして働き貯金もしました

 ローマンはハリウッドに移り、1943年『ステージ・ドア・キャンティーン』で映画デビューしました。その後、1944年『君去りし後』、1946年『ギルダ』、1948年『善人サム』、1949年『窓』『チャンピオン』、1650年『ダラス』、1951年『見知らぬ乗客』、1954年『遠い国』・『暗黒街脱出』、1965年『アカプルコの出来事』等に出演しました。1954年から始まったユニバーサル映画の『ジャングルの女王』シリーズ13本に出演しました。

 1960年代にはテレビに出演し始めて、1962年「最後のカルテ」、1963年「ブレーキング・ポイント」、1968年「スパイ大作戦」シーズン3に出演しました。その他、「ガンスモーク」、「ボナンザ」「裸の町」、「ルート66」、「バークにまかせろ」、「FBI」、「アイ・スパイ」等にゲスト出演しています。ローマンは、1999年9月9日カリフォルニア州ラグナビーチの別荘で、眠っている間に自然死しました。76歳でした。

ロス刑事役のアンソニー・ロス(40歳)

 アンソニー・ロス(1909年2月23日~1955年10月26日)は、ニューヨーク市生まれのブロードウェイの舞台、テレビ、映画の性格俳優です。彼はブラウン大学を卒業し、フランスに移ってソルボンヌ大学とナンシー大学で学びました。帰国後、1932年にブロードウェイ・デビューします。1944年にテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」の初演メンバーとして出演しています。

 1944年からノン・クレジットで映画デビューし、1947年『死の接吻』、1950年『拳銃王』、1952年『危険な場所で』、そして1951年コロンビア・ピクチャーの15話連続映画の『ミステリアス・アイランド(原題)』に出演しました。1954年のCBSのテレビ映画シリーズ「The Telltale Clue」で警察署長のリチャード・ヘイルを演じました。1955年ミュージック・ボックス・シアターで「バス・ストップ」の公演を終えたて、マンハッタンのアパートで就寝中に心臓発作で亡くなりました。46歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.22 『ビッグ・トレイル』の続き

 タイトルの『ビッグ・トレイル』は大規模な幌馬車隊の意味で、50台位の幌馬車隊がミシシッピーからオレゴンまでの4023キロを進む話です。幌馬車隊はコールマンに道先案内人の依頼をしますが、友人トムを殺害して毛皮を盗んだ犯人捜しの為断ります。コールマンは知り合いのリディの家で、西部に向かうルースに人違いをしてキスしてしまいます。ルースは怒ってここから彼への反目が始まります。コールマンは毛皮商人から得た情報から友人殺しの犯人が幌馬車隊にいると思い、道先案内人を引き受けます。既にフラックが案内人になっていましたが、先住民と友好関係にあるコールマンにも幌馬車隊は案内人を依頼します。船上で賭博をしていた賭博師のソープは、船長から下船と町に残る事を禁止されます。ソープは旧知のフラックに会い、幌馬車隊に同行する事にします。

出発準備中の幌馬車隊(左)  出発した幌馬車隊(右)

 この映画の見せ場は、やはり幌馬車隊の道中の出来事を克明に描いている処です。冒頭の幌馬車と群衆の映像は圧巻で、出発準備の状況も分かり易く描かれています。移動を始めた幌馬車隊を画面一杯に捉え、幌馬車と共に移動する牛の群れも映し出しています。その後、川を横切り場面では流れに負けて倒れる幌馬車があったり、牛を向う岸に移動させるさまが分かります。

川を渡る幌馬車隊(左)  沈みながら流される幌馬車(右)

 コールマンは先住民二人を連れ立って、食料調達の為にバッファロー(正しくはアメリカン・バイソン)を狩りに行きます。それを聞いたフラックは、ピートとロペスにコールマンを殺すように指示します。狩りをしているコールマンは、銃で撃たれて倒れます。ピートとロペスは、コールマンを仕留めたとフラックに伝えます。幌馬車隊が川を渡っている時に、コールマンが馬無しで現れてルースの幌馬車で川を渡ります。ルースに声を掛けたフレックたちは、幌馬車から降りて来たコールマンを見て驚きます。コールマンは“どうした。幽霊でも出たか”とフレックに言います。ジークの所に行き、隊を離れたのはピートとロペスだと知ります。その時、突然先住民が丘の上に表れます。コールマンとは旧知の先住民ブラック・エリクたちで、幌馬車隊と友好関係を結びます。

ブラック・エリクと
友好関係を結ぶコールマン

 森を通る時は木を伐採して道を作ったり、崖から幌馬車や牛を下に下す場面があり、下ろし損ねて破壊する幌馬車も描かれています。凄い場面が映し出されていますが、淡々と描かれていて私は少々物足りない感じがしました。この道中の間、コールマンはルースを色々と手助けをした事により、彼女は徐々にコールマンを理解するようになります。一方、邪魔なフラックはコールマンを殺害する為に、ソープの弱みに付け込み殺害させるように仕向けますが、コールマンの相棒のジークに返り討ちに合いソープは射殺されます。

木を伐採して道を作る(左)  崖下に幌馬車や家畜を降ろす(右)

 友好関係にない先住民の襲撃があり、50台位の幌馬車で円陣を組み中に馬や牛を入れ、男達は銃を構え女性は銃の弾込めをして待ち構えます。画面に円陣を組んだ幌馬車隊に向かって先住民が襲撃を始め、銃撃戦が開始されてからの場面は迫力がある場面になっています。先住民の三度の襲撃に耐え、犠牲者を出しながらも何んとか撃退します。コールマンは手伝ってくれた先住民を彼らの村まで送って行きます。幌馬車隊は雨が降る中、沼地を乗り越えて平坦な道に出た時コールマンが帰って来ます。ルースに挨拶に行こうとしますが、5日前に馬車が動かなくなりその場に残った事を知ります。コールマンは直ちにルースたちを助けに行きます。

円陣を組む幌馬車隊(左)  先住民との銃撃戦(右)

