Vol.59『蛇の穴』

 今回ご紹介するのは1948年の『蛇の穴』で、主演は前回の『暗い鏡』に続いてオリヴィア・デ・ハヴィランドです。原作者のメアリー・ジェーン・ウォードの自伝的小説「蛇の穴」を映画化したものです。小説はウォードの実体験を基に、主要な登場人物は実際の人物をモデルにして書かれています。題名の「蛇の穴」とは、凶暴で危険な精神病患者を収容する病棟の事です。アナトール・リトヴァク監督は精神病院で入念な取材を行い、医師の助言を得ながら映画を製作しています。主役のハヴィランドは3か月ほど精神病院に通い、患者と共に過ごして交流をして多くを学んでいます。この映画に出演しているのは全員プロの俳優で、実際の州立精神病院で撮影されています。精神病院の実態を描いたこの映画は、公開後様々な反響があり精神病院の改善にも繋がっています。

発売元:株式会社ジュネス企画

【スタッフとキャストの紹介】

アナトール・リトヴァク

 監督のアナトール・リトヴァク(1902年5月10日~1974年12月15日)は、ロシア(現ウクライナ)出身で、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカで活躍しました。本作では監督と製作もしています。1916年にサンクト・ベテルブルグの前衛劇場で舞台俳優としてデビューし、大学で哲学と共に演技も学んで劇団の俳優兼助手となりました。1923年からノルドキノ・スタジオに入り、数本の舞台劇で脚本や美術を担当しました。同年ドイツに渡って映画の編集や助監督をした後、1930年からは監督としてデビューし、1931年『女人禁制』、1932年『今宵こそは』等を発表します。ナチス政権が成立した1933年にフランスに移住し、1935『最期の戦闘機』や1936年『うたかたの戀』等を発表しました。1937年に渡米してハリウッドで1937年『トヴァリッチ』、1938年『犯罪博士』・『黄昏』、1939年『戦慄のスパイ網』、1940年『凡てこの世も天国も』・『栄光の都』、1942年『純愛の誓い』等を監督しました。1942年から1945年までは、プロパガンダ映画『我々はなぜ戦うか』シリーズをフランク・キャプラ監督と共同でプロパガンダ映画を共同で監督しました。このシリーズを監督した功績により、戦後フランス政府からレジオン・ドゴール勲章を授与されました。その後もハリウッドで1948年『私は殺される』『蛇の穴』、1951年『暁前の決断』、1956年『追想』、1957年『マイヤーリング』(『うたかたの戀』をセルフ・リメイクしたTV映画で、当時夫婦だったオードリー・ヘップバーンとメル・ファーラーが出演。)等を発表しました。1960年からはヨーロッパに渡り、1961年『さようならをもう一度』、1967年『将軍たちの夜』、1970年『殺意の週末』等を発表しました。1974年12月15日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで亡くなりました。72歳でした。

 原作者のメアリー・ジェーン・ウォード(1905年8月7日~1981年2月27日)はアメリカの小説家で、カタトニックに罹った時の体験を小説にしたのが「蛇の穴」です。(以前はカタトニック総合失調症とされていましたが、現在ではカタトニックは総合失調症とは別の病気とされています。)幼い頃から高校生の頃までは、音楽活動をしていて作曲もしていました。その後、ノースウェスタン大学に入学し、同時にシカゴのライセウム・オブ・アーツ・コンサバトリーでも学んでいます。1928年に統計学者でアマチュア劇作家のエドワード・クエールを結婚し、彼の進言により短編小説を出版して1937年に書評家となります。1938年には2冊の小説を出版しましたが、芳しい結果は得られませんでした。1939年にグリニッチ・ビレッジに移住して出版の仕事を続けますが、経済的に苦しい状態が続きストレスにより心理的苦痛を抱えます。その上、戦争への参戦や作家としての自分の能力に対する不安、そして予定されていた平和主義的反対を主張する政治演説する事が直接の原因で、カタトニックに罹ったと言われています。彼女はロックランド州立病院に入院し、数年間の精神病棟での体験を基に小説「蛇の穴」を書き、1946年に出版されて批評家や精神医学分野の専門家から高い評価を受けます。主要な登場人物は実在の人物を基に書かれていますが、看護師は権威主義者の象徴として書かれていて、反人種差別主義と反制度的分離を現しています。「蛇の穴」を発表後は5冊の小説を発表し、最後の編集では友人になったミレン・ブランドが協力しています。その間も彼女は病気の再発で3回入院し、最後の2冊の小説は精神疾患をテーマにしています。

