今回ご紹介するのはラブ・コメディ、それもスクリューボール・コメディです。監督はジョージ・スティーヴンス、主演はジンジャー・ロジャースとジェームズ・スチュアートです。スクリューボール・コメディのスクリューボールは、野球などの球技で使われる用語でスピン(回転)しているボールを云い、何処に飛んで行くか分からないボールの事です。これが転じて予想がつかないストーリーが展開して、周りを巻き込んで大騒ぎになるラブ・コメディです。スクリューボール・コメディの始まりは、ハワード・ホークス監督の『特急二十世紀』(1934年)やフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』(1934年)から始まったと云われています。1930年代半ばから1940年代までに作られた映画で、一説にはアメリカが第二次世界大戦に参戦した1941年までと云う説もあります。出会う事が無い身分差のある男女の出会いから始まり、スピード感があるストーリー展開とテンポが良い軽妙な会話が特徴です。大恐慌後の1930年代には女性が社会に進出して働くようになり、自立した女性が男性と対等に意見を言う場面が度々登場します。
【スタッフとキャストの紹介】
ジョージ・スティーヴンス(1904年12月8日~1975年3月8日)は、カリフォルニア州オークランド生まれのアメリカ合州国の映画監督・映画プロデューサー・脚本家・撮影監督です。1921年にカメラマン助手として映画入りし、1927年にハル・ローチの元でローレル&ハーディの短編映画の撮影をしました。1932年にユニバーサル社で助監督に昇格し、のちにRKOに移籍して1933年に『海上御難の巻』で監督デビューしました。1935年の『乙女よ嘆くな』が出世作となり、1936年『有頂天時代』、1937年『踊る騎士』と監督しました。1938年『モーガン先生のロマンス』と1941年『ガンガ・ディン』・『愛のアルバム』では製作・監督をしています。 1942年『女性No.1』を監督して、1942年『希望の降る街』と1943年『陽気なルームメイト』では製作も兼ねています。
第二次世界大戦中はアメリカ陸軍の映画斑に所属し、戦意高揚映画の製作をしていました。西部戦線では連合軍の進撃に随行し、ダッハウ強制収容所の解放直後から現場の記録撮影をして、ニュルンベルク裁判ではその撮影されたフィルムが証拠として上映されました。凄惨な戦争を実体験した事から、今までの娯楽作品中心から人間性を追求するような作品を発表するようになります。1948年『ママの想い出』、1951年『陽の当たる場所』、1953年『シェーン』、1959年『ジャイアンツ』・『アンネの日記』を製作・監督しました。5年間かけて制作した1965年『偉大な障害の物語』では脚本を書き監督をしました。1970年『この愛にすべてを』を監督したのが、最後の仕事になりました。1975年カリフォルニア州ランカスターで心臓発作で亡くなりました。
スティ-ヴンス監督は完璧主義者で、同じシーンをカメの位置を変えて5~6テイク撮ったり、編集時は自身も編集に参加して1年くらい掛けて編集します。ある時にはワン・シーンを撮るのに数ヶ月掛かる事があったと言われています。その為、会社側とは常に険悪な状態だったようです。発表する映画ごとに新しい試みをするので、私はそれを見付けるのが楽しみでした。
主役のフランシーを演じるのはジンジャー・ロジャースです。彼女の情報は、“Vol.12 『ジジャー・ロジャース』”をご覧下さい。
ジェームズ・スチュアート(1908年5月20日~1997年7月2日)は、アメリカ合州国ペンシルバニア州インディアナ出身の俳優です。平均的な中流階級のアメリカ人の善良な役柄を多く演じた事により、“アメリカの良心”と呼ばれました。裕福な家庭生まれで、プリンストン大学で建築学と都市工学を学んで大学卒業後、学生演劇集団「ユニバーシティ・プレイハウス・グループ」に参加して俳優を志します。仲間とニューヨークで共同生活をしていましたが、大恐慌後の不況の為、仕事に就けない状態が続いていました、ヘンリー・フォンダの誘いでハリウッドへ行き、MGMと契約して1935年『舗道の殺人』に出演して映画デビューしました。