 やがて雪が降り吹雪になります。フラックは先に進めないから引き返そうと言いますが、コールマンが皆を説得して先に進みます。フラックは今度ロペスにトムのナイフで、コールマン殺害を命令します。ロペスは殺害に失敗してナイフを置き去りにして逃げ出します。このナイフを見たコールマンは、トム殺害の犯人はフラックとロペスであると確信します。逃げ帰ったロペスは殺害失敗をフラックに告げると、フラックはロペスと共に逃げ出します。

 幌馬車隊は目的地の渓谷を見下ろす山の上に着き、コールマンは皆と別れてフラックとロペスを探しに行こうとします。ルースは必至に制止しようとしますが、コールマンは出て行きます。雪が降る中、ロペスは力尽きたのか倒れています。フラックはロペスを置き去りにして一人で逃げます。雪に埋もれて死んだロペスをコールマンは見つけ、フラックを追跡します。フラックを見つけたコールマンは声を掛け、ナイフを投げてフラックを倒します。

渓谷を見下ろす幌馬車の人たち(左)
コールマンを阻止しようとするルース(右)

 渓谷に着いた幌馬車隊の人たちは、夫々協力し合って家を建てています。ジークはルースにここから出て行くと云う話をしている時、コールマンが向かってきていると気が付きます。ジークはルースにコールマンからの贈り物があるから巨木の辺りに行って見つけるように言います。喜んでルースが巨木の所に行って贈り物を探していると、コールマンが現れるという粋なラスト・シーンで終わります。それにしてもこの巨大の林は圧巻です。

コールマンの話をするッジーク(左)
コールマンを出迎えるルース(右)

 素晴らしい脚本で巨費を掛けてワイド・スクリーンで撮影されたにも関わらす、残念ながらこの映画は興行的に失敗しました。キャリアが浅い無名の新人ジョン・ウェインは、背一杯の演技をしていたと思いますが、やはり観客はスター俳優が出ない映画を観ないのかとも思いました。レンタル店にもあると思いますので、西部劇ファンの方には是非観て頂きたい映画です。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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『ビッグ・トレイル』 作品データ

アメリカ 1930年製作 モノクロ 121分
原題:The Big Trail

監督:ラォール・ウォルッシュ

原作:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

脚本:ラォール・ウォルッシュ、ハル・G・エバーツ

撮影:ルシエン・アンドリオ

助監督:アーチボールド・ブカナン

出演:ジョン・ウェイン、マルゲリーテ・チャーチル

   エル・ブレンデル、タリー・マーシャル

   タイロン・パワー・シニア、チャールズ・スティヴンス

   イアン・キース、フレデリック・バートン

   デイヴィッド・ローリンスラス・パウエル

   ウィリアム・V・モング、マーシャ・ハリス

   ヘレン・パリッシュ

Vol.21 『ビッグ・トレイル』

『ビッグ・トレイル』
発売元:20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント

 『ビッグ・トレイル』の主役は当初パラマウントのゲイリー・クーパーを予定していましたが、貸し出して貰えず無名の新人マリオン・ロバート・モリソンを主役に抜擢しました。ラオール・ウォルシュ監督は、この新人にジョン・ウェインと名付けました。ジョン・ウェインが演じているのは、山や森で動物や原住民と共に暮らすナイフの名人ブレック・コールマン。サイレント映画時代から数多くの映画に出演している名脇役タリー・マーシャルが彼の相棒のジークを演じていて、ヒロインのルース・キャメロン役はマルゲリーテ・チャーチルです。そして、強欲で狡賢い悪役レッド・フラックをタイロン・パワー・シニアが演じています。フラックの相棒ロペスをチャールズ・スティヴンス、もう一人の悪役の賭博師ソープをイアン・キースが演じています。

【スタッフとキャストの紹介】

ラオール・ウォルシュ監督

 ラオール・ウォルシュ(1887年3月11日~1980年12月31日)は、ニューヨーク生まれのアメリカ合州国の映画監督・俳優・映画芸術アカデミー(AMPAS)の創設メンバーです。ウォルシュは高校時代“オメガ・デルタ・クラブ”のメンバーでした。その後シートン・ホール大学に進学しています。1909年に演技を始め、ニューヨーク市で初舞台を踏んでいます。その後ウォルシュは1912年に映画界入りし、ディヴィット・W・グリフィスの手伝いをしながら映画作りを学びました。1913年に本名からラォール・ウォルシュに改名し、短編映画を撮り監督としてもデビューしました。1915年の『国民の創生』ではグリフィス監督のアシスタントを務め、俳優としてリンカーン大統領を暗殺する役を演じています。1915年最も初期の長編ギャング映画『再生』を、マンハッタンのバワリー地区でロケ撮影して監督しました。この映画は公開当時絶賛され、2000年に米国議会図書館によって米国国立フィルム登録簿に保存されました。

 第一次世界大戦中、ウォルシュはアメリカ陸軍の将校として勤務していました。1924年にはダグラス・フェアバンクスが製作・主演した『バグダットの盗賊』の監督に抜擢されます。1926年にはヴィクター・マクラグレンとドロレス・デル・リオ主演の『栄光』を監督しました。1928年グロリア・スワンソン主演の『港の女』では、ウォルシュは13年振りに俳優として出演して監督もしました。1928年の『懐かしのアリゾナ』撮影中に事故の為、右目を失明してアイ・パッチを付けています。1930年に『ビッグ・トレイル』『彼奴(きやつ)は顔役だ!』、1941年『壮烈第七騎兵隊』『いちごブロンド』、1949年『白熱』、1952年『海賊黒ひげ』等を監督しています。1920年代から1960年代までに西部劇からギャング映画やら海洋冒険映画やらコメディと様々のジャンルの映画の監督をしています。ウォルシュは1964年に引退し、1980年12月31日に93歳で心臓発作の為亡くなりました。彼の映画は主人公の人間性を掘り下げ、メリハリのある演出とテンポの良い展開で大好きな監督です。

