Vol.31 『オデッサ・ファイル』の続きの続き

ジギーを脅す殺し屋(左)  警察署のブラウン警部を訪れたジギー(右)

 “オデッサ”は恋人ジギーからピーターの居所を聞き出させる為に殺し屋を差し向けます。夜の地下道でジギーが帰宅中に、男に襲われてピーターの居所を聞かれている時、タイミング良く車が来たのでジギーは男から逃げて車に乗ります。車の男はブラウン警部で、翌日ジギーは警部に会いに行きますが不在でしたが、婦人警官の警護が付くことになります。

変装して潜入を開始するピーター(左)
“オデッサ”のミュウヘン支部 のリーダー(右)

 準備不足ながらピーターは、変装して“オデッサ”潜入を開始します。途中鉄十字章と短剣を入手して、“オデッサ”のミュウヘン支部に行きます。そこでは様々な質問をされてチェックされますが、モサドが過去の経験から全て準備していたので“オデッサ”に受け入れられます。

バイロイトに行くように指示を受けるピ-ター(左)
ジギーに電話をするピーター(右)

 バイロイトへ列車で移動する為にミュウヘン駅にいたピーターは、ジギーに電話をします。この電話から警護についていた婦人警官が、ピーターがミュウヘンにいる事を知り“オデッサ”に報告します。“オデッサ”はピーターに同行した男から駅で電話をした事を確認し、直ちに殺し屋をバイロイトに差し向けます。

ピーターと印刷屋のベンツザー(左)   ピーターを待つ殺し屋(右)

 バイロイトに着いたピーターは、印刷屋のクラウス・ベンツァーに会い運転免許証の偽造を依頼します。写真は直ぐ撮れないので、月曜日までホテル待つように言われ彼はホテルに行きます。ベンツァーには病気の母親が2階にいて、父親同様に組織に殺される事を心配していて用心する様に言います。殺し屋が着いたのでベンツァーはホテルのピーターに電話をし、今から写真を撮るから印刷所に来るように伝えます。殺し屋は、ベンツァーを外出させてピーターを待ちます。

椅子に座る殺し屋を窓から見る(左)
ベンツァーの母親から金庫の番号を聞き出す(右)

 一方ピーターは不審に思って印刷所に電話をしますが、電話に誰も出ないので罠だと気付きます。印刷所に着いて窓から中を覗くと、見知らぬ男が椅子に座っていました。ピーターは木を登って2回の窓から部屋に侵入します。その部屋は母親の寝室で、母親はピーターを神父だと勘違いして“オデッサ・ファイル”の話をします。ピーターは、母親からファイルが隠してある金庫の番号を聞きだします。

殺し屋との格闘(左)   金庫からオデッサ・ファイルを取り出す(右)

 ピーターは2階から1階の印刷所に降り、印刷機の電源を入れて殺し屋の不意を突いて格闘が始まります。何んとか殺し屋を片付けて、金庫から“オデッサ・ファイル”を手に入れます。

モサドのメンバーにファイルの一部を渡す(左)
ジギーに今後の行動を伝えるピーター(右)

 殺し屋の銃と車(ジャガーXK)を奪い、駅のロッカーにファイルを保管してからジギーに電話をします。ジギーは、婦人警官を部屋に閉じ込めて逃げ出します。ピーターはモサドに行き、ロシュマンを一人で追う事を告げます。ハイテルベルクに着いたピーターは、ホテルでジギーと会い、万が一の時にやるべき事を頼み、ロシュマンの元へ向かいます。

ロシュマンに銃を向けて話すピーター(左)   反撃するピーター(右)

 ピーターはロシュマンが住む古城に忍び込み、銃を手にしてロシュマンの部屋に辿り着きます。銃を向けたままのピーターに、ロシュマンは自分が今のドイツの為に役に立っていると話し出します。ピーターは1944年10月11日のリガの港で射殺された大尉は、柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を着けていたので自分の父親である事を伝えます。ロシュマンをこの場で殺すべきか躊躇しているピーター、引き出しの銃を取ってピーターに反撃しようとするロシュマン。ロシュマンは父親の殺害を否定しながみ隙を見て銃を手に取り発砲します。ピーターは咄嗟に身を交わしロシュマンに反撃し、再び銃を構えようとするロシュマンを射殺します。

火災で崩壊するキーフェル電気研究所(左)
火災を見つめるモサドのメンバー(右)

 ピーターは当局に拘束されますが、3週間後に釈放されます。ジギーはピーターの指示通り、“オデッサ・ファイル”をヴィーゼンタールに届け、ナチス戦犯の逮捕が始まります。無線誘導装置を開発していたキーフェル電気研究所に火災が発生し、研究所は崩壊して無線誘導装置が作られる事は無くなりました。最後にタウバー老人の日記が朗読され、映画は終わります。

 映画は原作から削除さたり変更をしていますが、ロナルド・ニーム監督はテンポの良い演出で個人の復讐劇に纏めています。原作と映画は別物です。本作に登場するナチ・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールとエドワルド・ロシュマン(エドゥアルト・ロシュマンとも表記される)は、実在の人物です。実際のロシュマンは、リガ・ゲットー副司令官でカイザーヴァルト強制収容所の所長です。瀕死の囚人に犬を嗾けて、食い殺されるのを何よりの楽しみしていた狂人です。戦後、ドイツ国防軍伍長の制服を着てオーストリに逃亡します。その後オーストリアからアルゼンチンに逃げ、アルゼンチンからパラグアイに向かう船上で、19977年8月10日心臓発作で死亡しています。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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『オデッサ・ファイル』 作品データ

1974年製作/アメリカ/129分
原題:The Odessa File
配給:コロムビア映画

監督;ロナルド・ニーム

脚本;ケネス・ロネ、ジョ^ジ・マークスタイン

原作:フレデリック・フォーサイス

製作:ジョン・ウルフ

撮影:オズワルド・モリス

音楽:アンドリュー・ロイド=ウェバー

出演:ジョン・ボイド。マクシミリアン・シェル

   メアリー・タム、マリア・シェル

   ノエル・ウィルマン、デレク・ジャコビ

   ピーター・ジェフリ

Vol.31 『オデッサ・ファイル』の続き

1963年12月23日イスラエルの砂漠を走る戦車隊(左)
任務を命令する司令官とモサドの幹部(右)

 映画のオープニングは砂漠を移動する戦車隊が映し出され、“1963年9月23日イスラエル”と表示されます。前線基地の司令官のテントと思われる場面に変わり、司令官がモサド(イスラエル諜報機関)の幹部に任務を命令します。エジプト軍は、ロケット弾でイスラエルの拠点を攻撃し、その後全土を攻撃してくる。そのロケットの弾頭にはペスト菌とストロンチュウム90が搭載されるので、その計画が成功すればイスラエルは全滅する。無線誘導装置が完成したら、その計画が実行される。無線誘導装置はドイツの何処かの工場で作られているので、探り出して阻止するように伝えます。

夜のハンブルグ(左)   車を停めてラジオを聴くピーター(右)

 1963年11月23日のハンブルグの夜景に場面は変わり、ジョン・ボイト扮する新聞記者ピーター・ミラーが運転する車が街中を走っています。ラジオからはペリー・コモが歌う“クリスマス・ドリーム”が流れていますが、臨時ニュースでケネディ大統領の報道が入ります。ピーター(正しくはペーター)は車を停めてラジオ放送を聞くと、ケネディ大統領が暗殺された事を知ります。

現場に向かう救急車(左)   カール刑事に話を聞くピーター(右)

 その時、救急車が走っていくのが見えたので、新聞記者の習性で救急車を追いかけて現場のアパートに着きます。取材をしようと車から降り、現場の警察官に記者証を見せても現場には入れてくれません。そこにアパートから親友のカール刑事が出て来たので話を聞き、老人がガス自殺した事を知ります。

カール刑事から老人の日記を受け取るピ-ター(左)
ソロモン・タウバーとその妻(右)

 後日、カール刑事から自殺した老人の遺品の包みを渡されます。包みの中には自殺した老人が書いた日記が入っていて、老人の名前はソロモン・タウバーと云うユダヤ人、リガの強制収容所での出来事が綿密書かれていました。(収容所での場面は、モノクロになります)

リガ強制収容所所長
エドワルド・ロシュマン
大尉を射殺するロシュマン(左)
撃たれた大尉の 柏葉・剣付騎士鉄十字勲章 (右)

 リガの強制収容所の所長は、“虐殺者“と云われたエドワルド・ロシュマンSS大尉。日記にはロシュマンの殺しを楽しむ行動が、克明に書かれていました。その日記には、柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を付けたドイツ国防軍の大尉が、ロシュマンに後ろから銃で撃たれた事が書かれていました。

柏葉・剣付騎士鉄十字勲章 (レプリカ)

 この柏葉・剣付騎士鉄十字勲章の受賞は160名、十字勲章のランクでは上から三番目で相当凄い戦功が無ければ受賞出来ません。因みに、外国人の軍人として1名だけ山本五十六が受賞しています。二番目はダイヤモンド柏葉・剣付騎士鉄十字勲章で受章者は27名、1番目は黄金ダイヤモンド柏葉・剣付騎士鉄十字勲章で受章者は、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル空軍大佐の1名だけです。この鉄十字章の話が映画のラストで登場し、ピーターの行動の動機付けが分かります。

戦時中の話をする母親(左
 ピーターの父親の事を涙ながらに話す母親(右)

 ピーターは、ロシュマンの追跡取材を新聞社に売り込むが、全然相手にされず断られます。彼は母親の元を訪れ、戦争中の話や父親の事を聞きます。過去の話をする時のマリア・シェルの演技が、素晴らしいです。彼女の表情はアップで撮られていて、眼で心情を表現しています。

アパートの管理人からタウバーの友人マルクスの事を聞き出す(左)
マルクスからロシュマンの情報を聞き出す(右)

 ピーターは自殺したタウバー老人が住んでいたアパートを訪ね、管理人からタウバーの親友マルクスの事を聞き出し、公園にいたマルクスと話をします。彼の話から“オデッサ”という組織の事とロシュマンが生きている事を知ります。タウバーが警察にロシュマンが生きている事を訴えたが、取り合ってくれずタウバーは絶望してガス自殺した事を知ります。収容所でタウバーの妻が排気ガスで殺害されたから、自分もガス自殺したのかと私は思いました。

ジギーとクリスマス・プレゼントを買い物(左)
地下鉄のホームに落とされたピーター(右)

 ロシュマンの情報を得る為、検事総長室に出向きますが情報は得られず、調査しないように警告されます。その時、ジークフリート師団の集会がある事を知り、その戦友会に潜り込んで写真を撮った為、その場から強制退去させられ暴行を受けます。クリスマス・プレゼントの買い物をした後、地下鉄のホームで電車が入って来た直前にピーターは男に線路上に突き落とされますが、間一髪彼は難を逃れます。

ピーターの電話を受けるカール刑事(左)
ナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタール(右)

 ピーターはウィーンに向かい ナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタール の居所を探りますが、手掛かりが無くカール刑事に協力して貰います。この電話で”オデッサ”にピーターの動きが察知されます。カール刑事の協力でナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールに会い、彼から“オデッサ”の組織の事、ロシュマンの戦後の行動を聞き写真も入手します。

ピーターを拉致するモサド(左)
ピーターを質問攻めモサドのメンバー(右)

 ホテルに戻ると、シュミット博士(“オデッサの”シュルツ)と名乗る男が待ち構えていて、ロシュマンの調査を止める様に脅迫されますが断ります。ピーターがハンブルグに帰る途中、突然モサドに拉致されます。彼が“オデッサの”シュルツと会っていた為、質問攻めに合いますが誤解が解け、彼は“オデッサ”に潜入する事になります。それから6週間のトレーニングに入ります。その間、モサドは病院を利用して、ピーターが元ナチスの軍曹ロルフ・コルブに成り代われる様に訓練します。

