Vol.23 『窓』

 今回はサスペンス映画『窓』です。監督はテッド・テズラブ、主演はウォルト・ディズニーがお気に入りだったボビー・ドリスコルです。

『窓』
発行元:ブロードウェイ

【スタッフとキャストの紹介】

 テッドテズラフ(1903年6月3日~1995年1月7日)は、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の映画監督です。1926年からカメラマンになり、1931年『光に叛く者』、1935年『ルムバ』、1936年『襤褸と宝石』、1938年『トム・ソーヤの冒険』、1942年『晴れて今宵は』『奥様は魔女』、1946年『汚名』等の撮影をしました。テズラブは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍少佐として従軍した後に1947年の『パナマ・ギャング戦争』から監督になります。1948年『孤児(みなしご)』、1949年『窓』、1950年『白銀の嶺』、1955年『四十人の女盗賊』等を監督しました。本作では俯瞰撮影や影を上手く使った撮影等、サスペンス映画に欠かせないショットと編集で緊張感を盛り上げています。

トミー・ウッドリー役の
ボビー・ドリスコル(12歳)

 ボビー・ドリスコル(1937年3月3日~1968年3月30日頃)は、アメリカ合州国アイオワ州シーダーラピッズ生まれの俳優です。ボビーが誕生して間もなくデモインに引っ越して、1943年頃まで暮らしました。アスペクトを扱う仕事をしていた父親が健康を害し、医者のアドバイスに従ってロサンゼルスに引っ越します。1943年に両親の勧めで、ボビーはMGMの『迷へる天使』のオーディショをン受けました。ボビーがスタジオ内を見学していた時に、好奇心から質問するボビーを監督が気に入り、40人以上の応募者の中から選ばれました。1943年『迷へる天使』、1944年『ファイティンッグ・サリヴァンズ』、1946年『潜行決死隊』等、数本の映画に小さな役で出演してウォルト・ディズニーと契約しました。1946年に実写とアニメの映画『南部の唄』に出演しました。この映画は、農場で働く黒人のリーマス役のジェームズ・バスケット(1904年2月16日~1948年7月9日)が、農場主の息子ジョニー役のボビー・ドリスコルや黒人の子供に話すお伽話がアニメになる映画です。この映画では農場主の白人と下働きの黒人が対等に描かれていて、南北戦争前に白人と黒人奴隷が平等であるかのような誤解を招くと問題視されて、ディズニー側が自主規制と云うより封印しました。ですから映画の上映も無く、過去に発売されたビデオ・テープとレーザー・ディスク以外発売される事はありません。蛇足ながら、リーマス役のジェームズ・バスケットは『南部の唄』で、アフリカ系男性俳優として初めてアカデミー特別賞を受賞しています。

 1948年にアニメ映画の『メロディ・タイム』では声の出演をし、アニメと実写の『わが心にかくも愛しき(私の心よ)』にも出演しました。ボビーはRKOに貸し出されて、『窓』に出演しました。前年にRKOを買収したハワード・ヒューズは、ボビーの演技が気に入らなったようで、公開を遅らせて1949年5月に公開しました。ヒューズの予想に反して映画は大ヒットし、ボビーのリアルな演技を「ニューヨーク・タイム誌」は称賛しました。1949年の第22回アカデミー賞授賞式では、『わが心にかくも愛しき』と『窓』の演技が評価されてアカデミー・ジョブナイル賞を受賞しています。

 1950年ディズニー・スタッジオ初の完全実写映画『宝島』に出演しました。この映画はイギリスで撮影されましたが、ボビーはイギリスの労働許可証を持っていませんでした。ボビーの家族とディズニーは、罰金を科され国外退去を命じられます。控訴準備の為に6週間の滞在を許可されたので、バイロン・ハスキン監督はボビーのクローズ・アップを全て撮影しました。ボビーと彼の両親がカリフォルニアに戻った後は、イギリス人の代役を使って残りを撮影しました。『宝島』は世界的なヒットとなりました。