ブレック・コールマン役
ジョン・ウェイン(23歳)

 ジョン・ウェイン(1907年5月26日~1979年6月11日)は、アイオワ州ウィンターセット生まれの映画俳優、プロデューサー、監督です。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居しました。ウェインは何処に行く時にもエアデール・テリアの愛犬“リトル・デューク”を連れていました。隣人がウェインを“ビッグ・デューク”と呼び始め、以後愛称が“デューク”となりました。高校卒業後に海軍兵学校へ出願しますが入学出来ず、南カリフォルニア大学に入学しました。在学中フットボールをやりましたが、水泳中に怪我をして協議生命を絶たれました。大学時代に田舎の映画スタジオで働き始め、トム・ミックスの紹介で大道具係をするようになり、1928年には端役で映画出演するようになります。1930年にジョン・フォード監督の紹介で、『ビッグ・トレイル』の主役になりました。『ビッグ・トレイル』は、撮影に特殊な70㎜フィルムを使い200万ドルの巨費で製作されましたが、興行的には失敗しジョン・ウェインはその後B級専門俳優として、1939年の『駅馬車』に出演するまで鳴かず飛ばずの状態が続きます。しかしその不遇期間に射撃、乗馬、格闘技を習得したり、歌うカウボーイとして馬に乗りながら歌を歌う映画にも出演しています。1933年の『伝説のガンマン』では白馬に乗ってギターを弾きながら歌っています。

 1939年に出演した『駅馬車』が大ヒットして、主役を演じてたウェインはジョン・フォード作品の看板役者になります。その後『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』『静かなる男』『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを撃った男』等、35年間にフォード作品には20作以上に出演しました。ウェインは西部劇や戦争映画で強くて逞しいヒーローを演じ続けていましたので、“アメリカの英雄”と称賛されていました。しかし、ウェインは兵役についていません。1940年に徴兵が復活し、1941年徴兵該当年齢の34歳でしたが、徴兵猶予を申請して受理されました。第二次世界大戦が終了する1945年までハリウッドに残って21本の映画に出演しました。

 1948年の『赤い河』の大ヒットでウェインは、名実共にスターの座を獲得しました。愛国主義者のウェインはタカ派俳優として非難されていましたが、ベトナム戦争時には1968年『グリー・ベレー』で製作・監督・主演して、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描きました。1964年に肺癌を宣告され片肺を失いますが、闘病を宣言して俳優活動を続けました。ウェインは1949年の『硫黄島の砂』と1960年の『アラモ』で、アカデミー賞にノミネートされましたが受賞出来ませんでした。1969年の『勇気ある追跡』で念願のアカデミー主演男優賞を受賞しました。種がい出演した映画は154本で、西部劇は79本でした。遺作になった1979年の『ラスト・シューティスト』では、過去に出演したヒーロー像と自身の現実を織り交ぜたJ・B・ブックスを演じました。ラストではロン・ハワードに止めの一発を撃たせ、恰もロン・ハワードに未来の映画界を託したような暗示を感じさせます。胃癌の悪化で1979年5月1日からカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院して治療していましたが、1979年6月11日に死亡しました。

ジーク役のリー・マーシャル(66歳)

 タリー・マーシャル(1864年4月10日~1943年3月10日)は、カリフォルニア州ネバダシティ生まれの性格俳優です。マーシャルは私立学校とサンタクララ・カレッジに通い、工学の学位を取得して卒業しました。18歳で舞台に出演し、1883年3月にはサンフランシスコのウインターガーデンの舞台に出演しています。1887年からは、ブロードウェイで様々な舞台に出演しています。マーシャルはエドワード・ヒュー・サザンの元で演技と舞台演出を学び、様々なレパートリー劇場の舞台に出演しました。1914年ハリウッドに移り、『全額支払われた』でスクリーン・デビューしました。その後、膨大な数の作品で様々な役を演じました。1916年『イントレラス』、1918年『スコーマン』、1921年『蓮の花』、1923年『ノートルダムのせむし男』、1929年『フーマンチュー博士の秘密』1930年『ビッグ・トレイル』・『トム・ソーヤの冒険』、1932年『グランド・ホテル』、1935年『二都物語』、1941年『ヨーク軍曹』、1942年『拳銃貸します』等です。マーシャルは1943年3月10日、カリフォルニア州エンシノの自宅で、心臓発作を起こして78歳で亡くなりました。

ルース・キャメロン役
マルゲリーテ・チャーチル(20歳)

 マルゲリーテ・チャーチル(1910年12月26 ~2000年1月9日)は、アメリカの舞台俳優で映画俳優です。子役だったチャーチルは、1922年12月25日にブロードウェイの舞台に初登場します。その後、16歳でブロードウェイの主役女性俳優として称賛されました。彼女の演技を観たフォックス・フィルムの関係者が契約結び、1929年『The  Diolomats』でスリーン・デビューしました。同年ポール・ムニの映画デビュー作『ヴァリアント』に出演し、1930年『ビッグ・トレイル』に主役女優として出演しました。1931ン年『速成成金』・『怪探偵張氏』、1933年『女難アパート』、1936年『歩く死骸』『女ドラキュラ』等に出演し、ブロードウェイの舞台に出演していました。

レッド・フラック役
タイロン・パワー・シニア(61歳)

 タイロン・パワー・シニア(1869年5月2日 ~1931年12月23日)は、イギリス・ロンドン生まれのアメリカの舞台俳優で映画俳優です。パワー家は4代続いた芸能一家で、アイルランドの人気コメディアンのウィリアム・グラートン・・タイロン・パワーから始まり、フレデリック・タイロン・エドモンド・パワー(タイロン・パワー・シニア)、タイロン・エドワード・パワー3世(タイロン・パワー・ジュニア)、タイロン・ウィリアム、パワー4世と4代続いています。

