Vol.36 『桃色(ピンク)の店』

 今回もスクリュー・ボール・コメディです。原題は“The Shop Around the Corner”ですが、なんと酷い邦題でしょうか。ご存じの方も多いと思いますが、この映画をリメイクしたのが『ユー・ガット・メール』です。監督はエルンスト・ルビッチ、主演はマーガレット・サラヴァンとジェームズ・スチュアートです。

【スタッフとキャストの紹介】

エルンスト・ルビッチ

  エルンスト・ルビッチ(1892年1月28日~1947年1月30日)は、ドイツ・ベルリン生まれの映画監督・映画プロデューサーで、ビリー・ワイルダーの師匠です。1908年の16歳の時に高校を中退し、人気喜劇俳優ヴィクトル・アルノルトに弟子入りします。喜劇俳優をやりながら小道具係や照明の助手をし、1911年にマックス・ラインハルト劇団に入団し、翌年から映画に出演するようになります。1913年、主演作『アルプス高原のマイヤー』でコメディアンとして愉快なユダヤ人のマイヤーを演じ、好評を博して短編シリーズものに多く出演しました。1914年に自身主演の短編喜劇『シャボン玉嬢』で監督デビューし、1916年にオッシー・オスヴェルタを見出して複数の短編映画を撮ります。オスヴァルダは「ドイツのメアリー・ピックフォード」と称され、人気者となりました。1918年から長編映画『呪の目』を発表し、続けて発表した『カルメン』がヨーロッパで大ヒットし名声を得ます。1919年『マダム・デバリュー』を監督して大成功を収め、1922年にメアリー・ピッツフォードに招聘されてアメリカに渡ります。

 1923年にピックフォードの主演映画『ロジタ』を監督し、1924年『結婚哲学』。1925年『当世女大学』の監督をします。この頃から、人物の位置や視線などの映像表現によって人物の感情を描く、独自の「ルビッチ・タッチ」を確立していったと云われています。1928年パラマウント社に移籍し、1929年にトーキー映画第一作の『ラブ・パレード』、1931年『陽気な中尉さん』、1932年『極楽特急』、1933年の『生活の設計』等を監督します。1934年から製作もするようになり、1935年にマレーネ・ディートリヒ主演の『真珠の頚飾(真珠の首飾り)』を製作しました。1935年1月28日、ナチス・ドイツによってルビッチのドイツ市民権が剥奪されました。ルビッチはドイツに残っていた姉達とその家族、亡き兄の遺児をアメリカに呼び寄せました。ルビッチは1936年1月24日、アメリカの市民権を獲得しました。1937年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました

 1937年『天使』、1938年『青髭八人目の妻』を監督し、『桃色(ピンク)の店』の制作・監督をする事になりましたが、マーガレト・サリヴァンの強い要望に応えて、ジェームズ・スチュアートのスケジュールが空く迄待ちます。その間の1939年にMGMでグレタ・ガルボ主演の『ニノチカ』を製作・監督しました。1941年に独立して『淑女超特急』を製作・監督し、1942年にナチス占領下のポーランドから脱出する芸人の姿を描いた『生きるべきか死ぬべきか』を監督しました。1944年頃より心臓疾患を抱えていた為監督を休業し、1946年に『小間使』で復帰します。1947年11月30日、ベティ・グレイブル主演のミュージカル映画『あのアーミン毛皮の貴婦人』の準備中に、自宅で心臓発作で倒れて死亡しました。55歳でした。ビリー・ワイルダーと西ベルリン映画ジャーナリストクラブによって、1958年にエルンスト・ルビッチ賞が創設されました。毎年ルビッチの誕生日に授賞式が行われています。

クララ・ノヴィック役
マーガレット・サラヴァン(31歳)

 マーガレット・サラヴァン(1909年5月16日~1960年1月1日)は、ヴァージニア州ノーフォーク生まれのアメリカ合州国の女優です。裕福な家庭に育った彼女は、高校の卒業式で学生代表として演説を行うなど学業優秀でしたが、両親の反対を押し切って女優を目指します。1931年にブロードウェイにデビューし、1933年「晩餐八時」に代役で出演していた時に、映画監督のジョン・M・スタールにスカウトされて1933年『昨日』で映画デビューしました。1934年『第三階級』、1935年『お人好しの仙女』『薔薇は何故紅い』、1936年『月は我が家』1941年『裏街』・『新婚第一歩』に出演しています。彼女は舞台活動を重視していた為に映画出演は少ないですが、演技力は高く評価されていました。1938年『三人の仲間』で、ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞を受賞し、アカデミー主演女優賞でノミネートされています。

 ジェームズ・スチュアートとは、1936年『結婚設計図』、1938年『店曝らしの天使』、1940年『桃色(ピンク)の店』『死の嵐』の4本で共演しています。1943年『Cry‟Havoc”』に出演し、1950年の『No Sad Songs for Me』が最後の映画出演となりました。1950年代以降は、難聴と神経衰弱の症状に苦しんでいました。難聴は先天性のもので、周囲の人たちには隠していました。サラヴァンは子供達と過ごす時間を増やす為に映画出演を辞めましたが、長男と次女との関係が上手くいかず、彼女の精神状態を悪化させる一因でした。1960年1月1日にコネチカット州ニューヘイブンのホテルの部屋で、意識不明の状態で発見され病院で死亡が確認されました。検死報告では、薬物の摂取量を誤った事による事故死となっています。51歳でした。

アルフレッド・クラリック役役
ジェームズ・スチュアート(32歳)

 アルフレッド・クラリック役はジェームズ・スチュアートで、彼の略歴は『モーガン先生のロマンス』をご覧ください。

社長のヒューゴ・マトチェック役
フランク・モーガン(50歳)

