監督:ドン・シーゲル(1912年10月26日~1991年4が20日)は、アメリカのシカゴ出身の映画監督です。父親がマンドリン奏者で、巡業のため一家はアメリカ各地を転々とします。彼が高校卒業後に一家はイギリスに渡り、ケンブリッジ大学や英国王立演劇アカデミーで学びます。その後一家はフランスに渡りますが、1931年に帰国します。1934年に叔父さんが働いていたワーナー・ブラザーズに入社し、編集助手や助監督をしてキャリアを積んで行きます。しかし、1944年に会社と契約で意見衝突し、数か月間失職状態になります。ハワード・ホークス監督の助監督を務め、1945年に短編映画『Star In The night』で監督デビューします。その後に撮ったドキュメンタリー映画『Hitler Lives?』の2本はアカデミー賞を受賞します。1946年に『ビッグ・ボウの殺人』で長編映画デビューし、1949年に『暗闇の秘密』の監督をします。しかし、映画業界がTVの進出により斜陽化が始まり、ワーナー・ブラザーズは多くのスタッフを解雇しました。シーゲル監督は9ヶ月の失業生活を送りますが、ロバート・ロッセン監督の『オール・ザ・キングスマン』で第2班監督として仕事をします。(この仕事は、ノン・クレジットです。)その後、ハワード・ヒューズがRKOに招き入れます。(それにしてもハワード・ヒューズは、多くの人達の手助けをしていますね。苦境にあったタッカーにも素晴らしい情報を提供しています。)それからのシーゲル監督は様々な映画会社の仕事をこなし、低予算早撮りで製作するB級映画を数多く監督しました。1964年の『第十一号監房の暴動』を撮った時に、サム・ペキンパーが助監督として付きます。その後も『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』や『暴力の季節』で、サム・ペキンパーは助監督を務めます。シーゲル監督は生活費を稼ぐ為に、1950年代から1960年代までテレビ映画も数多く演出しています。その中で1964年の『殺人者たち』は、内容が暴力的と云う事で劇場公開されました。1968年の『マンハッタン無宿』の監督決定が難航した時、クリント・イーストウッドがドン・シーゲルを指名しました。監督候補だったマーク・ライデルもシーゲルを絶賛した事もあり、ドン・シーゲルが監督になります。この映画の撮影を通じて二人は親交を深め、イ-ストウッドはシーゲル監督から本格的に監督業を学び始めます。二人は1970年『真昼の死闘』、続けて1971年にサスペンス映画『白い肌の異常な恐怖』を撮ります。残念ながらこの映画は興行的に失敗しますが、監督は自分の最高傑作と当時仰っていました。そして1971年に『ダーティハリー』を発表し、世界的な大ヒットとなります。その後自身のプロダクションを設立して1973年に『突破口!』を発表し、1974年『ドラブル』、1976年『ラスト・シューティスト』、1977年『テレフォン』、1979年『アルカドラスからの脱出』と続きます。主な作品は、1952年『抜き打ち二挺拳銃』、1956年『ボディ・スナッチャ-/恐怖の街』、1960年『燃える平原児』、1961年『突撃隊』、1967年『太陽の流れ者』、1968年『刑事マディガン』等です。1982年の『ジンクス!あいつのツキをぶっとばせ!』が遺作になりました。
脚本:ハワード・ロッドマン(1920年2月18日~1985年12月5日)はブルックリン出身の脚本家・作家で、息子のハワード・A・ロッドマンも脚本家・作家です。ロッドマンは1950年代から数多くのTV映画シリーズの脚本を書き、特に有名なのは「600万ドルの男(The Six Million Dollar Man)」です。ロッドマンはパイロット版の「サイボーグ大作戦(邦題)」脚本を書き、主人公のスティーブ・オースティンのキャラクターを創造しました。しかし、最終的に出来上がった作品に不満があり、クレジットは別名のアンリ・シモンとなっています。その他のTV映画の1958年「プレイハウス」・「裸の町」、1960年「ルート66」等の脚本を書き、1964年「ペイトンプレイス物語」ではアソシエイト・プロデューサーを務めています。1960年代からは1966年『0011ナポレオン・ソロ 消えた相棒』、1967年『刑事マディガン』、1968年『マンハッタン無宿』、1969年『レーサー』等の映画の脚本も執筆しています。1973年の『突破口!』では脚本の第1稿を執筆しますが、会社が採用せずディーン・リーズナーの第2項で撮影されました。