モサドのメンバーから訓練を受けるピーター

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『オデッサ・ファイル』 作品データ

1974年製作/アメリカ
原題:The Odessa File
配給:コロムビア映画

監督;ロナルド・ニーム

脚本;ケネス・ロネ、ジョ^ジ・マークスタイン

原作:フレデリック・フォーサイス

製作:ジョン・ウルフ

撮影:オズワルド・モリス

音楽:アンドリュー・ロイド=ウェバー

出演:ジョン・ボイド。マクシミリアン・シェル

   メアリー・タム、マリア・シェル

   ノエル・ウィルマン、デレク・ジャコビ

   ピーター・ジェフリ

Vol.30 『オデッサ・ファイル』

『オデッサ・ファイル』
発売:ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメント

 前回に続きフレデリック・フォーサイス原作の映画、『オデッサ・ファイル』です。監督はロナルド・ニーム、1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』でお馴染みかと思います。フォーサイスが。特派員時代に収集した情報から書き上げた小説です。小説を基にした映画の場合、比較をして観る楽しみ方もあると思います。しかし、小説と映画は別物です。文章で書かれた小説は、上限が無く無限に描く世界を拡げられます。一方、映画は製作費・製作期間・上映時間等、多くの制約があります。例えば小説では数行の文章で書かれたものも、映画ではセットを作ったり或いはロケ地で撮ったりします。そうすると小説のどの部分を生かし、どこを切るかの選択が必要になります。プロデューサーと監督の考えの違いも大きく関わってきます。よくある話で、監督が撮った映画が120分だった時に、会社側が100分とか90分に短縮される事があります。最近は公開当時版のDVDが発売された何年か後に、ディレクターズ・カット版の上映時間が長いDVDが発売される事があります。これは単に、会社が金儲けする為かと思いますが。

【スタッフとキャストの紹介】

ロナルド・ニーム

 ロナルド・ニーム(1911年4月23日~2010年6月16日)は、イギリスの映画プロデューサー、監督、撮影監督、脚本家です。ニームは写真家のエルヴィン・ニームと有名な女優のアイビー・クローズの長男として、ロンドンのヘンドンで生まれました。ニームはユニバーシティ・カレッジ・スクールと、ハーストピアポイント・カレッジで学びました。父親が1923年に亡くなった為、アングロ・ペルシャ石油会社の事務員としての仕事に就きました。その後、母親の人脈を通じて、エルストリー・スタジオにメッセンジャー・ボーイとして入社しました。

 ニームは1929年にイギリス初のトーキー映画で、アルフレッド・ヒッチコック監督の『恐喝(ゆすり)』でアシスタント・カメラマンになりました。1933年の『ハッピー』で撮影監督となり、1938年『ウエヤ殺人事件』、1941年『バーバラ少佐』、1942年『軍旗の下に』・『戦闘機失踪』を撮影しました。『軍旗の下に』に成功によりデヴィッド・リーン監督とプロデューサーのアンソニー・アランとニームは、共同でシネギルド社を設立しました。三人で映画を制作し、共同で脚本を執筆しました。このトリオの最初の3本は、1944年『幸福なる種族』・『逢引き』、1945年『陽気な幽霊』で三作品とも共同脚本でした。1946年の『大いなる遺産』では撮影をせず、製作と脚本を担当しました。1947年に『テイク・マイ・ライフ』で監督デビューし、『オリヴァ・ツイスト』と1949年『情熱の友』の製作をして。アンソニー・アランの後シネギルド社を去りました。

 1949年『黄金の竜』の脚本を書き監督をし、1951年にウィリアム・エドワード・グリーンの伝記映画『マジック・ボックス』を製作しました。1952年『The Promoter』、1960年『TUNES OF GLORY』の監督をし、1961年『ザーレンからの脱出』では製作と監督をしています。1962年ジュディ・ガーランド最後の映画『愛と歌の日々』、1966年『泥棒貴族』、1968年『ミス・ブロンディの青春』、1970年『クリスマス・キャロル』、1972年『ポセイドン・アドベンチャー』、1974年『オデッサ・フィル』、1970年『メテオ』を監督しました。1986年『サクセス・ストーリー‘88/天才的記憶術の使い方』が最後の監督作品になりました。ニームは、2010年6月16日に足の骨折による合併症で亡くなりました。99歳でした。

ピーター・ミラー役
ジョン・ボイド(36歳)

 主人公のピーター・ミラー役を演じるのは、ジョン・ボイト(ジョン・ヴォイトと表記される事もあります)です。ジョン・ボイト(1938年12月29日生まれ)はニューヨーク州のヨンカーズ出身で、ワシントンD.C.のアメリカ・カトリック大学で数学を専攻していましたが、シェイクスピの「真夏の夜の夢」に出演した事で役者を目指します。大学卒業後、ニューヨークで舞台演出や舞台美術を学び、オフ・ブロードウェイやブロードウェイの舞台で俳優として活動しました。

 1967年『墓石と決闘』に29歳で映画デビューし、1969年『真夜中のカーボーイ』(正しくは、“カウボーイ”ですが)で注目され、1970年『キャッチ22』、1972年『脱出』、1974『オデッサ・ファイル』、1977年『殺意の行方 』等に出演しました。1978年の『帰郷』ではアカデミー主演男優賞とカンヌ国際映画祭男優を受賞している演技派俳優です。1979年『チャンプ』、1985年の『暴走機関車』ではゴールデングローブ賞を受賞しています。1995年『ヒート』、1996年『ミッション:インポッシブル』、1997年『レインメーカー』、1998年『エネミー・オブ・アメリカ』、2001年『パール・ハーバー』、2004年『クライシス・オブ・アメリカ』、2007年『トランスフォーマー』、2017年『奇跡の絆』等に出演しました。出演する作品を選ばない方のようで、1997年『アナコンダ』にも出演しいています。又。長年不仲だったと云われていた娘のアンジェリーナ・ジョリーと、2001年の『トゥームレイダー』では共演しています。又、テレビ・ドラマでは2009年『24 -TWENTY FOUR-』の出演し、2013年『レイ・ドノヴァン ザ・フィクサー』では3度目のゴールデン・グローグ賞を受賞しています。

エドワルド・ロシュマン役
マクシミリアン・シェル(44歳)

 元ナチスのSS幹部でユダヤ人強制収容所の所長だったエドワルド・ロシュマンを演じるのが、マクシミリアン・シェルです。マクシミリアン・シェル(1930年12月8日~2014年2月1日)は、オーストリアのウィーンで生まれたオーストリアの俳優です。母親は女優、父親は小説家・詩人で、兄弟のマリア、カール、イミーは俳優です。彼は、3歳の時にウィーンで劇場デビューしました。1938年にオーストアリがナチス・ドイツに併合された時に一家はスイスに逃げてチューリッヒに移住しました。シェルは古典を学び、10歳の時には戯曲を書いていました。第二次世界大戦後、彼はドイツに移りってミューヘン大学に入学し、哲学と美術史を学びました。その後、チューリッヒに戻ってスイス陸軍に1年間従事しました。その後、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ・スクルールに1年間通い、チューリッヒ大学で1年間学び、バーセル大学に6か月間再入学しました。この期間中、シェルは古典劇と現代劇の両方の舞台に出演し、バーゼル激情で本格的に演技を始めました。

 シェルは1955年『戦場の叫び』で映画デビュー、『暗殺計画7.20』等、7本の映画に出演しました。1958年ブロードウェイの演劇、アイラ・レヴィンの「インターロック」に出演する為に米国に招待され、ピアニストの役を演じました。(シェルは、熟練したピアニスト兼指揮者でした。)1958年『若き獅子たち』でハリウッド・デビューしました。1960年にドイツに戻り、ドイツのテレビ映画「ハムレット」でハムレットを演じ、舞台でもハムレットを演じました。1959年、テレビの生放送の「ニュールンベルグ裁判」で弁護人役を演じました。シェルは1961年の映画『ニュールンベルグ裁判』で同じ役を演じ、ドイツ語を話す俳優に初めてのアカデミー賞主演男優賞を受賞しました。合わせてニューヨーク映画批評家賞も受賞しました。1964年『トプカピ』、1967年『誇り高き戦場』、1969年『ジャワの東』、そして1970年の『初恋』では製作・監督・脚本・出演をしました。英語とドイツ語の両方を完璧に話せるシェルは、ナチスに時代をテーマにした戦争映画等に多く出演しています。1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『セント・アイブス』、1977年『戦争のはらわた』・『遠い橋』・『ジュリア』に出演しています。その他、1979年『ブラック・ホール』、1983年『青春の殺意』、1984年『炎のレジスタンス』、1994年『リトル・オデッサ』,1997年『17 セブンティーン』、2007年のドイツ映画『眠れる美女』、2009年『ブラザーズ・ブルーム』等に出演しました。その他、多くのテレビ・ドラマや舞台に出演していました。2014年2月1日、オーストリアのインスブルックで亡くなりました。83歳でした。

ピーターの母親役
マリア・シェル(48歳)

 主人公ピーターの母親を演じているのは、マクシミリアン・シェルの姉のマリア・シェルです。マリア・シェル(1926年1月15日~2006年4月26日)は、オーストリアのウィーンで生まれたオーストリア・スイスの女優です。1938年にオーストアリがナチス・ドイツに併合された時に一家はスイスに逃げてチューリッヒに移住しました。マリアはプロとしていくつかの劇場で演技を学び、1942年『シュタイブルッフ』で映画デビューしました。第二次世界大戦後、1948年『トランペットの天使』、1951年『マッチ・ボックス』・『ドクター・ホール』で主役を演じています。1952年『かくて我が恋は終りぬ』、1953年『事件の核心』、1956年の『居酒屋』でヴェネチア国際映画祭主演女優賞を受賞しています。1957年『白夜』・『ローズ・ベルトンの罪』に出演しています。

 1958年『カラマーゾフの兄弟』でハリウッド・デビューし、1959年『縛り首の木』、1960年『シマロン』に出演しています。1970年『血まみれの裁判官』、1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『さすらいの航海』、1978年『スーパーマン』、1982年『サン・スーシーの女』に出演しています。その他、テレビ映画やブロードウェイの舞台にも出演していました。マリアは、2005年4月26日、肺炎のためオーストリア のケルンテン州の自宅で、肺炎の為亡くなりました。79歳でした。

ジギー役のメアリー・タム(24歳)

 メアリー・タム(1950年3月22日~2012年7月26日)は、イギリスの主にテレビに出演した女優です。父親の兄弟四人がソビエト連邦の強制収容所で亡くなった後、エストニアから逃れてイングランドのヨークシャーに移りました。タムは、エストニア人の父とオペラ歌手のロシア人のハーフの母との間に、ヨークシャーのウェストライディングのブラッドフォードで生まれました。タムはエストニア語しか話せませんでしたが、小学校に入学してから英語を学びました。11歳の時に奨学金を受けて、ブラッドフォード・ガールズ・グラマー・スクールに通い、市内のシビック・シアターに参加していました。1969年から1971年までロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートで学び、卒業して準会員になっています。1971年バーミンガム・レパートリー・カンパニーで舞台デビューしました。1972年にロンドンに移住し、ミュージカルの『マザー・アース』に出演し、1973年にBBCのテレビ番組「ドナティの陰謀」でテレビに初出演しました。

 1973年『異界の扉』で映画デビューし、1974年『オデッサ・ファイル』、1976年『ポプル・ラッズ』、2001年『アマゾネス・グラディエーター』に出演しました。イギリスのBBCで放映された「ドクター・フー」は、SFテレビ・ドラマで、世界最長のテレビ・ドラマ・シリーズです。1963年から1989年と2005年から現在(2024年)も放映されています。タムは1978年から1980年までのシーズン16・17で、ロマーナ役で出演していました。1983年、BBCのテレビ・ドラマ「ジェーン・エア」を始め、多くのテレビに出演して活動しました。2012年7月26日に癌で亡くなりました。62歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

Vol.29 『ジャッカルの日』の続きの続き

 ジャッカルはローマでレンタ・カーの白いアルファ・ロメオ・スパイダーに乗り、貸ガレージで車体の下に潜り込んで車に細工をして特製の銃を隠します。英国特捜部から連絡を受けたリベル警視は、ポール・ダンカンの行方を捜査し始めます。

