Vol.28 『ジャッカルの日』の続き

 映画のオープニングと共に太鼓の音が鳴り、冒頭から緊張感を高めるのは音楽担当のジョルジュ・ドルリューの業です。(彼はフランソワーズ・トリフォー監督の映画の音楽を多く担当しています。)少し間があって、“1962年8月のフランス”続けて“アルジェリアの独立を認めたド・ゴール大統領は・・・”とナレーションが入り、軍部など右翼過激派地下組織のOASから恨みを買っていた事が分かります。本編が始まり、閣僚会議終了により、大統領がシトロエンDSに乗り込み移動を始めます。途中待ち伏せしていたOASのメンバーに機関銃で襲撃せれますが、危機一髪で無事逃げ去ります。この襲撃事件に加わった軍部のバスチアレ中佐は銃殺刑になり、銃で撃たれた後も士官が拳銃で仕上げをするシーンはリアリティがあります。フランス政府はOASの組織は、消滅したと考えます。

OASのメンバーによる襲撃(左)
銃弾を受ける大統領専用車のシトロエンDS(右)

 OASの残党ロダン大佐はオーストリアに逃亡潜伏し、幹部3人でド・ゴール暗殺の為に殺し屋を雇う事を決定します。ロダン大佐は既に英国から殺し屋を手配済みで、翌日幹部3人は殺し屋と会い暗殺の依頼をします。報酬は50万ドル、当時のドルのレートは日本円で1ドル360円ですから、途轍もない金額です。幹部はそんな金は無いと言いますがB、殺し屋は平然と“銀行から奪え”と言い暗殺の依頼を受けます。帰り際に名前を聞かれ、殺し屋は“ジャッカル”と名乗ります。ジャッカルは終始アスコット・タイを絞めていまして、非常に懐かしいスタイルです。それからOASは次々と銀行を襲い始めます。

再度大統領暗殺を計画するOAS幹部(左) ジャッカルと会って契約を結(右)

 ジャッカルは墓場で若くして亡くなった墓から成り代わる人物を決め、パスポート申請をします。そしてジェノバに移動して馴染みの銃職人(ガン・スミス)のゴッツィに会い、今回の暗殺に使用する銃を発注します。ここでの二人のやり取りは、非常にリアリティがあって大好きなシーンです。

銃職人のゴッツィに会い特性銃製作の依頼をするジャッカル(左)
銃のラフ・スケッチを見て見積もりをするゴッツィ(右)

 ジャッカルは空港でデンマーク人教師のパスポートを盗み、ローマからパリに移動して狙撃する場所を探します。決めた建物の管理人が不在時に管理人室に入り、最上階の部屋の鍵の複製を作る為の型を取ります。

目を付けたアパートの管理人を見るジャッカル(左)
鍵の型を取るジャッカル)右)

 OASは大統領官邸の役人に女スパイを送り込み、フランス当局の動きを把握します。連続する現金強奪にフランス当局は、OASの犯行と睨み捜査を開始。OAS幹部の二人がローマに移動したので、フランス当局はウォーレンスキーの動きを追います。

8㎜を観るフランス軍の将軍と特捜部部長(左)
不審な動きを見せるウォーレンスキー(右)

 8㎜カメラで撮影された映像から不審な動きを察知し、非合法な方法で彼を拉致して拷問で自白させます。この場面での自白から供述書を作成する方法は、今では考えられない大変手間の掛かるやり方です。

拷問を受けるウォーレンスキー(左)
別室で供述から文書を作成するスタッフ(右)

 ウォーレンスキーの供述から大統領暗殺計画らしいと判断したフランス当局は、パリで一番優秀な刑事のクロード・ルベル警視に内務大臣が全権を任せます。ルベル警視は、各国に秘密捜査の依頼をします。

内務大臣(左)から暗殺者逮捕の命令を受けるルベル警視(右)

 ルベル警視もジャッカルに負けない位の切れ者で、現場の叩き上げ刑事の執念で追い詰めて行きます。ここからルベル警視とジャッカルの攻防が始まります。

 ローマに戻ったジャッカルは、写真屋に依頼していた偽のパスポートを受け取りに行きますが、多額の報酬を要求して脅迫するので彼を簡単に始末します。

ジャッカルを脅迫する写真屋(左) 写真屋を倒し鍵を探すジャッカル(右)