 1951年『グーフィーのお父さん』、1952年『グーフィーのライオン狩り』でグーフィーの息子のマックス役で声の出演をしました。実写映画では1951年『When I Groe Up』、1952年『ハッピー・タイム』にしゅつえんしました。そして1953年長編アニメーション『ピーター・パン』で、ピーター・パンの声で出演し、アニメーション制作ではピーター・パンの顔のモデルも務めました。『ピーター・パン』劇場公開後、ディズニーとの契約がキャンセルされ、映画の出演が無くなりテレビとラジオの仕事をしました。両親は子役俳優が通うハリウッド・プロフェッショナル・スクールを退学させて、公立のユニバーシティ・ハイスクールに通わせました。転校後、ボビーは出演した映画の事で笑い者にされたりして成績は大幅に下がり、ドラッグを摂取するようになります。翌年ボビーはハリウッド・プロフェッショナル・スクールに復学し、1955年5月に卒業しました。ボビーは1956年にマリファナ所持でハジメテ逮捕されましたが、告発は却下されました。1955年『スカーレット・コート』に出演し、1958年に最後の出演映画『パーティー・クラッシャーズ』に出演しました。ボビーが洗車している時に、二人の野次馬とイザコザガあって一人を銃で殴った為、暴行罪で起訴されましたが告訴は取り下げられました。ボビーの最後のテレビ映画出演は、アンソロジー・ドラマテレビ・シリーズ「The Best of the Post」とテレビ映画「ブラナガン」での小さな役での出演でした。ボビーは1961年の後半に麻薬中毒患者として有罪判決を受け、カリフォリニア州チノの麻薬リハビリーテンション・センターに収監されました。1965年、ボビーはブロードウェイの舞台に出演しようとニューヨークに移住しましたが、失敗に終わります。1965年以降、アンディ・ウォーホルのグリニッチ・ヴィレッジにあるアート・コミュニティに出入りするようになり、芸術家として活動しました。その頃、アンダーグラウンド映画『Dirt』に出演し、これが遺作となりました。

 1968年3月30日、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるアパートで遊んでいた二詠の少年が、簡易ベッドに横たわるボビーの遺体を発見しました。死後検査の結果、彼は薬物使用による進行したアテローム性動脈硬化症による心不全で死亡したと診断されました。遺体には身元を確認出来るものが無く、身元不明のホームレスと扱われた彼の遺体は、ニューヨーク市のハート島ポッターズフィルドにある共同墓地に埋葬されました。1969年後半に母親がディズニー・スタジオに連絡を取り、ボビーの行方を探して欲しいと依頼します。ニューヨーク市警察で行われた指紋照合の結果、ハート島の共同墓地に埋葬されたのはボビーだと数ヶ月後に判明しました。カリフォルニア州にある父親の墓石にボビーの名は刻まれていますが、彼の遺体はハート島の共募地に埋蔵されたままです。

メアリー・ウッドリー役の
バーバラ・ヘイル(27歳)

バーバラ・ヘイル(1922年4月18日~2017年1月26日)は、イリノイ州デカルブ生まれの映画およびテレビの俳優です。1940年、ヘイルはイリノイ州ロックフォードのロックフォード高校最後の卒業生の一員でした。その後、シカゴに移転して、モデルをしながらシカゴ美術アカデミーに通いました。1943年ハリウッドに移り、RKOと契約をして、『ギルダースリーブのバッド・デイ』で映画デビューしました。ノン・クレジットで端役で出演し、1944年“名探偵ファルコン”シリーズの2本に出演しました。1948年『緑色の髪の少年』、1949年『ジョルスン ~再び歌う~』、1950年『ザ・ジャックポット』、1953年『最後の酋長』・『路上のライオン』、1956年『第7騎兵隊』、1957年『開拓者の血闘』(最後の主演作品)等に出演し、1978年『ビッグ・ウェンズディ』では、ヘイルの実の息子のウィリアム・カットが演じるキャラクターの母親役を演じました。

 ヘイルはテレビ映画「ペリー・メイスン」で法務秘書デラ・ストーリーを演じました。この番組は1957年から1966年まで271話制作されました。ヘイルはこの役でエミー賞のドラマシリーズ助演女優賞を受賞しました。1985年に再び「新・ペリー・メイスン」は1995年まで29本製作され、ヘイルとレイモンド・バーは出演しました。ヘイルは2017年1月26日、カリフォルニア州シャーマンオークスの自宅で、慢性閉館性肺疾患の合併症により94歳で亡くなりました。