車体の下から部品を外すジャッカル(左)
部品に銃を隠すジャッカル(右)

  その頃ジャッカルは車で国境を越え、まんまとフランスに入国します。移動途中OASに電話連絡をした時に、ウォーレンの自白により名前を知られた事を知ります。徐々に捜査の手は、ジャッカルに迫りつつあります。ジャッカルは、ニースのホテルでロビーにいたモンペリオ夫人に近づき一夜を共にします。

国境で手荷物検査を受けるジャッカル(左)
モンペリオ夫人と語り合うジャッカル(右)

 ルベル警視はポール・ダンカンがニースのホテルに泊まった事を知り、ニースに飛んでジャッカル逮捕に向かいますが、一足違いで逃げられます。ホテルの従業員からの供述からジャッカルと一夜を共にしたモンペリオ夫人の家へヘリコプターで急行します。

ホテル従業員から証言を得るルベル警視(左)
モンペリオ夫人とルベル警視(右)

 その頃ジャッカルは、OASとの電話でフランス当局に車も割り出された事を知ります。早速ナンバー・プレートを盗み、車を青色に塗り替えます。その時、ルベル警視が乗るヘリコプターが飛んで行きます。ジャッカルは、車体の下に隠した銃を取り出し、モンペリオ夫人の家に向かいます。

車体を青に塗り替えるジャッカル(左)
車体の下に隠した銃を取り出す(右)

 途中交通事故を起こし、彼の車は大破します。相手の車は動く状態で、運転していた男は死亡していたのでその車で夫人の家に向かいます。ルベル警視が来た事で困惑している夫人を再び誘惑して一夜を共にします。翌朝、逃げているなら匿うと言う夫人にキスをしながら、ジャッカルは首を絞めて殺害します。任務遂行の為、何の躊躇も無く人を殺すジャッカルを、無表情で演じているエドワード・フォックスが良いですね。そして、カバンに隠してあったパスポートを取り出し、髪を栗色に染めてデンマーク人教師のペーア・ルントクビストに変装します。ジャッカルは夫人の車を盗んで駅に向かい、電車に乗ってパリに向かいます。

ジャッカルが突然訪問して困惑するモンペリオ夫人(左)
変装するジャッカル(右)

 その頃ルベル警視はモンペリオ夫人の殺害を知り、夫人の車の発見から電車でパリに着くと判断しパリ駅に向かいます。既にジャッカルは、反対車線を走るパトカーを眺めながらタクシーでサウナに向かっていました。サウナで知り合ったジュールの誘いで彼の部屋に行きます。

電車でパリに向かうジャッカル(左)
サウナでジュールと知り合いになる(右)

 ルベル警視はOASの女スパイを突き止め、会議の席上で情報がこの会議の出席者から漏れていた事を伝えます。女スパイに騙され情報を漏らした役人はその場から退席します。この場面での最後のオチが良いですね。その役人の部屋で女スパイを逮捕した時、既にその役人は自殺していました。

内部から情報が漏れていた事を伝えるルベル警視(左)
自分だと悟って立ち上がる役員(右)

 その後の会議でルベル警視は、暗殺実行日は3日後の解放記念日8月25日だと予測します。その発言に内務大臣は納得し、ルベル警視無しでも逮捕出来ると思い彼を解任します。内務大臣はモンペリオ夫人殺害の犯人として、ペーア・ルントクビストを全国に指名手配して大々的にテレビに流します。買い物に出掛けたジュールは、街角のテレビでジャッカルの顔を観て帰宅後にその話をします。部屋のテレビで殺人犯の報道している時に、ジュールは彼が殺人犯だと気が付きますが、時既に遅く呆気なく殺されてしまいます。

内務大臣はルベル警視を解任します(左)
街角で観たテレビにジャッカルが出ていた事を伝えるジュール(右)

 10万人を動員したにも関わらず、内務大臣の予想は大きく外れ無駄に2日間が過ぎ、解放記念日にルベル警視は再任されて任務に復帰します。式典が行われるノートルダム寺院前の広場は、警官によって厳重な警戒網が張られます。屋根には狙撃手が大勢配置され、不審者は直ぐ逮捕出来る状態になっています。ルベル警視は式典会場を見回り不審者探しをします。しかし、殆ど絶望的で成す術も無い状態です。式典の映像は実際の映像を使っているようです。

式典会場を見回るルベル警視(左)  いよいよ式典が始まります(右)

 そんな中、両手で松葉杖を使いながら警官に歩み寄る片足の老人が現れます。変装したジャッカルは警官に身分証を見せながら、以前下見したアパートを自宅だと言ってアパートに向かいます。

松葉杖で歩いてくる片足の老人(左)
警官の検問を受ける変装したジャッカル(右)

 管理人室で管理人のおばさんに水を所望します。管理人は笑顔で答えて快く水道の水をコップに入れている後ろから、ジャッカルは一撃を喰らわして管理人を倒し、折り曲げて吊り下げていた左足を伸ばします。

ジャッカルの申し出に笑顔で答える管理人(左)
吊っていた足を下すジャッカル(右)

 最上階へと階段を駆け登り、部屋に入って窓から外の様子を伺います。銃を組み立てて暗殺の準備をし、式典が始まるのを待ちます。やがて式典が始まりスコープを覗いて銃を構えてチャンスを待つジャッカル。

窓から外を見るジャッカル(左) 【屋根の上や屋上に待機する警官(右)
銃を組み立てて椅子の上に置く(左) 炸裂弾を装填するジャッカル(右)

 一方。ルベル警視は一人の警官から何か情報を得て、ジャッカルが潜む最上階の部屋に向かいます。

狙撃場所を特定するルベル警視(左
 窓から狙いをつけるジャッカル(右)

 ジャッカルは大統領を狙って銃を撃ちますが、大統領が頭を下げた為に外してしまいます。次の弾を銃に装填している時に機関銃を持った警官が入って来た為、銃で射殺します。

照準を合わせて撃つが、弾は外れる

 次の弾を込めようとした時に、ルベル警視は警官の機関銃を手に取ってジャッカルを射殺します。その後、ジャッカルの埋葬シーンがあって、太鼓の音共に映画は終わります。

次の弾を装填するジャッカル(左)
その前に機関銃でジャッカルを撃つルベル警視(右)

 この映画はドキュメンタリー・タッチで描かれ、作り話が真実にも思われるようなものです。正に、映画は嘘を本当の様に見せる素晴らしい芸術です。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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『ジャッカルの日』 作品データ

イギリス・フランス 1973年 カラー 142分
原題:The Day of the Jackal

監督:フレッド・ジンネマン

製作:ジョン・ウルフ

原作:フレデリック・フォーサイス

脚本:ケネス・ロス

撮影:ジャン・トウニエ

編集:ラルフ・ケンプレン

音楽:ジョルジョ・ドルリュー  

出演:エドワード・フォックス、アラン・バデル 

   トニー・ブリットン、シリル・キューザック

   マイケル・ロンズデール、エリック・ポーター

   デルフィーヌ・セイリング、オルガ・ジョルジュ=ピコ

   デレク・ジャコピ、スキージャン・マルタン

   ミシェル・オークレール、モーリス・デ

Vol.28 『ジャッカルの日』の続き

 映画のオープニングと共に太鼓の音が鳴り、冒頭から緊張感を高めるのは音楽担当のジョルジュ・ドルリューの業です。(彼はフランソワーズ・トリフォー監督の映画の音楽を多く担当しています。)少し間があって、“1962年8月のフランス”続けて“アルジェリアの独立を認めたド・ゴール大統領は・・・”とナレーションが入り、軍部など右翼過激派地下組織のOASから恨みを買っていた事が分かります。本編が始まり、閣僚会議終了により、大統領がシトロエンDSに乗り込み移動を始めます。途中待ち伏せしていたOASのメンバーに機関銃で襲撃せれますが、危機一髪で無事逃げ去ります。この襲撃事件に加わった軍部のバスチアレ中佐は銃殺刑になり、銃で撃たれた後も士官が拳銃で仕上げをするシーンはリアリティがあります。フランス政府はOASの組織は、消滅したと考えます。

OASのメンバーによる襲撃(左)
銃弾を受ける大統領専用車のシトロエンDS(右)

 OASの残党ロダン大佐はオーストリアに逃亡潜伏し、幹部3人でド・ゴール暗殺の為に殺し屋を雇う事を決定します。ロダン大佐は既に英国から殺し屋を手配済みで、翌日幹部3人は殺し屋と会い暗殺の依頼をします。報酬は50万ドル、当時のドルのレートは日本円で1ドル360円ですから、途轍もない金額です。幹部はそんな金は無いと言いますがB、殺し屋は平然と“銀行から奪え”と言い暗殺の依頼を受けます。帰り際に名前を聞かれ、殺し屋は“ジャッカル”と名乗ります。ジャッカルは終始アスコット・タイを絞めていまして、非常に懐かしいスタイルです。それからOASは次々と銀行を襲い始めます。

再度大統領暗殺を計画するOAS幹部(左) ジャッカルと会って契約を結(右)

 ジャッカルは墓場で若くして亡くなった墓から成り代わる人物を決め、パスポート申請をします。そしてジェノバに移動して馴染みの銃職人(ガン・スミス)のゴッツィに会い、今回の暗殺に使用する銃を発注します。ここでの二人のやり取りは、非常にリアリティがあって大好きなシーンです。

銃職人のゴッツィに会い特性銃製作の依頼をするジャッカル(左)
銃のラフ・スケッチを見て見積もりをするゴッツィ(右)

 ジャッカルは空港でデンマーク人教師のパスポートを盗み、ローマからパリに移動して狙撃する場所を探します。決めた建物の管理人が不在時に管理人室に入り、最上階の部屋の鍵の複製を作る為の型を取ります。

目を付けたアパートの管理人を見るジャッカル(左)
鍵の型を取るジャッカル)右)

 OASは大統領官邸の役人に女スパイを送り込み、フランス当局の動きを把握します。連続する現金強奪にフランス当局は、OASの犯行と睨み捜査を開始。OAS幹部の二人がローマに移動したので、フランス当局はウォーレンスキーの動きを追います。

8㎜を観るフランス軍の将軍と特捜部部長(左)
不審な動きを見せるウォーレンスキー(右)

 8㎜カメラで撮影された映像から不審な動きを察知し、非合法な方法で彼を拉致して拷問で自白させます。この場面での自白から供述書を作成する方法は、今では考えられない大変手間の掛かるやり方です。

拷問を受けるウォーレンスキー(左)
別室で供述から文書を作成するスタッフ(右)

 ウォーレンスキーの供述から大統領暗殺計画らしいと判断したフランス当局は、パリで一番優秀な刑事のクロード・ルベル警視に内務大臣が全権を任せます。ルベル警視は、各国に秘密捜査の依頼をします。

内務大臣(左)から暗殺者逮捕の命令を受けるルベル警視(右)

 ルベル警視もジャッカルに負けない位の切れ者で、現場の叩き上げ刑事の執念で追い詰めて行きます。ここからルベル警視とジャッカルの攻防が始まります。

 ローマに戻ったジャッカルは、写真屋に依頼していた偽のパスポートを受け取りに行きますが、多額の報酬を要求して脅迫するので彼を簡単に始末します。

ジャッカルを脅迫する写真屋(左) 写真屋を倒し鍵を探すジャッカル(右)

 その後、出来上がった特注の銃を受け取りにゴッツィの家に行きます。部品を一個づつ確認しながら銃を組み立て、特性の炸裂弾6発と試射の弾を受け取ります。このシーンは、ガン・マニアにとっては本当にワクワクしますね。

銃を組み立てるジャッカル(左)    特注の炸裂弾(右)

 途中市場でスイカを買って郊外の森で試射を行います。スイカを顔に見立てて木に吊るし、100m程離れた位置にある木に、細いロープを少し緩めに括り付け、銃をロープの輪に入れて捩じって銃を固定します。