 その後、出来上がった特注の銃を受け取りにゴッツィの家に行きます。部品を一個づつ確認しながら銃を組み立て、特性の炸裂弾6発と試射の弾を受け取ります。このシーンは、ガン・マニアにとっては本当にワクワクしますね。

銃を組み立てるジャッカル(左)    特注の炸裂弾(右)

 途中市場でスイカを買って郊外の森で試射を行います。スイカを顔に見立てて木に吊るし、100m程離れた位置にある木に、細いロープを少し緩めに括り付け、銃をロープの輪に入れて捩じって銃を固定します。

スイカを木に吊るしに行くジャッカル(左)  銃をロープで固定する(右)
木に吊るされたスイカ〚遠くて見えない〛(左)
スコープを覗くジャッカル(右)

 試射用の弾を込め、遠くにあるスイカをスコープで覗きながら試射します。弾がスコープの照準と一致するようにスコープを2度調整し、炸裂弾を装填して最後の試射を行います。

照準から外れて左斜め下に着弾(左)  照準を調整するジャッカル(右)

 この時カメラの位置が変わり、的になるスイカの傍から見た位置になって、炸裂弾によりスイカは砕け散ります。炸裂弾の威力が、もの凄く強力な事を印象付ける演出です。

炸裂弾を銃に装填する(左)        砕け散るスイカ(右)

 フランスのルベル警視の依頼で調査を始めた英国特捜部長ブライアンは、英国外務部長ハリーと公園で会って噂になっている情報を聞きます。1961年にドミニカの独裁者トリヒーヨを暗殺したのは、英国人の犯行らしい事を知ります。兵器商の現地代表で名前はチャールズ・カルスロップと云い、射撃の名手で暗殺後行方不明になっている。フランス語でジャッカルのスペルは“CHACAL”で。チャールズ・カルスロップの名前の頭3文字を組み合わせると、合致するので彼がジャッカルだと告げられます。英国特捜部は、この情報を基に捜査をしてジャッカルは偽のパスポートで出国と判断し、死亡者名簿と突き合わせをしてポール・ダンカンと確定します。今だったらコピューターで直ぐ調べる事が出来ますが、全て人海戦術で人間が資料を1枚づつ調べて行きます。

手前が外務部のハリー、隣が特捜部のブライアン(左)
ハリーが新聞に”CHACAL”と書く(右)

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『ジャッカルの日』 作品データ

イギリス・フランス 1973年 カラー 142分
原題:The Day of the Jackal

監督:フレッド・ジンネマン

製作:ジョン・ウルフ

原作:フレデリック・フォーサイス

脚本:ケネス・ロス

撮影:ジャン・トウニエ

編集:ラルフ・ケンプレン

音楽:ジョルジョ・ドルリュー  

出演:エドワード・フォックス、アラン・バデル 

   トニー・ブリットン、シリル・キューザック

   マイケル・ロンズデール、エリック・ポーター

   デルフィーヌ・セイリング、オルガ・ジョルジュ=ピコ

   デレク・ジャコピ、スキージャン・マルタン

   ミシェル・オークレール、モーリス・デナム

Vol.27 『ジャッカルの日』

 今回は、フレデリック・フォーサイス著「ジャッカルの日」を基に製作された『ジャッカルの日』で、監督フレッド・ジンネマンです。ドキュメンタリータッチな作風と、原作に忠実な演出で話題を呼びました。ジンネマン監督が描く主人公は、男の信念を貫く男が多いです。監督自身の分身を描いている様に思います。本作でも主人公のジャッカルは、最後まで自分の信念通して仕事に挑んでいます。

『ジャッカルの日』
発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント

【スタッフとキャストの紹介】

フレッド・ジンネマン(1940年頃)

