Vol.16 『コンチネンタル』

 RKOは『空中レビュー』で脇役だったフレッドとジンジャーのダンスが大好評だったので、直ちに二人を主役にした映画の準備を始めました。製作主任のパンドロ・S・パーマンは、フレッドが主演していた舞台劇「陽気な離婚(原題:ザ・ガイ・デイヴォース)」の権利を買い取りました。舞台劇では主役のガイは作家でしたが、映画版ではプロのダンサーに代わり、ジンジャーが演じるミミの役も膨らませて改善されました。

『コンチネンタル』
発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー

【スタッフトとキャストの紹介】

 ガイ役のフレッド・アステアの情報は、名前をクリックして下さい。同様にミミ役のジンジャー・ロジャースの情報も、名前をクリックして下さい

フレッド・アステア(35歳)  ジンジャー・ロジャース(23歳)

 パンドロ・S・パーマン(1905年3月28日~1996年7月13日)は、アメリカ合州国ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれの映画プロデューサーです。パーマンは1920年代に助監督になり、1930年にRKOの映画編集者を経てアシスタント・プロデューサーになります。1931年『600万人の交響曲』で初めてプロデューサーとしてキャリアをスタートします。1939年までにフレッドとジンジャーのミュージカル映画を始め、『ノートルダムの鐘』や『ガンガ・デン』をプロデュースしました。1940年にMGMに移籍し、1941年『美人劇場』、1944年『緑園の天使』、1949年『賄賂』、1950年『花嫁の父』、1955年『暴力教室』、1960年『バターフィールド8』等の映画を製作しました、1950年代にリチャード・ソープ監督と組んで、1952年『アイヴァンホー』・『ゼンタの囚人』、1953年『円卓の騎士』・『すべての兄弟は勇敢だった』、1955年『クエンティン・ダワードの冒険』等の製作をしました。1963年までMGMで仕事をし、その後独立プロダクションに入って1970年でキャリを終えました。

 マーク・サンドリッチ(1900年8月26日~1945年3月4日)はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、映画監督、脚本家、プロデューサーです。コロンビア大学の学生だった頃、映画会社にいる友人を訪ねた時に、撮影準備の問題点に気づき監督にアドバイスをしました。その後、映画会社の撮影部に入り、1927年には短編コメディ専門の映画監督となります。翌年最初の長編映画を撮りましたが、トーキー映画登場後に短編映画に戻ります。1933年短編映画『だからこれはハリスです』(原題:So This is Harris!)で、アカデミー賞を受賞しました。その後、長編映画のコメディを撮るようになり、1934年には『コンチネンタル』を監督します。1935年『トップ・ハット』・『艦隊を追って』、1936年『有頂天時代』・『踊らん哉』、1938年『気儘時代』を撮りました。1940年にRKOからパラマウント映画に移籍し、監督とプロデューサーをするようになります。1942年『スイング・ホテル』、1943年『われら誇りもて歌う』、1945年『ブルー・スカイ』を監督しますが、テスト撮影中に突然心不全で亡くなりました。

『コンチネンタル』の撮影風景

 マーク・サンドリッチ監督は、大掛かりなセットを作りクレーンを使って撮影しています。無駄なくテンポの良い演出で、ストーリーもダンス・シーンも大いに楽しめます。

ハーミズ・パン(25歳)

 ハーミズ・パン(1909年12月10日~1990年9月19日)は、テネシー州メンフィス出身のダンサーで振付師です。特にフレッド・アステアのミュージカル映画の全て振付師で、フレッドが信頼する振付協力者です。1937年『踊る騎士』でアカデミー賞最優秀ダンス演出賞を受賞し、1961年のテレビ・スペシャル「フレッド・アステアの夕べ」でエミー賞を受賞しています。1980年には国民映画賞も受賞しています。

 1923年に父親が亡くなり、パンが14歳の時に一家はニューヨークに移り住み、スピークイージー(禁酒法時代のもぐりの酒場)で踊り始めます。彼は19歳の時にはダンスで稼げるようになり、いくつかのブロードウェイの舞台に出演しました。1930年にカリフォルニアに移り住み、1933年に『空中レビュー時代』の撮影現場でフレッド・アステアと出会い、デンス・ディレクターのディヴ・グールドのアシスタントになります。アステアが“カリオカ”のダンス・ステップを考えている時に、パンはアイディアを出してそのダンス・シーンを完成させました。それ以来二人は、プロフェッショナル同士として一緒に仕事をするようになります。彼はアステアの31本のミュージカル映画の17本と、4本のテレビ・スペシャルの3本を担当しました。アステアは自分のダンス・ルーティンを自分で考えていましたが、パンのアイディアを取り入れてダンス・ルーティンの微調整をしたり、リハーサル・パートナーとしてのパンの能力を高く評価していました。又、パンはジンジャー・ロジャースの指導やリハーサル・パートナーをやっていました。ジンジャー・ロジャースのスケジュールが合わない事が多い為、1935年の『ロバータ』以降はロジャースのタップのパートの録音を全てパンが代行していました。パンは86本の映画の振付を行い、ノン・クレジットで数本の映画にも出演しています。アステア映画以外の振付は、1941年『血と砂』・『マイアミの月』・『銀嶺セレナーデ』、1943年『コニーアイランド』、1944年『ピンナップガール』、1953年『キス・ミー・ケイト』・『苦悩の乙女』、1959年『ボギーとベス』、1960年『カンカン』、1963年『クレオパトラ』、1964年『マイ・フェア・レディ』等です

アリス・ブラディ(42歳)

 脇を固める出演者も面白い顔ぶれになっています。ミミの叔母さんのホーデンス役は、アリス・ブラディです。自分本位でそそっかしい叔母さんを好演しています。アリス・ブラディ(1892年11月2日~1939年10月28日)はニューヨーク生まれのアメリカ合州国の俳優です。母親のローズ・マリー・ルネは1896年に亡くなりました。父親のウィリアム・・A/ブラディは有名な演劇プロデューサーで、アリスは幼い頃から演劇に興味を持ちます。14歳で舞台に立ち、1911年にブロードウェイでデビューします。父親が1913年に映画会社を作り、アリスも映画の仕事をはじめます。1914年に『As Ye Sow』で映画デビューし、その後10年間で50本以上のサイレント映画に出演しました。1923年に映画の仕事を辞めて舞台劇に出演するようになります。1933年にハリウッドに戻り、『When Ladies Meet 』で、トーキー映画に初めて出演しました。その後は1933年『紐育・ハリウッド』、1935年『ゴールド・ディガース36年』・『メトロポリタン』、1936年『襤褸と宝石』・『天使の花園』、1937年『シカゴ』・『オーケストラの少女』、1939年『若き日のリンカン』等に出演します。1939年に癌で亡くなりました。アリス・ブラディは1937年の『シカゴ』でタイロン・パワーの母親役を演じて第10回アカデミー助演女優賞を受賞しています。アカデミー賞の受賞日、彼女は足首の怪我の為に欠席していましたが、謎の男性の代理人が現れてオスカー盾(この頃の助演賞は盾でした)を持ち帰ってしまいました。後ほど代理人が偽物だった事が発覚したので、アカデミー協会は彼女に新たに盾を贈っています。長年オスカー盾も犯人も行方不明でしたが、2016年の調査で事実が判明しました。オスカー盾を受け取ったのは『シカゴ』の監督ヘンリー・キングで、その日のうちに彼女の友人を通して自宅に届けられていました。彼女が受賞の2年後にガンで死去しており、誤報の訂正ができなかった為と言われています。

 ガイの親友で弁護士のエグバートを演じているのが、エドワード・エヴェレット・ホートンです。彼はキャリアが長く出演本数多いベテランで、コミカルな役では定評があります。今回は何とも頼り無い弁護士役で、お得意のとぼけた演技を披露しています。彼はこの映画の後、『踊らん哉』、『トップ・ハット』でも共演しました。

エドワード・エヴェレット・ホートン
(38歳)

 エドワード・エヴェレット・ホートン (1886年3月18日~1970年9月29日)は、アメリカ合州国ニューヨーク生まれの性格俳優で、映画、演劇、ラジオ、テレビ、アニメの声優です。高校はブルックリンの男子校に通っていましたが、一家がメリーランド州ボルチモアに引っ越したので、ボルチモア・シティ・カレッジに進学し、1902年から1904年まで通いました。この後、ニューヨーク市に戻りブルックリン工科大学に1年間通いますが、芸術コースが廃止になった為コロンビア大学に移ります。ホートンは1906年に20歳で舞台にデビューします。舞台では歌や踊りをしたり小さい役を演じ、1909年には大学を辞めます。その後、ヴォードヴィルやブロードウェイの舞台にも出演します。1919年にロスアンゼルスに移り、ハリウッド・コミュニティ・シアターで映画の仕事を始めます。1922年のサイレント映画『TOO MUCH BUSINESS』で、初めて主役を演じます。1927年から1929年にはハロルド・ロイドの8本の映画に出演しました1929年からはエディケーション・ピクチャーズのトーキー映画のコメディやワーナー・ブラザーズの映画にも出演しました。ホートンが開発した独自の演技は、ダブル・テイクと言われるものです。相手が言った事を理解したように微笑み、事の重大さに気が付き表情が固まり、困り果てた表情に変わる演技です。1930年代には多くのコメディ映画や他の映画でもコミカルな脇役として出演していました。ほんの一部紹介しますと、1931年『犯罪都市』、1932年『極楽特急』、1933年『不思議の国のアリス』、1937年『失はれた地平線』、1938年『素晴らしき休日』、1941年『幽霊紐育を歩く』・『美人劇場』、1944年『毒薬と老嬢』、1961年『ポケット一杯の幸福』等です。1945年から1947年まではラジオの司会をしたり、1948年にはテレビ・ドラマに出演しています。1950年代は主にテレビに出演していました。1952年の「アイ・ラブ・ルーシー・ショー」やウォルター・ブレナンン主演の「マッコイじいさん」にも出演しています。1959年から1964年まではアメリカで有名なアニメ・シリーズのナレーターとしても活躍していました。

エリック・ブロア(47歳)

 エリック・ブロア(1887年12月23日~1959年3月2日)は、ロンドン北部のフィンチリー出身のイギリスの俳優、脚本家です。学校卒業後に保険会社で働きますが、1909年ミュージカル・コメディ「ケイズから少女」で舞台に初出演します。イギリスで地方公演に出演し、1913年4月にロンドンのレスター・スクエアのエンパイア劇場で「All the Winners」に出演しました。ブロウは主にロンドンのウエストエンドで、レヴューやバラエティの脚本を書き出演していました。彼は1922年にミュージカル・コメディ「エンジェル・フェイス」に出演し、1923年8月ブロードウェイで初めて「リトル・ミス・ブルービアード」に出演しました。それからはブロードウェイの舞台に出演したり、ツァー公演を行いました。1933年ロンドンで舞台劇「陽気な離婚」に5か月間出演しました。その後、ハリウッドに渡り『コンチネンタル』に出演し、1955年までの間に60本以上の映画に出演しました。1935年『トップ・ハット』、1936年『有頂天時代』、1937年『踊らん哉』、1941年『サリヴァンの旅』・『アフリカ珍道中』、1950年『腰抜け千両役者』等で、彼が演じる優秀な執事、従者、厳格な紳士等が好評でした。ブロアは前作の『空中レビュー』では給仕長役で、本作ではウエイターを演じています。今回は音楽に合わせてダンスをするかのようにスッテプを踏みながら注文品を運んでいます。今回は出番も多く重要な役を演じています。

エリック・ローズ(28歳)

 エリック・ローズ(1906年2月10日~1990年2月17日)は、アメリカ合州国オクラホマ州エルリノ出身の映画俳優、ブロードウェイの歌手です。ローズはセントラル高校とオクラホマ大学に通い、大学在学中に奨学金を得て、ニューヨークで一年間声楽を学びました。第二次世界大戦中は、陸軍航空軍の諜報機関で言語の専門家として活躍しました。ローズは1928年に戯曲「最も不道徳な女性」で、初めてブロードウェイの舞台に出演します。続けて1929年のミュージカル「リトル・ショー」、1932年「ヘイ・ノニー・ノニー」・「陽気な離婚」に出演しました。ロンドンで再び「陽気な離婚」が公演されましたが、RKOのパンドロ・S・バーマンがその舞台を観て、ローズを映画でも同じ役で使う事にしました。ローズはハリウッドに連れて行かれて、1934年『コンチネンタル』に出演しました。その後1935年『トップ・ハット』・『リッツの夜』、1936年『暗闇の二人』等、1939年までに二十数本の映画に出演しています。1947年から1964年にかけて、ロードウェイで1947年「大キャンペーン」、1953年「カン・カン」、1957年「ジャマイカ」等に出演しました。本作では、雇われ恋人役のトネッティを演じていて、劇中バルコニーで小型のアコーディオンを弾きながら“コンチネンタル”を歌います。

ベティ・グレイブルとエドワード・エヴェレット・ホートン

 この映画のタイトル・クレジットの末席にベティ・グレイブルの名前がありました。彼女のピンナップは、第二次世界大戦中のアメリカ兵士に大人気でNo.1でした。彼女の脚線美に100万ドルの保険が掛けられていたので、100万ドルの脚線美と云われていました。彼女のどんな役をやっているのか探していたら、水着姿で椅子に座っているエドワードに“Let’s K-nock K-nees”を歌いかける女の子でした。まだ18歳の彼女に気が付くまで少々時間が掛かりました。ベティは嫌がるエドワードの手を引いて踊りに誘い、エドワードは不器用なダンスを披露します。と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

『コンチネンタル』 作品データ

アメリカ 1934年 モノクロ 107分

原題:The Gay Divoicee

監督:マーク・サンドリッチ

製作:パンドロ・S・バーマン

脚本:ジョージ・メリオン・ジュニア、ドロシー・ヨースト

撮影:デイヴィッド・エーベル

音楽監督:マックス・スタイナー

音楽:コール・ポーター

マック・ゴードン、ハリー・レヴェル

コン・コンラッド、ハーブ・マジッドン

※“コンチネンタル”は、この年創設されたアカデミー主題歌賞を受賞しています。

出演:フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース

   アリス・ブラディ、エドワード・エヴェレット・ホートン

   エリック・ローズ、エリック・ブロウ

   アート・ジャレット、ベティ・グレイブル

Vol.15 『ジンジャー・ロジャース』 最終章

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 1948年の初夏やっと休暇をとり、レラと一緒にオレゴンの自分の牧場に行きました。日よけ付きのブランコに腰掛けていた六月のある日の朝、MGMの幹部から電話がきました。『ブロードウェイのバークレイ夫妻』という作品の出演依頼でした。又フレッドと共演出来るので、喜んで出演を承諾しました。ダンシング・シューズを履くのは十年振りになります。早速エクササイズ、柔軟体操、ストレッチングを始め、稽古が始まる頃には呼吸法を正しく自然に出来るようにしました。監督はチャルズ・ウォルターズ監督、撮影監督はハリー・ストラドリング、共演者はオスカー・レヴァント、ビリー・バーク、ジャック・フランソワ、ゲイル・ロビンスです。この映画でジンジャーとフレッドは、初めてのテクニカラー映画出演となりました。この映画のフレッドの相手役はジュディー・ガーランドでしたが、彼女が撮影に耐えられない状態だったので、ジンジャーが出演する事になりました。音楽担当のハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインが、夫婦のダンシング・チームが再び一緒に踊る見せ場の曲を作ろうとしていました。ジンジャーは『踊らん哉』でフレッドが歌った“誰も奪えぬこの想い”を使うように提案しました。作曲家のハリーは賛成してくれて、“誰も奪えぬこの想い”で再びフレッドと踊り事になりました。フレッドと本格的に稽古を始めると、十年のブランクを感じず数週間振りに踊ったように思ったそうです。この映画でフレッドは新しいダンス・シーンに挑戦しています。“シューズ・ウィズ・ウイングス・オン”で、フレッドは多くの靴たちと踊ります。