スイカを木に吊るしに行くジャッカル(左)  銃をロープで固定する(右)
木に吊るされたスイカ〚遠くて見えない〛(左)
スコープを覗くジャッカル(右)

 試射用の弾を込め、遠くにあるスイカをスコープで覗きながら試射します。弾がスコープの照準と一致するようにスコープを2度調整し、炸裂弾を装填して最後の試射を行います。

照準から外れて左斜め下に着弾(左)  照準を調整するジャッカル(右)

 この時カメラの位置が変わり、的になるスイカの傍から見た位置になって、炸裂弾によりスイカは砕け散ります。炸裂弾の威力が、もの凄く強力な事を印象付ける演出です。

炸裂弾を銃に装填する(左)        砕け散るスイカ(右)

 フランスのルベル警視の依頼で調査を始めた英国特捜部長ブライアンは、英国外務部長ハリーと公園で会って噂になっている情報を聞きます。1961年にドミニカの独裁者トリヒーヨを暗殺したのは、英国人の犯行らしい事を知ります。兵器商の現地代表で名前はチャールズ・カルスロップと云い、射撃の名手で暗殺後行方不明になっている。フランス語でジャッカルのスペルは“CHACAL”で。チャールズ・カルスロップの名前の頭3文字を組み合わせると、合致するので彼がジャッカルだと告げられます。英国特捜部は、この情報を基に捜査をしてジャッカルは偽のパスポートで出国と判断し、死亡者名簿と突き合わせをしてポール・ダンカンと確定します。今だったらコピューターで直ぐ調べる事が出来ますが、全て人海戦術で人間が資料を1枚づつ調べて行きます。

手前が外務部のハリー、隣が特捜部のブライアン(左)
ハリーが新聞に”CHACAL”と書く(右)

 次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

『ジャッカルの日』 作品データ

イギリス・フランス 1973年 カラー 142分
原題:The Day of the Jackal

監督:フレッド・ジンネマン

製作:ジョン・ウルフ

原作:フレデリック・フォーサイス

脚本:ケネス・ロス

撮影:ジャン・トウニエ

編集:ラルフ・ケンプレン

音楽:ジョルジョ・ドルリュー  

出演:エドワード・フォックス、アラン・バデル 

   トニー・ブリットン、シリル・キューザック

   マイケル・ロンズデール、エリック・ポーター

   デルフィーヌ・セイリング、オルガ・ジョルジュ=ピコ

   デレク・ジャコピ、スキージャン・マルタン

   ミシェル・オークレール、モーリス・デナム

Vol.27 『ジャッカルの日』

 今回は、フレデリック・フォーサイス著「ジャッカルの日」を基に製作された『ジャッカルの日』で、監督フレッド・ジンネマンです。ドキュメンタリータッチな作風と、原作に忠実な演出で話題を呼びました。ジンネマン監督が描く主人公は、男の信念を貫く男が多いです。監督自身の分身を描いている様に思います。本作でも主人公のジャッカルは、最後まで自分の信念通して仕事に挑んでいます。

『ジャッカルの日』
発売元:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント

【スタッフとキャストの紹介】

フレッド・ジンネマン(1940年頃)

 ウィーン(オーストリア)生まれのフレッド・ジンネマン(1907年4月29日~1997年3月14日)は、代々医師のユダヤ系ドイツ人の家に生まれました。ウィーン大学在学中に映画界に憧れ、1927年にパリの映画撮影技術学校に入学して映画製作の基礎を学び、その後ドイツでカメラマンの助手になりますが、1929年アメリカに渡りハリウッドに行きます。大恐慌の最中カメラマンになれず、1930年の『西部戦線異状なし』でエキストラをやりました。チーフ助監督と喧嘩をしてクビになった後、ベルホルト・ヴィアテル監督の助手になります。その後、ジンネマンは記録映画監督ロバート・フラハティに申し出て助手になり、映画製作の多くを学びました。1933年、メキシコからの依頼で、ドキュメンタリー映画『波』を監督しました1936年ヘンリー・ハサウェイ監督の『永遠に愛せよ』で第二班監督になり、ウィリアム・ワイラー監督の『孔雀夫人』や1937年ジョージ・キューカー監督の『椿姫』の撮影に参加しました。

 1938年MGMと3年契約で一巻物の短編映画の監督をし、ジンネマンは多くの事を学びました。1941年にB級映画『Kid Glove Killer』で監督デビューし、1942年に『Eyes in the Night』を監督します。1944年にA級映画の『第七の十字架』を監督しましたが、会社側と衝突して再びB級映画に専門になります。何本か監督をした後、仕事を断り続けて停職処分になります。1947年に『山河遥かなり』の監督をしてアカデミー賞にノミネートされますが、ヒットにはなりませんでした。この映画は地味ながら良く出来た作品だと思います。機会を作って紹介します。その後、1952年に異色の西部劇『真昼の決闘』を監督し、この映画は大ヒットします。1953年には、アメリカ陸軍内部を暴くような問題作『地上より永遠に』を発表します。この映画も大ヒットし、監督として不動の地位を得ます。その後、1959年『尼僧物語』、1964年『日曜日には鼠を殺せ』と1966年『わが命つきるとも』では監督と製作をしています。1973年『ジャッカルの日』、1977年『ジュリア』、1982年『氷壁の女』(日本未発売)でも監督と製作をしています。ジンネマンの両親はアメリカへのビザを待っていましたが、1941年と1942年にホロコーストで亡くなっています。ジンネマンは知ったのは、戦後になってからでした。後年、ジンネマンはイギリスに移住していまして、1997年に心臓発作で亡くなりました。

ジャッカル役
エドワード・フォックス(37歳

 暗殺者ジャッカルを演じるのは、エドワード・フォックス( 1937年4月13日生まれ)は、ロンドンのシェルシー出身のイギリスの俳優です。父親のロビン・フォックスは俳優のエージェント、母親のアンジェラ・ワージントンは元女優で作家、弟のジェームズ・フォックスは俳優と芸能一家の長男として生まれました。フォックスは公立の男子寄宿学校“ハロー・スクール”で教育を受け、徴兵制によりロイヤル連隊に入隊して満期完了しました。

 フォックスは1958年に劇場デビューし、1960年代は主に舞台に出演してハムレット役を演じていました。1962年にはエキストラで映画デビューし、1963年『孤独の報酬』にノン・クレジットで出演しました。1967年『裸のランナー』、1969年『素晴らしき戦争』『空軍大戦略』と出演し、1971年の『恋』では英国アカデミー賞助演男優賞を受賞しています。1973年の『ジャッカルの日』で頭脳明晰で冷酷非情な暗殺者ジャッカルを見事に演じています。主役はこの映画だけですが、1977年『遠すぎた橋』、1978年『ナバロンの嵐』、1980年『クリスタル殺人事件』、1982年『ガンジー』、1983年『ネバーセイ・ネバーアゲイン』、1995年『湖畔のひと月』等に出演しています。

ルベル警視役
マイケル・ロンズデール(40歳)

 ルベル警視役のマイケル・ロンズデール{1931年5月24日~2020年9月21日)は、パリ出身のイギリス系フランス人俳優で舞台演出家です。1955年「喝采」で舞台デビューし、1956年に『C‛est arrive å Aden 』に出演して映画界入りしました。1962年『審判』、1963年『日曜日には鼠を殺せ』、1966年『パリは燃えているか?』、1968年『黒衣の花嫁』名地に出演し、1972年の『ジャッカルの日』のクロード・ルベル警部役で世界的に注目を浴びました。1974年『薔薇のスタビスキー』、1976年『パリの灯は遠く』、そして1979年『007 ムーンレイカー』のサー・ヒューゴ・ドラックス役で世界的に有名になりました。1958年よりテレビ映画にも出演し、1974年には舞台演出家としても活動を開始して、演奏会の語り役やラジオ劇や朗読テープ(CD)も多数録音しています。その後、1986年『薔薇の名前』、1993年『日の名残り』、1995年『とまどい』、1998年『RONIN』、2006年『宮廷画家ゴヤは見た』、2009年『アレクサンドリア』等に出演し、2010年『神々と男たち』でセザール賞の助演男優賞を受賞しました。2020年9月21日、パリの自宅で死去したことを代理人から発表されました。89歳没、死因は明らかにされていません。

ゴッツィ役
シリル・キューザック(63歳)

 銃職人(ガン・スミス)のゴッツィ役のシリル・キューザック(1910年11月26日~1993年10月7日)は、南アフリカのナタール州ダーバン生まれのアイルランドの俳優です。キューザックの幼児期に両親が離婚した為、女優だった母親とイギリスに渡り、その後アイルランドに移りました。母親はブレフニ・オロークと再婚し、二人で舞台に出ていました。又、キューザックは7歳で舞台デビューしました。彼はキルデア州ニューブリッジのニューブリッジ・カレッジで学び、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンで法律を学びましたが、学位を取得せずに中退しました。1932年にアベイ座に加入して1945年まで60以上の公演に出演しました。1947年にキューザックは自身の会社、シリル・キューザック・プロダクションズを設立して、ダブロン、パリ・ニューヨークで作品を上演しました。1963年にロンドンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーに加入し、数シーズンにわたって出演しました。1963年にはテレビ映画の「三連祭壇画」での演技でジェイコブス賞を受賞しました。

 キューザックは8歳の時に、1918年『ノックナゴウ』で映画デビューしていました。1947年『邪魔者を消せ』、1950年『女狐』、1958年『ギデオン』、1965年『寒い国から来たスパイ』、1966年『華氏451』、1971年『死刑台のメロディ』、1973年『ジャッカルの日』等に出演しました。1977年にアイルランド語映画『ポイティン』で主役を演じ、1981年『告白』、1984年『1984』、1989年『マイ・レフトフット』等に出演しました。1993年110月7日に運動ニューロン病の為、ロンドンの病院で82歳で亡くなりました。

フレデリック・フォーサイス(34歳)

 原作者のフレデリック・フォーサイス(1938年8月25日生まれ)はイギリスの作家で、スパイ小説や軍隊に関する小説を多数著作しています。1956年から1958年までイギリス空軍に入隊し、除隊後イースター・ディリー・プレスのレポーターになり、1961年からロイター通信社の特派員となりパリ・東ベルリン・プラハで勤務します。1965年BBC放送に転職して1967年にナイジェリアの内戦取材の為、特派員をして現地入りします。この内戦はビアフラ独立の為の戦争で、彼はビアフラ養護の報道をする為、イギリス政府の方針に反対するものだったので特派員を解任されます。1970年パリでシャルル・ド・ゴール大統領の番記者をしている時に、大統領警護員から見聞したエピソードを基に、大統領暗殺未遂事件を小説にしたのが『ジャッカルの日」です。小説は各国で大ヒットし、彼は作家としてデビューします。1973年頃は、イギリスのMI6の協力者として仕事をしています。1972年にナイジェリア内戦で敗れたビアフラ人の為、彼は自費で傭兵部隊を雇い赤道ギニア共和国に対し政権転覆のクーダターを企てます。しかし、買収していたスペインの役人の裏切りにより、傭兵の隊長がスペインで拘束されて失敗します。この話を基に書かれた小説が「戦争の犬たち」です。その後、映画化された「第四の核」等多数の小説を発表しています。

次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.26 『Tメン』の続き

アメリカ財務省(左)  エルエルエルマー・L・アイリー前管理者(右)

 題名で使われている“Tメン”は、“TAX MAN”の略称で、アメリカ財務省の特別税務捜査官の事です。映画は、アメリカ財務省の前管理官エルマー・L・アイリーが組織構成と業績を語るシーンから始まります。この冒頭のシーンから分かるように、財務省の活動を映画でアメリカ国民に周知させる目的で作られたようです。この映画は実話に基づいた映画で、アル・カポネ逮捕以来の大事件である「上海の紙」事件を扱ったものです。偽札偽造団一味を逮捕する為に二人の捜査官が悪の組織に入り込み、黒幕を逮捕するまでの活躍を描いています。アンソニー・マン監督は、ドキュメンタリー・タッチで見事なサスペンス映画に仕上げています。