 タイロン・パワー・シニアは、ロンドンのハンプトンにある私立全寮制男子校のハンプトン・スクールに通い、その後イングランド南東部のドーバーにある全寮制のドーバ-・ケレッジに通いました。1883年、14歳の時両親の意向でイギリスからフロリダに行き、柑橘類の栽培を学びました。数年後、パワーは農作業から逃げ出してフロリダ州セントオーガスティンの劇場会社に入社します。1889年11月29日に「私設秘書」で舞台デビューし、1889「ベッキー・シャープ」、1903年「ユリシーズ」に出演しました。1908年の「家の召使」は124回上演され、その他多くのシェイクスピア劇で様々な役を演じ、世界中をツァーで回りました。1914年にはサイレント映画『貴族政治』、1918年『私の子供はどこにいますか?』等で主役を演じていましたが、悪役に転向して大成功を収めます。パワーは1930年の『ビッグ・トレイル』で悪役のレッド・フラックを演じましたが、唯一のトーキー映画でした。その後、1919年の『奇跡の男』のサウンド・リメイク版の『ミラクルマン』の撮影に入りますが、1931年12月23日にハリウッド・アスレチック・クラブのアパートで、心臓発作で亡くなりました。62歳でした。

フラックの相棒ロペス役
チャールズ・スティヴァンス(37歳)

 チャールズ・スティヴァンス(1893年5月26日~1964年8月22日)は、アリゾナ州ソロモンビル生まれのアメリカ合州国の俳優です。彼は1915年から1961年の間に約200本の映画に殆どノン・クレジットで出演しました。親友のダグラス・フェアバンクス・シニアの映画には、ほぼ全てに出演しています。スティヴンスは1916年『国民の創生』で映画デビューし、西部劇では主にネティブ・アメリカンやメキシコ人を演じています。1921年『三銃士』、1922年『ロビン・フット』、1926年『海賊』、1929年『鉄仮面』、1930年『ビッグ・トレイル』、1939年『フロンティア・マーシャル』、1940年『荒野の勇者 キット・カーソン』、1941年『血と砂』等に出演しました。又、1937年からの『ワイルド・ウエスト・デイズ』は13本の連続映画に出演し、1942年からの『オーバーランド・メール』も15本の連続映画に出演しています。1950年代には多くのテレビ番組に出演しています。「名犬リンチンチン」、「怪傑ゾロ」、「ローン・レンジャー」や日本未放映の「ワイルド・ウエストの冒険」、「キット・カーソンの冒険」、「スカイ・キング」にレギュラー出演しています。1961年のトニー・カーティス主演の『硫黄島の英雄』が遺作になりました。

賭博師ソープ役
イアン・キース(31歳

 イアン・キース或いはアイアン・キース(1899年2月27日~ 1960年3月26日)は、アメリカの俳優です。彼はマサチューセッツ州ボストンで生まれ、シカゴで育ちました。シカゴのフランシス・パーカー・スクールで教育を受け、16歳の時に学校の舞台壁でハムレットを演じました。キースは1919年に本名のキース・ロスの名で、ボストンのコンプリー・レパートリー・シアターで舞台に出演し、ブロードウェイではイアン・キースとして出演していました。1924年『嬲られ者』で映画デビューし、1925年『我が子』、1927年『美人国二人行脚』、1930『ビッグ・トレイル』、1932年『暴君ネロ』、1933年『クリスチナ女王』、1934年『クレオパトラ』、1935年『十字軍』・『三銃士』、1940年『シーホーク』、1947年『悪魔の往く町』、1948年『三銃士』、1955年『凶弾の舞台』・『水爆と深海の怪物』、1956年『十戒』等に出演しました。『三銃士』の1935年度版と1948年のリメイク版ではド・ロシュフォール伯爵を演じていました。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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Vol.20 『フロンテア・マーシャル』おまけ

『フロンテア・マーシャル』のトップはこちら

 西部劇の定番として、悪人との対決や復讐劇の中にヒロインとのロマンスを絡める話が多いです。しかし、『フロンテア・マーシャル』では、アラン・ドワン監督はワイアット・アープを沈着冷静で凄腕のガン・マンとして描き、彼のロマンスを排除しています。その代わり架空の女性二人を登場させて、ドク・ホリディとサラとジェニーの三角関係を導入しています。この映画はワイアット・アープの実名を使用した最初の映画で、アープの妻のジョセフィーン・アープに版権料を払って製作された為、ワイアット・アープのロマンスに触れていないようにしています。ジョセフィーン・アープは、作家のスチュアート・N・レイクにワイアットが口述したトゥームストーンでの話から、大部分を削除したり言い換えをしています。彼女が話す経歴は虚偽が多く実像を把握するのは難しいですが、現在分かっている情報で確実な事は、元舞台俳優で娼婦だった事です。

コルト・バントライン・スペシャル 1956年(上)
コルト・シングル・アクション・アーミー1874年(下)

 ドク・ホリディことジョン・ヘンリー・ホリデイは、歯科医師の免許を持っていた為“ドク”とか“ドク・ホリディ”と呼ばれていました。歯科医師ながら劇中では難しい外科手術をしていて素晴らしいシーンになっていますが、勿論映画の創作です。ワイアットとドクの出会い後、酒場のカウンターで拳銃談義の時に“コルト・バントライン・スペシャル”の話が出て、ドクの愛用銃となっていましたが、ワイアットの銃が定説になっています。作家のネッド・バントライン(本名:エドワード・ゼイン・キャロル・ジャドソン・シニア)が、コルト社に銃身12インチの“コルト・バントライン・スペシャル”を発注した事になっています。しかし、調査の結果ではコルト社へ発注した記録はありませんでした。これは実在した証拠が無い為、「ワイアット・アープ:フロンティア・マーシャル」を書いた作家のスチュアート・N・レイクの創作だと云われています。

バント・ライン・スペシャルとストック

 コルト社の銃は全てシリアル・ナンバーが打たれていますので、調べた処“コルト・バントライン・スペシャル”は1956年から製作していました。この映画の時代設定の1881年には存在していません。劇中ドクは手術後カーリーに射殺され、彼の墓に1880年没した事になっていましたが、実際には1887年11月8日にコロラド州グレンウッド・スプリングスで、肺結核の為35歳で亡くなっています。

