Vol.39 『生きるべきか死ぬべきか』

 今回も引き続き、エルンスト・ルビッチ監督の1942年の作品です。ヒトラーとナチス政権を茶化した、スリルありサスペンスありの笑いありのコメディの大傑作です。物語はキャロル・ロンバード扮するマリアを中心に、男たちが入り混じって複雑に展開されます。この映画はメル・ブルックス製作・主演で、1983年に『メル・ブルックスの大脱走』としてリメイクだれています。

『生きるべきか死ぬべきか』
販売元:ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

【スタッフとキャストの紹介】

エルンスト・ルビッチ監督

 エルンスト・ルビッチ監督の履歴は、『桃色(ピンク)の店』をご覧ください。

マリア・トゥーラ役
キャロル・ロンバード(33歳)

 キャロル・ロンバード(1908年10月6日~1942年1月16日)は、アメリカ合州国インディアナ州出身の女優です。12歳の時に『陰陽の人』の端役で映画デビューしますが、その後は普通に生活していました。15歳で学校を辞めて劇団に入り、いくつかの舞台に出演しました。1925年にFOX社から再デビューしますが、翌年交通事故で顔に傷を負って契約をキャンセルされます。その後、マック・セネットのコメディ映画に端役で出演していました。

 1930年にパラマウント社が、彼女の美貌を認めて契約します。サイレント映画からトーキー映画に変わり、声や訛りが酷くて人気が落ちていく俳優が多い中、セクシーな声と知的な美貌で人気が出て来ます。1930年『令嬢暴力団』、1932年『紅蘭』、1933年『鷲と鷹』、1934年『ボレロ』と出演し、『特急二十世紀』のヒットでコメディエンヌとしてスターになりました。それからは主役として、1934年『久遠の誓ひ』『街で拾った女』、1935年『ルムバ』、1936年『襤褸と宝石』、1937年『無責任時代』、1939年『貴方なしでは』、1941年『スミス夫妻』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』と出演しました。ロンバートは、1930年代から1942年の本作までラブ・コメディで活躍し、「スクリューボール・コメディの女王」と云われていました。

 第二次世界大戦中、1942年1月16日にインディアナで戦時国債キャンペーンに参加してロサンゼルスに戻る途中で、飛行機がラスベガス近郊で墜落して母親と共に死亡しました。33歳でした。二度目の夫であるクラーク・ゲーブルは彼女が最愛の妻だったと云い、彼の死後遺言で彼女の隣の墓に埋葬されています。

ヨーゼフ・トゥーラ役
ジャック・ベニー(48歳)

 ジャック・ベニー(1894年2月14日~1974年12月26日)は、シカゴ生まれのコメディアン・ヴォードヴィリアン・俳優です。1930年代から1950年代のラジオ番組やテレビ番組で人気を博し、後のシュチュエーション・コメディに影響を与えています。1929年からは映画にも出演しました。ベニーは6歳からバイオリンを習いますが、天性か振動と云われました。14歳の時にダンス・バンドと高校のオーケストラで演奏していましたが、勉強が苦手で高校は退学になります。1911年に地元のヴォードヴィルの劇場でバイオリンを弾き始め、マルクス兄弟と同じ劇場で演奏していました。17歳の時に母親の反対を押し切ってマルクス兄弟とツァーに参加します。翌年、ピアニストとヴォードヴィル・ミュージカル・デュオを組みますが、有名なバイオリニストのヤン・クーベックを怒らせ、芸名をベン・K・ベニーと名乗るようになります。最初のパートナーが去り、新しいピアニストとコメディ刀子を取り入れて5年間一緒に活動しました。その後、ヴォードヴィルのメッカの“パレスシアター”に出演しましたが、上手くいかなかった為に1917年にショー・ビジネスから一時離れます。第一次世界大戦中、アメリカ海軍に入隊し、余興でバイオリンを演奏していました。ある日、ブーイングを受け、ジョークなどを交えながら笑わせるようにしました。これがコメディアンとミュージシャンとして、ベニーのスタイルの始まりとなります。