殺し屋モクシー(左)    偽札を持ち去るモクシー(右)

 本編の冒頭で、偽札を入手した情報提供者が捜査官に偽札を渡す為に現れますが、殺し屋モクシーに射殺され偽札は持ち去られます。銃声を聞いて捜査員が駆け付けた時には、犯人は車で逃げ去ってしまいます。フイルム・ノアールの香りタップリの冒頭シーンです。

図書館でギャングの歴史を学ぶデニスとトニー(左)
公園で記憶の確認をするデニスとトニー(右)

 ロサンゼルスで大量に発見された偽札に、デトロイトのイタリアン・マフィアのヴァントゥッチが関与していると睨み捜査を開始します。潜入する捜査官にデニス・オブライアンとトニー・ジェナーロの二人が選ばれ、デトロイトから捜査を始める事になります。二人はデトロイト・ギャングの歴史を調べ上げ、リバーギャングの事を徹底的に頭に叩き込みます。この辺の展開はテンポも良く、時折入るナレーションでドキュメンタリー・タッチが際立ちます。

ホテルに宿泊予約する二人(左)  ヴァントゥッチ(右)

 二人は偽名でイタリアン・マフィアに通じるホテルに泊まり、地元警察との連携でホテルの主人に逃亡犯だと信じ込ます事に成功します。ホテルの主人の紹介でイタリアン・マフィアのヴァントゥッチに会い、部下となってロサンゼルスに乗り込みます。

シアーノとデニス(左)  
左からトニー、デニス、ポール・スミス、シアーノ(右)

 ヴァントゥッチの紹介でロサンゼルスのジル・シアーノに会い、彼の仲間に加わります。二人は偽札作りに関する手掛かり捜しをし、調査の結果スキーマーと云う男を探し始めます。

スキーマーの作業着を持ち出すデニス(左)
連絡員から報告を受けるデニス(右)

 スキーマーの作業着を工場から持ち出し、本部に送って調べて貰います。その結果、予測される年齢・身長・体重の他に、強い葉巻を好み中国漢方を常用していて、左肩に傷がある男と報告されます。デニスがこの報告を受けるシーンは、今ではお馴染みのやり方ですが良いシーンですね。

薬局で聞き込みをするデニス(左) サウナでスキーマーを見付ける(右)

 デニスは早速薬局周りを始めますが、手掛かりを掴めずにいた時にサウナ好きの男の情報を得ます。それからデニスは、10日間サウナに入りながら遂にスキーマーを見つけ出します。

ロサンゼルス支局で偽札を受け取るデニス(左)
賭博場でスキーマーに出会う(右)

 それからスキーマーを尾行し続けて、秘密の賭博場でわざと偽札を使ってスキーマーに紙幣偽造関係者である事を分からせます。ここで賭博場の男たちに痛めつけられます。その後、デニスはスキーマーの部屋に押し入って、自分が彫刻された偽札の原版を持っている事を告げ、手を組む事になります。

ヴァントゥッチ に激しく詰問される
トニー

 一方トニーは、デニスが急にいなくなったので、一味の連中に彼の行き先や理由を問いただされます。終始「分からない」と答え続けましたが、殺すと脅されて「トニー・ロッコから逃げる為」と言うと ヴァントゥッチ は納得します。

スキーマーを罠に掛ける二人(左)
サウナでトニーに自分を売り込むスキーマー(右)

 それから二人はスキーマーを罠に掛け、トニーはスキーマーと親密になります。そして、スキーマーが周りで起きた犯罪の全てを書いた手帳を隠している事を知ります。

町中で偶然メアリーと出会う
トニーとスキーマー

 しかし、スキーマーと町中を歩いていた時にトニーの妻の友人に会い、その友人は傍にいた妻のメアリーに知らせます。トニーもメアリーも間違いだと言ってその場を去りますが、スキーマーは感付いてしまいます。ジョーン・ロックハートの戸惑った表情とトニーの表情、そしてスキーマーとの三者三様の演技が良いですね。

スキーマーの部屋で手帳を探すトニー(左)
撃たれながらもデニスを罵るトニー(右)

 デニスは偽札の原版と紙の相性を見る為に偽札偽造一味から偽札用の紙を入手し、本部で印刷された裏面だけの偽札1枚を受け取り、残りの紙は分析されます。一味に印刷した偽札を見せて取引交渉を進めますが、トニーの身元がバレた事をデニスは知ります。スキーマーが抹殺され持ち物の中に手帳が無かったので、敵に身元がバレたトニーはスキーマーの部屋で手帳を探します。スキーマーの部屋に一味と同行させられたデニスは、部屋で物色中のトニーに会います。話す間も無く、トニーはモクシーに銃で撃たれます。その時トニーはデニスに向かって、「お前は一流の詐欺師」だと罵って死んでゆきます。最後まで相棒の捜査官を守る言葉を吐き、任務遂行の為に命を落とします。

 これからデニスは一人で敵に立つ向かう事になりますが、一味の鑑定士ポール・スミスは、デニスの持っている原版が造幣局のものだと見抜く人間なので、デニスにその事を知らせる為に捜査官を送ります。伝言が書かれたメモの受け渡しは、デニスと捜査官の突然の殴り合いから始まり、二人が倒れて揉み合っている時に行われます。

隠した原版を取ろうとするデニス

 部屋に戻って伝言を見たデニスは、一味の男から声を掛けられ咄嗟にメモを口に入れてガムを噛むような真似をします。デニスは原版を隠した洗面台に向かいますが、一味の一人が髭を剃ってその場を動きません。仕方なく男に近寄って行き、手を洗い出します。この時カメラは洗面台の下が映る位置にあり、一度・二度とデニスが原版を取ろうとする所を写します。二度目に原版を取って上着のポケットに入れます。何んとかその場から逃げようとするデニスを、一味はボスがいる船に連れて行きます。その船の中には印刷所があり、偽札はそこで作られています。

 船に着いたデニスは、殺しがあったから取引の中止を訴えますが聞き入れられません。敵の手に渡った原版の表面を別室にいるボスが見て、造幣局の原版だと言います。デニスは時間稼ぎの為に、鑑定士のポール・スミスを呼ぶように要求します。一方、デニスの消息が分からなくなった財務局の管理官は、ポール・スミスを見張っていました。一味からの連絡でポール・スミスが動き出したので尾行しますが、途中で尾行不可能になります。

初めて見る原版だと嘘を言うポール・スミス(左)
政府の証人になると言うポール・スミス(右)

 ポール・スミスが船に到着し、原版を見て思いもよらない事を言います。「初めて見る素晴らしい原版だ」と言い、デニスを連れて印刷しに行きます。その後、甲板に出て、「この仕事から足を洗いたいので、政府の証人になる」と言い出します。その直後、ポール・スミスはモクシーに後ろから銃で撃たれて殺害されます。

銃弾を受けながら撃ち返すデニス

 一味の男は丸腰のデニス目掛けて発砲してきます。逃げ回りながらポール・スミスの銃を手に取り撃ち返します。 一味の男 が撃っていた銃が弾切れしますが、別の銃を取り出して撃ち始めます。デニスは立ったまま悠々と歩きながら、撃ち返します。 一味の男 の銃弾が1発デニスに当たりますが、ゆっくりと歩き出して撃ち返し、 一味の男 を倒して自分も倒れ込みます。この銃声を聞きつけて財務局を始め、指令で駆け付けた警官隊などが船に乗り込んで来て一味を全員逮捕します。画面が変わって事件のその後が明かされ、デニスとトニーの妻のメアリーの事が語られます。

 この映画は脚本がよく練られていていますし、場面ごとの台詞も素晴らしいです。特に、一味に潜入した捜査官である事を悟られないようにする受け答えが素晴らしいです。映画はストーリーが解ればそれで満足する方が大半かと思いますが、場面ごとの監督の演出や俳優さんの演技を観るのも楽しいと思います。カメラマン上がりのアンソニー・マン監督は、カメラを少し低い位置に置いて少し見上げるような撮り方をしています。この撮り方が、映画全体に緊張感を醸し出していると思います。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

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発行:コスミック出版

『Tメン』 作品データ

アメリカ  1947年 モノクロ  96分

原題:T-MEN

監督:アンソニー・マン

製作:オーブリー・シェンク

原案:ヴァージニア・ケロッグ

脚本:ジョン・C・ヒビンズ

撮影:ジョン・アルトン

音楽:ポール・ソーテル

出演:デニス・オキーフ、メアリー・ミード

   アルフレッド・ライダー、ウォーリー・フォード

   ジューン・ロックハート、チャールズ・マッグロー

Vol.25 『Tメン』

『Tメン』
発行:ブロードウェイ社

 今回はアンソニー・マン監督の『Tメン』です。1940年代は本作のようなフイルム・ノアールを撮り、1950年代には多くの西部劇を撮っています。特にジェームズ・スチュアートと撮った西部劇はヒット作が多く、彼が撮った西部劇は全部大好きです。前回登場したアーサー・ケネディはジェームズ・スチュアートの敵役を好演しています。アンソニー・マン監督の演出は、非常に丁寧ながら一味違ったもので緊張感の高め方は素晴らしいです。

【スタッフとキャストの紹介】

アンソニー・マン(1952年頃)

 アンソニー・マン(1906年6月30日~1967年4月29日)は、カリフォルニア州サンディエゴ生まれのアメリカの映画監督、舞台俳優でした。マンが3歳の時に両親は父の治療の為、オーストリアに移ります。マンはサンディエゴ群のロランドに残され、14歳になるまで両院は戻って来ませんでした。1917年マンの家族はニューヨークに移住し、演技に興味を持つようになります。ユダヤ人コウミュニティ・センターで演技を続け、ニューアークのセントラル高校でも舞台に出演していました。1923年に父が亡くなった為、家族の生計を立てる為に高校3年生の時に中退してニューヨークに戻ります。彼は夜景の仕事に就き、日中は舞台の仕事を探していました。数か月後、グリニッジ・ヴィレッジのトライアングル・シアターでフルタイムの仕事に就きます。1925年から舞台に出演し。1929年にはブロードウェイの舞台にも出演しました。1930年に彼はシアター・ギルドでプロダクション・マネージャーなり、最終的には演出家となりますが、演技は続けていました。1937年にセルジニック・インター・ナショナル・ピクチャーズでタレント・スカウト兼キャスティング・ディレクターをして、多くの映画のスクリーン・テストを行いました。数か月後、彼はパラマウント・ピクチャーに移り、助監督になります。1941年の『サリヴァンの旅』でブレストン・スタージェス監督の助監督になり、監督から多くの事を学びました。助監督を3年務めた頃、友人のマクドナルド・キャリーの推薦で1942年の『ドクター・ブロードウェイ』で監督デビューします。1943年『ムーンライト・イン・ハバナ』を監督し、1944年8月ブロードウェイで「子供のための鏡」の演出をしました。1944年に『夜のストレンジャー』、1945年に『たそがれの恋』と監督し、RKOに移って1946年『午前2時の勇気』、リパブリック・ピクチャーズで1946年『仮面の女』、RKOで『バンブー・ブロンド』を監督しました。1947年に『必死の逃避行』『Tマン』『偽証』、1948年に『脱獄の掟』を監督しました。映画評論誌“ハリソンズ・リポート”は、マンの演出を「テンポが速くアクション満載で、張り詰めた演出が興奮とサスペンスを絞り出している」と評論しています。『Tマン』について調べている時に国境警備隊員の事を知り、『国境事件』の脚本が出来て1949年にマンが監督をしました。

 1950年はマンにとって大きな転換期になります。この後の10年間で合計10本の西部劇を監督していますが、そのうちの3本は1050年に公開されています。ロバート・テーラーが先住民を演じる『流血の谷』『ウィンチェスター銃`73』『復讐の荒野』と3本とも素晴らしい映画です。