1949年『ブロードウェイのバークレイ夫妻』
フレッドと踊るフレッド(左) 沢山の靴と踊るフレッド(右)

 ジンジャーは1948年12月にRKOとの契約を解消し、完全なフリーになります。その頃、ジャック・ブリッグスとの結婚も解消する事にしました。1949年にワ-ナー・ブラザースの『パーフクト・ストレンジャー』の撮影に入ります。監督はブレティン・ウィンダスト、ジンジャーの相手役はデニス・モーガン、助演はセルマ・リッター、マージョリー・ベネット、ジョージ・チャンドラー、ポール・フォードです。続けてワーナー・ブラザースの『目撃者』の撮影に入ります。この映画はクー・クラック・クランを描いたメロ・ドラマですが、KKK団に捕らえられたジンジャーの鞭打ちシーンがあります。監督はスチュワート・ヘイスラー、共演は歌わないドリス・デイ、スティーヴ・コクラン、ロナルド・レーガンです。

 1950年3月、ロサンゼルスのパンテージ・シアターでアカデミー賞授賞式が開催されました。この授賞式でフレッド・アステアの栄誉を称えてオスカーが贈られました。このプレゼンターをジンジャーが行いました。オスカー像には「そのユニークな芸風と、ミュージカル映画の技術への貢献を称えて」と刻まれていました。1950年五月から八月にかけて、ユニバーサルの『ザ・グルーム・ウォア・スパーズ』の撮影に入ります。監督はリチャード・ウォルフ、共演者はジャック・カースン、ジョーン・ディヴィス、ロス・ハンターです。軽めの作品で、ジンジャーは弁護士を演じました。

 ジンジャーは舞台劇「ラヴ・アンド・レット・ラヴ」に出演する事になります。二十一年振りの舞台出演です。作家兼監督はルイ・ヴェルヌイユ、ジンジャーはヴァージア・マクマスの名で一人二役の姉妹を演じました。共演者はポール・マクグラス、トム・ヘルモア、ヘレン・マーシー、ディヴィッド・F・パークンスです。1951年11月19日に幕を開け、51回の公演が行われました。この作品は面白くもないセリフの並んだコメディで、すっかり失望したそうです。1951年11月5日、四度目のライフ誌の表紙を飾った事だけは、嬉しかったそうです。

 舞台終了の二週間後、二十世紀フォックスから『結婚協奏曲』への出演依頼があり、出演を承諾しました。この映画は未だ資格が無い新米判事が、無資格で6組のカップルを結婚さてしまい、その後に起こるトラブルが展開されるコメディです。監督はエドマンド・グールディング、共演者はフレッド・アレン、ヴィクター・ムーアです。この作品が完成した二週間後、再び二十世紀フォックスの『ドリーム・ボート』に出演します。監督はクロード・ビニヨン、ジンジャーの相手役はクリフトン・ウェブ、共演者はフレッド・クラーク、エルサ・ランチェスター、そして新人スターのアン・フランシスとジェフリー・ハンターです。

1942年『結婚協奏曲』
左からヘンリー・フォンダ、
ジンジャー、シーザー・ロメロ

 1952年『モンキー・ビジネス』の撮影に入ります。監督はハワード・ホークス、ジンジャーの相手役はケーリー・グラントで十年振りの共演です。ケーリー・グラントはボーッとした学者役で、ジンジャーは妻を演じます。若返りの薬を発明する仕事をしていますが、二人は実験用のチンパンジーが調合した薬を飲んでしまいます、二人は童心にかえってしまい、大騒動が起こるコメディです。雇主はチャールズ・コバーン、秘書役はマリリン・モンローです。撮影終了後、ジンジャーは休暇を取ってヨーロッパ旅行に出来掛けます。帰国後、パラマウントの『女性よ永遠に』の撮影に入ります。二人の主演男優はウィリアム・ホールデンとポール・ダグラスです。監督のヴァイング・ラバーはジンジャーの好きなタイプの監督ではなく、態度は冷たく思いやりに欠けていたので、この映画に参加した事を後悔したそうです。1953年2月7日、ジンジャーはフランスで出会った弁護士のジャック・ベルジュラと結婚しました。

1952年『モンキー・ビジネス』
ケーリー・グラントとジンジャー(左)
左からマリリン・モンロー、チャールズ・コバーン、ケーリー・グラント

 1953年12月にブロティッシュ・ライオン映画社から、『行きずりの恋』への出演依頼がありました。台本を読んで夫のジャックが相手役なら出演すると、プロデューサーに話します。監督のデイヴィッド・ミラーはジンジャーの申し出に合意しました。ジンジャー初のイギリス映画での共演者は、スタンリー・ベーカー、ハーバート・ロム、コーラル・ブラウンです。夫のジャックは長時間のハードな撮影をこなし、格闘シーンも吹き替えなしでやりました。1954年2月に撮影が終わり、カリフォルニアに戻ります。帰宅後、友人のグインル夫妻からリオデジャネイロのカーニヴァルに招待されます。夫のジャックの説得で二人はリオデジャネイロに行きます。カーニヴァルを楽しんだ後、アルゼンチン大統領のファン・ペロンからブエノスアイレスに招待されます。エヴァ・ペロンの慰霊碑に云ったり、競馬場でホース・ショーを観たり、巨大なバーベキュー・パーティでもてなされました。二人は、アルゼンチンからペルーのリマに向かいます。夫のジャックは闘牛ファンだったので、ジンジャーを闘牛場に連れて行きます。ジンジャーにとって初めて見る闘牛は、残酷で見るのが苦痛だったようです。カリフォルニアの自宅帰って、ジンジャーはのんびり過ごしていましたが、4月にパリに出掛けます。南フランスにも数日滞在し、ローマを訪れます。ローマに滞在中にダリル・F・ザナックから、出演依頼の電話を貰います。帰国後、『意外なる犯行』の脚本を読むと、ジンジャーの役はある女優の役です。その女優が最後には殺人犯だったという役です。プロデューサー兼監督がナナリー・ジョンスン、共演者はレジナルド・ガーディナー、ジーン・ティアニー、ヴァン・ヘフリン、ジョージ・ラフト、オットー・クルーガー、ペギー・アン・ガーナーです。

1954年『行きずりの恋』
ジャック・ベラジェックとジンジャー

 1954年10月、リーランド・ヘイワードからテレビのスペシャル番組「トゥナイト・アット8:30」への出演依頼がありました。ノエル・カワードの短い戯曲三篇を一組にして放映するものです。演出家はオットー・プレミンジャー、三つの劇の相手役は一番目はマーティン・グリーン、二番目はトレヴァー・ハワードです。そして三番目はイルカ・チェイス、グロリア・ヴァンダービルド、エステレ・ウィンウッド、ギグ・ヤング、マーガレット・ヘイズです。この番組はテレビの生番組だったので、ステージの前に観客がいなす。九十分のショーの中で、三つの異なる役を演じるのは、凄いプレッシャーを感じながら演じたそうです。

 次回作はコロンビア社の『消された証人』です。監督は友人のフィル・カールソン、共演者はエドワード・G・ロビンソン、ブライアン・キース、ローン・グリーンです。戯曲「デッド・ビジョン」の映画化で、ジンジャーは三流ギャングのガール・フレンド役です。彼女は服役中ですが、刑務所から連れ出されて警察の厳重な保護を受けます。彼女はギャングのボスに逆らって、共犯者に不利な証言をする役どころです。

1955年『消された証人』
ブライアン・キースとジンジャー(左)
エドワード・G・ロビンソンとジンジャー(右)

 1956年メイ・ウエストガ出演する予定だった『最初の女セールスマン』に出演します。製作と監督はアーサー・ルービン、共演者はキャロル・チャニング、バリー・ネルソン、ジェームス・アーネス、そしてクリント・イーストウッドが小さな役を演じています。1956年は二十世紀フォックスで『十代の犯行』と『オー、メン!オー・ウィメン』の二本の作品に続けて出演しました。1957年半ばにジャックの不貞があり、ジンジャーは離婚しました。

 1957年はテレビ・ショーに定期的にゲストとして出演していました。ジンジャーのテレビ・ショーの企画もありましたが、実現しませんでした。1958年1月、ジンジャーはラスヴェガスのリヴィエラ・ホテルでライブ・ステージの公演を四週間行いました。1959年舞台劇の「ピンク・ジャングル」に出演する事になり、ニューヨーク公演の前にサンフランシスコで三週間公演されました。その時点でプロデューサーは映画の撮影の為にハリウッドへ行ってしまいます。省の問題点の改善も無く給料の未払いもあった為、ジンジャーはこのショーの契約を解消しました。1960年の夏、ジンジャーは念願だったミュージカル・コメディの「アニーよ銃を取れ」に出演しました。東海岸五都市映画の夏期軽劇場サーキットを回りました。この興行後、俳優のG・ウィリアム・マーシャルと知り合い、六か月の交際を経て1961年3月16日にサンタモニカで結婚しました。じかし、二週間も経たないうちに、ウィリアムの飲酒癖が分かりましたが、判断を誤ったまま結婚生活を続けます。ウィリアムはジンジャーから借金をする為、ジンジャーは多くの夏期軽劇場に出演しました。1963年「不沈のモリー・ブラウン」で西部諸州を公演し、「トヴァリッチ」で全国ツァー公演しました。19563年3月、マグナピクチャースで『ハーロウ』に出演します。この映画はジーン・ハーロウの人生を基にした作品で、ジンジャーはジーンの母親役を演じました。監督はアレックス・シーガル、共演はキャロル・リンレイ、バリー・サリヴァン、エフレム・ジンバリスト・Jrです。しかし、この映画は八週間で撮影された残念な作品になってしまいました。そして、この映画がジンジャー最後の映画となります。

 1965年ジンジャーは、ニューヨークの四十四番街のセント・ジェームズ劇場で「ハロー・ドーリー!」に出演します。1967年2月にセント・ジェームズ劇場の公演が終わり、一座と一緒に国内ツァーに回りました。ジンジャーとフレッドは、4月10日のアカデミー賞授賞式で作品賞のプレゼンターとして招待されました。ジンジャーとフレッドは、ステージに上がった時即興のステップを披露して観客に喜んで貰いました。(ジンジャーのアイディアです。)「ハロー・ドーリー!」はニューヨークからボストンまで、全千百十六回の公演で終了しました。

1965年「ハロー・ドーリー!」
ドリー・レヴィー役のジンジャー

 1968年「ハロー・ドーリー!」の長期公演を終了し、ジンジャーはオレゴンの牧場に行きます。のんびり過ごしていましたが、ロンドンのハロルド・フィールディンから国際電話があり、ミュージカル・コメディ「メイム」への出演依頼がありました。開幕は1969年2月、八ヵ月の準備期間がとれるので出演を快諾しました。12月13日にジンジャーは船でロンドンに向かいました。ロンドン到着後すぐに稽古を始め、1969年2月23日の開幕に備えます。「メイム」は、14ヵ月間ロンドンで上演されました。「メイム」では衣装を二十七回も変えるので、非常にハードな作品だったそうです。ジンジャーはウィリアム・マーシャルと離婚する為に離婚申請をしました。その後、ジンジャーは1971年「ココ」の公演でニューイングランド諸州をまわりました。1972年にはJ・C・ベニー社のファッション・コンサルタントになり、ジンジャー・ロジャース・シリーズのランジェリーをデザインしり全国をインタビューして回りました。1974年「ノー・ノー・ナネット」をダラスで公演し、続いて「40カラット」を1975年の夏まで公演しました。 1975年、ロージャース・ローグ・リヴァー・レビューを結成し、「ジンジャー・ロジャース・ショウ」の公演を始めます。12月にオクラハマで幕を開け、それから5年間国中や海外も回りました。そんな中、1977年5月の母親のレラが亡くなりました。悲しみを乗り越えてツァーを続けていました。

「ジンジャー・ロジャース・ショー」
左からロン・スタインベック、
ジェフ・パーカー、マイケル・コディ、ジム・テーラー

 1980年は「エニング・ゴーズ」の全国公演を行い、1983年には「ミス・モファット」をインディアナポリスで公演し、1984年「チャーリーの叔母」をエドモントンで公演しました。そして1985年に念願の舞台演出の依頼がきました。「ベーブス・イン・アームズ」をニューヨーク州たりータウンで、四週間舞台演出をしました。その後も多忙な日々を精力的に過ごされました。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.14 『ジンジャー・ロジャース』の続きの続き

 1938年11月に次回作『ママは独身』の脚本の第一稿が、パン・バーマンから送られてきました。台本を読んで、薄っぺらなストーリーと現実味の無い登場人物だと思い、パン・パーマンに抗議の手紙を書きます。パンは脚本を弁護して、ジンジャーが演じる役は情が厚く人情味がある女性で、ジンジャーにふさわしい映画だと言いました。ジンジャーは彼の言葉を信じて、この映画に出演する事にします。監督はガーソン・カニン、共演者はディヴィッド・ニーヴン、チャールズ・コバ-ン、そして可愛い赤ちゃんです。映画は素晴らしい作品に仕上がり、大衆は好意的な反応を返してくれたそうです。映画はRKOでは最高興行成績を収めた映画の一本になりました。この後、続けて『五番街の女』を撮り14ヶ月ほとんど休みも無く仕事をしていました。4週間の休暇を取り、その後2本のラジオ番組に出演しています。