 戦後間もなく、ベニーは「ベン・K・ベニー:フィドル・フノロジー」という一人芝居を始めましたが、ベン・バニーから芸名を改名する訴えがあり、船員の頃のニックネームのジャックを採用して、“ジャック・ベニー”に改名しました。1927年にセイディ・マークスと結婚し、彼女はメアリー・リギングストンの芸名でベニーとコンビを組んで、一緒にヴォードヴィルを演じました。ベニーは1929年にMGMと契約して、『ハリウッド・レビュー』、1930年『虹を追いかけて』に出演しましたが、上手くいかず数か月後に契約は解除されました。その後、ブロードウィに戻ってアール・キャロルの「ヴァーニティーズ」に出演し、ナイトクラブで公演していました。

 1932年にエド・サリヴァンのラジオ番組にゲスト出演し、初めてラジオの仕事をしました。ベニーは1932年から1948年までNBCで、1949年から1955年までCBSでラジオ番組「ジャック・ベニー・プログラム」に毎週出演し、この番組で彼は全国的な人気者になりました。1949年にロサンゼルスのKTTVでテレビ・デビューし、1950年10月28日から1965年まで「ジャック・ベニー・プログラム」のテレビ版に出演しました。映画は、1935年『踊るブロードウェイ』、1936年『パラマウント恋のグランド・ショー』、1937年『画家とモデル』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』、1944年『ハリウッド玉手箱』、1957年『ボー・ジェムス』、1963年『おかしなおかしなおかしな世界』、1972年『ザ・マン/大統領の椅子』等に出演しています。1960年代は、バイオにスチ、スタンダップ・コメディアンとしてライブを行っていました。1974年12月に体調を壊して何度かの検査の結果、手術不能な肝臓がんと判明しました。1974年12月22日に自宅で昏睡状態に陥り、12月26日に80歳で亡くなりました。

ソビンスキー中尉役
ロバート・スタック(23歳)

 ロバート・スタック(1919年1月13日~2003年5月14日)は、アメリカ合州国カリフォルニア州生まれの俳優・声優です。幼少期にヨーロッパで育ったので、フランス語とイタリア語を習得していましたが、英語は再びロスアンゼルスに戻ってから習得しています。マサチューセッツ州にある大学で演劇を学びました。スタックは優勝なスポーツマンで、スキーと射撃では全米記録を更新していて、1971年にはその功績が称えられて殿堂入りしています。

 俳優を目指してハリウッドに渡り、1939年『銀の靴』で映画デビューします。1941年『無法地帯』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』『荒鷲戦隊』に出演しました。第二次世界大戦中は、アメリカ海軍に入隊して従軍しました。戦後、1948年『スイングの少女』『特攻戦闘機中隊』、1951年『美女と闘牛士』、1953年『騎兵隊突撃』、1954年『紅の翼』、1955年『東京暗黒街・竹の家』、1956年『硝煙』『風と共に散る』等に出演しました。

 テレビ映画では、1959年から1963年の『アンタッチャブル』でエリオット・ネスを演じてエミー賞を受賞しました。1968年から1971年『ネーム・オブ・ゲーム』、1976年から1977年『特捜隊長エバース』、1981年から1982年『ロス警察特捜隊』のシリーズに出演していました。その他、ゲスト出演で「ルーシー・ショー」や「ジェシカおばさんの事件簿」等に出演しています。

 1959年『大海戦史』、1960年『最後の航海』、1966年『パリは燃えているか』、1967年『太陽のならず者』、1979年『1941』、1980年『フライングハイ』、1983年『地獄の七人』、1990年『ジョー、満月の島へ行く』、2001年『ハッピー・カップルズ』等に出演しました。2003年5月14日に癌で闘病中、心臓発作の為84歳で亡くなりました。

グリーンバーク 役
フェリックス・ベラサート (50歳)

 グリーンバークを演じるのは、フェリックス・ベラサートの履歴は『桃色(ピンク)の店』をご覧下さい。『桃色(ピンク)の店』では髭を生やして眼鏡を掛けて、ピロビッチを演じていました。今回は端役の舞台俳優役を素顔で演じています。事ある毎に「ベニスの商人」の台詞を言いますが、後半では主役となってこの台詞を言う事になります。