脚本:ディーン・リーズナー(1918年11月3 日~2002年08月18日)は、ニューヨーク市生まれのアメリカ合州国の映画・TV映画の脚本家です。父親のチャールズ・ライナーが映画監督だったので、ディーン・リーズナーはディンキー・ディーンの芸名で、1923年にチャールズ・チャップリンの『偽牧師』にも出演しています。しかし、母親が映画出演に反対した為、子役は長く続きませんでした。リスナーは1947年に『ビルの冒険物語(BILL AND COO)』の脚本と監督を担当しました。この短編映画は、鳥と小動物が人間のように洋服を着て物語を展開する実写映画です。彼はこの作品でアカデミー特別賞を受賞しています。(是非観てみたい作品ですが、残念ながら現在は観ることが出来ません。)1950年代から1960年代にかけてTV映画シリーズの脚本を担当し、1955年の「シャイアン」を始め、「ローハイド」、「ドビーの青春」、「ベンケー・シー」等の脚本を執筆しています。1957年の『烙印の裁き』(「シャイアン」の劇場版)、1958年の『パリの休日』等の映画の脚本を執筆します。1968年の『マンハッタン無宿』からドン・シーゲル監督の作品の脚本を担当し、1971年『ダーティハリー』・『恐怖のメロディ』、1973年『突破口!』・『ダーティハリー3』と執筆しました。その他、1983年『ブルーサンダー』、1987年『危険な天使』の脚本を執筆しています。
アメリカに帰国後、ニュー・スクールのドラマティック・ワークショップで、ドイツの監督のエルヴィン・ピスカトールから演技を学びました。1961年のブロードウェイ舞台劇「A Shot in the Dark」に出演し、トニー賞の最優秀主演男優賞を受賞しました。(この舞台劇は脚本を大幅に書き直して、1964年『暗闇でドッキリ』として映画化されました。)1955年にバート・ランカスターが監督・主演した『ケンタッキー人』で映画デビューし、『赤い砦』、1956年『黒の報酬』、1957年『群衆の中の一つの星』、1958年『闇に響く声』、1960年『逢う時はいつも他人』、1962年『脱獄』、1963年『シャレード』、1964年『未知への飛行』等に出演しました。この頃、テレビ・ドラマの「裸の町」・「ヒチコック劇場」・「ドクター・キルデア」等にゲスト出演していました。1965年にニール・サイモンのブロードウェイの舞台劇「おかしな二人」にアート・カーニーと共演しました。
シェリー・ノース(1932年1月17日~2005年11月4日)は、アメリカ合州国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれの映画・テレビの女優、ダンサー、歌手です。彼女は第二次世界大戦中に“USOショー”で踊り始めました。その後、シャーリー・メイベッシレという芸名で、クラブのダンサーとして踊り続けました。1951年『Excuse My Dust』にノン・クレジットで映画デビューし、この頃から芸名をシェリー・ノースと改名します。ノースはミュージカル「ヘーゼルフラッグ」でブロードウェイ・デビューし、シアターワールド賞を受賞しました。1954年にパラマウント社の『底抜けニューヨークの休日』に出演後、ノースは20世紀フォックスと契約しました。20世紀フォックスは、ノースをマリリン・モンローの後継者にしようとライフ誌の表紙に登場させました。1950年『スカートをはいた中尉さん』やミュージカル映画に出演しましたが、20世紀フォックスはノースの代わりにジェーン・マンスフィールドを売り込むようになります。1957年『頭金なし』、1958年『恋愛候補生』・『大戦争』と出演し、20世紀フォックスを去ります。
ジョン・ヴァーノン(1932年2月24日~2005年2月1日)は、カナダのモントリオール生まれの俳優です。俳優になる為に、カナダのアルバータ州バンプの大学とロンドンの王立演劇学校で学びました。数多くの劇団に加わって舞台経験を積んだ後、カナダに戻って舞台やテレビに出演しました。その後、ブロードウェイに進出して1964年の「Nobody Waved Good bye」で本格的にデビューしました。
ラスティを演じているリチャード・ロング(1927年12月17日~1974年12月21日)は、アメリカ合州国の俳優です。1946年にアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの『離愁』で映画デビューし、同年オーソン・ウェルズがロングの演技に感銘を受けて『オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー』に出演させ、続けて『暗い鏡』に出演しました。アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが、ユニバーサル・ピクチャーズと合併後も1947年『卵と私』に出演しました。ロングはユニバーサル社と契約し、1948年『愛土地の大地』、1949年『裏切りの街角』で聴覚障碍者の役で素晴らしい援護をし、ラスト・シーンが印象的です1949年『ダイナマイト夫婦』、1950年『命知らずの男』に出演しました。