1939年『ママはママは独身』
ディヴィッド・ニーヴンとジンジャーとエルバート・コブレン・Jr

 1939年11月、『桜草の丘』の撮影に入ります。監督はグレゴリー・ラキャヴァ、ジンジャーの相手役はジョエル・マクリーです。共演者はマージョリー・ランビュー、ヘンリー・トラヴァース、マイルス・マンダークイニー・ヴァーサー、コアン・キャロルです。この映画はジンジャーの俳優としての演技の幅を大きく広げたものになりました。次回作の『ラッキー・パートナー』で、ジンジャーは長い間尊敬していたロナルド・コールマンの相手役になります。監督はマイルス・ストーン、脚本はアラン・スコットとジョン・ヴァン・ドゥルーテンです。共演者はスプリング・バイント、ジャック・カーソン、ハリー・ダヴンポートです。ロナルド・コールマンは完璧な演技者で紳士で、ジンジャーの間違いを指摘したり、何か提案する時は彼女が不快にならないように気を配ってくれたそうです。この時期のRKOはジンジャーをコメディエンヌに仕立てようとしていました。ジンジャーは自分がコメディエンヌなのか主演女優なのか分からなくなっていました。その時、プロデューサーのディヴィッド・ハンプスからベツソ・セラーの「恋愛手帳」の本が送られてきました。本に目を通してみると露骨なラブ・シーンがあり、検閲を通らないと判断しました。母のレラは、うまくリライトしてくれるから大丈夫だと言いました。翌日ディヴィッド・ハンプスから電話があり、RKOはジンジャーの為にこの小説を特別に買い取ったといいます。ダルトン・トランボがリライトするから素晴らしい脚本になるから、その脚本をみてから判断して欲しいと言いました。一ヵ月後にリライトされた『恋愛手帳』の脚本が送られてきました。その脚本は素晴らしい出来で、原作より数段心の琴線触れる作品だと思ったそうです。このキティ役を演じた役者はオスカーを取るだろうとも思ったそうです。ディヴィッド・ハンプスから電話がきた時、ジンジャーは即答で出演する事にします。監督はサム・ウッド、共演者はデニス・モーガン、ジェームズ・クレイグ、グラディス・クーパー、キャサリン・スティーヴンス、メアリー・トリーン、オデット・ミルティ、アーネスト・コサート、エデュアルド・チャネリです。(キャサリン・スティーヴンスは、サム・ウッド監督の娘さんです。)サム・ウッド監督は親しみやすい人でしたが、監督としては頑固なタイプだったそうです。しかし、独善的ではなくどんな小さな声にも耳を傾ける監督だったそうです。この映画を撮り終えて、やりがいのある仕事をしたと実感したと語っています。1940年12月9日付けのライフ誌で『恋愛手帳』の特集が掲載され、表紙にジンジャーの写真が使われたのは二度目です。

1940年『恋愛手帳』
デニス・モーガンとジンジャー(左)
ジンジャーとジェームズ・クレイグ(右)

 1941年にプロデューサーのロバート・シスクから愛の鐘はキッスで鳴ったの脚本が送られてきました。監督がガルソン・カニンと聞いて、ジンジャーは喜びました。彼と撮った『ママは独身』は、とても楽しく仕事が出来たからです。共演者はジョージ・マーフィ、アラン・マーシャル、バージェス・メレディス、フィル・シルバースで、楽しく映画撮影が出来たそうです。

1941年『愛の鐘はキッスで鳴った』
バージェス・メレディス(左)と

フィル・シルバース

 この映画の撮影が始まった頃、RKOからビルトモア・ホテルで行われる1940年度アカデミー賞授賞式に出席するように言われます。『恋愛手帳』は、最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀音楽賞、最優秀女優賞にノミネートされていました。今までのアカデミー賞は、省が授与される前に新聞が受賞者を発表していました。1940年のアカデミー賞から事前に受賞者が分からないようにしました。自分の競争相手があまり強力なので、心情的には出席したくなかったそうです。競争相手は『月光の女』のベティ・ディヴィス。『レベッカ』のジョーン・フォンテイン、『フィラデルフィア物語』のキャサリーン・ヘップバーン、『われらの町』のマーサ・スコットです。演技賞のプレゼンターは、アルフレッド・ラントとリン・フォンティーンです。自分は受賞しないと思って、すまして席に座っていました。誰が受賞したかジンジャーには聞こえていませんでした。RKOのジョージ・シェーファー社長が「ジンジャー、君だよ、君だ」と三回言われて、ジンジャーは初めて事態を把握しました。ショック状態のままマイクの前に立ち、スピーチの準備をしていなかったので、母親への感謝と一緒に仕事をしてきた全ての人への感謝を述べました。自分が何と言ったかは、はっきりと覚えていないそうです。この年の最優秀男優賞は、『フィラデルフィア物語』の親友のジェームズ・スチュワートが受賞したので飛び上がって喜んだそうです。授賞式の翌日の朝、スタジオから電話があり出勤が2時間遅くなりました。スタジオに着くと門衛が受賞を祝福してくれたのを始め、ジンジャーの車を見た人は皆車を止めて祝しました。控室で準備をすませてセットに入ると、左右に七人づつタキシードを着た男たちが、トップハットをジンジャーの頭上で交差してアーチを作っていました。立っていた男たちは電気工やスタッフたちで、後ポケットから彼らの工具や道具がのぞいていたそうです。

1941年2月27日アカデミー賞授与式
ジンジャーとジェームズ・スチュアート

 1941年10月13日、ジンジャーは20世紀フォックスの『ロッキー・ハート』の撮影に入ります。この映画は、新聞の殺人事件の記事を基に罹れた戯曲「シカゴ」を映画化したものです。監督はウィリアム・ウェルマン、プロデューサー兼脚本家ハナナリー・ジョンソンです。共演者はアドルフ・マンジョー、ジョージ・モンゴメリー、フィル・シルヴァースが演じるロキシーはダンサーなので、鉄の階段でタップを踊る事を思い付きます。スタジオには鉄の階段がなかったので、ロサンゼルスのダウンタウンの取り壊されたビルにあった階段をスタジオに運んで使いました。鉄の階段はいい音がするので、カメラマンや小道具係が音を出して楽しんでいたそうです。1941年12月7日、彫刻家のイサム・ノグチと連絡を取ってくれた友人から電話を受け、ジンジャーは自分の胸像を掘ってもらう依頼をしました。翌日自宅で会った日系アメリカ人のイサム・ノグチは、穏やかでありながら非凡さを感じ感銘を受けたそうです。彼は一ヶ月程ジンジャーの傍で黙々と作業を続けていました、ある日の午後、ノグチは仕事に区切りのついた処で、もう当分ここには来られないと言います。アメリカ政府が強制収容所に入れようとしていると告げます。彼はこの彫像は強制収容所に持っていって作業は続けると言います。第二次世界大戦後、イサム・ノグチから電話があり、完成した彫像をいつ持って行くかの連絡でした。二日後、彼はピンクの大理石で出来たジンジャーの胸像を持ってきました。強制収容所という苛酷な環境の中でこの胸像を完成させた、彼の粘り強さと勇気に感銘を受けたそうです。

 1942年20世紀フォックスの『運命の饗宴』への出演依頼が来ました。一着の燕尾服を巡る5話のオムニバス映画で、第2話で友人のヘンリー・フォンダとシーザー・ロメロとの共演なので引き受ける事にします。次の映画を撮る2・3週間の隙間での仕事でした。

1942年『運命の饗宴』
ヘンリー・フォンダ(左)と
シーザー・ロメロ

 パラマウントから次回作『少佐と少女』への出演依頼がありました。ニューヨークに住むヒロインが故郷のオハイオに帰ろうとします。しかし、汽車賃が足りなくて半額の子供料金で乗る為に子供に変装してオハイオに行く話です。子供の頃、巡業していた時に同じ経験をしていたので出演する事にしました。監督の候補者がいるというので、ジンジャーはその人と会う事にしました。ハリウッド映画は初めて監督ですが、素晴らしいユーモアのセンスを持ったビリー・ワイルダーが監督に決まります。共演者はレイ・ミランド、リタ・ジョンソン、ダイアナ・リンです。予想通りビリー・ワイルダーは映画を仕切る有能な監督で、俳優にも好ましい態度で接してくれたそうです。撮影が開始してからも役者が決まっていない役がありました。映画の最後の短いシーンに登場するヒロインの母親役です。監督はジンジャーに顔が似ているスプリング・ビントンを予定していましたが、彼女は既に別の映画の予定が入っていました。監督はジンジャーに誰か母親役の役者はいないかと尋ねるので、母親のレラを推薦しました。交渉の結果、レラはジンジャーの母親役で出演しました。ビリーは俳優の演技に満足すると、皆にシャンペンを振舞っていました。ビリーのお陰で本当に楽しんで仕事が出来ましたが、残念ながらビリーとの仕事はこの一本だけでした。

1942年『少佐と少女』
レイ・ミランドとジンジャー(左)ジンジャーとレラ・ロジャース(右)

 サミュエル・ゴールドウィンから『教授と美女』の脚本が送られてきました。ゲイリー・クーパーとの共演作品でしたが、ジンジャーは断りました。サミュエルはジンジャーをスタジオや自宅に招き、出演させる為に得をしましたがジンジャーは出演を断りました。その役はバーバラ・スタヌィックに回されました。『教授と美女』を観た時、ジンジャーは自分の判断が間違っていた事を知ったそうです。リーランド・ヘイワードからパラマウントの『遥かなる我が子』の主演依頼がありました。脚本を読み戦争に向かう24歳の息子の母親役をやりたいと思わなかったので断りました。この役はオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オリヴィアはその役でアカデミー賞を受賞しました。女性用の精神病棟を題材にした『蛇の穴』も断りました。その主役をオリヴィア・デ・ハヴィランドが演じて、オスカーにノミネートとされました。オリヴィアは良い作品を見極める才能があると思ったそうです。『ヒズ・ガール・フライデー』の出演依頼があった時も、主演男優が決まっていない段階で断ってしまいます。主演がケーリー・グラントに決まり、ロザンド・ラッセルが相手役になってジンジャーは多少後悔したようです。逆にジンジャーはミュージカル映画の『アニーよ、銃を取れ』のアニー役を切望しました。MGMのルイス・B・メイヤーは「ハイヒールとシルクのストッキングが似合う。アニー・オークレイみたいな勇ましい役をやるのは考えられない。」と断られました。ジュディ・ガーランドも降ろされて、ご存じのようにベティ・八トンがその役を演じました。

 1942年6月、RKOの『恋の情報網』の撮影に入ります。監督はレオ・マッケリー、共演者はケーリー・グラントとウォルター・スレザクです。ナチスの脅威を背景に描かれた、ラブ・ストーリーです。第二次世界大戦中はジンジャーも軍の慰問機関USOから依頼を受け、国債のセース、軍のキャンプや病院を訪問していました。1942年9月に南西部の都市への慰問に十日間のツァーに参加しています。陸、海、空、海兵隊のキャンプを慰問しました。その時、兵卒のジャック・ブリックスと一緒にキャンプを回りました。ツァーが終わってからもジョンジャーはジャックと付き合うようになり、三か月後の1943年1月16日にパサディナで結婚式を挙げました。(ルー・エアーズとは1940年3月13日に離婚しています。)

1942年『恋の情報網』
ケーリー・グランドとジンジャー(左)
ウォルター・スレザクとジンジャー(右)

 1944年3月から、セルズニック・インターナショナルの『恋の十日間』の撮影に入ります。監督はウィリアム・ディタリー、共演者はジョセフ・コットン、シャーリー・テンプル、スプリング・バイトン、トム・ターリーです。この映画は「二人一緒の休暇」というラジオ・ドラマを基に作られた作品です。第二次世界大戦中に出会った夫々問題を抱えた二人が恋に落ちる物語です。シャーリー・テンプルによると、ジンジャーがシャーリーをこの映画から外そうとしていたようです。(真相は分かりません。)

1944年『恋の十日間』
左からシャーリー・テンプル、
スプリング・バイデン、ジンジャー、
ジョセフ・コットン、トム・チェリー

 1944年10月、MGMから『ウォルドフの週末』の出演依頼がありました。この映画は現代版の『グランド・ホテル』で、アイリーン・ギブソンの衣装を着れるので出演する事にします。監督はロバート・Z・レナード、共演者はウォルター・ビジョン、ラナ・ターナー、ヴァン・ジョンソン、エドワード・ベンチュリー、エドワード・アーノルド、そしてサヴィア・クガートと彼の楽団です。1945年RKOの『ハート・ビート』をサム・ウッド監督で撮り、1946年にはユニヴァーサルで『アメリカの恋人』の撮影に入ります。この映画はジェームズ・マディスン大統領の妻、ドリー・マディソンの歴史小説を基にしたものです。監督はフランク・ポーゼーシ、共演者はバージェス・メレディスとディヴィッド・ニーヴンです。映画の終局場面の科白が納得いかなかったので、レラを自宅に呼んで二人で脚本の書き直しをしました。その原稿を監督とプロデューサーに提出し、二人の了解を得てそのシーンを撮りました。と書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.13 『ジンジャー・ロジャース』の続き

 RKOの新しく製作主任になったパンドロ・S・バーマンは、フレッド・アステア主演のミュージカル舞台劇「陽気な離婚」を観てその作品を買い取ります。邦題『コンチネンタル』は1934年6月から撮影に入りました。監督はマーク・サンドリッチ、共演者はエドワード・ホートン、アルリス・ブラディ、そしてフレッドの舞台劇に出ていたエリック・ローズとエリック・ブロアも出演しました。コン・コンラッドとハーブ・マジソンが作った主題歌“コンチネンタル”は、主題歌に与えられる初めてのアカデミー賞を受賞しました。『コンチネンタル』は他にも作品賞を始め4部門にノミネートされましたが、『或る夜の出来事』に全てさらわれてしまいました。ジンジャーが1934年に出演した映画は7本で、11月14日にルー・エアーズと結婚しています。

”コンチネンタル”を踊る
フレッドとジンジャー

 ハネ・ムーンから帰ったジンジャーの次回作は、舞台劇を映画化した『ロバータ』です。監督は旧友のビル・サイター、共演者はフレッド、ソプラノ歌手のアイリーン・ダン、ランドルフ・スコット、ヘレン・ウェストリー、そして端役で新人のルシル・ポールが出演しています。(劇中のファッション・ショーでモデルとして登場します。)音楽はジェローム・カーンで、舞台と同じ楽曲を使っています。映画のオープニングから“煙が目にしみる”が流れて、劇中ではアイリー・ダンが歌います。ジンジャーとフレッドが最初に踊ったのは“アイル・ビー・ハード・トュ・ハンドル”で、その踊りはそのまま撮影され最後の二人の笑い声も入っています。木の床で踊るのは、とても気持ち良く踊れて楽しかったと語っています。ジンジャーはダンスの稽古が大好きで、何時間も根気よく続けられるそうです。『ロバータ』ではフレッドとハーミズと三人で、ダンス・ナンバーを1日8時間、6週間の練習でした。『ロバータ』の撮影が終了して一週間も休まないうちに、ジンジャーはパンドロ・S・バーマン監督の『深夜の星』でビル。パウエルと共演します。