 脚本はフランク・パルトス(1901年7月2日~1956年12月23日)で、ハンガリー系アメリカ人の脚本家です。ブタペストで生まれた彼は事務員をしていましたが、1921年に渡米してニュージャージー州に住む継父の許に行きます。1920年代後半にMGMに入社し、1932年の『グランド・ホテル』の脚本を書きますが、スクリーン・クレジットに載らなかったのでMGMを退社します。1930年代はパラマウント映画で脚本家として活動し、1939年にPKOラジオ・ピクチャーズに移って脚本家のチャールズ・ブラケットと共同で脚本を書きました。本作ではミレン・ブラントと共同で脚本を書いて、アカデミー賞にノミネートされています。彼が手掛けた主な作品は、1937年『謎の夜』、1939年『踊るホノルル』、1940年『3階の見知らぬ男』、1944年『呪いの家』、1948年『蛇の穴』、1951年『テレブラフヒルの家』等です。

アルフレッド・ニューマン

 音楽は巨匠のアルフレッド・ニューマン(1901年3月17日~1970年2月17日)で、アメリカの映画音楽の作曲家です。母親の勧めで6歳からピアノを習い始め、単身ニューヨークに行ってピアノを習いながら作曲法等を学びます。1914年には家族もニューヨークに移って来たので、13歳で家計を助ける為にヴォードビル・ツアーに参加したり、ブロードウェイの映画館でピアニストをして働きました。この頃既に指揮者や音楽監督として高い評価を受けていました。20歳の時にブロードウェイで音楽監督となり、29歳の時にハリウッドに移って映画音楽の作曲をするようになります。1931年の『街の灯り』を始め、20世フォックス社のロゴ・マーク表示で使われるファンファーレを作曲しました。20世フォックス社の音楽部長として活躍し、1970年の『大空港』まで作曲を続けました。第二次世界大戦時のニュース映画を含め、200本以上の作品の音楽を担当してアカデミー音楽賞を9回受賞しています。作曲数が多過ぎるので、担当した映画の列記は割愛致します。

ヴァ-ジニア・カニンガム役
オリヴィア・デ・ハヴィランド(32歳)

 主役のヴァ-ジニア・スチュアート・カニンガム役は、オリヴィア・デ・ハヴィランドです。1946年『暗い鏡』に出演した同年の『遥かなる我が子』で、アカデミー主演女優賞を受賞し、1949年の『女相続人』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞しています。本作でも彼女は、『私は殺される』のバーバラ・スタンウィックと『ジョニー・ベリンダ』のジェーン・ワイマンと並んでアカデミー主演女優賞にノミネートされました。最終選考で『ジョニー・ベリンダ』のジェーン・ワイマンが、アカデミー主演女優賞を受賞しました。しかし彼女の演技は高く評価され、1948年のナショナル・ボード・レビュー主演女優賞。ニューヨーク映画評論家協会主演女優賞、1949年のヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞しています。(詳細はVol.56『暗い鏡』をご参照下さい。)

ロバート・カニンガム役
マーク・スティーブンス(32歳)

 ヴァ-ジニアの夫のロバート・カニンガム役は、マーク・スティーブンス(1916年12月13日~1994年9月15日)です。オハイオ州クリーブランド生まれのスティーブンスは画家を目指していましたが、オハイオ州のアクロンでラジオのアナウンサーとなり活動します。1943年にハリウッドに移り、スティーブン・リチャーズの名でワーナーブラザーズから映画デビューします。1944年『ハリウッド玉手箱』、1945年『決死のビルマ戦線』の他に10本程の映画に出演しましたが、ノン・クレジットの小さな役しか与えられませんでした。1945年に20世紀フォックスと契約し、マーク・スティーブンスと改名します。1946年の『小さな愛の日』でジョーン・フォンテンと共演し、『闇の曲り角』ではルシル・ボールと共演しました。リチャード・ウィドマークが映画デビューした1948年の『情無用の街』ではジョン・マッキンタイアと共演し、FBIの潜入捜査官を演じました。本作に続き、1950年『拳銃無情』、1952年『カリブの反乱』、1953年『コロラドの決闘』等に出演しました。スティーブンスは俳優だけでは無く監督もし、1957年からTV映画にも出演していました。1994年9月15日、スティーブンスはスペインのマジョレスで癌の為77歳で亡くなりました。

マーク・キック医師役
レオ・ゲン(43歳)