1936年 『超スピード時代』で初主演し、『踊るアメリカ艦隊』、『夕日特急』では悪役を演じています。フランク・キャプラ監督の眼に止まり、1938年の『我が家の楽園』と1939年の『スミス都へ行く』で主役を演じ、作品のヒットによりスターとなりします。1940年『桃色(ピンク)の店』、1941年『美人劇場』に出演し、1940年の『フィラデルフィア物語』でアカデミー主演男優賞を受賞しました。本作で共演したジャンジャー・ロジャースは、1940年の『恋愛手帳』でアカデミー主演女優賞を受賞しました。二人は友人同士で、ジェームズ・スチュアートが1942年に出征する時、ジャンジャー・ロジャースに彼の空軍パイロット記章を贈っています。
第二次世界大戦中は、軍隊に志願して陸軍航空軍のB-24爆撃機のパイロットとして活躍しました。出撃回数は20回、飛行時間は1800時間で1945年3月に大佐に昇進しました。戦後は予備役として軍務にも就いていて、1959年7月に空軍准将に昇進し、1968年3月に空軍を退役した後少将に昇進しています。親友のゲイリー・クーパーが『ヨーク軍曹』でアカデミー賞を受賞した際には、軍服姿でプレゼンターとして授賞式に出席してクーパーにオスカーを手渡しています。
1946年『素晴らしき哉,人生!』は、フランク・キャプラ監督との最後の映画になりました。1947年『魔法の町』、1948年『出獄』・『気高き荒野』、アルフレッド・ヒチコック監督の実験映画と云える『ロープ』に出演しました。1949年に義足の大リーガー、モンティ・ストラットン投手の伝記映画『蘇る熱球』でジューン・アリソンと夫婦役を演じています。1950年『ウィンチェスター銃`73』から、アンソニー・マン監督の作品に多く出演しました。1952年『怒りの河』、1953年『裸の拍車』・『雷鳴の湾』・『グレン・ミラー物語』、1954年『遠い国』、1955年のスチュアートの企画による『戦略空軍命令』・『ララミーから来た男』と続きました。その他に1950年『折れた矢』、『ハ~ヴェイ』はスチュアートがお気に入りの作品で舞台と映画の両方に出演しました。1954年にはヒチコック監督の『裏窓』、1956年の『知りすぎていた男』、1958年『めまい』に出演しました。
1957年『翼よ!あれが巴里の灯だ』、1959年『連邦警察』、1961年『馬上の二人』、1962年『リバティ・バランスを射った男』・『西部開拓史』、1965年『シェナンドー河』・『飛べ!フェニックス』、1968年『ファイヤーフリークの決斗』・『バンドレロ』、1970年『テキサス魂』、1974年『ザッツ・エンターテインメント』、1976年『ラスト・シューティスト』、1978年『大いなる眠り』、1980年『アフリカ物語』等に出演しました。1984年に長年の映画界への功績を称え、アカデミー賞名誉賞を授与されました。
オールド・シャロンの大学の学長でピーターの父親を、チャールズ・コバーンが演じています。自分の意見を押し通し、相手の意見を聞かない頑固親父を好演しています。チャールズ・コバーン(1877年6月19日~1961年8月30日)は、ジョージア州メイコン生まれのアメリカ合州国の俳優・演劇プロデューサーです。ジョージア州サバンナで育ち、14歳で地元のサバンナ劇場で働き始めて10代後半で劇場の支配人になります。その後俳優になって、1901年にブロードウェイにデビューします。1905年に女優アイヴァー・ウィリスと劇団を立ち上げ、翌年彼女と結婚しました。劇団の運営に加えて二人は頻繁にブロードウェイで公演しました。1937年にアイヴァーが亡くなると、ロサンゼルスに移り、映画の仕事を始めました。1938年『気高き荒野』、1939年『科学者ベル』・『ママは独身』・『スタンレー探検記』、1940年『人間エヂソン』、1941年『レディ・イヴ』、1942年『嵐の青春』、1943年『天国は待ってくれる』と出演し、『陽気なルームメイト』でアカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。1944年『ウィルソン』、1945年『ロイヤル・スキャンダル』・『アメリカ交響楽』、1946年『育ちゆく年』、1947年『パラダイン夫人の恋』、1949年『狂った殺人計画』・1952年『僕の彼女はどこ?』・『モンキー・ビジネス』、1953年『紳士は金髪がお好き』、1956年『八十日間世界一周』、1959年『大海戦史』等に出演しました。通常はコミカルな役を演じていましたが、シリアスな役も独特の風貌で存在感ある演技をしていました。彼は、本当に眼が悪いのでよく片眼鏡をして登場します。コバーンは1961年8月30日、ニューヨーク市で84歳で心臓発作で亡くなりました。