 ウィーン(オーストリア)生まれのフレッド・ジンネマン(1907年4月29日~1997年3月14日)は、代々医師のユダヤ系ドイツ人の家に生まれました。ウィーン大学在学中に映画界に憧れ、1927年にパリの映画撮影技術学校に入学して映画製作の基礎を学び、その後ドイツでカメラマンの助手になりますが、1929年アメリカに渡りハリウッドに行きます。大恐慌の最中カメラマンになれず、1930年の『西部戦線異状なし』でエキストラをやりました。チーフ助監督と喧嘩をしてクビになった後、ベルホルト・ヴィアテル監督の助手になります。その後、ジンネマンは記録映画監督ロバート・フラハティに申し出て助手になり、映画製作の多くを学びました。1933年、メキシコからの依頼で、ドキュメンタリー映画『波』を監督しました1936年ヘンリー・ハサウェイ監督の『永遠に愛せよ』で第二班監督になり、ウィリアム・ワイラー監督の『孔雀夫人』や1937年ジョージ・キューカー監督の『椿姫』の撮影に参加しました。

 1938年MGMと3年契約で一巻物の短編映画の監督をし、ジンネマンは多くの事を学びました。1941年にB級映画『Kid Glove Killer』で監督デビューし、1942年に『Eyes in the Night』を監督します。1944年にA級映画の『第七の十字架』を監督しましたが、会社側と衝突して再びB級映画に専門になります。何本か監督をした後、仕事を断り続けて停職処分になります。1947年に『山河遥かなり』の監督をしてアカデミー賞にノミネートされますが、ヒットにはなりませんでした。この映画は地味ながら良く出来た作品だと思います。機会を作って紹介します。その後、1952年に異色の西部劇『真昼の決闘』を監督し、この映画は大ヒットします。1953年には、アメリカ陸軍内部を暴くような問題作『地上より永遠に』を発表します。この映画も大ヒットし、監督として不動の地位を得ます。その後、1959年『尼僧物語』、1964年『日曜日には鼠を殺せ』と1966年『わが命つきるとも』では監督と製作をしています。1973年『ジャッカルの日』、1977年『ジュリア』、1982年『氷壁の女』(日本未発売)でも監督と製作をしています。ジンネマンの両親はアメリカへのビザを待っていましたが、1941年と1942年にホロコーストで亡くなっています。ジンネマンは知ったのは、戦後になってからでした。後年、ジンネマンはイギリスに移住していまして、1997年に心臓発作で亡くなりました。

ジャッカル役
エドワード・フォックス(37歳

 暗殺者ジャッカルを演じるのは、エドワード・フォックス( 1937年4月13日生まれ)は、ロンドンのシェルシー出身のイギリスの俳優です。父親のロビン・フォックスは俳優のエージェント、母親のアンジェラ・ワージントンは元女優で作家、弟のジェームズ・フォックスは俳優と芸能一家の長男として生まれました。フォックスは公立の男子寄宿学校“ハロー・スクール”で教育を受け、徴兵制によりロイヤル連隊に入隊して満期完了しました。

 フォックスは1958年に劇場デビューし、1960年代は主に舞台に出演してハムレット役を演じていました。1962年にはエキストラで映画デビューし、1963年『孤独の報酬』にノン・クレジットで出演しました。1967年『裸のランナー』、1969年『素晴らしき戦争』『空軍大戦略』と出演し、1971年の『恋』では英国アカデミー賞助演男優賞を受賞しています。1973年の『ジャッカルの日』で頭脳明晰で冷酷非情な暗殺者ジャッカルを見事に演じています。主役はこの映画だけですが、1977年『遠すぎた橋』、1978年『ナバロンの嵐』、1980年『クリスタル殺人事件』、1982年『ガンジー』、1983年『ネバーセイ・ネバーアゲイン』、1995年『湖畔のひと月』等に出演しています。

ルベル警視役
マイケル・ロンズデール(40歳)

