
今回ご紹介するのは、最高のミュージカル映画『踊るニューヨーク』です。ダンスの神様と言われたフレッド・アステアと、タップダンスの女王と言われたエレノア・パウエルが共演した奇跡の映画です。ネット上には二人が踊る“ビギン・ザ・ビギン”が出回っていますが、ランチタイムにジュークボックスの音楽に合わせて踊る二人のダンスは素晴らしいです。
【スタッフとキャストの紹介】

★監督:ノーマン・タウログ(1899年2月23日~1981年4月7日)は、イリノイ州シカゴ出身の映画監督です。タウログは幼い頃から舞台の子役となり、13歳でトーマス・H・インスの映画スタジオで映画デビューしました。その後、8年間は主にオフブロードウェイの劇場に出演しました。1919年に映画界に監督として復帰し、短編コメディ映画からその後1969年までの40年間で180本の映画を監督しました。
1920年『スポーツマン』を監督し、その後42本のサイレント映画を監督しましたが主に短編映画でした。1928年『ゲットー』、1929年『ラッキー・ボーイ』と長編映画を監督しました。1931年の『スキピイ』で第4回アカデミー賞の監督賞を受賞し、喜劇監督の地位を獲得しました。この映画にはタウログの甥のジャッキー・クーパーが出演していて、10歳ながら助演男優賞にノミネートされました。タウログの32歳260日での監督賞受賞は当時最年少で、2017年のデミアン・チャゼルが32歳38日で受賞するまでの86年間破られる事はありませんでした。『スキピイ』がヒットしたので、パラマウント社は続編の『スーキー』を制作しました。
1932年にオールスター・キャストのオムニバス映画で、8人の監督で撮られた『百万円貰ったら』を監督しました。1934年に『恋と胃袋』、1936年『1936年の大放送』とビング・クロスビー主演の映画を監督しました・1938年に古典児童文学の『トム・ソーヤーの冒険』と続けて『少年の町』を監督しました。コメディ映画監督として地位を獲得していましたが、ドラマチックな映画の監督としても認められるようになります。1939年『LUCKY NIGHT』が大ヒットし、1940年にMGMの戦前最大のミュージカル映画の『踊るニューヨーク』を監督しました。1940年には『少年の町』に続いてミッキー・ルーニー主演で、エジソンの伝記映画『若い科学者』を監督しました。同年『リトル・ネリー・グリー』、1943年『リリー・マーズ』・『ガール・クレイジー』とジュディ・ガーランド」の映画を監督しました。第二次世界大戦中のアメリカ政府が、食糧・ガソリン・日用品等の販売を制限していた1944年にコメディ映画『配給』を監督しました。
1947年に原子爆弾のドキュメンタリー・ドラマ『始まりか終わりか』で新しいジャンルを手掛けています。1948年にはリチャード・ロジャースとローレンツ・ハートの関係を基にした、フィクションの伝記映画『Words and Music』を監督しました。ディーン・マーティンとジェリー・ルイスが1946年からコンビを組み、1949年の『マイ・フレンドイルマ』で映画デビューしました。タウログは1952年『底抜け落下傘部隊』、1953年『底抜けやぶれかぶれ』、1954年『底抜けニューヨークの休日』、1955年『お若いデス』、1956年『底抜け西部へ行く』を監督しました。その後、ジェリー・ルイス単独の1959年『底抜け船を見棄てるナ』、1959年『底抜け宇宙旅行』を監督しました。1960年にエルヴィス・プレスリー主演『GIブルース』を監督しました。プレスリーが軍隊から帰還して2年振りのこの映画を観たトム・パーカー大佐は、プレスリーの映画をパターン化して映画製作を行いました。1961年『ブルー・ハワイ』、1963年『ガール!ガール!ガール!』、1963年『ヤング・ヤング・パレード』、1965年『いかすぜ!この恋』、1966年『カリフォルニア万才』、1967年『ダブル・トラブル』、1968年『スピードウェイ』を監督しました。そして1968年『バギー万才‼』を最後にタウログは監督業から引退しました。その後、タウログは南カリフォルニア大学映画学部で教鞭を執ったり、全米監督組合の理事を務めました。彼は晩年盲目になりましたが、ロスアンゼルスの点字研究所の所長も務めました。1941年4月7日にカリフォルニ州バームデザートで82歳で亡くなりました。