そして、マンが監督した『サイド・ストリート』は最後のフィルム・ノワールとなりました。『ウィンチェスター銃`73』の成功で、コロンビアはアソニー・マンとジェームズ・スチュアートのコンビで映画を製作します。1951年『怒りの河』、1953年『裸の拍車』、1954年『グレン・ミラー物語』『遠い国』、1955年『ララミーから来た男』『戦略空軍命令』と映画は制作されました。それからマンは様々な映画会社で監督をしました。1955年『シャロン砦』、1956年『愛のセレナーデ』、1957年『最前線』『胸に輝く星』、1958年『西部の人』、1960年『シマロン』・1961年『エルシド』『ローマ帝国の滅亡』、そして最後の作品1968年『殺しのダンディ』では監督と製作をしました。マンの映画に登場する主人公はアンチ・ヒーローが多く、過去に罪を犯していたり問題を抱えています。マンと出会って、ジェームズ・スチュアートは今までと違ったキャラクターを演じるようになりました。マンの映画はロケーション撮影が多いです。自然の風景の中で俳優を撮影する事によって、アクションや演技を強化する事が出来ると語っていました。1967年4月29日、マンはホテルの部屋で心臓発作で亡くなりました。

デニス・オブライアン役
デニス・オキーフ(39歳)

 デニス・オキーフ(1908年3月29日~1968年8月31日)は、アイオワ州フォート・マディソン生まれのアメリカの俳優、脚本家です。両親がアイルランド系のヴォードヴィリアンでしたので、彼は両親のヴォードヴィルに参加し、後に舞台用の寸劇の脚本を書いていました。オキーフは南カリフォルニア大学に通いましたが、父親が亡くなった為に大学2年生の途中で退学しました。父親の死後数年間は、父親のヴォードヴィルを引き継いで続けました。1931年からはバド・フラナガンの名前で、多くの映画にエキストラとして出演しました。1937年クラーク・ゲーブルの推薦でMGMと契約し、デニス・オキーフと改名しました。1938年にウォーレス・ビアリー主演の『ザ・バッドマン・オブ・ブリムストーン』に出演し、その後主に低予算映画に出演しました。オキーフはアクション・ドラマや犯罪ドラマでタフガイ役が多かったですが、シリアスな役もコミカルな役も演じました。1940年『囁きの木陰』、1941年『彼女はゴースト』、1942年『レオパルドマン豹男』、1943年『死刑執行人もまた死す』、1943年の『軍医ワッセル大佐』ではコメディ・スターとして注目されました。1944年『ニューヨークの饗宴』、1950年『鷲と鷹』『六人の脱獄囚』、1954年の『灰色のダイヤ・対決!暗黒組織』では監督・出演しました。その後、1957年『ドラゴン砦の決戦』、1961年『七面鳥艦隊』に出演しました。

 1950年、CBSのラジオ番組「Tメン」に出演したり、いくつかの番組の演出をしたりミステリー小説を書いていました。1950年代には多くのテレビ番組にも出演し、1959年には「デニス・オキーフ・ショー」で主役を務めていました。又、1940年代後半から1960年代にかけてジョナサン・リックのペンネームで脚本を書いたり、1960年代にはアル・エレヴェレットのペンネームで脚本を書いていました。オキーフは1968年にカリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョンズ病院で、肺癌で亡くなりました。60歳でした。

トニー・ジェナード役
アルフレッド・ライダー(31歳)

 アルフレッド・ライダー(1916年1月5日~1995年4月16日)は、アメリカのテレビ、舞台、ラジオ、映画の俳優兼監督です。ライダーは8歳で演劇を始め、後にアクターズ・スタジオで演劇を学び終身会員になりました。彼はブロードウェイの舞台に出演したり、15年続いたラジオ番組の「イージー・エース」にも出演していました。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空軍に所属し、空軍のブロードウェイの舞台や1944年の『有翼の勝利』に出演しました。そして、パラマウントと契約して1946年の『Tメン』に出演しました。

 ハムレット役に拘っていたライダーは、アメリカン・レパートリー・シアター、フォローアップ劇団、マーガレット・ウェブスター・シェイクスピア・カンパニーでハムレット役を演じてツアーに参加しました。最後にアクター・スタジオでもハムレット役を演じています。1950年代はブロードウェイの舞台に出演し続け、テレビにも出演していました。1961年のブロードウェイ舞台劇「遠い国」の監督をしました。1964年にシェイクスピア・イン・ザ・パークで待望のハムレットを演じますが、初日の翌日に役を降ろされます。

 ライダーはアクターズ・スタジオの監督として、UCLAのシアター・グループの演出をしたり、米国政府の教育研究所劇場プロジェクトやロサンゼルス・フリー・シェイクスピア・フェスティバルの芸術監督をしました。1960年代はテレビのゲスト・スターとして、「ワイルド・ウエスト」、「0011ナポレオン・ソロ」等多くの作品に出演していました。「インベーダー」の2シーズンではエイリアンのリーダーのネクサスを演じていました。1961年にブロードウェイで「サイ」が公演された時に、イーライ・ウォラックの代役でベレンジャーを演じました。1969年『勇気ある追跡』に出演し、1979年にテレビのトーク・ショー「ミーティング・オブ・マインズ」の2エピソードの共同監督をしています。ライダーはニュージャージー州のアクターズ・ホームに移り住み、1995年に肝臓癌で亡くなりました。

メアリー・ジェナード役
ジューン・ロックハート(22歳)

 ジューン・ロックハート(1925年6月25日)は、ニューヨーク州ニューヨーク市生まれの引退した女優です。両親が俳優だったロックハートは8歳で舞台デビューし、メトロポリタン歌劇場の「ピーター・イベットソン」に出演しました。彼女は、カリフォルニア州ビバリーヒルズのウエストレイク女子学校に通いました。彼女は1938年『クリスマス・キャロル』で両親と共演して、映画デビューしました。1940年『凡てこの世も天国も』、1941年『ヨーク軍曹』、1944年『若草の頃』で脇役を演じ、1945年『名犬ラッシー/ラッシーの息子』で主役を演じるようになります。1946年『謎の狼女』・「小鹿物語」、1963年『名犬ラッシーの大冒険』、1998年『ロスト・イン・スペース』に出演しました。1986年の『トロル』では、彼女の娘のアン・ロックハートと同じ役を年代を分けて共演しています。

 1955年にはアメリカCBSで放送されたアンソロジー・テレビ番組の「アポイントメント・ウィズ・アドベンチャー」や単発ドラマ番組の「ウェスティングハウス・スタジオ・ワン」に出演していました。又、NBCの法律ドラマ「ジャスティス」やCBSの「プレイハウス90」にも何度か出演しています。1950年代後半からは、「西部のパラディン 」、「幌馬車隊」、「ローハド」などにゲスト出演していました、1958年「名犬ラッシー」、1963年「ジェネラル・ホスピタル」、1965年「宇宙家族ロビンソン」、1968年「ペチコート大作戦」ではレギュラー出演しています。1960年代以降も「ペリー・メイスン」、「奥様は魔女」、「0011ナポレオン・ソロ」、「じゃじゃ馬億万長者」、「ハッピーデイズ」、「ベガス」、「Dr.刑事クインシー」、「ビバリーヒルズ高校白書」等、多くのテレビ番組にゲスト出演しています。2013年アメリカ航空宇宙局(NASA)は、宇宙探査について一般の人々を鼓舞したとして、ロックハートに“Exceptional Public Achievement Medal”を授与しました。

スキーマー役
ウォレス・フォード(49歳)

 ウォレス・フォード(1898年2月12日~ 1966年6月11日)は、イングランドのランカシャー州ボルトンで生まれ帰化したアメリカのヴォードヴィリアン、舞台俳優、映画俳優です。彼の本名はサミュエル・グランディですが、1942年5月8日に帰化して法的に名前をウォレス・フォードに改名しました。彼の家庭が貧しかった為に叔父と叔母に預けられていましたが、彼が3歳の時にバーナルド孤児院に入れられました。彼が7歳の時に同じ様な境遇の子供達は、大英帝国の政策によってカナダの農家の里親に送られました。サミュエルはマニトバ州の家族の養子なりますが、虐待を受けて何度も家出をしては当局によって連れ戻されていました。かれが11歳の時に最後の家出をして、ウィニペグ・キディーズと呼ばれるカナダをツアーするヴォードヴィルの劇団に入り、パフォーマーとしての訓練を受けました。1914年劇団を辞めて、16歳のサミュエルともう一人の若者、ウォレス・フォードは、貨物列車に無賃乗車で乗り込み南アメリカを目指します。その旅行中にフォードは列車の車輪の下で死亡しました、その後、サミュエルは芸名をウォレス・フォードに改名しました。

 第一次世界大戦中にカンサス州フォート・ライリーでアメリカ騎兵隊に入隊して従軍した後、アメリカの証券会社でヴォードヴィルの舞台俳優になりました。1919年に舞台劇「セブンティーン」に出演し、シカゴで数か月間上演さ、その後ニューヨークのブロードウェイの公演も成功しました。そしてブロードウェイの大ヒット作「アビーのアイルッシュローズ」で主役を演じ、他のブロードウェイの舞台にも出演しました。1938年にはジョン・スタインベック原作の舞台劇「廿日鼠と人間」でも主役を演じています

 映画では1931年の『蜃気楼の女』でクレジット・デビューし、1932年には『フリークス』で主役を務めました。1930年代と1940年代にはハリウッドのB級映画で主役を演じたり。長編映画の脇役を演じていました。1934年『肉弾鬼中隊』、1936年『俺は善人だ』、1935年『男の敵』、1941年『暴力街』、1942年『疑惑の影』、1943年『ベラ・ルゴシの猿の怪人』、1945年『白い恐怖』、1947年『Tメン』『魔法の町』『大いなる別れ』、1947年『罠』、1950年『ハーヴェイ』等に出演しました。1940年代後半から1950年代初頭にかけて性格俳優に転身し、当時人気が出て来た西部劇に出演するようになりました。1951年『インディアン征路』、1954年『テキサスの白いバラ』、1955年『ララミーから来た男』、1959年『ワーロック』に出演しました。1959年にはテレビ映画の「胸に輝く星」にレギュラー出演していました。1965年『いつか見た青い空』のオーレ・パ役の演技は、フォードのキャリアを締めくる作品になりました。フォードは1962年にカリフォルニア州ウッドランドヒルズのモーション・ピクチャー・アンド・テレビジョン・カントリー・ハウス・アンド・ホスピタルで心不全で亡くなりました。

殺し屋モクシー役
チャールズ・マッグロー(33歳)

 チャールズ・マッグロー(1914年5月10日~1980年7月29日)は、アイオワ州デモイン生まれのアメリカの舞台、映画、テレビの俳優です。彼は後に両親と共にオハイオ州アクロンに引っ越し、1932年アクロンの高校を卒業し、大学に入学して1学期を過ごします。マッグローは、貨物船の作業員やナイトクラブでダンサーをしていました。又、劇場のロードカンパニーで活躍し、数十のオフ・ブロードウェイの作品に出演しました。

1942年『不死の怪物 』でノン・クレジットで映画デビューしました。1943年『カレー大空襲』『駆逐艦ジョーンズ』『駆潜艇K-225 』、1944年『第七の十字架』とノン・クレジットで出演しています。1946年フィルム・ノワールの『殺人者』の殺し屋役でクレジット・デビューします。1947年『ミネソタの娘』『真夏の暴動』『ギャングスター』『Tメン』、1948年『ベルリン特急』『月下の銃声』、1949年『秘密指令』『国境事件』、1950年『サイド・ストリート』とノン・クレジットも含めて出演し。1952年『その女を殺せ』では主役を演じています。その後、A級映画にも出演するようになり、1954年b『トコリの橋』、1958年『全巻発進せよ』『手錠のまゝの脱獄』・『ロケット・パイロット』、1960年『スパルタカス』、1963年『鳥』『おかしなおかしなおかしな世界』、1967年『冷血』、1968年『奴らを高くつるせ』、1971年『ジョニーは戦場へ行った』、1977年『合衆国最後の日』等に出演しました。