 フランク・モーガン(1890年6月1日~1949年9月18日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市に生まれのアメリカ合州国の俳優です。モーガンは、コーネル大学卒業後にブロードウェイでデビューし、1914年に『The Suspect』で映画デビューしています。1910年代から1920年代は様々なサイレント映画に出演して、俳優として順調に活躍しました。その後1930年代から1940年代にかけて35年間、主にMGM映画に数多く出演していました1930年『喧嘩商会』、1935年『お人好しの仙女』、1936年『巨星ジーグフェルド』『テムプルのえくぼ』、1937年『ロザリイ』・『サラトガ』等に出演しました。

 1939年『オズの魔法使い』では、マーベル教授、エメラルド・シティの門番、御者、警備員、オズ大魔王の幻影、魔法使いの6役を演じています。1940年『死の嵐』『桃色(ピンク)の店』、1941年『無法街』、1942年『町の人気者』、1944年『クーパーの花婿物語』、1945年『ヨランダと泥棒』、1946年『名犬ラッシー/ラッシーの勇気』、1948年『三銃士』、1949年『甦る熱球』等に出演しています。1940年代にはラジオ番組にも出演したり、1949年には子供向けのレコードを吹き込んでいます。モーガンは、1949年12月12日に心臓発作の為に59歳で急死しました

ヴァダス役
ジョゼフ・シルドクラウト(44歳)

 ジョゼフ・シルドクラウト(1896年3月22日~1964年1月21日)は、オーストリアのウィーン生まれの俳優です。父親は舞台俳優・映画俳優のシルルフ・シルドクラウトです。4歳の時に家族でドイツのハンブルグに移り、そこでピアノやヴァイオリンを習います。その後家族でベルリンに移って、6歳で初舞台を踏んで、1911年にベルリンの王立音楽アカデミーを卒業しました。1912年に家族と共にアメリカに渡りニューヨークで舞台デビューしますが、第一次世界大戦中に一度ヨーロッパに戻り、1920年に再度アメリカに移住して舞台に立ちます。1921年アメリカでの初舞台上演、「リリオム」(映画『回転木馬』の原作)で主役を演じました・その後、サイレント映画に出演したり。時々舞台の仕事もしていました。

 1921年『嵐の孤児』、1927年『キング・オブ・キングス』では親子で共演し、1929年『ショー・ボート』、1934年『奇傑パンチョ』『クレオパトラ』、1936年『砂漠の花園』、1937年『三銃士』等に出演し、『ゾラの生涯』ではアカデミー助演男優賞を受賞しました。1938年『マリー・アントアネットの生涯』、1940年『桃色(ピンク)の店』、1945年『炎の街』、1949年『拳銃の嵐』、1959年『アンネの日記』、1961年『でっかい札束』、1965年『偉大な生涯の物語』等に出演しました。1950年代からはテレビ映画に出演し、「トワイライト・ゾーン」では2エピソードに出演していました。シルドクラウトは、1964年1月21日に心臓発作でニューヨーク市の自宅で亡くなりました。68歳でした。彼の父親も68歳の時に心臓発作で亡くなっています。

ピロビッチ役
フェリックス・ブレザート(45歳)

 フェリックス・ブレザート(1895年3月2日~1949年3月17日)は、ドイツの東プロイセンのエイトクーネン(現在のロシアのネフテロフスキー地区)生まれの舞台・映画俳優です。本作では、クラリックの良き相談相手となり、何かと彼を支える役を好演しています。社長が従業員に意見を求めている時は、直ぐに雲隠れしてしまう惚けた役をこなしています。

 ブレザートは、1914年「十二夜」で舞台デビューし、オーストリア、デンマーク、イギリス、フランス、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビアで演技を続けました。1928年から1935年までは40本のドイツ映画に出演しました。1930年『給油所の三人』に出演してからは、主役を演じるようになりました。1933年にナチスが台頭してきた頃、ユダヤ人のブレザートは、ドイツを離れてオーストリアでドイツ語の映画に出演していました。1938年にアメリカに移住し、1939年『ニノチカ』・『懐かしのスワニー』、1940年『同志X』・『人間エヂソン』・『桃色(ピンク)の店』、1941年『塵に咲く花』『美人劇場』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』、1944年『第七の十字架』、1946年『永遠に君を愛す』、1948年『ジョニーの肖像』『ヒット・パレード』等に出演しました。ブレザートは、1949年3月17日に白血病の為に57歳で急逝しました。

ペピ・カトナ役
ウィリアム・トレーシー(23歳)

 ウィリアム・トレーシー(1917年12月1日 – 1967年7月18日)は、ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれたアメリカ合州国の俳優です。本作では非常に機転が利く使い走りのペピ役で彼が登場すると、その場面は彼の独り舞台のようになる存在感ある俳優です。

 トレーシーは、1938年『汚れた顔の天使』、1940年『ストライク・アップ・ザ・バンド』に出演し、『桃色(ピンク)の店』のぺピ役で有名になり、1941年『タバコ・ロード』『スミス夫妻』に出演しました。トレーシーはジョー・ソーヤーとコンビで、B級コメディ映画のシリーズ8本に出演しました。1941年『タンクス・ミリオン』のドリアン・”ドードー”・ダブルデイ軍曹役で、B級コメディ映画のシリーズ8本に出演しました。1942年『トリポリ魂 海兵隊よ永遠なれ』、1952年の『ミスター・ウォーキー・トーキー』が最後の映画となりました。1950年代は主にテレビに出演し、ラジオ番組にも出演していました。トレーシーはカリフォルニア州ハリウッドで、49歳の若さで亡くなりました。

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。