★美術:セドリック・ギボンズ(1890年3月23日~1960年7月26日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市出身の美術監督です。(ダブリン出身の説もあります。)彼は1924年から56年までの32年間、MGM映画スタジオで製作された約1,000本以上の映画の美術を担当しました。彼は今まで背景が絵で描かれたセットで、立体的な家具を最初に使ったと言われています。彼が使ったアールデコ調の家具は多くの映画でも使われて、アメリカ全土のインテリア装飾のトレンドとなりました。1934年には『ターザンの復讐』の監督をしました。
1927年5月11日に映画芸術科学アカデミーが、36名の創設会員により創設されました。ギボンズは創設会員になり、オスカー像のデザインもしました。彼はアカデミー美術商に39回ノミネートされ、11回受賞しています。私生活では1930年の女優のドロレス・デル・リオと結婚しましたが、1941年に離婚しています。その後、ヘイゼル・ブルックスと再婚しました。1960年7月26日、カリフォルニア州ウェストウッドで亡くなりました。

★音楽監督:アルフレッド・ニューマン
アルフレッド・ニューマンの履歴は『蛇の穴』をご覧下さい。

フレッド・アステア(41歳)
★フレッド・アステアの履歴は『フレッド・アステア』をご覧下さい。

エレノア・パウエル(28歳)
★エレノア・パウエル(1912年11月21日~1982年2月11日)は、マサチューセッツ州スプリングフィールド出身のダンサーで女優です。彼女は2歳の時に母子家庭となり、母親のブランシュ・トーリー・パウエルと共に母親の実家で暮らしました。母親は彼女が11歳の時に、内気で恥ずかしがり屋の彼女にダンス・レッスンを受けさせます。地元でラルフ・マッカーナンにダンス、併せてクラシック・バレエとモダン・ダンスも習わせました。又、アクロバットの訓練もさせると、彼女の動きは天性の運動能力が発揮されてきました。ガス・エドワーズ・ミュージック・ホールのガス・エドワードのよって演劇界に入りました。17歳の頃には、ブロードウェイで多くのレビューやミュージカルに出演しました。彼女はバレエとグラウンディング・タップを融合させた、独特の優雅でダイナミックなダンスが完成させました。(独創的なタップダンサーで“リズムタップの父と言われたジョン・”バブルス“・サブレットに、一番影響を受けたと言っていました。)特に彼女のタップダンスは、“マシンガン・タップ”と言われ、「世界で最も偉大なタップダンサー」と呼ばれました。【※ジョン・”バブルス“・サブレットの芸名はジョン・W・バブルスで、今までのつま先だけで音を出していたタップダンスを踵も使ったダンスに変えました。1936年11月2日、世界初のハイビジョン(240ライン)のテレビ番組がBBCから放映されました、彼は世界で初めてテレビに出演した黒人アーティストです。ムーンウォーク“と呼ばれる動きは、彼が発案したものです。】
パウエルは1935年にハリウッドに移りましたが、1930年『Queen High』にノンクレジットで映画デビューしていました。1935年『ジョージ・ホワイツ 1935年スキャンダルス』に出演して好評を博し、破産の危機にあったMGMはこの映画により黒字になりました。MGMは彼女と契約し、1936年『踊るブロードウェイ』・『踊るアメリカ艦隊』、1937年『踊る不夜城』・『ロザリー』、1939年『踊るホノルル』と彼女の映画を製作しました。そして絶頂期の1940年『踊るニューヨーク』でフレッド・アステアと素晴らしいダンスを披露しましたが、本作で“ブロードウェイ・メロディー”の4作が終了しました。この映画の撮影終了後に彼女は胆石の手術を受け、数か月間ダンスが出来ない状態になりました。1941年『レディ・ビー・グッド』で復帰しましたが、主役はアン・サザーンとロバート・ヤングになり、彼女は準主役での出演となりました。1942年『Ship Ahoy』、1943年『I Dood It』も主役はレッド・スケルトンですが、『Ship Ahoy』ではタップでモールス信号を打つダンスを披露しています。1943年『万雷の歓呼』ではダンスを踊るワン・シーンだけの出演でした。同年グレン・フォードと結婚して、MGMを去りました。1945年『ニューヨークの饗宴』に出演しましたが興行的に良くなかったので、前年に生まれたピーター・フォードの子育てに専念する為引退しました。
1950年『アイダホの公爵夫人』でMGMに復帰し、最後の映画出演をしました。ナイトクラブのシーンに本人役で出演し、ブギウギ・スタイルの音楽に合わせて現役時代と変わらぬダンスを披露しています。この最後の映画が、パウエルの初カラー映画出演でした。
その後パウエルはユニティ教会から宣教師に任命されて、1953年から1955年の2年間は日曜朝のキリスト系番組『The Faith of Our Children』の司会者をしました。この番組では息子のピーターも出演して、彼女はエミー賞を受賞しました。1959年にグレン・フォードと離婚した後、彼女はナイトクラブで踊るようになり、「エド・サリバン・ショー」や「ハリウッド・パレス」等にも何度か出演しています。1960年代後半にはライブパフォーマンスからも引退し、公の場からは姿を消しました。しかし、1974年『ザッツ・エンターテイメント』・パート2・パート3で彼女のダンスは取り上げられました。1981年にテレビ放映された「アメリカン・フィルム・インスティテュート」で、フレッド・アステアへのトリビュートによってスタンディングオベーションを受けました。1982年2月11日に卵巣癌の為、ビバリーヒルズで亡くなりました。