 マッグローは、1949年3月13日のノワール風ラジオ番組『パット・ノヴァク・フォー・ハイヤー』等のラジオ番組に出演しています。又、1954年から「アドベンチャーズ・オブ・ザ・ファルコン」で主役のマイク・ワーリング役を演じ、1955年『カサブランカ』ではリック・ブレイン役を演じました。その他、「ボナンザ」、「ガンスモーク」、「保安官ワイアット・アープ」、「アンタッチャブル」等にゲスト出演しました。1980年7月29日、カリフォルニア州スタジオ・シティの自宅のバス・ルームで転倒して、ガラスのドアを破損して腕などに多くの傷を負い上腕動脈を切断する事故で、出血多量の為に死亡しました。

エヴァンジェリン役
メアリー・ミード(24歳)

 メアリー・ミード(1923年11月24日~2003年12月10日)は、ルイジアナ州生まれのアメリカの映画女優です。1945年『ワンダーマン』でゴールドウィンガールとして出演し、1947年『Tメン』、1948年『IN THIS CORNER』に出演しています。1949年パリでテッド・グルーヤと結婚し、1951年“カジノ・ド・パリ”やロンドンの”ピガール・クラブ“で「ゲイ・パリ」で公演していました。その後、アメリカに戻って”ウォールド・アストリア・ホテル“等の会場で講演しました。本編は次回に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。

Vol.24 『窓』の続き

皆に作り話をしているトミー(左)
嘘をつくのをやめるように云う両親(右)

 映画の舞台は、ニューヨークのイースト地区の古いアパートです。そこに住むボビー・ドリスコル扮するトミー少年は、日常的に周りの人間に作り話をする嘘つき少年です。自分が思いついた事を直ぐ口に出して嘘をつきますが、本人はそんな話を誰も信じないと思っています。そんな嘘話からアパートを追い出せれそうになり、両親はウンザリしながらも父親はトミーに嘘を言わないように言い聞かせます。出ずっぱりのボビー・ドリスコルの演技は、自然で本当に上手いです。表情、特に目の表情がとても良いと思います。

5階の非常階段で寝るトミー(左)   窓から覗くトミー(右)

 暑く寝苦しいある夜、トミーは窓から出て4階の非常階段で寝る事にしますが、5階の方が涼しそうなので寝場所を変えます。寝付けずにいると5階のケラーソン夫妻の部屋から物音がするので窓から覗いてみると、3人が争っていて一人の男が倒れました。その男の背中に血痕があり、続いてハサミが床に落ちます。画面はトミー少年が見たままを映し出していて、観客は彼と共に殺人を目撃します。昨今の映画の様に全て映像で魅せるよりもリアル感があると思います。

殺害されて床に倒れた男(左)   ケラーソン夫妻(右)

 殺人を目撃した事を直ぐ母親に話しても相手にされず、翌朝父親に話しても信じてもらえず、夢だったんじゃないかと言われてしまいます。母親はトミーに外出しないで部屋にいるように言いますが、トミーは窓から抜け出して警察署に行きます。

警察署で殺人目撃を伝えるトミー(左)
ケラーソン夫妻の部屋を調べる刑事(右)

 警察でも本気で相手にしてくれませんでしたが、トミーを納得させる為に刑事が同行して帰宅します。刑事は直ぐ署に帰ろうとしますが、思い止まって念の為5階のケラーソン夫妻の部屋を訪問します。勿論刑事とは名乗らず、アパート改修工事の見積もりに来たと言い、部屋を隈なく調べます。殺人現場の部屋の床には不審な染みがありますが、天井から落ちてきたものによって出来た様に見えます。刑事は何も手掛かり無しの状態で、署に帰り報告します。

トミーを連れ出すケラーソン夫妻

 母親はケラーソン夫妻に迷惑を掛けたと思い、嫌がるトミーを連れて謝罪に行きます。それによってケラーソン夫妻は、トミーがどこまで知っているか確かめる作戦を立て始めます。父親は夜勤の仕事で夜は不在で、タイミング良く母親の姉の病気が悪化して母親が出掛ける事になります。ケラーソン夫妻は、このチャンスを逃さず行動を開始します。ここから抜け目のないケラーソン夫妻と12歳のトミー少年の攻防が始まります。逃げ惑うトミーの子供らしい行動と、ケラーソン夫妻の追跡はハラハラ・ドキドキの連続です。

警察官に助けを求めるトミー

 ケラーソン夫妻にアパートから連れ出されたトミーは隙を見て逃げ出しますが、二人に捕まりタクシーでアパートに連れ戻されます。途中で見かけた警察官にトミーは助けを求めますが、ケラーソン夫妻に警察官は丸め込まれてしまいます。トミーはタクシーの中で気絶させられ、アパートに連れ戻されます。その頃父親もトミーの事が心配で会社を早く退社してアパートに戻ります。ここでのケラーソン夫妻と父親の行き違いが絶妙に演出されています。

5階の手すりに座らされたトミー(左)
警察官に行方不明の息子の話をする父親(右)

 ケラーソン夫妻は、気絶をしたトミーを5階の非常階段の手すりに座らせてトミーが自然に落ちる様にします。女がそれを止めさせようとした時、男と揉み合いになった隙に気絶をした振りをしていたトミーは屋根に向かって逃げ出します。一方父親はトミーの置手紙を見て5階のケラーソン夫妻の部屋を探したりします。そして、外にいた警察官に子供が行方不明だと伝え、捜索を手伝って貰います。

ケラーソンの追跡から隠れるトミー

 屋根に逃げたトミーを執拗に追いかけるケラーソン夫妻、光と影の素晴らしいカメラ・ワークで息を呑むシーンが続きます。トミーは何とか建物の中に逃げ込みますが、ケラ-ソン夫妻はじわじわと迫って来ます。トミーは5階から3階と逃げて行きますが、崩壊して階段が無い3階に追い込まれます。途中建物の一部が崩れ落ちる場面では、瓦礫や梁が落ちてくる処を下からカメラで捉えているので迫力があります。

梁の上に追い込まれたトミー

 追い詰められたトミーは柱が無くなった一本の梁に逃れます。ケラーソンはトミーを落とそうと迫って来ます。トミーの機転でケラーソンは梁ごと落ちてしまいます。しかし、内部が倒壊しそうな建物で、トミーが掴まっている梁も落ちそうな状態です。

梁に掴まっているトミーを見上げる両親(左)
マットに飛び降りたトミー(右)

 梯子を用意する猶予もありませんので、警官隊は円形のマットを持って飛び降りるように言います。トミーは勇気を出して飛び降りて、無事救助されます。トミーは両親に、もう作り話はしないと誓います。

良い子になったトミー

 こんな素晴らしい作品が埋もれてしまうのは、とても残念です。『窓』は、コスミック出版の下記のDVD10枚セットに入っています。このセットにはサスペンス映画の傑作・佳作が満載のセットでお勧めです。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

「サスペンス映画コレクション 名優が演じる 戦慄の世界」
『Tメン』,『窓』,『生まれながらの殺し屋』,『上海ジェスチャ』が
入っているのお得なDVD10枚セット発行:コスミック出版
発行:コスミック出版 2020年6月9日発売

『窓』 作品データ

1949年製作 アメリカ モノクロ 73分
原題:The Windo

監督:テッド・テズラブ

製作:フレデリック・ウルマン・ジュニア

原作:コーネル・ウーリッチ

脚色:メル・ディネリ

撮影:ウィリアム・スタイナー

音楽:ロイ・ウェッブ

出演:ボビー・ドリスコル、バーバラ・ヘイル

   アーサー・ケネディ、ポール・スチュアート

   ルース・ローマン、アンソニー・ロス

Vol.23 『窓』

 今回はサスペンス映画『窓』です。監督はテッド・テズラブ、主演はウォルト・ディズニーがお気に入りだったボビー・ドリスコルです。

『窓』
発行元:ブロードウェイ

【スタッフとキャストの紹介】

 テッドテズラフ(1903年6月3日~1995年1月7日)は、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の映画監督です。1926年からカメラマンになり、1931年『光に叛く者』、1935年『ルムバ』、1936年『襤褸と宝石』、1938年『トム・ソーヤの冒険』、1942年『晴れて今宵は』『奥様は魔女』、1946年『汚名』等の撮影をしました。テズラブは第二次世界大戦中にアメリカ陸軍少佐として従軍した後に1947年の『パナマ・ギャング戦争』から監督になります。1948年『孤児(みなしご)』、1949年『窓』、1950年『白銀の嶺』、1955年『四十人の女盗賊』等を監督しました。本作では俯瞰撮影や影を上手く使った撮影等、サスペンス映画に欠かせないショットと編集で緊張感を盛り上げています。

トミー・ウッドリー役の
ボビー・ドリスコル(12歳)

 ボビー・ドリスコル(1937年3月3日~1968年3月30日頃)は、アメリカ合州国アイオワ州シーダーラピッズ生まれの俳優です。ボビーが誕生して間もなくデモインに引っ越して、1943年頃まで暮らしました。アスペクトを扱う仕事をしていた父親が健康を害し、医者のアドバイスに従ってロサンゼルスに引っ越します。1943年に両親の勧めで、ボビーはMGMの『迷へる天使』のオーディショをン受けました。ボビーがスタジオ内を見学していた時に、好奇心から質問するボビーを監督が気に入り、40人以上の応募者の中から選ばれました。1943年『迷へる天使』、1944年『ファイティンッグ・サリヴァンズ』、1946年『潜行決死隊』等、数本の映画に小さな役で出演してウォルト・ディズニーと契約しました。1946年に実写とアニメの映画『南部の唄』に出演しました。この映画は、農場で働く黒人のリーマス役のジェームズ・バスケット(1904年2月16日~1948年7月9日)が、農場主の息子ジョニー役のボビー・ドリスコルや黒人の子供に話すお伽話がアニメになる映画です。この映画では農場主の白人と下働きの黒人が対等に描かれていて、南北戦争前に白人と黒人奴隷が平等であるかのような誤解を招くと問題視されて、ディズニー側が自主規制と云うより封印しました。ですから映画の上映も無く、過去に発売されたビデオ・テープとレーザー・ディスク以外発売される事はありません。蛇足ながら、リーマス役のジェームズ・バスケットは『南部の唄』で、アフリカ系男性俳優として初めてアカデミー特別賞を受賞しています。

 1948年にアニメ映画の『メロディ・タイム』では声の出演をし、アニメと実写の『わが心にかくも愛しき(私の心よ)』にも出演しました。ボビーはRKOに貸し出されて、『窓』に出演しました。前年にRKOを買収したハワード・ヒューズは、ボビーの演技が気に入らなったようで、公開を遅らせて1949年5月に公開しました。ヒューズの予想に反して映画は大ヒットし、ボビーのリアルな演技を「ニューヨーク・タイム誌」は称賛しました。1949年の第22回アカデミー賞授賞式では、『わが心にかくも愛しき』と『窓』の演技が評価されてアカデミー・ジョブナイル賞を受賞しています。

 1950年ディズニー・スタッジオ初の完全実写映画『宝島』に出演しました。この映画はイギリスで撮影されましたが、ボビーはイギリスの労働許可証を持っていませんでした。ボビーの家族とディズニーは、罰金を科され国外退去を命じられます。控訴準備の為に6週間の滞在を許可されたので、バイロン・ハスキン監督はボビーのクローズ・アップを全て撮影しました。ボビーと彼の両親がカリフォルニアに戻った後は、イギリス人の代役を使って残りを撮影しました。『宝島』は世界的なヒットとなりました。