”アイル・ビー・トゥ・ハンドル”を踊るジンジャーとフレッド(左)
ファッション・ショーに登場するルシル・ポール(右)

 『深夜の星』の撮影が終了して六日後、ジンジャーはフレッドと『トップ・ハット』のリハーサルを始めました。共演者はエドワード・ホートン、ヘレン・ブロデリック、エリック・ローズ、エリック・ブロアです。音楽はアーヴィング・バーリンで、“トップ・ハト”、”イズント・ディズ・ラブリディ“、”チーク・トゥ・チーク“”ピッコリーノ“”ノー・ストリングス“と名曲を提供しました。衣装デザインは『ロバータ』に続いて、バーナード・ニューマンです。ジンジャーが希望したドレスは、ブルーのサテンにダチョウの羽根を無数につけた背中が空いているドレスです。ダンス・シーンを撮影の為、ジンジャーの仮設の控室に羽根付きドレスが運ばれてきました。それを見た監督もフレッドもその場にいたスタッフ全員が、そのドレスを使う事に反対でした。ドレスが仮設の控室に届くと同時に、サンドリッチ監督がジンジャーに『コンチネンタル』で着用した白いドレスを着て欲しいと言ってきました。ジンジャーは母親のレラに電話をして、スタジオに来るように言って。仮説の控室戻ります。間もなく、汚れて伸び切ったボロボロの白いドレスが運び込まれました。レラが到着して、事情を話してブルーのドレスを見せて感想を聞きました。レラは気に入ってくれて、サンドリッチ監督にブルーのドレスは素敵なドレスだし、ジンジャーが着るべきだと言います。サンドリッチ監督はレラに、ドレスの事を幹部全員と話し合ってくれないかと言います。レラは、別の女の子を使ったら如何と言って、ジンジャーの手を取ってサッサと楽屋口から外に出ていきました。その時、アーガイル・ネルソンがジャンジャーを引き留め、サンドリッチ監督があのドレスで一度リハーサルをしようと云っていると言います。羽根付きドレスを着て最初フレッドと踊った時、彼が一番嫌っている事が分かったそうです。フレッドの顔には、このドレスは気に入らないと顔に書いてあったと語っていました。踊ると羽根は飛び散りましたが何とか撮影が終わり、次の日のラッシュを観てジャンジャーは満足しました。しかし、試写室にいた誰もジンジャーに声を掛ける事が無く出て行きました。ジンジャーが試写室から出た時、アシスタントの一人が私は奇麗だと思いますと言ってくれたのは嬉しかったそうです。そんな事があった四日後、控室にリボン付きの小箱が配達されて来ました。それはフレッドからのプレゼントで、中にはメモとブレスレットになる金の羽根が一本入っていました。『トップ・ハット』の撮影は約12週間で終わり、続けて『本人出現』の撮影に入ります。『トップ・ハット』は大ヒットし、最高傑作とまで云われました。ニューヨークのラジオシティ・コールで公開された時は、満員の観客が一曲終わる毎に喝采していたと聞かされていたそうです。

バーナード・ニューマンがスケッチしたダチョウの羽根のドレス(左)
”チーク・トゥ・チーク”をフレッドと踊るジンジャー(右)

 1935年10月には再びフレッドと『艦隊を追って』の撮影に入ります。(仕事の連続で、休む暇もない状態が続いています。)監督はマーク・サンドリッチ、共演者はフレッド、ハリエット・ヒルリアード、ランドルフ・スコット、ルシル・ポール、ベティ・グレィブル、トニーマーチンです。マーク・サンドリッチ監督とは三作目ですが、相変わらず無視されていました。サンドリッチ監督は、フレッドの顔とジンジャーの後頭部を撮るのを信条にしていた。ジンジャーの後姿をロング・ショットで撮って、フレッドの顔の背景になるようにしたのが不愉快だったと語っています。二人の最初のナンバー“レット・ユアセルフ・ゴー”でフレッドは水兵服、ジンジャーはネイヴィーブルーのパンツに白のセーラー・タイプの衣装で踊ります。この曲は後で出て来て、このミュージカル・シリーズで初めてソロ・ダンスをします。ダンスのルーティンを作る時、フレッドは他のダンスと違うものを作ろうと試みていました。ジンジャーは、ダンスの終わり方や色々アイディアを出していました。最後のナンバー“レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス”で、バーナード・ニューマンが作ったペイルブルーのビーズのドレスを着て踊りました。ビーズの重さは11㎏あり、ターンをするとビーズの重さでバランスを崩していました、一回目のテイクで、袖のビーズがフレッドの顎を一撃しました。フレッドは一瞬怯みましたが、ダンスをそのまま続けました。その後二人ともビーズの攻撃を避けながら、数時間踊り続けましたが一度も上手く行きませんでした。結局、一番最初のテイクをサンドリッチ監督は採用しました。このナンバーは歌と踊りだけで物語が展開され、二人の心情が伝わるようになっています。サイレント映画の時代から、良質の映画は映像で物語を伝えます。(このシーンは大好きです。)

ダンス・コンテストで踊るジンジャーとフレッド(左)
ビーズのドレス着てフレッドと踊るジンジャー(右)

 母親のレラはハリウッドでホリータウン・シアターという研究集会を開いていました。RKOはスタジオ内に若手の俳優の為に俳優養成所を作ろうとしていたので、レラの研究集会をスタジオ内でするように依頼します。レラはスタジオ内の小さな劇場で、劇のキャスティングとプロデュースしました。その時の若手俳優は、ルシル・ポール、ベティ・グレイブル、ジョイ・ホッジス、レオン・エイムス、アン・シャーリー、タイロン・パワー、フィリス・フレザーというメンバーでした。一人入会を断ったのは、ジョーン・フォンティンでした。彼女は既にアルフレッド・ヒチコックの『レベッカ』の主役を演じていましたので、レラは納得しました。レラは若手俳優の為に脚本を読み訓練しながら、才能を発揮できる場所を探していました。RKOがルーシーの契約を切る話があった時、ルーシーは有望な若手の一人ですから、ルーシーを首にするのなら私も辞めると云って彼女の契約を継続させました。

 1936年4月にジンジャーはRKOと新しい契約を結ぶ為に交渉していました。ジンジャーはマスメディアによって、大衆には屈託のないブロンド娘というイメージが出来上がっていました。ジンジャーは自分の能力を伸ばしたいと思っていたので、RKOに自分の条件を出します。彼女は今まで何の不満も言わず、無遅刻無欠勤で、会社の指示通りに働き続けました。プロデューサーのバンドロ・S・パーマンの助力もあり、RKOはジンジャーの条件に同意して契約しました。次回作は『有頂天時代』で、監督はジンジャーを無視するマーク・サンドリッチからジョージ・スティーヴンスに代わります。ジョージは素晴らしい監督なので、この映画は今までの自分の演技の幅を拡げられと思ったそうです。共演者はフレッドを始め、ヘレン・ブロデリック、エリック・ブロア、ヴィクター・ムーアとお馴染みメンバーでした。音楽はジェローム・カーンとドロシー・フィールズが担当しました。この映画でフレッドが”今宵の君は“を歌うシーンがありますが、ジンジャーがバスルームから頭を白い石鹸の泡で一杯まま居間に歩いて行きます。しかし、様々なシャンプーを使っても、シェービング・クリームや卵白を泡立てても駄目でした。ジンジャーはホイップ・クリームを使う事を思い付き、このやり方で撮影は成功しました。この方法は、その後十年のシャンプーのコマーシャルに使われました。

ホイップ・クリームで作った
泡の頭のジンジャー

 この映画のラスト・ナンバーネバー・ゴンナ・ダンス”は、ご存じのように48テイク撮影されました。このナンバーの撮影はトラブル続きで、アークライトが消えたり、ノイズがカメラに入ったり、最後のスピンでどちらかのステップをミスしたり、最後の最後にフレッドのカツラが飛んだりしました。ジンジャーは足が痛くて堪らなかったので、靴を脱ぐと皮が剥けて血だらけでした。それを見たハーミズが、撮影を中止しようと言いましたが、ジンジャーは断ってダンスを続けました。『有頂天時代』は大ヒットし、『トップ・ハット』の動員記録を塗り替えました。さらに“今宵の君は”は、アカデミー主題歌賞を受賞しました。

“ネバー・ゴンナ・ダンス”の48テイク目のダンス

 1936年12月24日、『踊らん哉』の撮影が始まりました。共演者はフレッド、エドワード・エヴァレット・ホートン、エリック・ブロア、そして新顔のジェローム・コワンです。楽曲はジョージ・ガーシュインとアイラ・ガーシュイン、監督は二度と顔も見たくないマーク・サンドリッチです。この映画ではジンジャーのお面が登場しますので、石膏で顔型を撮ります。鼻に二本のストローをさし、顔全体に石膏を塗って15分間じっとしていました。その15分は、15時間経ったように思ったそうです。出来上がったマスクを付けた女の子たちが登場するシーンは、不気味なマスクと沢山のコピーを見るのは堪えられなかったそうです。

お面を付けたダンサーたちと
ジンジャー(中央)

 本作ではニューヨークのセントラル・パークで撮る予定があり、ンジャーはフレッドとハーミズと3人でどんな踊りにするか考えていました。ハーミズがローラースケートを履いて踊ったらと言いました。フレッドは乗り気ではなかったようですが、ジンジャーはこのアイディアを気に入りました。小道具係にローラースケートを用意して貰って、踊ってみるとフレッドも気に入りハーミズと3人でステップを考えました。ある朝、ジンジャーの許に脅迫状が届きました。フロントは悪戯だから何もしなくて良いと言われました、ジンジャーはFBIに連絡して対処を依頼しました。FBIの「ジンジャー」は、5000ドルが入った封筒を受け渡しに行って犯人の指示通りにしました。間もなく現れた犯人は、FBIに逮捕されて懲役5年の実刑判決を受けました。

ローラースケートを履いて踊る
ジンジャーとフレッド

 1937年6月、RKOの『ステージ・ドア』の撮影に入ります。ジンジャーとキャサリーン・ヘップバーンで主役を分け、監督はグレゴリー・ラキャヴァ。共演者はアドルフ・マンジョー、ジャック・カーソン、コンスタンス・コリア、ルシル・ポール、アン・ミラーでした。キャサリンとは確執がありましたが、ラキャヴァ監督はジンジャーを気に入ってくれてよい部分を引き出してくれました。この映画で歌も踊りも無しのストレート・プレイの俳優として認めてもらえるようになります。9月には舞台劇を脚色した『処女読本』の撮影に入ります。監督はアルフレッド・サンテル、共演者はダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ルシル・ポール・イヴ・アーデン、ジャック・カーソン、そして映画初出演のレッド・スケルトンでした。残念ながら舞台劇ほどの面白みが無く、成功しませんでした。

 休む間もなくジンジャーは『モーガン先生のロマンス(『陽気な淑女』)』の撮影に入ります。監督はジョージ・スティーヴンス、ジンジャーとジェームズ・スチュワートで主役を分け、共演者はチャールズ・コバーン、ビューラ・ボンディ、ジェームズ・エリソン、フランシス・マーサーです。教授がナイトクラブの歌手に一目ぼれして、二人は夜のニューヨークを彷徨い歩くシーンはとてもロマンチックです。この映画でジンジャーはアクション・シーン(?)を演じます。教授の元恋人と口喧嘩から始まって、張り手と蹴りの応酬になり、最後はレスリングもどきになります。

 休暇を取ったジンジャーは、1939年5月に『気儘時代』の撮影に入ります。監督はジンジャーにとって最悪のマーク・サンドリッチです。共演者はフレド、ラルフ・ベラミ^、ハティ・マクダニエル、ジャック・カーソン、音楽はアーヴィング・バーリンです。撮影派ジンジャーお気に入りの一流のカメラマンロバート・デ・ダラスです。本作では脚本家はアラン・スコット、アーネスト・バガン、ダドリー・ココルス、へいがー・ワイルドの四人です。本作のストーリーは今までとは違うもので、本格的なコメディといってもいい位のシナリオです。ジンジャーは優柔不断の女性アマンダを演じましたが、今までミュージカル映画で演じたどの役よりも素晴らしかった。ヨーロッパでは、『気儘時代』は『アマンダ』と呼ばれていたそうです。『気儘時代』は当初テクニカラーで撮る予定でしたが、撮影に入る数日前に予算の関係でモノクロになりました。セットも衣装も音楽もカラー撮影を前提で準備しました。ジンジャーとフレッドは、初めてのカラー映画出演に喜んでいましたが、スタッフも含め全員失望しました。本作でのジンジャーの持ち歌“ヤム”は、フレッドが気に入らなかったお下がりです。このナンバーで新しい踊りをジンジャーが思いつきます。フレッドが片足を伸ばしてテーブルの上に踵をつけ、ジンジャーはその足を飛び越えて踊る「テーブル超え」のアイディアです。フレッドはやる気がなかったので、ハーミズとジンジャーで踊って見せたら、フレッドも納得してこの案は採用されました。今回精神科医役のフレッドがジンジャーに催眠術をかけるシーンも、ジンジャーのアイディアでそれをダンスで表現しています。そのシーンにジンジャーが夢を見る場面が挿入されますが、その場面がスローモーションで撮られました。そのダンスの最中の最後でフレッドとジンジャーの唇が一瞬触れました。後でラッシュを観るとスローモーションで撮られた為、二人がしっかりキスしているように映っています。それを観たフレッドは奇声をあげ、その後皆と一緒に笑いだしました。やはり相手役とのキスは、妻のフィリスが嫌がっていたのが真実の様です。『有頂天時代』でドアの陰でキスしたように見せたのは、フレッドの口にメイキャプ係が口紅を塗ったものでした。

テーブル超えをするジンジャーとフレッド

 ジンジャーの次回作は1939年の『カッスル夫妻』で、第一次世界大戦以前にダンス・ホールで神機を博したヴァーノンとアイリーン・カッスルの伝記映画です。夫のヴァーノン・カッスルは戦争中に飛行機事故で亡くなっています。撮影に入る前からアイリーンはジンジャーに事細かく注文を付けてきました。撮影中も靴のリボンが違うとか、アイリーンが考え出したというショートボブにしろとか小競り合いは続きました。ジンジャーもフレッドも自分たちが気に入らない事は断りました。仲にはいった監督のハンク・ポッターは罵声を浴びながら収めていました。ポッター監督は非常に仕事がやり易く、気配りと機転をもって上手く扱ってくれたそうです。共演者はエドナ・メイ・オリヴァーとウォルター・ブレナンで楽しく仕事が出来たそうです。(この二人は名脇役ですから当然ですね。)1900年初頭のヴァーノンとアイリーンのダンス・パターンは、フォックストロット、マキシン、カッスル・ウォークで、嬉しくなるほど古風で楽しかったと語ったっていました。今回フレッドと共演したミュージカル映画で、二度目のソロ・ナンバーを踊ります。“ヤム・ヤム・マンのダンス・パターンを模倣するアイリーン・カッスルも真似をします。だぶだぶのスーツを着て、このナンバーを踊るのは楽しかったそうです。