ジョージ・マーフィー(38歳)
★ジョージ・マーフィー(1902年7月4日~1992年5月3日)はアメリカ合州国コネチカット州ニューヘイブン生まれの俳優・政治家です。彼はニューヘイブンのプレップ校を卒業し、地元のイェール大学に入学しました。
1934年エディ・カーターの『百万ドル小僧』で映画デビューし、1935年『深夜の大都会』ではジーン・アーサーと共に主役を務めました。歌と踊りが上手なマーフィーは、1937年『明朗色時代』、・『スイングの女王』・『踊る不夜城』ではエレノア・パウエルと共演しました。1938年『天晴れテンプル』ではチャーリー・テンプルと共演し、1940『踊るニューヨーク』ではフレッド・アステアと二人で踊っています。1941年『愛の鐘はキッスで鳴った』ではジンジャー・ロジャースと共演し、1942年『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』ではジュディ・ガーランド・ジーン・ケリーと共演しています。1942年『Uボート撃滅』、1943年『バターン特命隊』、『ロナルド・レーガンの陸軍中尉』、1944年『芸人ホテル』、1945年『ハネムーン騒動』、1949年『国境事件』、1949年『戦場』、等に出演しました。第二次世界大戦中は、戦場のアメリカ軍兵士の慰問活動を行いました。マーフィーは1944年から1952年まで映画俳優組合の代表を務め、1951年アカデミー名誉賞を受賞しました。
1952年に50歳で芸能界を引退し、同年カリフォルニア共和党に入党しました。マーフィーは1964年にカリフォリニア州上院議員選挙に出馬して当選し、1965年1月1日から1971年1月1日までの1期6年間上院議員を務めました。(1967年と1968年には全米共和党上院委員会の議長を務めました。)マーフィーは投票時の人種差別を禁止する1965年の投票権法を支持し、1967年にアフリカ系アメリカ人初の合州国最高裁判所判事のリーグッド・マーシャルの就任を承認しました。又、1968年の公民権法にも賛成しています。上院議員任期中に喉頭癌を発病して喉頭の一部を切除した為、術後は囁き声でしか話せなくなりました。1970年再選を目指して出馬しましたが、落選しました。
マーフィーがカリフォルニアから政界に進出した事で、ロナルド・レーガンやアーノルド・シュワルツェネッガーが政界への道が開かれました。マーフィーは議会の自分の席の引き出しにキャンディを常備し、自分以外の議員にも分けていました。マーフィーの任期終了後も他の議員に引き継がれ、「キャンディ・デスク」と言われ上院の伝統となりました。晩年はフロリダ州パームビーチに移住し、1982年5月3日の89歳で亡くなりました。

ランク・モーガン(50歳)
★ランク・モーガンの履歴は『桃色(ピンク)の店』をご覧下さい。
次回に続きます。最後までお付き合い頂き、有難う御座います。
※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。