エド・ウッドリー役の
アーサー・ケネディ(35歳)

 アーサー・ケネディ(1914年2月17日~1990年1月5日)は、マサチューセッツ州ウースター生まれの舞台および映画俳優です。ケネディはウースターのサウス高校に通い、ウースターアカデミーを卒業しました。その後ペンシルバニア州ピッツバーグのカーネギー工学大学で演劇を学び、1934年に学士号を取得して卒業しました。ケネディはニューヨーク市に移り、ジョン・ケネディと名乗ってグループ・シアターに入団し、レパートー会社のツァーに参加しました。1937年9月にセント・ジェームズ劇場で「リチャード三世」に出演し、ブロードウェイ・デビューしました。1939年には「ヘンリー四世、パート1」に出演しました。

 ケネディは1940年の『栄光の都』で映画デビューし、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『空軍/エア・フォース』に出演しました。第二次世界大戦中は1943年から1945年までアメリカ陸軍航空軍に勤務し、俳優・ナレーターとして航空訓練映画を製作していました。1940年代から1960年半ばにかけて、『高原児』『チャンピオン』、『ガラスの動物園』、『必死の逃亡者』『走り来る人々』『エルマー・ガントリー』、『バラバ』『アラビアのロレンス』『シャイアン』『ミクロの決死圏』等に出演しました。特に1951年『怒りの河』、1955年『ララミーから来た男』での悪役の演技は素晴らしいです。又、同時期ケネディは舞台にも出演していて、1949年アーサー・ミラーの「セールスマンの死」でトニー賞を受賞しています。ほかに1947年「オール・マイ・サン」、1953年「るつぼ」、1961年「ベケット」、1968年「プライス」に出演しています。1975年に奥さんが亡くなってからは映画出演への興味が失せて、数本の映画に出演しただけでした。

ジョー・ケラーソン役の
ポール・スチュアート(41歳)

 ポール・スチュワート(1908年3月13日~1986年2月17日)は、ニューヨークのマンハッタン生まれの劇場、ラジオ、映画、テレビの性格俳優、監督、プロデューサーです。彼は公立学校に通い、コロンビア大学で法律を学びました。1925年にベラスコ劇場トーナメントで優勝して、ニューヨークで舞台デビューします。その後、1930年にはブロードウェイの舞台に出演し、1932年まで舞台に出演していました。スチュアートはシンシナティに移り、ラジオ局WLWで働くようになります。13ヶ月間、WLWのラジオ制作に関する演技、アナウンス、監督、プロデュース、脚本、音響効果の制作等のあらゆる仕事をしました。スチュアートはニューヨークに戻り、ラジオ番組の「マーチ・オブ・タイム」に出演しました。1934年、スチュワートは仕事を得る事が出来なかったオーソン・ウェルズをノウルズ・エントリキン監督に紹介しました。エントリキンはウェルズにラジオでの最初の仕事を与えました。1935年3月、スチュワートはウェルズをホーマー・フィケット監督に推薦し、ウェルズはオーディションを受けてパートリー会社に採用されました。パートリー会社の「マーチ・オブ・タイム」はラジオで最も人気のある番組で、ドラマの出演者は俳優やアナウンサー等で構成されていました。スチュアート、ウェルズ、アグネス・ムーアヘッド、ジャネット・ノーラン、リチャード・ウィドマーク、アート・カーニー、レイ・コリンズ、ペドロ・デ・コルドバ、ナンシー・ケリー、ジョン・マッキンタイア等が、マーキュリー・シアターで演じるメンバーの一部です。1938年10月に放送されたドラマ仕立ての「宇宙戦争」で、スチュワートはリハーサルディレクター、俳優、共同脚本を担当しました。1939年にはアーティ・ショー楽団の最初のボーカリストとなり、ラジオ、映画、テレビに出演していました。そしてウェルズの依頼を受けて、1941年の『市民ケーン』で映画デビューします。1941年3月24日から6月28日までセント・ジェームズ劇場で、「ネイティブサン」に出演しました。