 1951年『グーフィーのお父さん』、1952年『グーフィーのライオン狩り』でグーフィーの息子のマックス役で声の出演をしました。実写映画では1951年『When I Groe Up』、1952年『ハッピー・タイム』にしゅつえんしました。そして1953年長編アニメーション『ピーター・パン』で、ピーター・パンの声で出演し、アニメーション制作ではピーター・パンの顔のモデルも務めました。『ピーター・パン』劇場公開後、ディズニーとの契約がキャンセルされ、映画の出演が無くなりテレビとラジオの仕事をしました。両親は子役俳優が通うハリウッド・プロフェッショナル・スクールを退学させて、公立のユニバーシティ・ハイスクールに通わせました。転校後、ボビーは出演した映画の事で笑い者にされたりして成績は大幅に下がり、ドラッグを摂取するようになります。翌年ボビーはハリウッド・プロフェッショナル・スクールに復学し、1955年5月に卒業しました。ボビーは1956年にマリファナ所持でハジメテ逮捕されましたが、告発は却下されました。1955年『スカーレット・コート』に出演し、1958年に最後の出演映画『パーティー・クラッシャーズ』に出演しました。ボビーが洗車している時に、二人の野次馬とイザコザガあって一人を銃で殴った為、暴行罪で起訴されましたが告訴は取り下げられました。ボビーの最後のテレビ映画出演は、アンソロジー・ドラマテレビ・シリーズ「The Best of the Post」とテレビ映画「ブラナガン」での小さな役での出演でした。ボビーは1961年の後半に麻薬中毒患者として有罪判決を受け、カリフォリニア州チノの麻薬リハビリーテンション・センターに収監されました。1965年、ボビーはブロードウェイの舞台に出演しようとニューヨークに移住しましたが、失敗に終わります。1965年以降、アンディ・ウォーホルのグリニッチ・ヴィレッジにあるアート・コミュニティに出入りするようになり、芸術家として活動しました。その頃、アンダーグラウンド映画『Dirt』に出演し、これが遺作となりました。

 1968年3月30日、ニューヨークのイースト・ヴィレッジにあるアパートで遊んでいた二詠の少年が、簡易ベッドに横たわるボビーの遺体を発見しました。死後検査の結果、彼は薬物使用による進行したアテローム性動脈硬化症による心不全で死亡したと診断されました。遺体には身元を確認出来るものが無く、身元不明のホームレスと扱われた彼の遺体は、ニューヨーク市のハート島ポッターズフィルドにある共同墓地に埋葬されました。1969年後半に母親がディズニー・スタジオに連絡を取り、ボビーの行方を探して欲しいと依頼します。ニューヨーク市警察で行われた指紋照合の結果、ハート島の共同墓地に埋葬されたのはボビーだと数ヶ月後に判明しました。カリフォルニア州にある父親の墓石にボビーの名は刻まれていますが、彼の遺体はハート島の共募地に埋蔵されたままです。

メアリー・ウッドリー役の
バーバラ・ヘイル(27歳)

バーバラ・ヘイル(1922年4月18日~2017年1月26日)は、イリノイ州デカルブ生まれの映画およびテレビの俳優です。1940年、ヘイルはイリノイ州ロックフォードのロックフォード高校最後の卒業生の一員でした。その後、シカゴに移転して、モデルをしながらシカゴ美術アカデミーに通いました。1943年ハリウッドに移り、RKOと契約をして、『ギルダースリーブのバッド・デイ』で映画デビューしました。ノン・クレジットで端役で出演し、1944年“名探偵ファルコン”シリーズの2本に出演しました。1948年『緑色の髪の少年』、1949年『ジョルスン ~再び歌う~』、1950年『ザ・ジャックポット』、1953年『最後の酋長』・『路上のライオン』、1956年『第7騎兵隊』、1957年『開拓者の血闘』(最後の主演作品)等に出演し、1978年『ビッグ・ウェンズディ』では、ヘイルの実の息子のウィリアム・カットが演じるキャラクターの母親役を演じました。

 ヘイルはテレビ映画「ペリー・メイスン」で法務秘書デラ・ストーリーを演じました。この番組は1957年から1966年まで271話制作されました。ヘイルはこの役でエミー賞のドラマシリーズ助演女優賞を受賞しました。1985年に再び「新・ペリー・メイスン」は1995年まで29本製作され、ヘイルとレイモンド・バーは出演しました。ヘイルは2017年1月26日、カリフォルニア州シャーマンオークスの自宅で、慢性閉館性肺疾患の合併症により94歳で亡くなりました。

エド・ウッドリー役の
アーサー・ケネディ(35歳)

 アーサー・ケネディ(1914年2月17日~1990年1月5日)は、マサチューセッツ州ウースター生まれの舞台および映画俳優です。ケネディはウースターのサウス高校に通い、ウースターアカデミーを卒業しました。その後ペンシルバニア州ピッツバーグのカーネギー工学大学で演劇を学び、1934年に学士号を取得して卒業しました。ケネディはニューヨーク市に移り、ジョン・ケネディと名乗ってグループ・シアターに入団し、レパートー会社のツァーに参加しました。1937年9月にセント・ジェームズ劇場で「リチャード三世」に出演し、ブロードウェイ・デビューしました。1939年には「ヘンリー四世、パート1」に出演しました。

 ケネディは1940年の『栄光の都』で映画デビューし、1941年『ハイ・シエラ』、1943年『空軍/エア・フォース』に出演しました。第二次世界大戦中は1943年から1945年までアメリカ陸軍航空軍に勤務し、俳優・ナレーターとして航空訓練映画を製作していました。1940年代から1960年半ばにかけて、『高原児』『チャンピオン』、『ガラスの動物園』、『必死の逃亡者』『走り来る人々』『エルマー・ガントリー』、『バラバ』『アラビアのロレンス』『シャイアン』『ミクロの決死圏』等に出演しました。特に1951年『怒りの河』、1955年『ララミーから来た男』での悪役の演技は素晴らしいです。又、同時期ケネディは舞台にも出演していて、1949年アーサー・ミラーの「セールスマンの死」でトニー賞を受賞しています。ほかに1947年「オール・マイ・サン」、1953年「るつぼ」、1961年「ベケット」、1968年「プライス」に出演しています。1975年に奥さんが亡くなってからは映画出演への興味が失せて、数本の映画に出演しただけでした。

ジョー・ケラーソン役の
ポール・スチュアート(41歳)

 ポール・スチュワート(1908年3月13日~1986年2月17日)は、ニューヨークのマンハッタン生まれの劇場、ラジオ、映画、テレビの性格俳優、監督、プロデューサーです。彼は公立学校に通い、コロンビア大学で法律を学びました。1925年にベラスコ劇場トーナメントで優勝して、ニューヨークで舞台デビューします。その後、1930年にはブロードウェイの舞台に出演し、1932年まで舞台に出演していました。スチュアートはシンシナティに移り、ラジオ局WLWで働くようになります。13ヶ月間、WLWのラジオ制作に関する演技、アナウンス、監督、プロデュース、脚本、音響効果の制作等のあらゆる仕事をしました。スチュアートはニューヨークに戻り、ラジオ番組の「マーチ・オブ・タイム」に出演しました。1934年、スチュワートは仕事を得る事が出来なかったオーソン・ウェルズをノウルズ・エントリキン監督に紹介しました。エントリキンはウェルズにラジオでの最初の仕事を与えました。1935年3月、スチュワートはウェルズをホーマー・フィケット監督に推薦し、ウェルズはオーディションを受けてパートリー会社に採用されました。パートリー会社の「マーチ・オブ・タイム」はラジオで最も人気のある番組で、ドラマの出演者は俳優やアナウンサー等で構成されていました。スチュアート、ウェルズ、アグネス・ムーアヘッド、ジャネット・ノーラン、リチャード・ウィドマーク、アート・カーニー、レイ・コリンズ、ペドロ・デ・コルドバ、ナンシー・ケリー、ジョン・マッキンタイア等が、マーキュリー・シアターで演じるメンバーの一部です。1938年10月に放送されたドラマ仕立ての「宇宙戦争」で、スチュワートはリハーサルディレクター、俳優、共同脚本を担当しました。1939年にはアーティ・ショー楽団の最初のボーカリストとなり、ラジオ、映画、テレビに出演していました。そしてウェルズの依頼を受けて、1941年の『市民ケーン』で映画デビューします。1941年3月24日から6月28日までセント・ジェームズ劇場で、「ネイティブサン」に出演しました。

 第二次世界大戦中、スチュワートはニューヨークに本拠を置く戦争情報局で、1941年から1943年まで勤務しまし、ドキュメンタリー映画のナレーションを担当していました。又、“ボイス・オブ・アメリカ”でアメリカの新聞のニュース、社説、有名な演説等をヨーロッパに向けて放送しました。その他、アメリカ兵士の士気を高めるラジオ番組を放送したり、戦時国債の購入促進させるラジオ番組を制作していました。

 戦後スチュワートは、俳優として『窓』『チャンピオン』『デッドラインUSA]、『蜘蛛の巣』、『偉大な生涯の物語』、『冷血』、『オーソン・ウェルズのフェイク』『ピンク・パンサー4』、『風の向こうへ』等多くの映画に出演しました。1950年にはロードウェイ公演の「ミスター・ロバーツ」に出演しています。テレビでは「トワイライト・ゾーン」、「ドクター・キルディア」、「ペリー・メイスン」、「マニックス」、「スパイ大作戦」、「ロックフォードの事件メモ」、「コロンボ」等の監督をしました。スチュワートは、5,000のラジオやテレビ番組に出演または監督しましたが、通常はクレジットされていません。スチュワートは長い闘病生活の末、1986年2月17日にロサンゼルスのシダーズ・サイナイ・メディカル・センターで、心不全の為77歳で亡くなりました。

ジーン・ケラーソン役の
ルース・ローマン(27歳)

 ルース・ローマン(1922年12月22日~1999年9月9日)は、マサチューセッツ州リン生まれのアメリカの映画、舞台、テレビの女優です。ローマンはボストンのウィリアム・ブラックストーン・スクールとガールズ・ハイスクルールに通いました。その後、ボストンの名門ビショップ・リー・ドラマティック・スクールに入学し、女優を目指します。ニューイングランド・レパートリー・カンパニーとエリザベス・ピーボディ・プレイヤーズで演技するスキルをさらに高めた後、ブロードウェイの舞台に立つ為にニューヨークに移ります。ローマンは生計を立てる為、タバコガール、帽子チェックガール、モデルとして働き貯金もしました

 ローマンはハリウッドに移り、1943年『ステージ・ドア・キャンティーン』で映画デビューしました。その後、1944年『君去りし後』、1946年『ギルダ』、1948年『善人サム』、1949年『窓』『チャンピオン』、1650年『ダラス』、1951年『見知らぬ乗客』、1954年『遠い国』・『暗黒街脱出』、1965年『アカプルコの出来事』等に出演しました。1954年から始まったユニバーサル映画の『ジャングルの女王』シリーズ13本に出演しました。

 1960年代にはテレビに出演し始めて、1962年「最後のカルテ」、1963年「ブレーキング・ポイント」、1968年「スパイ大作戦」シーズン3に出演しました。その他、「ガンスモーク」、「ボナンザ」「裸の町」、「ルート66」、「バークにまかせろ」、「FBI」、「アイ・スパイ」等にゲスト出演しています。ローマンは、1999年9月9日カリフォルニア州ラグナビーチの別荘で、眠っている間に自然死しました。76歳でした。

ロス刑事役のアンソニー・ロス(40歳)

 アンソニー・ロス(1909年2月23日~1955年10月26日)は、ニューヨーク市生まれのブロードウェイの舞台、テレビ、映画の性格俳優です。彼はブラウン大学を卒業し、フランスに移ってソルボンヌ大学とナンシー大学で学びました。帰国後、1932年にブロードウェイ・デビューします。1944年にテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」の初演メンバーとして出演しています。

 1944年からノン・クレジットで映画デビューし、1947年『死の接吻』、1950年『拳銃王』、1952年『危険な場所で』、そして1951年コロンビア・ピクチャーの15話連続映画の『ミステリアス・アイランド(原題)』に出演しました。1954年のCBSのテレビ映画シリーズ「The Telltale Clue」で警察署長のリチャード・ヘイルを演じました。1955年ミュージック・ボックス・シアターで「バス・ストップ」の公演を終えたて、マンハッタンのアパートで就寝中に心臓発作で亡くなりました。46歳でした。

 次回の本編に続きます。最後までお付き合い頂きまして、有難う御座いました。

※文中の太字になっている作品は、日本でDVDが発売されています。