ビューラ・ボンディ(1889年5月3日~1981年1月11日)は、リノイ州のシカゴ生まれのアメリカ合州国の俳優です。1891年に一家はインディアナ州バルパライソに移住します。彼女は7歳で俳優として舞台に出演し、8歳でフランシス・シマー・アカデミーを卒業します。その後、バルパライソ大学に入学して1916年に演説の学士号を取得し、1917年に演説の修士号を取得しました。
1925年からはブロードウェイの舞台に出演し、1929年の舞台劇「街の風景」の演技が高く評価されて、1931年に映画化された『街の風景』では舞台と同じ役を演じて42歳で映画デビューしました。主な出演映画は、1932年『雨』、1935年『お人好しの仙女』、1936年『丘の一本松』、1938年『モーガン先生のロマンス』・『気高き荒野』、1939年『スミス都へ行く』、1941年『愛のアルバム』・『丘の羊飼い』、1945年『南部の人』・『バターンを奪回せよ』、1946年『素晴らしき哉、人生!』・『世界の母』、1948年『蛇の穴』、1949年『秘密指令(恐怖時代)』、1959年『避暑地の出来事』等です。1960年代にはテレビにも出演していて、1976年にテレビ・ドラマの「ウォルトンズ」の演技でエミー賞を受賞し、87歳で晩年まで演技を続けていました、
デビューが遅かったのでお母さん役やお婆さん役が多いですが、素晴らしい演技で脇を固めてくれています。ジェームズ・スチュアートと共演した4作品で、母親を演じています。『モーガン先生のロマンス』、『気高き荒野』、『スミス都へ行く』、『素晴らしき哉、人生!』です。生涯独身を通し、役者人生を全うされた女優さんです。本作では、賢くて優しい母親を好演し、後半で面白い演技を見せてくれます。ボンダイは1981年1月11日、肋骨の骨折による肺合併症で91歳で亡くなりました。
ジェームズ・エリソン(1910年5月4日~1993年12月23日)は、アイオワ州グスリーで生まれたアメリカ合州国の俳優です。彼はモンタナ州ヴァリアーの牧場で育ち、カウ・ボーイのスキルを身につけました。その後、彼の家族はロサンゼルスに引っ越しました。演技に興味あったエリソンはパサデナ・プレイハウスの劇場芸術学校で演技を学びます、ビバリーヒルズ・シアターの公演に出演しました。1935年から1937年に8本の“ホパロング・キャシディ・シリーズ”で、相棒のジョニー・ネルソンを演じました。1936年にセシル・B・デビルに抜擢され、『平原児』に出演しました。その後、1938年『忘れられた恋人』・『モーガン先生のロマンス』・『娘の三角関係』、1940年『そよ風の町』、1941年『プレイ・ガール』、1942年『不死の怪物』、1943年『私はゾンビと歩いた!』、1946年『憂愁の園』、1950年『ジェロニモ』に出演しました。1950年代後半に映画界から引退し、不動産業で成功しました。エリソンは、1993年12月23日にカリフォルニア州モンテシートで、転倒して首の骨を折り83歳で亡くなりました。
フランクリン・パングホーン(1989年1月23日~1958年7月20日)は、ニュージャージー州ニューアークで生まれたアメリカ合州国のコメディー・キャラクター俳優です。第一次世界大戦中、彼はヨーロッパの第312歩兵で14か月間従軍しました。彼が保険会社で働いていた17歳の時に、女優ミルドレッドホランドと出会いました。2週間の休暇中に舞台に出演し、彼女と共に4年間のツアーに参加した後、ジェシー・ボンステルの会社に入社しました。1930年代初頭は、マック・セネット、ハルローチ、ユニバーサル社、コロンビア社の映画で印象的な脇役を演じていました。又、ハロルド・ロイド、オルセンとジョンソン、リッツ・ブラザーズ等とも共演していました。