 本作の最後にジェニーに射殺されたカーリイ・ビルは、“ザ・カウボーイズ”のメンバーで彼らの邪魔をするワイアットと対立する悪党です。“ザ・カウボーイズ”は牛泥棒もする悪党集団で、アイク・クラントン一家もメンバーですが本作には登場しません。カーリイ・ビルは、OKコラールの銃撃戦の後に郊外の材木作業所に隠れていた時にワイアットに射殺されています。

 本作では物語を簡潔にしてすっきり纏める為か、アープ兄弟は登場していません。実際は兄のヴァージル・アープが警察署長代理で、ワイアットは兄の任命で保安官代理となり、弟のモーガンとウォーレンも同様に保安官代理になっています。銃撃戦があったコラール(CORRAL)は、一時的に牛や馬等の家畜を置く場所で街のすぐ近くにあります。このコラールは日本には無いものなので、『OK牧場の決斗』の公開時に日本のユナイト社はコラールを牧場にしました。映画が大ヒットした為、日本ではコラールが牧場になってしまいました。映画ではこの銃撃戦を決闘として作り上げていますが、実際は“ザ・カウボーイズ”のメンバーが銃器を所持してOKコラールに集合していた為、武装解除を伝えに行ったヴァージルを銃で撃って来たので始まったものです。偶発的に起こった銃撃戦で、決闘ではありません。その時ヴァージルは肩を撃たれて負傷しています。アイク・クラントン一家のその場にいましたが、アイク・クラントンは逃げ出し息子のビリー・クラントンは射殺されています。実際の処、どの映画にも出てこない群保安官のジョニイ・ビーハンの事は、今回は書きませんが機会があれば書きたいと思っています。

『荒野の決闘』、『OK牧場の決斗』、『トゥームストーン』

 映画は史実通りに作る必要も無く、監督の思うテーマに沿うように脚色されて面白くなれば良いと思っています。ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』(1946年)は、『フロンテア・マーシャル』の基本的なプロットを引き継でいます。ワイアットとクレメンタインのロマンスを中心に、クラントン一家との対立によるアープ兄弟との決闘にしています。一方、ジョン・スタージェス監督は『OK牧場の決斗』(1957年)では史実と別にワイアットとドクの男の友情を軸に、クラントン一家との決闘での銃撃戦をメインに活劇映画として仕上げています。史実に近い映画としては、ジョージ・P・コスマスト監督の『トゥームストーン』(1993年)です。この映画のドク・ホリディは、ほぼ史実に沿った状態で描かれています。ドク・ホリディ役のバル・キルマーが良いですね。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

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Vol.19 『フロンテア・マーシャル』の続き

金鉱脈を探すエド・シーフェリン(左)  銀鉱石を発見したエド(右)

 オープニング・タイトルで1887年南アリゾナの岩山の頂が映り、一人の男がアパッチ族の調査をしながら金鉱脈を探しています。男の名前はエド・シーフェリン、彼は広大な銀鉱脈を発見しました。カリフォルニアのゴールド・ラッシュに続き、シルバー・ラッシュが始まりトゥームストーンが大都市になるまでを3分弱でドワン監督は演出しています。銀鉱脈を発見したエド・シーフェリンは、トゥームソーンの設立者です。

左からカーター、チャーリー、カーリー

 “歓楽の宮殿”を経営しているベン・カーターの元に、カーリー・ビルと三人組が金を運んできます。通りの向かいに新規開店した“ベラ・ユニオン”を眺めながら、インディアン・チャーリーにウィスキーを好きなだけ飲ませます。チャーリーは泥酔した状態で“ベラ・ユニオン”に入り、客の一人を撃ち殺して立て籠ります。周辺は騒然となり、市長は保安官に逮捕するように命令しますが、ワード・ボンド演じる保安官は拒否します。煩くて眠れないと、2階からワイアット・アープが声を掛けて降りてきます。その場で保安官代理になり、一人酒場に乗り込み銃で1発撃ち込んで倒し、気絶した酔っぱらいの片足を掴んで引き吊りながら出来ます。(このシーンのランドルフ・スコットは、とてもカッコいいです。)市長から保安官になって欲しい依頼されますが、断ります。その直後、ワイアットはカーリーを始めとする3人組に連れ出されてリンチにあいます。ワイアットは先程断った市長の申し入れを受けて保安官になり、3人組を同じ場所に連れ出に仕返しをし警告して帰ります。

チャーリーを引き摺り出すワイアット

 “ベラ・ユニオン”で歌うジェリーがステージを終えて、ポーカーをしているテーブルに来ます。一人の手札を見て、向かいに座るダンにサインを送ります。それを見ていたワイアットは、ジェリーを表に連れ出して注意をします。ジェリーはワイアットに平手打ちをしたので、ワイアットはジェリーを水桶に放り込みます。ポーカーを続けていると、ドク・ホリディが現れます。ドクはジェリーの件で文句を言ってきますが、急に咳き込んでしまいます。過去にドクとイザコザガあったダンは、ドクを射殺しようとしますがワイアットが阻止します、ワイアットに命を救われた事により、二人は友人となります。カウンターでワイアットはウィスキーを飲み、禁酒中のドクはミルクを飲んで拳銃談義で盛り上がります。

左からドク、ピート、ワイアット

 そんな時、ドクの婚約者のサラが現れます。ドクとサラは奥の部屋で話始めて、ドクが肺病の自分の事を構わないで帰るように話し、ジェリーを呼んで彼女を愛しているとサラに伝えます。サラは諦めて明日の駅馬車で帰る決心をします。後ほどワイアットはサラの部屋を訪れて、ドクを救えるのは貴女しかいないし、ドクが愛しているのは貴女だと伝えて説き伏せます。ワイアットの説得でサラは町に残る事にします。