ラウィッチ役
ライオネル・アトウィル(57歳)

 イオネル・アトウィル(1885年3月1日~1946年4月22日)は、イギリス・ロンドンのクロイドン生まれの舞台・映画俳優です。彼はイギリスの1918年ギャリック劇場で舞台デビューし、オーストラリアでキャリアを積んだ後に渡米しました。多くのブロードウェイの舞台に出演し、1918年の『野生のアヒル』に出演した頃にはスターになっていました。1918年『イブの娘』で映画デビューし、1930年代からは多くのホラー映画に出演しています。1932年『ドクターX』、1933年『肉の蝋人形』『恋の凱歌』、1934年『女優ナナ』『スペイン協奏曲』、1935年『古城の妖鬼』『海賊ブラッド』1938年『グレートワルツ』、1939年『ベイジル・ラスボーン版シャーロック・ホームズ バスカヴィル家の犬』『フランケンシュタインの復活』、1940年『ブーム・タウン』、1942年『ベイジル・ラスボーン版シャーロック・ホームズ シークレット・ウェポン』・『凸凹宝島騒動』・『フランケンシュタインの幽霊』『生きるべきか死ぬべきか』、1943年『フランケンシュタインと狼男』、1944年『フランケンシュタインの館』、1945年『ドラキュラとせむし女』等に出演しました。アトウィルは1946年4月22日に肺癌と肺炎の為、ロサンゼルスのパシフィック・パリセーズの自宅で亡くなりました。61歳でした。

ツレッキー教授役
スタンリー・リッジス(62歳)

 スタンリー・リッジス(1890年7月17日~1951年4月22日)は、イギリス・ハンプシャー生まれのアメリカの俳優です。本作ではナチスのスパイ役を好演し、キャロル・ロンバードとは2回もキスをする美味しい役を貰っています。リッジスは、ミュージカル・ステージ・コメディのスターのベアトリス・リリーの弟子になり、舞台での技術を長年に渡って学びました。その後、渡米してブロードウェイの舞台に出演し、1933年「スコットランドのメアリー」、1934年「バレー・フォージ」の初演に出演しています。

 リッジスは1923年のサイレント映画『サクセス』で映画デビューし、スぶれた言葉遣いと豊かな声で、トーキー映画に出演するようになります。1934年『情熱なき犯罪』、1937年『紐育の顔役』、1939年『大平原』、1941年『ヨーク軍曹』『海の狼』『壮烈第七騎兵隊』、1942年『生きるべきか死ぬべきか』、1943年『ターザンの凱歌』、1944年『ウィルソン 』、1947年『失われた心』、1949年『機動部隊』、1950年『情事の代償(別名血塗られた代償)』等に出演しました。1950年までにテレビにも出演するようになりましたが、1951年4月22日にコネチカット州ウェストブルックで亡くなりました。60歳でした。

エアハルト大佐役
シグ・ルーマン(58歳)

 シグ・ルーマン(1884年10月11日~1967年2月14日)は、ドイツ帝国のハンブルグ生まれのアメリカの性格俳優です。私には『グレン・ミラー物語』での質屋の主人役が忘れられないです。出番は2カットだったと思いますが、印象に残っています。本作ではゲシュタボのエアハルト大佐を演じ、準主役級の活躍で大いに笑わせてくれます。彼は100本以上の出演映画で、尊大で偉そうにする役人や悪役を演じていました。

 ルーマンは電気工学を学んだ後に、俳優や音楽家として働き始めました。第一次世界大戦中にはドイツ帝国軍に従軍しました。戦後、俳優として再開し、1924年にアメリカに移住してブロードウェイの舞台に出演して成功を収めました。1929年『ラッキー・ボーイ』で映画デビューし、1935年『結婚の夜』『男の魂』と出演しました。彼はマルクス兄弟に気に入られて、1935年『マルクス兄弟オペラは踊る』、1937年『マルクス一番乗り』、1946年『マルクス捕物長』の3作に出演しています。