1927年『指紋名探偵』、1933年『空中レビュー』・『生活の設計』、1935年『八点鍾』、1937年『街は春風』、1938年『モーガン先生のロマンス』、1940年『七月のクリスマス』、1941年『サリヴァンの旅』、1942年『パームビーチ・ストーリー』、1944年『崇高な時』・『凱旋の英雄』、1948年『洋上のロマンス』等に出演し、テレビの「レッド・スケルトン・シュー」にも出演しています。『空中レビュー時代』ではエリック・ブロアと共演していました。本作では、ジェームズ・スチュアートとのやり取りで面白いシーンを作り上げています。
パンボーンが演じるキャラクターは、小さい役でもコミカルで記憶に残る役が多く、基本的には同じキャラクターを演じています。エレガントで礼儀正しく、神経質で気難しく、嫌みな態度をとったりするが明るい性格のキャラクターです。彼がよく演じる役は、ホテルの悪意のある従業員、自尊心のあるミュージシャン、気難しいヘッド・ウェイター、熱狂的なバードウォッチャー、他のキャラクターの嫌悪感に苛立ち、又は慌てている役を演じていました。パンボーンの死後、LGBTは彼が映画で演じたキャラクターのいくつかは、ゲイのステレオタイプであると発表していました。
ウィリアム・ベスト(1913年5月27日~1962年2月27日)は、ミシシッピ州サンフラワー出身のアメリカ合州国のテレビ・映画俳優です。1935年までは、スリープ&イート(Sleep ‘n’ Eat)とクレジットされています。ベストは、アフリカ系アメリカ人の映画俳優やコメディアンとして初めて有名になった俳優の一人です。彼はステレオタイプの単純なキャラクターを演じる事が多く、非難を受ける事もありました。彼が出演した映画124本の内、77本でスクリーン・クレジットされています。これはアフリカ系アメリカ人の俳優としては異例の偉業です。
ベストは、休暇中のカップルの運転手としてハリウッドに着いた時、ハリウッドに移住する事にしました。南カリフォルニアの巡回ショーに参加し、ステージ・パフォーマンスを始めます。そのステージを観たタレント・スカウトは、ベストをハリウッド映画に性格俳優として雇いました。1930年『ロイドの足が一番』、1931年『悪魔が跳び出す』、1932年『モンスター・ウォーク』、1934年『ケンタッキー・カーネル』、1935年『新婚旅行の殺人』・『アリゾ二アン』、1938年『モーガン先生のロマンス』・『テムプルの愛国者』、1940年『ゴースト・ブレーカーズ』、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『キャビン・イン・ザ・スカイ』、1944年『勝利の園』、1946年『デンジャラス・マネー』等に出演しました。
ベストが活躍していた1930年代から1950年代は、多くの黒人俳優と同様に家事労働者、運転手、ホテル・航空会社・列車のポーター、エレベーターのオペレーター、管理人、執事、係員、ウェイター、配達員等の演技は正当な評価は得られませんでした。しかし、ベストの自然でコミカルな反応とうまい方言の使い方で、多くの映画に出演してスクリーン・クレジットを与えられました。RKOの1941年『スキャッターグッド・ベインズ』は6本シリーズで製作されましたが、ピップ役で3本に出演しています。
ベストは麻薬を使用していて、1942年にマリファナ所持で逮捕され、1951年にはヘロイン所持で逮捕され、250ドルの罰金と3年間の執行猶予が科せられました。これ以降映画の仕事は無くなりましたが、ハル・ローチがテレビの仕事でベストを使いました。1950年から1955年まではスチュアート・アーウィンの「The trouble with Father」、1953年から19566年まではCBSの「マイ・リトル・マージー」に出演しています。1954年にブレストン・フォスター主演のテレビ・シリーズ「波止場」やテレビ・シリーズの「ラケット部隊」に出演しました。ベストは1962年2月27日、カリフォルニア州ウッドランド・ヒルのモーチョン・ピクチャー・カントリー・ホームで、癌の為48歳で亡くなりました。次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。
※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。