“ヤム・ヤム・マン”を踊るジンジャー

 この映画でコンビが解消されると噂が広まり、フレッドと共演する最後の映画であるように思ったそうです。この映画のラスト・ナンバー”ミズリー・ワルツ”の撮影時にはパラマウントやコロンビアの上層部や、RKOで制作中の他のステージのスタッフも加わり大勢の人たちの前で撮影されました。ジンジャーはラスト・ワルツを踊りながら、感極まって涙が浮かんだそうです。

カッスル・ウォークを踊るジンジャーとフレッド(左)
映画のラスト・シーン(右)

 この時のジンジャーの写真は、タイム誌の1939年4月10日号で表紙になりました。と書いた処で、次回に又続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

Vol.12 『ジンジャー・ロジャース』

  ジンジャー・ロジャース(1911・7・16~1995・4・25)は、ミズリー州のインディアナ生まれの映画俳優、ダンサー、ミュージカル俳優です。妊娠9か月だったジンジャーの母レラ・オーウェンズ・マクマスは、夫に見捨てられましたが、一人で家と秘書の仕事を探して生活を始めました。出産後も職場にジンジャーを連れて出勤し、タイプライターを打って仕事を続けていました。全て自分が決めた通りに実行する母親だったと、ジンジャーが語っていました。”ジンジャー”という名前は彼女が4歳の頃、当時11か月の従妹のヘレンが名付けたそうです。ジンジャーの本名ヴァージニア・キャサリン・マクマスですので、ヴァ-ジニアと皆から呼ばれていました。赤ん坊のヘレンは、ヴァージニアと言えずに色々な呼び方して最後にジンジャーと呼ぶようになりました。それからは皆がジンジャーと呼ぶようになり、ジンジャーと云う名前になったそうです。

レラ・イモーガン・オーウェンズ 1908年(左)
ヴァージニア・キャサリン・マクマス 3歳(右) 

 1915年、母親のレラはエッセイ・コンテストで作品が一等賞になり、その作品を持って単身ハリウッドに行きました。そこでラオール・ウォルッシュと知り合い、彼の依頼で脚本を書き採用されますが、出来た映画は自分の出した企画からは大きく変わっていました。監督、プロデューサー、俳優によって内容が変わってしまう事を知ります。その後、ヘンリー・キングの紹介で、20世紀フォックス社で脚本を書くようになります。5か月間フォックスの仕事をしていたレラは、ジンジャーをニューヨークに呼び寄せます。レラがハリウッドに行った時のジンジャーは、レラの姉のヴェルダ・ヴァージニアの大家族と一緒に幸せに数年間を過ごしています。母の呼び出しで、6歳のジンジャーは一人でカンサス・シティから列車に乗って、シカゴ経由でニューヨークまで行きました。ニューヨークで母親と楽しく過ごし、公立学校にも通っていましたが、第一次世界大戦の戦況が悪化していた1918年に母親は海兵隊に入隊します。海兵隊に加わった最初の十人の一人だったそうです。レラはワシントンD.C.に移る為、ジンジャーは再びカンサス・シティの叔母さんの家に行くことになります。レラは海兵隊の広報部の仕事をし、短期間ですが海兵隊の新聞「レザーネック」の編集長の代理もやっていました。その頃レラはジョン・ローガン・ロジャースと知り合い、1920年5月にレラが海兵隊を除隊した時に彼と結婚しました。新しい父親の“ジョン・ダディ”は優しくて、本当の父親のようでジンジャーは直ぐ好きになったそうです。

フォートワースのアーツクラブにて 1921年

 ジンジャーの母親、レラ・イモーガン・ロジャースは舞台脚本も書く才女で、フォートワース・レコード誌の評論家をしていて、映画やヴォードヴィル等の全ての劇場関係の批評を担当していました。1920年当時はヴォードヴィルが流行っていて、フォートワースに来た芸人を母親が家に招待するのでジャンジャーは多くの芸人に会っています。彼女が踊りを覚えたのは、近所の男の子がチャールストンの踊り方を教えてくれた時が初めめでした。それを自分でアレンジして踊るようになりました。1923年頃はチャールストンが各地で大流行していて、フォートワースでも大会が開催されました。ジンジャーはこの地方大会に出て優勝し、ダラスの決勝戦でも優勝してテキサス州のチャンピンになりました。このコンテストの優勝により、彼女は4週間の公演をして回る事になります。母親の手配でコンテストでは次席だった二人と契約して、小さな一座を作って巡業して回ります。これがジンジャーのプロのスタートですが、彼女は誰からもダンスのレッスンは受けていません。この公演後、1925年から1928年の間ジンジャーは母親と全米各地を巡業して経験を積み、ニューヨークに進出して初めてニューヨークの舞台で演じます。

1926年 ジンジャーの最初のブロマイド(左)
ボードビル・ショーで「ザ・バレンシア」を踊るジンジャー(右)
1926年 ジンジャーとレラ

 彼女のヴォードヴィルのステージは好評を得ていまして、3本の短編映画に出演する事になります。15分の短編映画は、ヴォードヴィルの歌とダンスを簡単に紹介するものです。因みに、ジンジャーの初デビュー映画は、『キャンパス・スイートハート』と云う短編映画です。この映画を撮影中もヴォードヴィルを続けていた時に、パラマウントからミュージカル・コメディの舞台劇「トップ・スピード」の出演依頼がありました。1929年、18歳のジンジャーはブロードウェイの舞台にデビューを果たします。公演期間中にパラマウント映画のスクリーン・テストを受けて合格し、『恋愛四重奏』に出演する事になります。ジンジャーは舞台と並行して『恋愛四重奏』の撮影もこなします。ここから彼女の掛け持ちが始まっています。3月に「トップ・スピード」の舞台が終わり、その後続けて4月に『喧嘩商会』、5月に『三太郎太平洋横断』と2本の映画に出演します。

1930年 『恋愛四重奏』
モンタ・ベル監督とジンジャー

 「トップ・スピード」の舞台が終了後、ジョージ&アイラ・ガーシュイン兄弟の新作ミュージカル舞台劇「ガール・クレイジー」のオーデションを受けます。19歳のジンジャーは見事主役の座を勝ち取り、ガーシュイン兄弟と仕事をする事になります。製作が始まる前にガーシュインの家でディナー・パーティーがあり、そこで「 ガール・クレイジー 」の楽曲が、 ジョージ ・ガーシュインのピアノ演奏で披露されました。ガーシュイン兄弟はジンジャーの為に、“バット・ノット・フォー・ミー”と“抱きしめたあなた”の2曲を用意していました。ジョージは彼独特のシング・トークで、ピアノを弾きながら歌詞を語りました。ジョンジャーは2曲とも気に入り、特に“抱きしめたいあなた”は絶対ヒットすると思ったそうです。

1930年 「ガール・クレージー」
ジンジャーとアレン・カーンズ

 八月からリハーサルが始まりましたが、プロデューサーのアレックス・アーロンズとヴィントン・フリードリーがダンスの振り付けが良くないので、アレックスが友人のダンサーを呼ぶ事になまりした。そして、ある日劇場に小柄の紳士が現れます。それがフレッド・アステアでした。アレックスの指示でダンス・ナンバーを一通り踊り、“抱きしめたいあなた”をもう一度踊るようにフレッドが言い、随所にステップを加えて修正しました。そして、フレッドとジンジャーは“抱きしめたいあなた”を踊ります。これが、二人の最初のダンスです。その後もフレッドはアレックスに呼ばれて、ジンジャーのダンスを調整する為に訪れ、フレッドの指導で未熟な部分は修正されます。彼女は以前から人の物まねが上手だったせいか、フレッドの踊りについて踊るのは簡単で、自分のステップは彼のステップにピッタリ合っていたと言っていました。そして、フレッドは単なるダンスの指導者で特別の印象を受けなかったとも言っていました。

 1930年10月14日に「ガール・クレイジー」は上演開始となり、272回公演が続き大ヒットとなります。この公演のオーケストラは、レッド・ニコルズ・アンド・ヒズ・ファイヴ・ペニーズです。そうです。あの1950年の『五つの銅貨』でお馴染みのレッド・ニコルズのバンドです。メンバーは、ドラムがジーン・クルーパ、ピアノがロジャー・イーデンス、クラリネットがベニー・グッドマン、サックスがジミー・ドーシ、トロンボーンがグレン・ミラーとジャック・ティーガーデンと云うそうそうたるメンバーです。公演中に時々ガーシュインが来て、ピアノを弾く事もあったそうです。「 ガール・クレイジー」終了後、ジンジャーは立て続けに数本の映画に出演します。

 1932年にはフリーになってワーナー・ブラザーズで2本、フォックスで2本出演した後、再びワーナー・ブラザーズと契約してバックステージ・ミュージカルの『四十二番街』に出演します。この映画の監督はロイド・ベーコン、振付師は新しいスタイルを生み出したバズビー・バークレイ、主役はワーナー・バクスターと新人のビビ・ダニエルズです。ジンジャーの役はコーラス・ガールで、非常に印象的で存在感のある演技をしていました。彼女のアイディアで片メガネを掛けて、訛った英語を喋っていました。『四十二番街』は大ヒットし、今も1930年代の最高傑作とも言われています。

1933年 『四十二番街』
ウナ・マーケルとジンジャー

 1933年はこの後立て続けに2本の映画に出演し、次にマービン・ルロイ監督の『ゴールド・ディガーズ』では一攫千金を夢見るコーラス・ガールのフェイ・フォーチュン役で出演します。オープニングでジンジャーはコインを散りばめた衣装を着て、オープニングで登場して「ウィー・アー・イン・ザ・マネー」を歌います。彼女の唇が、画面一杯に映し出されます。この後も『プロフェショナル・スウィートハート』、『恋に賭けるな』、『彼女の戦術』、『めりけん音頭』と1933年には9本の映画に出演しています。ジンジャーは『恋に賭けるな』で憧れていたルー・エアーズと共演しました。彼女は『西部戦線異状なし』でルー・エアーズを観た時から、彼に恋していたと語っています。その言葉通りにジンジャーはルーとデートを重ね、1934年11月14日に彼と結婚しました。

1933年『ゴールド・ディガーズ』
コインのドレスを着るジンジャー

 1933年7月に『空中レビュー』の製作が決定し、ドロシー・ジョーダンが結婚で役を降りたのでジンジャーが代わりに出演する事になりました。前にも書きましたがジンジャーは歌手役で、黒のスケスケのドレスを着てキュートでセクシーに“ミュージック・メイクス・ミー”を歌います。

“ミュージック・メイクス・ミー”を歌うジンジャー

 リオ・デ・ジャネイロで地元の楽団の演奏途中から、ジンジャーとフレッドは“カリオカ”を踊り、“カリオカ”旋風を起こします。“カリオカ”のダンスは、二人が額と額を付けて踊る処が大変ユニークで、ダンサー全員が額と額を付けて踊ります。この額と額を付けて踊るアイディアは、振付師のハーミズ・パンが思いついものです。RKOは、この映画の成功で財政難を解消し、フレッドとジンジャーのコンビを主役にして映画化を決定します。

“カリオカ”を踊るジンジャーとフレッド

と、書いた処で次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難うございました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考資料 「ジンジャー・ロジャース自伝」

発行所:キネマ旬報社 1994年

Vol.11 『フレッド・アステアのすべて』 第二部

 フレッドは1939年にジンジャーとのコンビを解消し、五つの撮影所と契約をしました。出演する映画ごとにパートナーを変えていました、とナレーションが入ります。アメリカが戦争に突入した為、映画はファンタジーからリアルになります。フレッドの映画も軍隊をテーマに扱うようになり、1941年にコロンビア社の『踊る結婚式』を撮りました。映画以外にもフレッドは、多くのスターたちと同様に国債の宣伝やヨーロッパへの慰問公演を行いました。兵士慰問のステージで踊る、フレッドのニュース映画が流れます。

志願したフレッドが入隊する時のシーン『踊る結婚式』(左)
国債の宣伝パレード(右)

 『踊る結婚式』でフレッドは、営倉のダンス・シーンで「アステア・ラグ」を踊ります。(この曲は黒人タップの「ビューグル・コール・ラグ」の変形だそうです。)

「アステア・ラグ」を踊るフレッド

 フレッドのダンス映画は、ダンサーや振付師に強い影響を与えたとナーレションガ入ります1955年の『足ながおじさん』の相手役、レスリー・キャロンがコンビの踊りを覚える為に、フレッドの映画を観たと話します。続いて振付師のボブ・フォッシー、テレビ・ショーのパートナーのバリー・チェイス、振付師のローラン・プチ、振付師のジェローム・ロビンスらが、フレッドのダンスの真似をした事を話します。

レスリー・キャロン(左)とボブ・フォッシー(右)
バリー・チェイス(左)とローラン・プチ(右)
ジェローム・ロビンス

 フレッドがリタ・ヘイワースと2本の映画に出演した事と、ジンジャーの抜けた後リタは最高のダンサーだったとナレーションが入ります。画面は1942年の『晴れて今宵は』で「アイム・オールド・ファッションド」を踊るフレッドとリタの踊りが映し出されます。(とてもセクシーなリタですが、ダンスにはジンジャーの様なセクシーさを感じないのは私だけでしょうか?)