 1936年頃にルーマンは、第二次世界大戦の勃発直前に反ドイツ的な偏見が高まっていた為、ドイツ人らしさを少しでも和らげる為に芸名を、ジークフリート・ルーマンからシグ・ルーマンに改名しました。1937年『無責任時代』『ハイデイ』、1939年『スエズ』『コンドル』、1939年『ニノチカ』『踊るホノルル』、1941年『淑女超特急』、1943年『制処女』『ターザンの凱歌』、1944年『夏の嵐』、1948年『皇帝円舞曲』、1949年『国境事件』、1953年『第十七捕虜収容所』『魔術の恋』、1954年『グレン・ミラー物語』、1955年『渡るべき多くの河』、1964年『36時間 ノルマンディ緊急指令』、1966年『恋人よ帰れ!わが胸に』等に出演しました。ルーマンは1967年2月14日カリフォルニア州ジュリアンの自宅で、心臓発作の為亡くなりました。82歳でした。

ブロンスキー役
トム・デューガン(53歳)

 トム・デューガン(1889年1月1日~1955年3月7日)は、アイルランドのダブリン生まれのアメリカの映画俳優です。本作では端役の舞台俳優役で、映画の冒頭からヒトラーに扮して登場して公判では重要な役を演じます。幼い頃に彼の家族はフィラデルフィアに移り、その後フィラデルフィア高校を卒業して就職します。仕事が上手くいかず、テノールの声が良かったので巡回医療ショーに出演しました。その後、ミンストレル一座に出演し、ニューヨーク市のミュージカル・コメディやヴォードヴィルの劇場に出演していました。最終的に彼は、ブロードウェイのコメディアンになりました。

 デューガンは1927年から1955年の間に約270本の映画に出演しました。彼の映画デビューは1928年の『紐育の灯』で、全編を通して音声が収録された、世界初のオール・トーキー映画です。1927年にトーキー映画として『ジャズ・シンガー』が公開されましたが、この映画は台詞の一部と歌の部分がトーキーのパート・トーキー映画です。1935年『二つの顔』、1936年『黄金の雨』、1940年『ゴースト・ブレーカーズ』、1949年『私を野球につれって』等に出演しました。デューガンは交通事故で負傷した後に、1955年3月7日カリフォルニア州レッドランドで亡くなりました。66歳でした。

ドボッシュ役
チャールズ・ハルトン(66歳)

 チャールズ・ハルトン(1876年3月16日~1959年4月16日)は、アメリカの性格俳優です。彼は180本以上の映画に出演していますが、半数以上はノン・クレジットです。本作では舞台演出家のドボッシュ役で、トラブル解決の作戦を練ったり、切れ者舞台演出家を演じています。彼は、前回紹介した『桃色(ピンク)の店』では探偵の役で、ワン・シーンだけ登場していました。

 ハルトンは、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学び、1901年にブロードウェイ・デビューをして、その後50年間で約35の作品に出演しました。1911年の夏、彼はコロラド州デンバーのエリッヂ・シアターに出演しました。1920年代から、ハルトンの薄くなった髪、縁なし眼鏡、厳しい顔、気難しい態度は、何世代にも渡ってアメリカの映画ファンにも親しまれていました。彼が演じるキャラクターは、厳格な政府官僚、葬儀屋、イタチのような弁護士、非情な役人など嫌な役が多いです。数多い出演作品の中で、1946年『素晴らしき哉、人生!』の銀行検査官、1942年『生きるべきか死ぬべきか』、のポーランドの舞台演出家、1941年『スミス夫妻』のアイダホ州の役人役などは、非常に印象深かったです。

 1919年『宝石の塔』、1933年『夜明けの嵐』、1936年『大自然の凱歌』・『流行の女王』、1937年『大都会の谷間』、1940年『3階の見知らぬ男』、1940年『西部の男』『海外特派員』、1942年『パナマの死角』『西部の顔役』、1945年『ブルックリン横丁』、1949年『三人の名付け親』、1953年『ムーンライター』等に出演しています。ハルトンは1959年4月16日、ロサンゼルスで肝炎で亡くなりました。63歳でした。次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。