 ルベル警視役のマイケル・ロンズデール{1931年5月24日~2020年9月21日)は、パリ出身のイギリス系フランス人俳優で舞台演出家です。1955年「喝采」で舞台デビューし、1956年に『C‛est arrive å Aden 』に出演して映画界入りしました。1962年『審判』、1963年『日曜日には鼠を殺せ』、1966年『パリは燃えているか?』、1968年『黒衣の花嫁』名地に出演し、1972年の『ジャッカルの日』のクロード・ルベル警部役で世界的に注目を浴びました。1974年『薔薇のスタビスキー』、1976年『パリの灯は遠く』、そして1979年『007 ムーンレイカー』のサー・ヒューゴ・ドラックス役で世界的に有名になりました。1958年よりテレビ映画にも出演し、1974年には舞台演出家としても活動を開始して、演奏会の語り役やラジオ劇や朗読テープ(CD)も多数録音しています。その後、1986年『薔薇の名前』、1993年『日の名残り』、1995年『とまどい』、1998年『RONIN』、2006年『宮廷画家ゴヤは見た』、2009年『アレクサンドリア』等に出演し、2010年『神々と男たち』でセザール賞の助演男優賞を受賞しました。2020年9月21日、パリの自宅で死去したことを代理人から発表されました。89歳没、死因は明らかにされていません。

ゴッツィ役
シリル・キューザック(63歳)

 銃職人(ガン・スミス)のゴッツィ役のシリル・キューザック(1910年11月26日~1993年10月7日)は、南アフリカのナタール州ダーバン生まれのアイルランドの俳優です。キューザックの幼児期に両親が離婚した為、女優だった母親とイギリスに渡り、その後アイルランドに移りました。母親はブレフニ・オロークと再婚し、二人で舞台に出ていました。又、キューザックは7歳で舞台デビューしました。彼はキルデア州ニューブリッジのニューブリッジ・カレッジで学び、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンで法律を学びましたが、学位を取得せずに中退しました。1932年にアベイ座に加入して1945年まで60以上の公演に出演しました。1947年にキューザックは自身の会社、シリル・キューザック・プロダクションズを設立して、ダブロン、パリ・ニューヨークで作品を上演しました。1963年にロンドンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーに加入し、数シーズンにわたって出演しました。1963年にはテレビ映画の「三連祭壇画」での演技でジェイコブス賞を受賞しました。

 キューザックは8歳の時に、1918年『ノックナゴウ』で映画デビューしていました。1947年『邪魔者を消せ』、1950年『女狐』、1958年『ギデオン』、1965年『寒い国から来たスパイ』、1966年『華氏451』、1971年『死刑台のメロディ』、1973年『ジャッカルの日』等に出演しました。1977年にアイルランド語映画『ポイティン』で主役を演じ、1981年『告白』、1984年『1984』、1989年『マイ・レフトフット』等に出演しました。1993年110月7日に運動ニューロン病の為、ロンドンの病院で82歳で亡くなりました。

フレデリック・フォーサイス(34歳)

 原作者のフレデリック・フォーサイス(1938年8月25日生まれ)はイギリスの作家で、スパイ小説や軍隊に関する小説を多数著作しています。1956年から1958年までイギリス空軍に入隊し、除隊後イースター・ディリー・プレスのレポーターになり、1961年からロイター通信社の特派員となりパリ・東ベルリン・プラハで勤務します。1965年BBC放送に転職して1967年にナイジェリアの内戦取材の為、特派員をして現地入りします。この内戦はビアフラ独立の為の戦争で、彼はビアフラ養護の報道をする為、イギリス政府の方針に反対するものだったので特派員を解任されます。1970年パリでシャルル・ド・ゴール大統領の番記者をしている時に、大統領警護員から見聞したエピソードを基に、大統領暗殺未遂事件を小説にしたのが『ジャッカルの日」です。小説は各国で大ヒットし、彼は作家としてデビューします。1973年頃は、イギリスのMI6の協力者として仕事をしています。1972年にナイジェリア内戦で敗れたビアフラ人の為、彼は自費で傭兵部隊を雇い赤道ギニア共和国に対し政権転覆のクーダターを企てます。しかし、買収していたスペインの役人の裏切りにより、傭兵の隊長がスペインで拘束されて失敗します。この話を基に書かれた小説が「戦争の犬たち」です。その後、映画化された「第四の核」等多数の小説を発表しています。

次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。