 第二次世界大戦中、スチュワートはニューヨークに本拠を置く戦争情報局で、1941年から1943年まで勤務しまし、ドキュメンタリー映画のナレーションを担当していました。又、“ボイス・オブ・アメリカ”でアメリカの新聞のニュース、社説、有名な演説等をヨーロッパに向けて放送しました。その他、アメリカ兵士の士気を高めるラジオ番組を放送したり、戦時国債の購入促進させるラジオ番組を制作していました。

 戦後スチュワートは、俳優として『窓』『チャンピオン』『デッドラインUSA]、『蜘蛛の巣』、『偉大な生涯の物語』、『冷血』、『オーソン・ウェルズのフェイク』『ピンク・パンサー4』、『風の向こうへ』等多くの映画に出演しました。1950年にはロードウェイ公演の「ミスター・ロバーツ」に出演しています。テレビでは「トワイライト・ゾーン」、「ドクター・キルディア」、「ペリー・メイスン」、「マニックス」、「スパイ大作戦」、「ロックフォードの事件メモ」、「コロンボ」等の監督をしました。スチュワートは、5,000のラジオやテレビ番組に出演または監督しましたが、通常はクレジットされていません。スチュワートは長い闘病生活の末、1986年2月17日にロサンゼルスのシダーズ・サイナイ・メディカル・センターで、心不全の為77歳で亡くなりました。

ジーン・ケラーソン役の
ルース・ローマン(27歳)

 ルース・ローマン(1922年12月22日~1999年9月9日)は、マサチューセッツ州リン生まれのアメリカの映画、舞台、テレビの女優です。ローマンはボストンのウィリアム・ブラックストーン・スクールとガールズ・ハイスクルールに通いました。その後、ボストンの名門ビショップ・リー・ドラマティック・スクールに入学し、女優を目指します。ニューイングランド・レパートリー・カンパニーとエリザベス・ピーボディ・プレイヤーズで演技するスキルをさらに高めた後、ブロードウェイの舞台に立つ為にニューヨークに移ります。ローマンは生計を立てる為、タバコガール、帽子チェックガール、モデルとして働き貯金もしました

 ローマンはハリウッドに移り、1943年『ステージ・ドア・キャンティーン』で映画デビューしました。その後、1944年『君去りし後』、1946年『ギルダ』、1948年『善人サム』、1949年『窓』『チャンピオン』、1650年『ダラス』、1951年『見知らぬ乗客』、1954年『遠い国』・『暗黒街脱出』、1965年『アカプルコの出来事』等に出演しました。1954年から始まったユニバーサル映画の『ジャングルの女王』シリーズ13本に出演しました。

 1960年代にはテレビに出演し始めて、1962年「最後のカルテ」、1963年「ブレーキング・ポイント」、1968年「スパイ大作戦」シーズン3に出演しました。その他、「ガンスモーク」、「ボナンザ」「裸の町」、「ルート66」、「バークにまかせろ」、「FBI」、「アイ・スパイ」等にゲスト出演しています。ローマンは、1999年9月9日カリフォルニア州ラグナビーチの別荘で、眠っている間に自然死しました。76歳でした。

ロス刑事役のアンソニー・ロス(40歳)

 アンソニー・ロス(1909年2月23日~1955年10月26日)は、ニューヨーク市生まれのブロードウェイの舞台、テレビ、映画の性格俳優です。彼はブラウン大学を卒業し、フランスに移ってソルボンヌ大学とナンシー大学で学びました。帰国後、1932年にブロードウェイ・デビューします。1944年にテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」の初演メンバーとして出演しています。

 1944年からノン・クレジットで映画デビューし、1947年『死の接吻』、1950年『拳銃王』、1952年『危険な場所で』、そして1951年コロンビア・ピクチャーの15話連続映画の『ミステリアス・アイランド(原題)』に出演しました。1954年のCBSのテレビ映画シリーズ「The Telltale Clue」で警察署長のリチャード・ヘイルを演じました。1955年ミュージック・ボックス・シアターで「バス・ストップ」の公演を終えたて、マンハッタンのアパートで就寝中に心臓発作で亡くなりました。46歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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