サラの出現で困窮するドク

 市長は銀塊の輸送をいつもと違う方法で輸送するので、ワイアットに警護を依頼します。ドアの外でそれを聞いていたジェリーは、ワイアットに復讐する為にベン・カーターに駅馬車を襲うように言います。翌朝ワイアットが馬車に乗車しようとすると、既にドクが乗車していてワイアットと同行する事になります。ドクはワイアットがサラを説得したので、自分が町を出る事にしたとワイアットに云い、余計な事をするなと怒ります、ワイアットはドクをトゥームソーンに連れ帰すと言い合いになりますが、カーターやカーリーたちが駅馬車を襲ってきます。

馬車の中で言い合いになる
ワイアットとドク

 銃撃戦で銃撃戦でカーターを射殺し、撃ち合いながらトゥームストーンに引き返します。途中ドクは銃で撃たれて怪我をします。ドクの治療は始まりますが、ここからサラとジェリーの女の闘いが始まります。看護師のサラには流石のジェニーも部屋から追い出されてしまします。

ドクの治療をするサラ

 そんな時にワイアットとカーリーの仲間との撃ち合いがあり、酒場のピートの子供のパブロが流れ弾に当たって負傷します。町の医者が不在の為、急遽ドクが手術を行う事になります。ここではジェニーはサラと協力して、子供の命を救おうと奔走します。無事手術が終わりサラと通りに出た時、ドクはカーリーに射殺されます。

手術中のドクとサラを見つめるジェニー

 カーリーの呼び出しに応じてワイアットは、OK・コラール(牧場ではありません)に一人で向かい逃げたカーリー以外の全員を射殺します。カーリーは馬のいる所まで逃げて、ライフルでワイアットを撃ちますが、ジェニーがカーリーを射殺します。翌朝、サラは町に残りジェニーは町を出ます。

カーリーを射殺するジェニー(左)ドクの墓に別れを告げるジェニー(右)

 ランドルフ・スコットは、沈着冷静なワイアット・アープ像を見事に演じています。銃で撃つ時も基本的には殺さず負傷させる心情が現れています。彼は保安官役がピッタリあっていますね。ドク役のシーザー・ロメロは死に急ぎ死に場所を探している男から、サラに再会して負傷してからは穏やかさを表すようになり、手術のシーンでは昔のドクに変わってゆく様をキッチリ演じています。一方、サラ役のナンシー・ケリーはとても18歳とは思えない堂々とした演技で、ドクに語りかけるシーンは素晴らしいです。そして、ジェリー役のビニー・バーンズの演技は最高です。パブロの命を救おうとする時の表情や動き、ドクとサラのやり取りを見ている時の表情や、、最後に駅馬車で街を出る時にドクの墓を見る時の表情。どれもジェリーの心情が上手く表れています。本当に素晴らしい女優さんです。

 この映画は、勿論史実と違う点が多々あります。架空の女性二人を登場させて、ドクとの三角関係を軸に物語は展開されています。同じ題材を扱った作品も多いので、次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

「西部劇パ-フェクト・コレクション 復讐の荒野
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フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニーズ・バンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チェイニー・Jr

Vol.18 『フロンテア・マーシャル』

【スタッフとキャストの紹介】

 西部劇と云ったらジョン・ウェインと云う方が多いと思います。1946年に公開された『スポイラース』(1942年製作)のラストの格闘シーンは、4分間の大立ち回りで壮絶な殴り合いでした。あのジョン・ウェイン(35歳)と対等に格闘をしたのが、ランドルフ・スコット(44歳)でした。B級映画の大スターと云われたランドルフ・スコットは、西部劇への出演本数が一番多い俳優です。やはりB級西部劇映画ファンとしては、ランドルフ・スコットから始めます。 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

ワイアット・アープ
ランドルフ・スコット(41歳)

 ランドルフ・スコット(1898年1月23日~1987年3月2日)はヴァージニア州で生まれ、ノースカロライナ州のシャーロットで育ちました。ハイ・スクール卒業後、19歳で陸軍に入隊して第一次世界大戦中のフランスで従軍します。除隊して帰国後、ジョージア工科大学に入学してアメリカン・フットボールの選手として活躍しますが、背中の怪我のため選手活動を諦めてノースカロライナ大学に転校しますが中退します。その後父親が働く会社で働きますが、演劇に興味を持ち父親の知人のハワード・ヒューズに出会い、彼の紹介で1928年に映画界に足を踏み入れます。演技を学んだ事も無いズブの素人ですから、当然エキストラや端役からスタートです。彼の南部訛りは終生西部劇で活かされますが、その最初の切っ掛けは1929年の『ヴァージニアン』です。初主演のゲイリー・クーパーにヴァージニア訛りや馬術を指導し、エキストラとしても出演しています。その後、セシル・B・デビルの勧めで舞台劇に出演して演技の勉強をしました。パサデナ・プレイハウスの舞台やヴァイン・ストリート・シアターでの公演の合間に、1931年『Women Men Marry』に初出演します。スコットはパラマウントと契約し、1932年のコメディ『空の花嫁』に脇役で出演しました。同年パラマウントの『砂漠の遺産』で主役を演じる様になります。ヘンリー・ハサウェイは、この映画で監督デビューしました。当時パラマウントはサイレント映画のストック映像を使って、リメイクしていました。1933年の『雷鳴の群れ』と『森の男』では、サイレント映画スターのジャック・ホルトの映像と合わせる為に、スコットは黒髪にして口髭を生やして出演しました。西部劇の撮影の合間に他社への貸し出しもあり、ラブ・コメディやホラーなど数本の映画に出演しています。1934年には『戦ふ幌馬車』やRKOへの貸し出しで1935年『ロバータ』に出演しています。1936年パラマウントで『艦隊を追って』で再度ミュージカル映画に出演し、『モヒカン族の最後』、1938年『農園の寵児』に出演しました。この後、20世紀フォックスと契約して『地獄への道』、1939年『フロンティア・マーシャル』・『ヴァージニアの血闘』に出演しました。1941年『西部魂』では改心した無法者という今まで演じた事のない役を演じ、1942年にユニバーサルの『スポイラース』では最初で最後の悪役を演じています。