「アイム・オールド・ファッションド」
を踊るフレッドとリタ

 1940年にパラマウント映画『セカンド・コーラス』でポーレット・ゴダード、アーティー・ショーと共演します。劇中フレッドはアーティー・ショーに代わり、楽団の指揮をしながら踊ります。

指揮をしながら踊るフレッド

 ボブ・フォッシーはフレッドのタップは、コメディ・タッチのミュージカルで、白人タップ・ダンサーのトップだと言います。続いて、黒人タップのホニー・コールズは、フレッドのダンスはバレエとタップを上手く組み合わせたアクロバットだと言います。ワルツを踊っていたと思うと突然タップになる、タップでもワルツでもバレエでも無く、時代を先取りしたダンサーだと言います。ルドルフ・ヌレエラは、フレッドは発明家だと言います。自由な発想で色々なものを取り入れて、音楽を支配していると語ります。音楽に合わせてステップを踏むのではなく、オーケストラの中の一つの楽器になりきっていたと言います。ボブ・フォッシーが『スイング・ホテル』でフレッドが踊った「爆竹のナンバー」は最高だと言います。タップの動きは次の動きが予想出来るが、フレッドのステップは予想出来ないと言います。1942年『スイング・ホテル』の「爆竹のナンバー」を踊るフレッドの映像が表示されます。

「爆竹のナンバー」を踊るフレッド

 ルドルフ・ヌレエラは、フレッドの小道具の使い方がうまいと言います。帽子掛けと踊ったり、部屋で天井や壁で踊ったりして、全てをフルに活用して踊っていると言います。続いてボブ・フォッシーは、フレッドの踊りは常にスリルに満ちている。物が落ちそうになったり、転びそうになったりと、わざと即興でやっているように見せている。充分リハーサルをしているのは分かっていてもハラハラすると語ります。1943年のRKO映画『青空は踊る』で、ホテルのバーのカウンターで危なっかしく踊った後、グラスや鏡を壊すナンバーの映像が流れます。

『恋愛準決勝』で天井や壁を踊るフレッド(左)
『青空は踊る』でバーのカウンターで踊るフレッド(右)

 1949年のMGM映画『バークレー夫妻』でジンジャーと共演し、その後のジンジャー以外のパートナーを紹介するナレーションが入ります。ボブ・フォッシーがMGMに入った頃の1950年代に、フレッドとジーン・ケリーのダンスを見て、フレッドのダンスが変わった事に気が付いたと言います。今まで見た事が無い膝を使った踊りを試していたと言います。膝や床を使った新しい動きは、1950年の『レッツ・ダンス』で観られと、ナレーションが入ります。

ピアノを相手に踊るフレッド(左) ベティ・ハットンと踊るフレッド(右)

 1955年4月3日に『バンド・ワゴン』の宣伝の為、「エド・サリバン・ショー」に出演しました。

「エド・サリバン・ショー」の司会者エド・サリバン(左)
エド・サリバンとフレッド(右)

 1955年に20世紀フォックス社の『バンド・ワゴン』で、レスリー・キャロンと共演しました。レスリー・キャロンは、自分の手が大きくてベレエ・ダンサーとして嫌だったが、フレッドが手を小さく見せる方法を教えてくれたと語ります。続いてローラン・プチが、自分は古典的な振付をするので、フレッドと組むのはむりがあった。最初の稽古はメチャクチャだったので辞めさせてくれと言ったら、一緒にいると安心出来るからレスリーの振付をするように言われた、と語ります。再びレスリー・キャロンが登場して、ローラン・プチのお陰で有名なナンバーが出来た。自分はトゥ・シューズでバレエを踊り、フレッドは燕尾服を着て踊った。二つの違うスタイルが上手くマッチしたと話します。もう一つのナンバーの「サムシング・ガット・ブギ」は、楽しく踊れたとも語っています。

レスリー・キャロンのバレエと踊るフレッド(左)
「サムシング・ガット・ブギ」を踊るレスリーとフレッド(右)

 1955年パラマウント社の『パリの恋人』でオードリー・ヘップバーンと共演します。振付はバレエ界の大物のユージン・ローリングです。彼はフレッドの性質を見極めて、繊細さを引き出すようにしたと語ります。

振付師のユージン・ローリング(左) オードリーと踊るフレッド(右)

 その後、フレッドはテレビに進出して全て自分で企画し、振付はハームズ・パン、無名のバリー・チェイスをパートナーにします。バリー・チェイスは、フレッドの脚を踏みそうで不安だったと言っていました。フレッドとハームズが2週間稽古をしてくれたのは、自分の不安を理解してくれたていたと思う。仲間として大切に扱ったってくれたのは嬉しかったとかたっていました。このテレビ・ショウは、1958年から1959年の間に4回放映され、九つのエミー賞を受賞しました。

1958年放送の「今宵アステアとともに」で踊るバリーとフレッド
1968年放送の「今宵アステアとともに」で踊るバリーとフレッド

 レスリー・キャロン、ホニー・コールズ、ルドルフ・ヌレエラ、ボブ・フォッシー、ジェローム・ロビンスらが、フレッドへの称賛の述べます。そした最後の『ブルー・スカイ』の「プリティング・オン・リッツ」を踊るフレッドの映像が流れてエンド・タイトルになります。

「プリティング・オン・リッツ」
を踊るフレッド

 大昔、レーザー・ディスク(もうご存じの方は、殆どいないですね。)で「フレッド・アステア物語パート1・パート2」が、1枚のディスクで発売された事がありました。私が知ったのは、発売後から相当経っていたので未見でした。コスミック出版から発売されていた「フレッド・アステア大全集」を購入した処、『フレッド・アステアのすべて』を観て驚きました。このドキュメンタリーは、私が観たかった「フレッド・アステア物語パート1・2」でした。『フレッド・アステアのすべて』は単品販売はありませんが、コスミック出版から10枚セットと9枚セットが販売されていました。送料込みで2000円ちょっとでしたが、今は中古しか無いかも知れませんね。私は楽天市場で中古品を買っていますが、今の処トラブルはありませんでした。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『フレッド・アステアのすべて』第二部 作品データ

監督・制作:デビッド・ヒーリー 脚本:ジョン・L・ミラー

アシスタント・プロデューサー:ジョーン・クラマー

ナレーター:ジョアン・ウッドワード

出演:レスリー・キャロン、バリー・チェイス、

   ホニー・コールズ、ボブ・フォッシー、

   ルドルフ・ヌレエラ、ハームズ・パン、

   ローラン・プチ、ジェローム・ロビンス

「フレッド・アステア大全集」2011年発売
『フレッド・アステアのすべて』を含む映画10本入りです。
「フレッド・アステア サード・ステージ」2017年発売
こちらは『フレッド・アステアのすべて』を含む映画9本入りです。

Vol.10 『フレッド・アステアのすべて』 第一部

 再びフレッド・アステアです。今回は1980年に制作された彼のドキュメンタリー映画を紹介します。この映画では、フレッド・アステアの有名なダンス・ナンバーを観る事が出来ます。監督はデビッド・ヒーリーで、アメリカのテレビ映画監督です。「セサミ・ストリート」や「ネイチャー・ワールド」を手掛けた方で、本作では製作と監督をしています。この映画は第1部と第2部に分かれていますが、第1部から観始めると自動的に第2部が始まります。字幕を外すことは出来ません。ナレーションで色々解説が入ります。ナレーターは映画俳優のジョアン・ウッドワードです。彼女はポール・ニューマンの奥さんで、アカデミー賞やエミー賞を受賞しています。

ジーン・ケリーとルドルフ・ヌルエラ

 ジーン・ケリーとルドルフ・ヌルエラが登場して、ダンス映画やフレッド・アステアの話をします。最初のダンス・シーンは『トップ・ハット』の「プッティン・オン・トップ・ハット」です。フレッドと同様にトップ・ハット、白隊、燕尾服にステッキを持った男性ダンサー20人程がフレッドと踊ります。途中フレッドのソロ・ダンスになり、再び男性ダンサーが加わりフレッドがステッキでマシン・ガンを撃つ動作をして何人かが倒れます。このテイクを3回撮って4回目を撮ろうとしたら、偶々この撮影を観ていたジェームズ・ギャグニーがもう撮らなくていいと言います。彼は、2回目のテイクでちゃんと出来ていると言いました。翌日のラッシュで映写されたのは2回目のテイクで、かれの意見が正しかったと思ったそうです。(ジェームズ・ギャグニーは、独特のタップ・ダンスをするダンサーでもあります。)

「プッティン・オン・トップ・ハット」
を踊るフレッド

 幼い頃のフレッドと姉のアデルの話から始まり、アデルが結婚してコンビ解消までの事をアデルが声の出演で語られます。(詳しくは、Vol.5『フレッド・アステア』をご覧下さい。)フレッドは1933年にフィルス・ポッターと結婚し、ハリウッドに向かいます。

舞台劇に出演中のアデルとフレッド
フレッドとフィルス・ポッター

 1933年にRKOで『空中レビュー時代』に出演が決まりますが、その前にMGMで『ダンシング・レディ』に出演します。RKO元役員でプロデューサーだったバンドロ・バーマンとジンジャー・ロジャースが『空中レビュー時代』について語ります。画面には「キャリオカ」を踊るフレッドとジンジャーのダンスが登場します。

バンドロ・バーマンとジンジャー・ロジャー
「キャリオカ」を踊る
フレッドとジンジャー

 続いて1934年の『コンチネンタル』で「ナイト・アンド・ディ」を踊るフレッドとジャンジャーです。相手役のジンジャーの感情の変化が、ダンスで表現されているのが伝わってきます。批評家のアーリン・クローチは、これ以上のダンス映画を今まで観たことが無いと評しています。

「ナイト・アンド・ディ」を踊る
フレッドとジャンジャー

 バンドロ・バーマンが登場して、二人のシリーズに関わった製作スタッフを紹介します。音楽はアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、ヴィンセントユーマンス、当時最高の音楽家たちです。監督はマーク・サンドリッチ、ジョージ・スティーヴンス、ウィルアム・サイター、ハンク・C・ポッターと最高の監督です。振り付けはハーミズ・パンとアシスタントでピアノを弾いていたハル・ボーンです。

ジンジャー、フレッド、アーヴィング・バーリン(左)
ジェローム・カーン(右)
コール・ポーターとヴィンセントユーマンス
ハーミズ・パンとアシスタントのハル・ボーン

 ハル・ボーンが登場して、1934年の『コンチネンタル』の話をします。当時ジンジャーは他の映画にも出演していたので、ハーミズ、フレッド、ハルの三人で振付を決めて、ジンジャーの空いている時間にそれを教えていたと語ります。続いてハーミズが登場して、踊りの稽古に6週間かけてから監督を呼んでいたと語ります。ジンジャーは6週間のリハーサルの話をします。何も無い殺風景なステージで、衣装も無くハルが弾くピアノに合わせて踊り続けたそうです。ダンス・ナンバーの「コンチネンタル」」を踊るフレッドとジンジャーの映像が表示されます。

「コンチネンタル」」を踊る
フレッドとジンジャー

 1935年の『ロバータ』も大成功を収め、観客を熱狂させたとナレーションが入ります。ハーミズ・パンが二人のダンスについて語ります。二人の踊りは何かを醸し出す。相手が変わると煌めきを失うと言っています。続いてバンドロ・バーマンは、当時二人のダンスに言われていたジョークを語ります。“フレッドは気品を与え、ジンジャーはお色気を与えた”と。言いだしたのはキャサリーン・ヘップバーンだったと言っています。(正に二人のダンスを正確に表した言葉だと思います。)

 再び最高傑作と云われている、1935年の『トップ・ハット』が紹介されます。ジンジャーが「チーク・トゥ・チーク」を踊る時に着たドレスの話をします。全身が羽根に覆われたドレスで、リーハーサルで踊る度に羽根がスタジオ中に飛び散ったドレスの事です。撮影中は誰も良いとは言ってくれなくて、ジンジャーとデザイナーだけが気に入っていたそうです。じかし、映画が公開されると、皆褒めてくれたと言っています。そして画面には「チーク・トゥ・チーク」を踊るフレッドとジンジャーのダンスが登場します。

「チーク・トゥ・チーク」を踊る
フレッドとジンジャー

 ハーミズが床のベークライトの話をします。1度踊ると床が傷だらけになるので、毎回床を磨いたと語ります。ジンジャーは、ピカピカの床はとても奇麗だったけれど、滑って踊るのは大変だったと言いていました。

ベークライト製の床の話をするハーミズとjンジャー

 1936年の『艦隊を追って』の劇中劇でもベークライの床を使っています。私の大好きな「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック&ダンス」の曲に乗せてフレッドとジンジャーが踊ります。ジンジャーのドレスは全身ビーズ付きで、フレッドが袖のビーズで顎に一発食らっています。このビーズのドレスのお陰で、ボンヤリとジンジャーの脚が透けて見えてセクシーです。このシーンは踊りの振付だけで、物語を表現しています。このシーンについて評論家のジム・ハービーは“人との関わりをアステアはポーズで表現している”と語っています。ハーミズは、ダンスは言葉で表せない事を表現する抽象的な芸術だと言っています。

ダンスで物語を表現している
フレッドとジンジャーの踊り

 次の作品は1936年の『有頂天時代』です。(リバイバル上映の時は、確か『スイング・タイム』となっていました。)この映画でフレッドは、タップの神様ビル・ボージャングル・ロビンソンに敬意を表して黒人に扮してソロ・ダンスを踊っています。

ビル・ボージャングル・ロビンソン

 ハーミズがフレッドのスクリーン・プロセスを使って、3人の影と踊るアイディアを思いついた話をします。そして、「ボージャングルズ」の曲に合わせて、フレッドが3人の自分の影と踊ります。影の踊りの動きを確認した処、ひとつのダンス映像を使って3人分作っていますね。完璧主義のフレッドは自分の踊りを編集されるのを嫌い、ダンス・シーン全体をワン・テイクで撮るとナレーションが入ります。この映画のラストで踊るステージは、30段の階段が左右にあり下のフロアーからフロアーまで二人が踊ります。ハーミズが当時の撮影時の話をします。ジンジャーの靴は血まみれできつそうだった。ジンジャーは英雄みたいだったと言っています。そして47回目にOKが出たと言っていますが、ファースト・テイクの後の47回目なので、全部で48回二人は踊っています。続いてジンジャーは動く範囲が広くて大変なダンスだった。30段も階段を登ってそこでダンスをするのは初めての試みだったと語っています。ロマンチックなナンバー「ネヴァー・カム・アゲイン」でフレッドとジンジャーが踊る画面に変わります。この二人のダンスは、ダンスの中のダンスと云われました。

「ボージャングルズ」を踊るフレッド(左)
「ネヴァー・カム・アゲイン」を踊るフレッドとジンジャー

 1937年の『踊らん哉』の音楽をジョージ・ガーシュウィンが担当しまミムズが語ります。画面は「バスを叩いて」の合わせて踊るフレッドの映像が表示され、続いてフレッドとジンジャーが「けんかをやめよう」の曲に合わせてローラースケートを履いたまま踊る映像に変わります。

手前がジョージ・ガーシュウィン
真後ろがアイラ・ガーシュウィン
バスを叩いて」を踊るフレッド(左)
「けんかをやめよう」を踊るフレッドとジンジャー

 そして画面は変わり、船のデキッキで犬を散歩させるフレッドとジンジャーが映し出されます。人々は二人の関係に興味を持ったとナレーションが入ります。バンドロ・バーマンが登場して、フレッドは姉のアデルと離れてからスランプが続いていたと語ります。続いてジャンジャーはコンビで売り出されるのが嫌になったのではないかと語ります。ハーミは二人の仲が悪いと云う噂がある話をします。ジンジャーが登場して、一度もケンカをした事がないのにと言ったフレッドの話をします。

 RKOはフレッドの為に、ジンジャーなしで1937年『踊る騎士』を製作します。しかし、この映画が当たらなかったので1938年『気儘時代』でジャンジャーとのコンビを復活させます。画面は「チェンジング・パートナーズ」で踊るフレッドとジンジャーのダンス・シーンが流れます。