 マーク・キック医師役は、イギリスの俳優で法廷弁護士のレオ・ゲン(1905年8月9日~1978年1月26日)です。彼はケンブリッジ大学の法科で学び、劇団の法律顧問をしているうちに演劇の道に進み、1930年にロンドンで舞台デビューしました。その後、1938年のブロードウェイの舞台出演まで、数多くの舞台劇に出演しました。1935年に『不滅の紳士』で映画デビューし、1938年『太鼓』・『ピグマリオン』(ノン・クレジット)に出演しました。戦争が近づくと、ゲンは1938年に将校緊急予備役に加わり、1940年7月6日に大率砲兵隊に入隊しました。1943年に中佐に昇進し、1945年にクロワ・ド・ゲール勲章を授与されました。ゲンはベルゼン強制収容所での戦争犯罪を調査する英国部隊の一員で、ドイツのリューネブルクで開催されたベルゼン戦争犯罪裁判の検事補を務めました。

 1944年にローレンス・オリビエが監督・主演した『ヘンリー5世』、1945年の『シーザーとクレオパトラ』、1946年『青の恐怖』等のイギリス映画に出演しました。1948年『蛇の穴』・『ビロードの手袋』、1950年『木馬』、1951年『クォ・ヴァディス』、1953年『赤いベレー』、1955年『恐喝』・『チャタレー夫人の恋人』ではクリフォード・チャタレー卿を演じています、1956年『白鯨』、1960年『ローマは夜だった』、1962年『史上最大の作戦』、1963年『北京の55日』、1962年『姿なき殺人者』、1971年『幻想殺人』等に出演しています。レオ・ゲンは1976年1月26日、肺炎の合併症により心臓発作の為ロンドンで亡くなりました。74歳でした。

グレイス役
セレステ・ホルム(31歳)

 グレイスを演じたセレステ・ホルム(1917年4月29日~2012年7月15日)は、ニューヨーク出身の舞台、映画、テレビの女優です。彼女は、シカゴのユニバーシティ・スクール・フォー・ガールズ(私立高校)に入学し、その後フランシス・W・.パーカー・スクールに転校して多くの学校の舞台作品に出演しました。高校卒業後にシカゴ大学で演劇を学び、1938年からブロードウェイの舞台に立ち1994年まで舞台への出演を続けました。1946年には20世紀フォックスから映画にも出演するようになり、1947年の『紳士協定』でアカデミー助演女優賞とゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞しました。その後、1948年『蛇の穴』、1949年『日曜日は鶏料理』、1950年『イヴの総て』、1956年『上流社会』等に出演しました。1950年代後半からはテレビ出演が多くなり、1970年代から1980年代には多くのテレビ映画にゲスト出演しています。アクターズ・スタジオの終身会員だったホルムは、1968年のサラ・シドンズ賞を始め多くの栄誉を受けています。彼女は2002年から記憶喪失の治療を受けていて、皮膚がん、出血性潰瘍、肺虚脱を患い、人工股関節置換術とペースメーカーを装着していました。2012年6月、脱水症状でニューヨークのルーズベルト病院に入院し、7月13日に心臓発作を起こしました。7月15日にセントラルパーク・ウエストのアパートで亡くなりました。95歳でした。

看護師ベティ役
ヘレン・グレイグ(36歳)

 看護師ベティ役のヘレン・グレイグ(1912年5月13日~1986年7月20日)は、テキサス州サンアントニオ生まれのアメリカの俳優です。彼女はオーソン・ウェルズとジョン・ハウスマンが設立したマーキュリー・シアターで演劇を学び、ブロードウェイで数多くの舞台劇に出演しています。特に1940年の舞台劇「ジョニー・ベリンダ」で主役のベリンダを演じたのが有名です。聴覚障害者のベリンダを演じる為、劇中台詞は全て手話で行い、他の俳優の台詞には絶対反応しない難しい役をこなしました。彼女は舞台劇の他に映画やTVにも出演していました。主な出演映画は、1948年『蛇の穴』『夜の人々』、1977年『幸福の旅路』等です。

ミセス・グリア役
ビューラ・ボンディ(59歳)

 ワン・シーンだけ登場するミセス・グリア役は、ビューラ・ボンディです。舞台俳優としてのキャリアが長く、映画デビューは43歳だったのでお母さん役やお婆さん役が多いアメリカの女優です。シリアスな役からコミカルな役まで見事に演じる名脇役です。(詳細はVol.33『モーガン先生のロマンス』をご参照下さい。)

トミーの母親役
メエ・マーシュ(54歳)

 トミーの母親役で、メエ・マーシュ(1894年11月9日~1968年2月13日)がノン・クレジットでワン・シーンだけ登場します。彼女は1915年の『國民の創生』と1916年の『イントレランス』に出演し、ジョン・フォードの作品に多数出演しています。その後は散発的に小さい役やノン・クレジットでも映画に出演しています。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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