 第二次世界大戦にアメリカ合州国が参戦した時、スコットは海兵隊の士官に志願しましたが、数年前の背中を負傷していた為に拒否されます。参戦出来ないスコットは、ジョー・エリタとコンビをコメディのツアーを行ったり、自分の牧場で政府の為に食料の調達を行ったり、勿論戦争映画にも出演していました。1942年の『リポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』は、アメリカ海兵隊魂を称える映画で戦意高揚映画です。撮影は日米開戦前に撮影が始まり、公開後は海兵隊への入隊者が一気に増加しました。

 1942年西部劇『スポイラース』に出演し、1943年戦争映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン』・『駆潜艇K-225』『ガンホー』に出演しています。1946年『静かなる対決』に出演以降は、1962年の『昼下がりの決斗』まで凡そ40本位の西部劇に出演しました。スコットは『昼下がりの決斗』に出演後、64歳で映画界を引退しました。裕福な家庭で育ったスコットは投資をしていて、一億ドル相当の財をなしたと言われています。1987年にビバリーヒルズの自宅で89歳で心臓と肺の病気で亡くなりました。

 ランドルフ・スコットは出演本数が多いので選ぶのが難しかったのですが、今回は1939年の『フロンテア・マーシャル』にしました。ワイアット・アープ(1848年3月19日~1929年1月13日)は伝説のガン・マンとして実名で度々西部劇に登場し、彼をモデルにした映画も作られています。作家のスチュアート・N・レイクは、ワイアット・アープの口伝を基に「フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ」を1931年に発表しました。この小説は誇張が多く捏造もあり、架空の伝記とされています。この小説を基に『国境守備隊(原題:フロンティ・マーシャル)』が1934年にルイス・セイラー監督によって作られ、その映画のリメイクとして1939年に『フロンテア・マーシャル』が製作されました。

 アラン・ドワン(1885年4月3日~1981年12月28日)は、カナダのオンタリオ州トロント生まれのアメリカの映画監督、プロデューサー、脚本家です。1892年12月4日に、ドワン一家はウィンザーからデトロイトまでフェリーで渡米しました。アラン・ドワンはノートルダム大学で工学を学んだ後、シカゴの照明会社に勤務しましたが、映画業界に関心を持っていました。エッサネイ・スタジオの脚本家になる機会があり、脚本家になります。1911年経営者から消滅寸前の映画会社の調査を依頼され、カリフォリニア向かいます。調査した会社の状況は最悪だったので、シカゴの依頼人に会社を解散するように伝えます。依頼人はアラン・ドワンに会社の運営を一任します。アラン・ワンは1911年8月から1912年7月までカリフォリニア州ラ・メサで、カリフォルニアで最初のスタジオのフライング・A・スタジオを運営しました。その後、アラン・ドワンは西部劇やコメディを数多くの映画を監督しました。1922年にはダグラス・フェアバンクスの『ロビン・フット』やグロリア・スワンソンの8本の長編映画を監督しました。

 トーキー映画時代になり、ドワンはシャーリー・テンプルの1937年『ハイディ』、1938年『農園の寵児』を監督しました。約50年の長いキャリアの中で、あああ125本の映画を監督しました。1949年『硫黄島の砂』、1923年『私刑される女』、1954年『バファロウ平原』、1956年『敵中突破せよ!』等です。

ドク・ホリディ
シーザー・ロメロ(32歳)

 シーザー・ロメロ(1907年2月15日~1994年1月1日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの俳優、活動家です。ロメロはニュージャージー州ブラッドビーチで育ち、ブラッドビーチ小学校、アズベリーパーク高校、カレッジエイト・スクール、リバーデル・カントリーデイ・スクールに通いました。銀行の仕事をしながら、ダンスのトレーニングを受けます。1927年ブロードウェイの「Lady Do!」でダンサーとして開花し、1933年から映画に出演するようになります。ロメロは、1930年代から1950年代にかけて、映画で「ラテンの恋人」を演じ、通常は脇役を演じていました。1934年『影なき男』で悪役を演じ、1935年の『スペイン狂想曲』ではマレーネ・ディートリッヒの相手役で主役を演じました。1935年『メトロポリタン』、1938年『マイ・ラッキー・スター』、1939年からは『シスコ・キッド』シリーズの6本に出演しました。1942年の『オーケストラの妻たち』ではグレンミラー楽団のピアノ・プレイヤー役を演じています。

 1942年10月12日にロメロはアメリカ沿岸警備隊に入隊し、太平洋戦域に従軍しました。1943年11月には沿岸警備隊の乗組員を乗せた攻撃輸送艦キャバリエ (USS Cavalier, APA-37) に乗船し、テニアン島とサイパン島で上陸作戦に従事しました。ロメロは最終的には艦長になりました。その後、1948年『奥様武勇伝』、1954年『ヴェラクレス』、1955年『スピードに命を賭ける男』、1956年『八十日間世界一周』、1960年『オーシャンと十一人の仲間』、1962年『電話にご用心』等に出演しました。1950年代半ばからは多くのテレビ映画に出演し、1965年「0011ナポレオン・ソロ」ではスラッシュのフランス支部のボスを演じ、1966年から1968年までは、「バットマン」でジョーカーを演じていました。1985年から1987年までは、「ファルコン・クエスト」でピーター・スタヴロス役を演じました。

 共和党員のロメロは、1964年のカリフォルニア州の上院選で親友のジョージ・マーフィの選挙応援を積極的に行います。マーフィは民主党のピエール・サリジャーを破って当選し、マーフィは1965年1月1日から1971年1月1日までの1期6年間上院議員を務めました。その後、1966年と1970年の知事選でロナルド・レーガンの為に選挙応援をし、1968年、1976年、1980年、1984年の4回の大統領選挙でも全て選挙応援をしました。ロメロは1994年1月1日、カリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ・ヘルス・センターで、気管支炎と肺炎の治療中に血栓の合併症により86歳で亡くなりました。