「チェンジング・パートナーズ」を踊るフレッドとジンジャー

 二人のコンビが解消となる最後の映画、1939年の『カッスル夫妻』に関するナレーションが入ります。バンドロ・バーマンが登場して、アイリーン・カッスルとの契約の話をします。ジンジャーはアイリーンが色々と不満を言ってきた時は傍にいたくなかったと語っています。

アイリーン・カッスル(中央)

 画面には1914年のサイレント映画『ザ・ワール・ライフ』でキャッスル夫妻のダンスが映し出され、そしてカッスル夫妻のダンスを再現したフレッドとジンジャーのダンスが映し出されます。

左からアイリーン・カッスルとヴァーノン・カッスル(左)
ダンスを披露するカッスル夫妻(右)

 ハーミが登場して、時代の流れで二人の時代が終わったと語ります。最後にフレッドとジンジャー以上のコンビは二度と現れないだろうと、ナレーションが入り第一部が終わります。次回の第二部に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『フレッド・アステアのすべて』第一部 作品データ

監督・制作:デビッド・ヒーリー 脚本:ジョン・L・ミラー

アシスタント・プロデューサー:ジョーン・クラマー

ナレーター:ジョアン・ウッドワード

出演:ジーン・ケリー、ルドルフ・ヌルエラ

   アデル・アステア(声のみ)、バンドロ・バーマン

   ジンジャー・ロジャース、ハル・ボーン

Vol.9 『空中レビュー』

 RKOの初日は、各部門の責任者との顔合わせと作業工程の説明を受けました。この時点では『空中レビュー』でのフレッド・アステアの相手役はまだ決まっていませんでした。三日目にジンジャー・ロジャースが出演するかもしれないと聞かされ、彼女がストレート・プレイの映画ではなくミュージカル映画に出演するか心配だったようです。ジンジャー・ロジャースとは、1930年に彼女が出演する舞台劇の「ガール・クレイジー」の稽古中に会っていました。劇中でのダンスが上手くいってないので手伝って欲しいと、ガーシュウィンを紹介してくれたアレックス・アローンから連絡があり、次の日劇場に出向きます。そこで彼女に初めて会い、問題のナンバーに取り組みました。「ガール・クレイジー」は好評で、彼女は話題の人となります。その後、彼女とは時々一緒に出掛けて映画を観たりナイト・クラブで踊ったりしていました。

 主役のベリーニヤ・デ・レゼンデをドロレス・デル・リオ(メキシコ出身の美人で、サイレント映画時代から活躍している大女優です。)が演じています。相手役のロジャー・ボンドをジーン・レイモンドが演じ、親友のフリオ・ルベイオをラウル・ロウリン(南米の歌手)が演じています。

左からドロレス・デル・リオ 、 ジーン・レイモンド 、 ラウル・ロウリン

 歌手のハニー・ホールをジンジャー・ロジャースが演じ、アコーデオン奏者のフレッド・アイレスをフレッド・アステアが演じています。

ジンジャー・ロジャーとフレッド・アステア

 マイアミのホテル・ハイビスカスの最初の演奏で、ロジャーとヤンキー・クリッパー楽団の専属歌手のハニー・ホールが、セクシーなドレスを着て歌います。

ミュージック・メイクス・ミー」を歌うジンジャー・ロジャース(22歳)

 ロジャーとベリーニヤの二人は恋に落ちますが、ベリーニヤはロジャーの親友のフリオと婚約していて二人は結婚する事になっています。この三角関係のラブ・ストーリーがメインで展開され、それにベリーニヤの父親が経営する、ホテル・アトランティコの開業を邪魔する3人のマフィアが登場して物語は進行します。色々見せ場があって面白いですが、この映画は音楽とダンスと空中レビューの映画です。主役のドロレス・デル・リオさんには申し訳ないですが、「カリオカ」を踊るフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの為の映画になってしまっています。

 この映画のクライマックスは、飛行機の翼の上にダンサーの身体を固定して、飛んでいる飛行機の上で踊るシーンです。正に邦題通りの空中レビューです。飛行機が出始めた頃、アメリカでは翼の上で人が乗って曲乗りをするのが流行っていました。それを複数の飛行機で行うものです。

 リハーサル初日にフレッドは久し振りにジンジャー・ロジャースと会い、昔の思い出話で盛り上がり楽しい気分でいくつかのスッテプを試し、二人で踊ってその日のリハーサルは無事終ります。準主役のフレッドとジンジャーのダンス・シーンは、「カリオカ」の曲の一部だけで長い時間ではありません。7台のピアノが円形に並べて作られた円形ステージの上で、二人が踊ります。(映画の48分頃と53分頃に登場します。)二人のダンス・シーンは非常にインパクトがあって大好評なので、RKOはこの二人の為に主演映画の準備をします。フレッドはこの映画の撮影が終わると最後の舞台劇「陽気な離婚」に出るためにロンドンに向かいます。

カリオカ」を踊るフレッドとジンジャー

 『空中レビュー』の監督のソーントン・フリーランドと云う方は、私はこの1作しか観たことがありませんが、音楽の使い方やダンス・シーン等素晴らしい演出をされる方です。音楽担当のヴィンセントユーマンスが、この映画の為に「オーキッズ・イン・ザ・ムーンライト」、「カリオカ」、「フライング・ダウン・トゥ・リオ」の3曲を作曲しました。この中の「カリオカ」が演奏されるシーンは12分間あり、ダンサーが大勢登場して踊りまくり圧巻です。パートナーが、額と額を付けながら踊るのは面白いです。

圧巻のダンス・シーン(左)コミカルな男性ダンサーとの踊り(右)

 演奏と共に3人の歌手が入れ替わり歌います。最初に歌うのはアリス・ジェントル、二番目がモヴィータです。そして三番目に登場するのがエッタ・テモンです。笠置シズ子似の方で、素晴らしい「カリオカ」を聞かせてくれます。エッタ・テモンは、アフリカ系アメリカ人の女性として初めて、1934年にホワイト・ハウスで歌った方です。

カリオカ」 を歌うエッタ・テモン

 劇中「月下の蘭」も上手く使われていて、ドロレス・デル・リオとフレッド・アステアのダンス・シーンもあります。ソーントン・フリーランド 監督の本領発揮でしょうか、飛行機の翼の上でのレビュー・シーンは凄い発想です。この奇想天外の空中シーンは3分程続きます。地上にいる人たちには、翼の上のダンスは見えないなんて言ってはいけません。映画を観る観客の為のシーンですから、余計な事は考えずに楽しみましょう。嘘を本当のように見せるのが映画です。ジンジャーは翼の上で指示を出すリーダーをやり、地上ではフレッドが「フライング・ダウン・トゥ・リオ」を歌って踊ってフィナーレとなります。三角関係のラブ・ストーリーは、粋なラストで映画は終わります。

リーダーのジンジャー(左)と翼の上でのダンスサーたち

 この映画はお勧めですがレンタルには無いと思いますので、観るためには購入するしかないかも知れません。でも今は古い映画も配信されているのかな。私はフレッド・アステア出演のDVDは単品で購入していましたが、この映画は9枚セット2000円チョットで入手しました。1枚当たり220円程度なので、とても有難いセットでした、パブリック・ドメインの商品なので、映画会社のトレード・マークは表示されません。画質は作品によってばらつきがありますが、本編を観る事が出来れば良いと思う方にはお勧めします。最後までお付き合い頂きまして有難う御座います。

「ミュージカル・パーフェクト・コレクション ファーストステージ
発行:株式会社コスミック出版

『空中レビュー時代』 作品データ

アメリカ 1933年 モノクロ 89分

原題:Flying Down to Rio

監督:ソートン・フリーランド

脚色:シリル・ヒューム、H・W・ヘーンマン、アーウィン・ゲルシー

原作:ルウ・ブロック

撮影:J・ロイ・ハント

音楽:ヴィンセントユーマンス

作詞:エドワード・エルスキュ、ガス・カーン

振付:ディブ・ゴールド

出演:ドロレス・デル・リオ、ラウル・ロウリン

   フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース

   ジーン・レイモンド、ブランシュ・フレデリシ

   ウォルター・ウォーカー、エッタ・テモン

   フランクリン・パングボーン、ポール・ポルカシ

   レジナルド・バーロウ

Vol.8 『フレッド・アステア』 最終章

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 1951年、MGMが準備を進めていた『恋愛準決勝』に取り掛かる事になります。相手役のジューン・アリスンと振付師のニック・キャッスルと共にリハーサルを始めます。しかし、ジューン・アリスン(当時、ディック・パウエル夫人)の妊娠が分かり、役を降りる事になります。ジュディ・ガーランドに出演依頼をした処、快諾してくれたのでリハーサルを再開しましたが、ジュディが病気になり役を降ります。チャック・ウォルターズが監督する事になっていましたが、別の仕事の為に降りてしまいます。開始後5週間経っても主演女優も監督も決まっていない状態です。1週間後、ジューン・パウエルが出演する事になり、やっとリハーサルが再開されました。ジェーン・パウエルは本来ダンサーではありませんが、芸達者な女優なので素晴らしいダンスを披露してくれます。『略鬱された七人の花嫁』で主演しています。フレッドはスタンリー・ドーネンを監督に指名します。スタンリー・ドーネンは最初振付師でしたが、最近監督になったばかりでした。共演はピ-ター・ローフォードとウィンストン・チャーチルの娘のサラ・チャーチルです。この映画は原題”Royal Wedding”が示すように、フィリップ王子とエリザベス王女のロイヤル・ウエディングの模様も後半に登場します。小柄なジューンは、パワフルなダンスでフレッドの相手をします。彼女は映画の出演本数は少ないですが存在感のある女優で、ジャズ・シンガーとしても有名な方です。フレッドはこの映画で、以前から構想していた壁や天井で踊ります。大掛かりな舞台とそれを動かす装置作りは大変だったと思いますが、このシーンは有名ですね。

客船のホールで踊るフレッドとジューン(左)
オーデションでサラと踊るフレッド(右
天井や陰で踊るフレッド(左)
左からピータ、ジューン、フレッド、そしてサラ(右)

 1952年、ヴェラ・エレンと『ベル・オブ・ニューヨーク』の撮影に入りますが、1946年に企画を中止した映画です。1910年の時代設定が退屈だったのとファンタジーが嚙み合っていない映画に思われます。フレッドが空中に浮かび上がって踊るシーンがありますが、批評家にも観客にも受け入れられなかったようです。八か月取り組んだが、失敗作だったとフレッドが語っています。1953年、MGMは『バンド・ワゴン』を企画します。姉のアデールと出演した舞台劇の「バンド・ワゴン」の楽曲を使いますが、新しくシナリオは書き下ろされました。監督はヴィンセント・ミネリ、フレッドの相手役はシド・チャリシーです。この映画はバック・ステージ物ながらかなりの大作で、ジャック・ブキャナン、オスカー・レヴァント、ナネット・ファプレイが出演しました。フレッドはシド・チャリシーの事を卓越したダンサーで、素晴らしいパートナーだ。彼女には正確さに加えて美しいダイナマイトだと評していました。ニューヨークの批評家は大絶賛しましたが、ハリウッドの方は酷評でした。

公園でシドと踊るフレッド(左)
劇中でのシドとフレッドのダンス(右)

1953年『バンド・ワゴン』

 1954年20世紀フォックスから『足ながおじさん』の現代版ミュージカルの出演依頼があり、フレッドは即決で契約しました。監督はジーン・ネグレスコ、作詞作曲はジョニー・マーサー、振付はローラン・プチです。フレッドの相手役は、フランス出身のバレエ・ダンサーレスリー・キャロンです。彼女は誠実で真面目で優れたアーティストで、自分が完璧に自信を持てるまでダンスも演技しませんでした。彼女の為に撮影は何分でも何時間でも止まる事がありましたが、フレッドはそんな彼女を称賛していました。リハーサルを始めていた7月に奥さんのフィリスの病状が悪化して二度目の手術をする事になり、フレッドは一時撮影現場から離れます。回復するかに見えたフィリスは、1954年9月13日に亡くなりました。フレッドはこの仕事を辞めようとしましたが、フォックス社から映画を続けるように説得されます。気持ちの準備が整った10月から仕事を再開しました。映画が完成するとフレッドは初めて宣伝の為にテレビに出る事になります。ダンスも台本も無しで、全てアドリブだったのは楽しかったと語っていました。「エド・サリバン・ショー」では、エドに呼ばれて客席から登場してカメラ前に出ていました。

バレエ・ダンスのレスリーと踊るフレッド(左)
レスリーとフレッドのダンス(右)

 あるカクテル・パーティーでMGMのロジャー・イーデンズに偶然会った時、パラマウント社の『パリの恋人』(原題:ファニー・フェイス)の出演依頼がありました。オードリー・ヘップバーンが脚本を気に入って、フレッド・アステアが出演するなら出ると言っている。フレッドは即答で快諾しました。偉大なる美しきオードリー・ヘップバーンと共演出来るのは、唯一最後のチャンスだと思ったそうです。オードリーはフレッドと踊れる日を20年待って実現する事になりました。監督はスタンリー・ドーネン、振付はユージン・ローリングとフレッド・アステアです。音楽はジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンの過去の楽曲が使われました。パリでの撮影は雨が続き、チュイルリー公園でのファッション写真撮影シーンは、雨の中で行われました。シャンティイーのラ・レーヌ・ブランシュ教会で、二人はロマンティックなダンス・シーンを撮る事になっていました。雨が執拗に降り続け、最後の最後にギリギリ撮影可能になりました。雨は上がっても地面は乾いていない状態です。二か月以上踊っていないダンス・ナンバーを、非常に広いエリアを踊りました。帰国後、フレッドはニューヨークに行って、テレビや新聞雑誌で宣伝活動しました。今回もエド・サリバンの番組にも出演しています。映画はロードショウ公開で、大成功を収めました。

古本屋でのフレッドとオードリー(左)
教会の敷地で踊るフレッドとオードリー(右)

 MGMの『絹の靴下』の準備が整い、1956年9月からリハーサルが始まりました。『絹の靴下』はブローウェイのミュージカル・コメディを映画化したもので、映画の『ニノチカ』を懸案したものでした。監督はルーベン・マヌーリアン、音楽はコール・ポーター、フレッドの相手役はシド・チャリシー、共演者はジャニス・ペイジ、ピーター・ローレです。シドとのダンスを楽しみにしていたフレッドは、彼女と沢山のダンスを踊り、どれも出来が良かったと語っていました。ミュージカルが下火になっていたにも関わらず、1957年に公開されたこの映画はヒットしました。『絹の靴下』撮影終了後、様々なスタジオから脚本が送られてきましたが、本当にやりたいものはありませんでした。もうミュージカル映画は充分やりつくしたと思ったそうです。

フレッド、シド・チャリシー、ジャニス・ペイジ(左)
シド・チャリシーと踊るフレッド(右)

 フレッドは1957年にテレビで、歌わないし踊らない番組を企画します。毎週日曜日夜の「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の中で放送された、「インプ・オン・コブウェブ・リーシュ」という題名の30分のコメディです。歌わない踊らないコディアンとしてのフレッドは視聴者に受け入れられました。これに気をよくしたフレッドは、生放送のダンス特番を作ろうと思い企画してクライスラー社と契約します。クライスラー社から番組の内容はフレッドに一任され、一時間の特別番組をカラーで生放送する事になりました。フレッドは明確なコンセプトを持ち、ダンスのアイディアを練り上げました。そしてバリー・チェイスに共演を依頼しました。バリーは『足ながおじさん』と『絹の靴下』に無名のダンサー役で出演していて、彼女の仕事にフレッドは感銘を受けていました。また、練り上げたダンスは部分的に彼女の独特のスタイルからインスピレーションを得ています。振り付けはハーミズ・パンとフレッドが担当しました。20人ほどのメンバーは7週間のリハーサルを行い、フレッドはその前に5週間のリハーサルをしていました。クライスラー社提供の「アン・イヴニング・ウィズ・フレッド・アステア」は、1958年10月17日に放送されました。放送終了後、視聴者とマスコミの両方から、批判の声なしに称賛されました。この特番は1968年までの10年間に合計4回放送され、9個のエミー賞を受けています。(このテレビ番組の邦題は、「今宵アステアとともに」です。)

1858年の生放送で踊るバリーとフレッド
1968年の最後の生放送で踊るバリーとフレッド

 1958年にスタンリー・クレイマー監督から、『渚にて』で科学者のオズボーン役を演じてほしいと出演依頼がありました。主演はグレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、共演はアンソニー・パーキンス、ドナ・アンダソンです。この映画は特撮を一切使わないSF映画として有名な映画です。核戦争が起こり、北半球に住んでいた人たちは死亡し、南半球のオーストラリアだけが辛うじて生きて居られる状態です。しかし、核の汚染は南半球にも広がってきて、人類の全滅が間近に迫っているという内容です。フレッドはストレートの俳優として出演しています。

フレッドとエヴァ・ガードナー(左)
自分のレース・カーを運転するフレッド(右)

 その後1968年に『フェニアンの虹』でフレッド最後のミュージカル映画に出演し、1974年に『タワーリング・インフェルノ』にストレ-トの俳優として出演してアカデミー助演男優賞にノミネートされています。1974年に『ザッツ・エンターテインメント』、1976年に『ザッツ・エンターテインメント パート2』と出演しています。1985年の『ザッツ・ダンシング』ではフレッド本人は出ていませんが、過去の映画での出演をしています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝

Vol.7 『フレッド・アステア』の続きの続き

 ジンジャー・ロジャースとのコンビ解消後、1940年にフレッド・アステアはMGMで『踊るニューヨーク』の撮影に入ります。監督はノーマン・タウログ、共演者はエリノア・パウエルとジョージ・マーフィです。この映画の原題は『Broadway Melody of 1940』といい、ブロードウェイ・メロディ・シリーズの4作目でシリーズの最終作です。共演のエリノア・パウエルは1930年代に大活躍したタップ・ダンサーで、タップの女王と言われていました。ダンスの神様とタップの女王の共演は、私にとっては奇跡のような映画です。正確無比でパワフルなエリノアと軽快に華麗なダンスをするフレッドとのダンス・シーンは最高ですね。この映画では二人のタップ・ダンスを十二分に堪能出来ます。ジョージ・マーフィはストレートーの俳優もしますが、歌も踊りも笑顔も素晴らしい俳優です。後に彼は映画会社の社長やアメリカの下院議員にもなった方です。この映画でフレッドはジョージと組んで、初めて男性コンビで踊ります。この映画は当初カラー映画を予定していましたが、第二次世界大戦時の為モノクロで撮影されました。映画の出来は良かったのですが、世界情勢が不安な事もありスマッシュ・ヒットにはなりませんでした。

エリノア・パウエルのダンス・シーン(左)
ジョージと踊るエリノア(右)
レストランで踊るエリノアとフレッド(左)
ビギン・ザ・ビギンを踊るエリノアとフレッド(右)

 その年フレッドは、パラマウントから公開される『セカンド・コーラス』に出演します。監督はハンク・ポッター、振り付けはお馴染みのハーミー・パン、共演者はポーレット・ゴダード、バージェス・メレディス、アーティー・ショー楽団です。フレッドは、アーティー・ショー楽団の指揮をしながらダンスをするアイディアを実行しました。この映画の音楽はジャズで構成されていたので、フレッドにとっては初めてのスウィング・ジャズ物となりました。

ポーレッド・ゴダードと踊るフレッド(左)
アーティー・ショー楽団の指揮をしながら踊るフレッド(右)

 『セカンド・コーラス』の撮影終了後、フレッドには次回作の予定が入っていませんでした。そのような時、コロンビア映画社のプロデューサーだったジーン・マーキーから、若い女優との共演に関するオファーがありました。B級映画に数本出演しているが、本来ダンサーで将来大スターになるだろうと言いてきました。その女優リタ・カンシーノは、ヴィルボード時代の旧友エドゥアルド・カンシーノの娘で、芸名がリタ・ヘイワースになったばかりでした。後日コロンビア社から連絡があり、出演を承諾してくれるなら続けてもう一本撮りたいとの依頼でした。それから今度はパラマウント社から連絡があり、ビング・クロスビーが出演する『スイング・ホテル』への出演依頼が入りました。戦時下の暗い空気の中、ハリウッドはミュージカル映画で追い払おうとしたのでは無いかと考えたそうです。リタとの最初の共演映画は『踊る結婚式』で、彼女にとっては初めての主演映画です。監督はシドニー・ランフェールド、音楽はコール・ポーターです。リタは訓練を受けた完璧さと個性を持ってフレッドと踊りました。楽しく撮影で来たのは、この映画が第二次世界大戦の軍務を背景にした映画だったので、殆ど軍服姿なので着替える必要がなかったのと、リタと共演できた事だと語っていました。

営倉でソロ・ダンスを踊るフレッド(左)
ウエディング・ドレスのリタと踊るフレッド(右)
1942年『踊る結婚式』

 次回作はパラマウント社の『スイング・ホテル』です。監督はマーク・サンドリッチ、音楽はアーヴィング・バーリン、主役は当時大人気のビング・クロスビーです。今回のフレッドのソロ・ダンスには花火を使った新しい趣向のものがあります。この花火のナンバーは、爆竹を鳴らしてステップに合わせてリズミカルに爆発させるものです。床にワイヤーを巡らせて、特定の場所で花火の火花が走るように仕掛けたものです。非常に迫力があるダンス・シーンになっています。そして、この映画で初めて「ホワイト・クリスマス」がビング・クロスビーによって歌われました。この曲は世界的に大ヒットし、クリスマスの定番ソングとして長年親しまれました。

ビング・クロスビーとフレッド(左
花火の火花と踊るフレッド(右)

 フレッドは1942年の9月から、ハリウッド勝利委員会が手配した戦時公債ツァーに出かけます。このツァーは公債の販売促進する為に、工場、パーティー、路上集会、劇場でのショーに出演するもので、州をくまなく回ります。(アメリカの国民は、このようなツァーで戦争国債を購入していた訳です。)タイトなスケジュールのツァーが終わり、『晴れて今宵は』の撮影に入ります。監督はウィリアム・A・サイター、音楽はジェローム・カーンです。リタとの共演も二度目で楽しく仕事が出来たそうです。映画はなかなかの成績を上げ、リタの美貌と才能は絶賛されました。

とても魅力的なリタ・ヘイワース(左)
リタと踊るフレッド(右)
1942年『晴れて今宵は』

 1943年にRKOの『青空に踊る』に出演します、監督はエド・グリフィス、音楽はジョニー・マーサーとハロルド・アレン、共演者は若手のジョーン・レスリーです。戦友役のロバート・ライアンは、この映画でデビューしました。第二次世界大戦中なので、フレッドは、「フライイング・タイガー」に乗るパイロットを演じました。次回作は決まっていましたが撮影は遅れていて、「ハリウッド戦時公債大行進」いう大規模な戦時公演ツァーに参加します。ハリウッド・スターが大勢出演し、二週間特別列車で東西両海岸の大都市を回りました。

ロバート・ライアンとフレッド(左)
ジョーン・レスリーと踊るフレッド(右)

 次回作の『ジーグフェルド・フォーリーズ』はMGMの大作で、監督はヴィンセント・ミネリ、出演者はMGMの多くのスターが出演しました。1900年代から1930年代に数々の舞台を演出したフローレンス・ジーグフェルド・ジュニアが、嘗て大好評だった「ジーグフェルド・フォーリーズ」を天国から演出するという映画です。「影なき男」シリーズのウィリアム・パウエルが、ジーグフェルドを演じました。監督のヴィンセント・ミネリは大掛かりなセットを作り、当時の「ジーグフェルド・フォーリーズ」を再現しています。フレッド待望のカラー映画です。フレッドはルシール・ブレマーと2曲踊ります。2曲目はチャイナ・タウンが舞台で、幻想シーンの二人は赤い衣装で手に大きな扇子を持って踊ります。どちらもセリフは無く、踊りだけで物語が分かるようになっています。そして、ジーン・ケリーと初めてコンビを組んで踊っています。この映画でジュディ・ガーランドが歌う「クレマタント夫人」は、ラップでしょうね。撮影終了後フレッドは、軍人と軍人の家族のサポートをするUSO(United Service Organizationsの略)の慰問旅行でロンドンに向かいます。その後、戦火の中フランス、ベルギー、オランダ等のヨーロッパ各地を6週間慰問して回りました。

ルシール‣ブレマーと踊るフレッド(左)
ジーン・ケリーとフレッド(右)

 1945年MGMで『ヨランダと泥棒』の撮影に入ります。監督は前作に続きヴィンセント・ミネリ、相手役も同様にルシール・ブレマーでした。ファンタジー色が強いせいか、興行的には不調に終わりました。パラマウント社でビンク・クロスビー主演の『ブルー・スカイ』に出演します。監督はステュアート・ヘイスラー、音楽はアーヴィング・バーリン、振り付けはハーミンズ・バンです。芸達者なビリー・デ・ウルフが素晴らしい演技を披露しています。この映画でフレッドが踊る「プッティング・オンザ・リッチ」は最高です。ステッキを使ってソロを踊ったあとに後ろのカーテンが空き、中には7人のフレッドが立っています。そして、8人のフレッドが踊ります。バックの七人の動きを細かく確認した処、フレッドは七人分のダンスを個別に撮っています。このシーンの撮影に満足出来たフレッドは、パラマウントの特殊効果部の尽力のお陰だと感謝していました。

ビング・クロスビーとビリー・デ・ウルフ(左)
7人のフレッドと踊るフレッド・アステア(右)
1946年『ブルー・スカイ』

 母親の助言もあり、フレッドはこの映画を最後に引退する事にします。1947年フレッドはダンス・スクールを始めます。150名の教師の訓練をしましたが、思うように事業は進みませんでした。そんなある日ライオネル・ハンプトンの「ジャック・ザ・ベル・ボーイ」を聞いた時、仕事に戻りたいと突然思ったそうです。勿論映画の予定はありませんでした。処がMGMからスクリーン復帰の依頼電話がありました。『イースター・パレード』のリハーサル中、ジーン・ケリーが足首を骨折したので代役をして欲しいとの事でした。ジーン・ケリーの依頼もあり『イースター・パレード』に出演する事になります。監督はリチャード・ウォルターズ、音楽はアーヴィング・バーリン、相手役はジュディ・ガーランド、共演者はピーター・ロフォードとアン・ミラーです。映画はフレッドに合わせて大幅な変更をして撮影されました。この映画のお勧めは、二人が浮浪者姿で歌って踊る「しゃれ者二人組」です。ジュディはコミカルに本当に楽しそうに踊っています。映画は大ヒットし、観客はフレッドのカムバックを歓迎しました。

ジュディと踊るフレッド(左)
浮浪者姿で踊るジュディとフレッド(右)

 次回作はMGMで『ブロードウェイのバークレイ夫妻』をジュディと共演する事が決まりました。監督はチャック・ウォルターズ、音楽はハリー・ウォーレンとアイラ・ガーシュインです。撮影が始まる頃にジュディが病気で出演出来なくなり、ジュディの要望で代役を立てる事になりました。簡単に代役は見つからないと思っていたら、偶然にもジンジャー・ロジャースが出演可能でした。『カッスル夫妻』撮った時に話していたコンビ再結成が突然実現しました。ジンジャーはこの10年間歌もダンスもやっていませんでしたが、見事にコンビは復活しました。リハーサルのシーンは最高です。ピッタリ息が合って楽しそうに踊る二人を観ているだけで、なんだか嬉しくなりました。今回のフレッドの新しいダンスは、靴修理店での空想シーンで沢山の靴と共演するソロ・ダンスです。この映画は未公開でしたが、フレッドとジンジャーのダンスをカラーで観られるお勧めの一本です。

楽しそうに踊るジャンジャーとフレッド(左)
沢山の靴と踊るフレッド(右)

 MGMジャック・カミングズから『土曜は貴方に』の脚本が届きます。ヴォードヴィル時代からの友人二人の物語で、フレッドは大いに気に入りジャックに撮影が待ち遠しいと伝えます。この物語はダンサーで作詞家のバート・カルマーと作曲家のハリー・ルビーの実話を基にした映画です。カルマー役がフレッドで、ハリー役はコメディアンのレッド・スケルトンが演じました。監督はリチャード・ソープ、共演者はダンシング・スターのヴェラ・エレン、振り付けはハーミズ・パンです。タップ・ダンスとパントマイムを組み合わせたナンバーでは、ダイナミックなヴェラのダンスを楽しめます。フレッドはこの映画を非常に気に入っていると語っています。

フレッドとヴェラ・エレンの踊り(左)
レッド・スケルトンとフレッド(右)

 以前から予定に入っていたパラマウントの『レッツ・ダンス』の撮影に入ります。監督はノーマン・マクラウド、振り付けはハーミン・パン、フレッドの相手役はベティ・ハットンです。カーボーイ姿の二人が揉み合うコミカルなナンバーでは、パワフルなベティのダンスが観られます。それとフレッドはピアノを相手にダンスをします。この映画は大々的に封切られたにも関わらず、早々に立ち消えてしまいました。

ピアノを相手に踊るフレッド(左)
コミカルに踊るフレッドとベティ・ハットン(右)

そして、又次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座います。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

参考文献:青土社 フレッド・アステア自伝