サラ・アレン
ナンシー・ケリー(18歳)

 ナンシー・ケリー(1921年3月25日 – 1995年1月2日)は、マサチューセッツ州ローウェル生まれのアメリカ合州国の俳優です。ケリー家は演劇一家で、母親のナン・ケリーはサイレント映画の女優です。母親は一歳のナンシーをモデルとしてキャリアをスタートさせ、子役として1926年の『女王蜂』で映画デビューさせます。ナンシーは、ベントレー・スクール・フォー・ガールズ、イマキュレート・コンセプション・アカデミー、セント・ローレン・アカデミーで学びました。ナンシーは9歳まで子役モデルとして、様々な広告に登場しました。その頃のナンシーは、“アメリカで最も写真に撮られた子供”と言われていました。1929年にはシェイクスピア劇「マクベス」でブロードウェイ・デビューし、1954年にブロードウェイ舞台劇「悪い種子」して1955年トニー賞を受賞しました。1933年から1934年にかけてNBCラジオで放送された、ラジオ・ドラマ「オズの魔法使い」でドロシー・ゲイルを演じました。CBSラジオで1931年から1945年まで放送されていた「マイチ・オブ・タイム」にも出演していました。この番組はタイム社提供のラジオ・ドキュメントとドラマで、ナンシーはドラマに出演していました。このラジオ・ドラマにはラジオ俳優や司会者の他に映画俳優も出演しています。オーソン・ウェルズは11人の人物を演じています。アート・カーニー、ジョン・マッキンタイア、アグネス・ムーアヘッドも出演していました。

 ナンシーは1938年から1956年までに、27本の映画に出演して主役の女性を演じました。1938年『サブマリン爆撃隊』、1939年『地獄への道』『紅の翼』『スタンレー探検記』、1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1943年『ターザン砂漠へ行く』、、1956年『悪い種子』等です。その後、1963年まではテレビにコンスタントに出演し、ブロードウェイでは「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」でマーサ役を数か月演じました。1970年代半ばにテレビにも復帰しています。ナンシーは1995年1月2日、糖尿病の合併症でカリフォルニア州ベルエアの自宅で亡くなりました

ジェニー役のビニー・バーンズ(36歳)
1945年『海賊バラクーダ』アン役のバーンズ(右)

 ビニー・バーンズ(1903年3月25日 – 1998年7月27日)は、ロンドンのイズリントン生まれのイギリスの女優です。バーンズは、コーラス・ガール、看護師、ダンス・ホステスをし、1923年に短編映画で映画デビューしました。イギリスで1933年『ヘンリー八世の私生活』、1934年『ドン・ファン』に出演し、その後ハリウッドに渡ります。1935年『米国の機密室』、1936年『モヒカン族の最後』、1938年『素晴らしき休日』、1942年『西部の顔役』、1966年『青春がいっぱい』等に出演しました。特に.1945年『海賊バラクーダ』では女海賊役で、剣を振り回してアクション・シーンも演じています。1973年『エーゲ海の旅情』の出演を最後に引退しました。バーンズは1998年7月27日、ビバリーヒルズで95歳で老衰で亡くなりました。

ベン・カーター
ジョン・キャラダイン(30歳)

 ジョン・キャラダイン(1906年2月5日~1988年11月27日)はニューヨーキ出身のアメリカ合州国の俳優です。彼が二歳の時父親が亡くなり、母親は再婚しました。ジョンはフィラデルフィアの学校で彫刻を学び、ニューヨークの叔父ピーター・リッチモンドの元で暮らしたり、肖像画を描きながら各地を旅していました。シェイクスピア劇を観てから俳優の道に進みます。1925年に初めて舞台に立ち、1930年から“ピーター・リッチモンド”と名乗りますが、1933年に“ジョン・キャラダイン”と改名して多くの映画に出演しました。1930年代はノン・クレジットで、1933年『透明人間』、1934年『クレオパトラ』、1935年『フランケンシュタインの花嫁』等に出演しています。1936年『虎鮫島脱出』『テンプルのえくぼ』『砂漠の花園』、1937年『我は海の子』『ハリケーン』、1938年『サブマリン爆撃隊』等に出演しました。ジョン・フォード作品の1939年『駅馬車』、1940年『怒りの葡萄』の出演で脚光を浴びるようになります。1940年代には自身のシェイクスピア劇団でツアーを行うなど、舞台でも活躍しました。1941年には『西部魂』『血と砂』『マンハント』に出演し、1944年ユニバーサルの『フランケンシュタインの館』でベラ・ルゴシ、ロン・チャイニー・ジュニアに次いで三代目のドラキュラ伯爵を演じました。その後も数本ドラキュラ伯爵を演じ、1983年『魔人館』では、ヴィンセント・プライス、クリストファー・リー、ピーター・カンシングの父親役を演じています。1945年『落ちた天使』・『大砂塵』、1956年『十戒』『八十日間世界一周』、1958年『誇り高き反逆者』、1962年『リバティ・バランスを射った男』、1954年『シャイアン』、1976年『ラスト・シューテスト』等に出演し、1986年まで映画に出演していました。彼の息子の四人、ブルース・キャラダイン、デヴィッド・キャラダイン、キース・キャラダイン、ロバート・キャラダインは俳優になりました。1988年11月27日にイタリアのミラノで、82に歳で亡くなりました。と書いた処で本編は次回に続きます。 最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

発売元:株式会社ジュネス企画

フロンテア・マーシャル』 作品データ

アメリカ 1939年 モノクロ 71分

原題:FRONTIER MARSHAL

監督:アラン・ドワン

脚本:サム・ヘルマン

出演:ランドルフ・スコット、ナンシー・ケリー

   シーザー・ロメロ、ビニー・バーンズ

   ジョン・キャラダイン、エドワード・ノリス

   エディ・フォイ・Jr、ワード・ボンド

   ロン・チャイニー・Jr